アラタ   作:六塔掌月

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第二部・第五話

伊都が姿を消した。

 

九月も後半のある日のことだ。待ち合わせの時刻が来ても伊都がジムに姿をあらわさなかったので、アラタは不審に思った。スマートフォンで伊都にメッセージを送ってみたが返事が来ない。アラタはそのまま伊都のマンションまで足を運んでみたが、エントランスで立ち往生してしまった。するとそこに花夜子がやって来た。花夜子もここ二日は伊都と連絡が取れなくて困っていたらしく、直接マンションまで来たのだと言う。

 

花夜子は伊都の部屋の合鍵を持っていた。それを機械にかざしてエントランスの扉を開け、中に進んだ。二人はエレベータで九階まで上がり、伊都の部屋の扉を合鍵で開けた。

 

しかし中に伊都はおらず、リビングのテーブルには書き置きだけが残されていた。しばらく旅行に出かけるので探さないでほしいという旨(むね)がそこには書かれていた。旅先は記されていない。

 

初めに花夜子がその書き置きを発見して、次にアラタが彼女からそのメモ用紙を受け取って見せてもらった。アラタはメモ用紙を花夜子に返しつつ、何か心当たりはないかとたずねてみた。

 

花夜子は言った。

 

「心当たりがあるのは尾形さんの方じゃないですか。伊都が仕事で小さくない失敗をした、って言ってましたよね」

 

花夜子の声には静かな怒りが込められていた。

 

「私は尾形さんがその件で伊都を責めたんじゃないかと疑っています。どうなんですか?」

 

そんなことはない、と言おうとしてアラタは言葉を呑み込んだ。ここのところ、確かに自分は伊都に圧力をかけていたかもしれない。自分としては必要なこと、避けられないことだと思ってしていたのだが。

 

「それはあるかもしれない」

 

アラタは率直に花夜子の指摘を認めた。花夜子の瞳の奥で鋭いものが光った。

 

「じゃあ、どう責任を取ってくれるんですか」

 

アラタは穏やかな声音で、書き置きが残されている以上、事件性と呼べるものはなく、仮に捜索願いを出しても警察が動くことはないと説明した。伊都は仕事の性質上、法務省への届けを出さずに海外旅行に出かけることはない。あとで自分がそのような届けが出されているかどうか確認をしてみる。しかし、おそらく国内に留まっているはずだ。それはつまり、戻ってこようとすれば一日かそこらで戻ってこれることを意味する。

 

「私が伊都を責めたのは事実だ。それはパートナーである花夜子ちゃんに対して申し訳ないと思う。けれど、それは必要な指摘だった。それにね、伊都も立派なひとりの働き手だ。それももう何年も勤めているような人間なんだ。必要以上に心配するのはよそうと、私は思う」

 

「それはおかしくないですか?」

 

花夜子は視線を横に向けながら言った。アラタと目を合わせようとはしない。

 

「なんで立派なひとりの社会人が同僚に告げることもなしに突然何日もかかる旅行に出るんですか。あなたたちの仕事ってそんなにいい加減なものなんですか。法務省と関わりのある仕事なんですね。でもそれだと、なんだか堅いイメージがあるのですけれど」

 

アラタは自分が失言をしたことを覚(さと)った。花夜子に対して必要以上に自分たちの仕事の手がかりを与えてしまった。

 

アラタは言った。「ともかく、ここは待つしかないと思うんだよ」

 

花夜子は今度はアラタの顔を睨(にら)みつけると激しい調子で言い立てた。

 

「私は別に豪勢な暮らしをしたいわけじゃないんです。伊都が仕事を辞めたって構わない。私も卒業は遠くないし、大きな会社に入れるだけの学歴があります。つまり私が伊都を養うという手もある。いいですか尾形さん。私たちの仲を邪魔するのだけはやめてください。私にとって重要なのはそれだけなんです。愛だけなんです。伊都もきっとそれを一番に思っているはずなんですから」

 

花夜子の目にわずかに涙がにじんだ。花夜子は泣き出すのをこらえるために、うつむいた姿勢のまま固まっていなければならなかった。

 

二人はそれきり黙ってしまった。これ以上両者の間では話すことがなかった。アラタは花夜子と連絡先を交換した。伊都から連絡が来たら教え合おう、と約束し、それから伊都の部屋を退去した。

 

☨☨☨

 

一ヵ月半が経過し、十一月になった。それでも伊都は戻ってこなかった。スマートフォンで送ったメッセージにも返信は来ない。さすがにアラタは心配になってきた。伊都は何について悩んでいるのだろうかと思う。自分にそれを打ち明けてくれないのはなぜだろうか。

 

アラタは伊都がいなくなっても毎週同じ曜日、同じ時間にジムへいき、体を鍛えていた。自分のトレーニングが終わると伊都のことを思い出した。彼女の取り組んでいた精密で静かなトレーニングの記憶を思った。伊都は常にひとつ前の動作を正確に写すように反復していたから、見ている者は時間の迷路に入り込んで同じループを目撃しているかのような気分になったものだ。

 

伊都からの連絡がないまま十二月を迎えたところで、アラタのもとに来訪者があらわれた。ジムでトレーニングを終えて出口を抜けたところで、一人の男がアラタを待ち受けていたのだ。

 

「尾形阿羅多さんですか」

 

アラタは男を見やった。男は三十歳過ぎに見え、眼鏡をかけていた。肩幅は狭くないのだが体も顔も痩(や)せており、繊細そうな雰囲気を漂(ただよ)わせている。アラタはおそらく危険はないだろうとその男を判断して、返事をした。

 

「ええ、そうですが」

 

男は探していた人物を無事に見つけることができたという安堵(あんど)を顔に出した。彼はアラタに自分のことを話した。

 

「僕は結城(ゆうき)光成(みつなり)と申します。結城伊都の兄です」

 

アラタは驚いたが、同時にこういうこともありうるかもしれないな、と思った。彼女は結城光成に喫茶店へいって話をしようと持ちかけた。結城光成は了承した。アラタは道中で、伊都が行方不明になっていることを知っているかと結城光成に問いかけた。もちろん知っている、その件でたずねてきたのだと返された。

 

アラタは結城光成を伴い、いつも伊都とおとずれていた喫茶店までやって来た。扉をくぐり、テーブルにつく。

 

結城光成はまず、アラタをたずねてきた事情について語った。

 

自分は妹の伊都とは長い間スマートフォンのメッセージだけで繋がっていた関係性だったが、ここ数ヵ月は返事がなかった。そのため妹が心配になり、意を決して初めて妹の住所をたずねたところ、花夜子という娘と偶然マンションのエントランスで出会った。正確にはマンションのエントランスから先に進めなくて立ち往生していたところを、花夜子という娘から不審に思われて、声をかけられた。

 

結城光成はそこで花夜子に名を名乗った。自分は妹の結城伊都という人物を探している。妹はこのマンションの九〇三号室に住んでいるはずだ、と花夜子に説明した。スマートフォンのメッセージアプリの画面を見せるとその花夜子という娘は信用してくれた。花夜子は自分は伊都の恋人であると言った。しかしその伊都が失踪(しっそう)してしまったので、時折このマンションにようすを見に来ているとのことだった。花夜子はそこで、伊都の同僚として尾形阿羅多という人物について教えてくれた。

 

そして今に至る。

 

「どうして妹の伊都は失踪してしまったのでしょう。尾形さんは伊都のいる場所に心当たりはないのでしょうか」

 

結城光成の声音や表情は真摯(しんし)なものだった。彼は本心から妹を心配しているようだった。

 

アラタはまずひとつずつ話を確認したいと申し出た。

 

「結城さんは伊都や私の仕事についてどこまで知っているのでしょうか」

 

結城光成は鼻白んだ。彼はためらいがちにひとつずつ言葉を選びながら言った。

 

「全部を知っています。伊都のしていることは、つまり、法律の最後の部分に関わる仕事です。人によっては残酷なことをしていると思うかもしれません」

 

人によっては、という言葉にアラタは少し違和感を抱いた。誰が見てもそれは残酷なことを実行に移す仕事なのだ。

 

が、アラタはそれは置いておくことにした。

 

「では伊都が三回目の仕事で失敗したことはご存じですか」

 

結城光成は目を見開いて首を横に振った。

 

「いいえ。知りませんでした」

 

アラタは現状を説明した。

 

「伊都は三回目の仕事をまっとうせずに失神しました。儀式は延期になり、同じ職の私が役割を引き受けました。その後は法務省の指示によって、伊都は私の下で修練をしていたのです。彼女には二年の猶予(ゆうよ)が与えられました。それまでに復帰できなければ伊都は職を失います。そうなったら多くの人が困る。そう出番の多くない仕事ではありますが」

 

結城光成は神妙な顔でうなずいた。「なるほど、そうだったんですね」

 

結城光成は伊都の人物についてどう思うか、とアラタにたずねてきた。

 

アラタは思っているところを率直に相手に伝えた。見どころのある若者だと思う。体もよく鍛えているし、年長者に対する態度もいい。私生活は充実しているようだ。同性の恋人がいる。ギターが趣味らしい。一度演奏を聴かせてもらったことがあるが、上手かった。

 

結城光成はしばしの間うつむいていた。じっと自分の膝を見ていた。

 

やがて彼は顔を上げて口を開いた。

 

「伊都にギターを教えたのは僕なんです。我々は田舎で育ちましたし、大した娯楽もなかったですから。いや田舎がどうというだけでなく、伊都の方は僕よりもさらに閉鎖的な環境で育ちました。僕と伊都は間接的にも身体の接触は禁じられていたので、自分のギターを彼女に貸すわけにはいきませんでした。ですから僕が小遣いをはたいて同じものを伊都に買い与え、目の前で弾いて教えてやったんです。あいつはあっという間に上手くなった。僕よりもです」

 

アラタは黙っていた。

 

「僕はあるとき、歌も練習しなよ、と伊都に言いました。ギターで弾き語りをするといい、と勧めたのです。しかし伊都はそれはできない、と返しました。自分は歌を歌うわけにはいかないのだ、と言い張るのです。自分の歌声はあらかじめ失われてしまっているのだ、とあいつは言いました。その表情はどこか悲しげでしたが、納得したように落ち着いていましたので、僕はそれ以上の言葉を口にするのをやめました」

 

アラタはまだ黙っていた。彼女は結城光成という存在を測(はか)りかねていた。伊都にこのような人間的な兄がいたことは、喜ぶべきことなのだろうか。それとも自分のようにある種の〝完全〟な教育――漏(も)れのない完璧な限定というべきもの――を伊都が受けなかったのは、彼女にとって不幸なことだったのだろうか。それが伊都の失敗の遠因となっているということは考えられないだろうか。

 

アラタには何が正解なのかわからなかった。

 

アラタは結城光成に問いかけた。「家族で旅行に出かけたことは? つまり伊都が今滞在しているであろう場所に心当たりはありますか」

 

結城光成は短い間考えたが、否定の返事をした。

 

「いえ、家族でそろって旅行に出たことはありません。そういう成育の方針ではなかったわけです。元はと言えば、僕が妹とメッセージをやり取りしていたことも例外的なことです。父母や他のきょうだいはすでに伊都と絶縁しておりますから。彼女が仕事を始めたときに、です」

 

アラタは結論を下した。

 

「なら、残念ですが今できることはなさそうですね。我々は伊都を信じて待つしかない。どうやらそのようです」

 

結城光成はそれを聞いてため息をついた。アラタは彼と連絡先を交換した上で、別れることにした。

 

☨☨☨

 

アラタは週末に紗良と会った。都内をデートし、夕食後は紗良を自分のマンションに招いた。シャワーを浴び、ベッドで事に臨(のぞ)む。

 

終わったあと、二人はベッドの上で横たわり、穏やかに互いの体にふれ合っていた。

 

紗良が口を開いた。「伊都さんはまだ戻ってこないの」

 

伊都が失踪したことは以前に紗良にも共有していた。アラタは紗良の問いに答えて言った。伊都は遠いところにいる。まだ復帰してこない。

 

「厄介(やっかい)なことになったわね」

 

アラタはそれに答えかねた。客観的に見れば確かに自分は複雑な立場に置かれているのかもしれない、とアラタは思う。しかし彼女としてはそれを「厄介」と表現したくはなかった。

 

アラタは言った。「伊都はいい子だよ」

 

紗良は微笑むばかりでそのことについては何も言わなかった。

 

代わりに紗良は最近読み終わったという短編小説集について話をした。彼女は一本目から順にあらすじを述べていった。アラタはそれを聞いて感想を言った。紗良は物語を語るのが上手だった。適切なところで間をつくり、聞き手をじらす。肝心なところでは抑揚(よくよう)をつけて盛り上がりをつくった。語られた物語は紗良の柔和な声と、間近に感じるその肉体の感触に分かちがたく結びつき、アラタの内に心地良い感興を生じさせた。

 

紗良は次々と短編を語っていった。

 

「これが最後の話よ。少し長くなるわ」

 

アラタはうなずき、紗良は語った。

 

ある時代ある地域に、巨大な壁の内側で暮らす人たちがいた。それは人口は二百人ていどの小さな集落で、住民たちは農耕をし、羊を飼って暮らしていた。壁は石造りで分厚く、高かった。それは広い土地を隙間なく囲っていた。

 

壁の内側は環境が良かった。地下水が豊富で、農耕に必要な水は雨と井戸水でまかなえた。その土地では大麦や豆類、キャベツなどが採れた。それらと羊の肉を食べることで住民たちは頑丈な肉体を保ち、健やかな暮らしを営んでいた。

 

壁は内側からのみ、よじ登ることができた。時折外敵が攻めてきても、住民たちは壁の上から矢の雨を降らせることで退散させることができた。壁は決して打ち砕かれることがなく、住民たちを堅固に守った。住民は聳(そび)え立つ壁を神のように信仰していた。それは彼らが生まれる以前から存在し、彼らをしかと守護してきたのだ。その地域で致命的な疫病(えきびょう)が流行したときでさえ、病魔は壁の内側には侵入できず、住民たちは健康を保つことができた。

 

壁の内側で足りないものもなくはなかった。だから住民は定期的におとずれる商隊と交易をした。住民は縄をくくり付けた箱を壁の上から垂らして外側に落とし、商隊に羊毛を差し出した。返礼の品は商隊がその箱に詰めて、ふたたび住民が箱を縄で持ち上げることで受け取った。住民たちは木材を手にし、矢に加工できる金属や石を得た。あるいは嗜好品(しこうひん)や香辛料なども手にした。

 

外界ではこの土地で生産される羊毛は上等なものとして扱われており、評判が良いらしかった。外界。それは住民たちには想像もつかない世界だった。彼らは壁の内側に暮らすことに満足しきっており、外に出ていくことなど想像だにしなかったのだ。

 

物語の主人公の男性は羊の管理に責任を持つ立場だった。彼は妻と三人の子供を持ち、土地の真ん中あたりに居を構えていた。

 

さて、ある年から次の年にかけて、羊たちがたくさんの子を産んだ。ここ数年は天候も良かったので、家畜の食用となる草も青々と茂り、羊はよく肥えていた。また羊の間で病気もなかったので、彼らは非常に頭数を増やしていた。

 

そこで主人公は羊を数多く屠殺(とさつ)することを計画した。頭数を減らさないと、この壁の内側の土地ではもはやすべての羊を成育できないからだ。土地の広さには限りがあった。主人公は羊飼いや解体の技術を持つ者たちと相談をし、一気に数十頭を屠(ほふ)った。その日からしばらくの間は住民たちに羊の肉が数多く配られ、豪勢な食事会が催された。一種の祭りである。

 

祭りが続いたある晩のことだ。息子と娘たちがみな寝静まったので、主人公は妻の寝床をたずねることにした。彼は優しく妻にふれて、抱き起こし、愛の言葉をささやいた。妻も主人公の頬にキスをしてくれた。ただ妻は事に及ぼうとする主人公を制止し、次のように言った。

 

「十分な年月使われた革袋に新しい酒をなみなみと注いだら、革袋は破けて使い物にならなくなってしまうかもしれません」

 

主人公は妻を抱きしめたが、彼女は次のように言って夫がそれ以上先に進むのを止めた。

 

「交易のとき、もしも多くの返礼を受け取ろうとたくらみ、木箱にたくさんの物を詰めたら、どうなるでしょうか。木箱を縄で吊るして下ろしている間に、縄はちぎれて木箱は落下し、大地に打ちつけられて壊れてしまうでしょう」

 

主人公は妻から幾度も断られたので、とうとう彼女を抱くのを諦めた。

 

さて、それから五年が経過した。村は順調に発展して人口が増えた。今や壁の内側の土地に三百人が住むようになっていた。

 

明らかに増えすぎだった。村の長老たちは主人公をはじめとする屈強な男たちに命令を下した。住民を間引きせよ、と。対象となる人物は三人の長老たちが相談して決めた。その数は十名であり、いずれも歳がいっており、もはや生産的な活動はできない人物であるか、または住民たちの間で非常に評判の悪い人物であった。

 

主人公は命令を受けて自分の前代の人間を殺すことになった。すなわち羊の管理の仕方を彼に教えた人物である。その男はもはや年老いていて、歩くのが精一杯であるという有様だった。主人公は二人の青年とともにその者の家をたずねた。随伴した者たちが目標の人物を拘束し、主人公は剣を取り出した。

 

殺す前に主人公はその老人と会話らしきものをした。

 

老人は主人公にたずねた。お前は壁についてどう思うか。お前はあの壁をどのようにとらえ、どのような態度で接するべきだと思っているのか。

 

主人公はその問いに対して何も思わなかった。老人が何を問うているのかわからなかったからだ。主人公は無言で剣を振るって老人を殺(あや)めた。

 

後日になって、主人公は自宅の寝床の中でこの事をふりかえった。俺はあの老人の問いを前にして何も思わなかった。つまり俺は壁について何も考えていないということだ。

 

主人公はそれについて思慮し、ついに気がついた。そうだ、俺は壁について何も考えていない。壁はただそこにあるものだと思っている。だがそんな当たり前のことが、今さら何の発見だと言うのだ?

 

しかしその発見は大きな変化を主人公にもたらしたのだ。彼はそれからたびたび壁について考えるようになった。正確には自分が壁について何も考えていないという事実について、さまざまな角度から思索をするようになった。

 

この話はこれで終わりよ、と紗良が言った。

 

アラタは少し意外な感じがした。本当にこれで終わりなのかと問うと、紗良はそうよ、と肯定した。

 

アラタは感想を口にした。「何だかよくわからない話だった。不思議な感じがするね」

 

紗良は言った。私はこの話がよくわかる気がする。上手く言葉では説明できないけれど。

 

「中学生のころの話だけど、私はみんな親が選んだ服や靴を着ていたのね。私はそれが嫌でたまらなかった。どんな安物でも構わないから自分の選んだ服や靴を身につけたかった。だから高校に上がってからは猛烈にアルバイトに励(はげ)んだのよね」

 

それが今の話と何か関係があるのかとアラタがたずねると、紗良は笑って、何となしに連想しただけよ、と答えた。

 

二人は体を寄せ合って眠りについた。

 

紗良は翌朝早くに帰っていった。

 

アラタは近所の喫茶店に出かけて朝食をとった。そこからの帰り道に、ふと歩きたくなったので、遠回りをしてマンションに帰ることにした。

 

すでに十二月も半ばで肌寒かった。街路樹のイチョウはすでに葉を黄色く染めており、まるで樹木全体が明るいランプの火に転形したように美しかった。アラタがそれを眺めながら歩いていると、犬を連れて散歩をしている人とすれ違った。すれ違う際に犬は立ち止まってアラタをじっと見ていた。

 

アラタの頭にあるのは〝両腕のない女〟だった。アラタは道を歩きながら女の物語について、女の住んでいる世界について思いを馳(は)せた。

 

女は箱をつくりたいと願っていた。そこで女はスズカとふたたび交渉した。これから私はできる限り詩や物語をお前に教える。暗唱にも付き合うし、文字の教育もより熱心におこなう。だからお前は木製の箱をつくることに従事してほしい。スズカの手でつくった箱が自分は欲しいのだ。

 

スズカにとってそれは魅力的な申し出だった。詩や物語をたくさん学べる。しかし箱をつくれと言われても彼女は困ってしまった。スズカは大工道具など持っていないのだ。村に大工はいたが、道具を借りることなどとてもできない。彼らに貸してほしいと依頼しても、子供の遊び道具じゃないんだぞと怒鳴られるのが落ちだろう。

 

交渉は成り立たないまま日が過ぎた。そしてある冬の日の昼にそれはやってきた。五人の騎馬兵が村にあらわれたのだ。

 

彼らは遠い東方に本拠地を持つ帝国の兵士だった。兵士たちから見ればスズカやヒイネのような村の者は異邦人である。彼らが言うには、すでに帝国はこの地の蛮族を退治し、一帯を支配下に置いたとのことだった。

 

騎馬兵たちは村長を呼びつけて、定期的に税を納めることを要求した。村長である壮年の男は素直にこの要求に屈した。彼は前もって帝国の情報を得ていたのである。すなわち帝国がこの地の有力な部族との戦争に勝ったことや、支配下に置いた者に対しては寛大だが、逆らった者に対してはとても残忍になるということを知っていた。

 

騎馬兵はすぐに去っていった。その日から三週間後に帝国から村の実態を調査する者が二名派遣されてきた。ひとりが若い男であり、こちらが主な調査員で、もうひとりは護衛だった。護衛の男は調査員よりもかなり年上で、見るからに逞しい肉体をしていた。一方で若い男は青年というべき歳で、細い体つきをしていた。

 

帝国の調査員である青年は村の畑を見て回り、森を見て回って、何が採れるかを羊皮紙に逐一記録していった。もちろんそこでは村の者たちに対する聞き込みも念入りにおこなわれた。

 

村長はできる限り良い食事と酒をその青年に振る舞った。また村長はヒイネに言いつけて青年の寝床へ使わし、連日夜の相手をさせた。

 

ある晩のことだ。ヒイネは事が終わると、かつて学んだ恋愛詩を青年に対して唱えて聞かせた。青年はその詩に感嘆すると同時に驚いた。なぜこんな田舎でこのような立派な詩が聞けるのだろうか。青年はヒイネにどこでその詩を覚えたのかとたずねてみた。

 

するとヒイネは〝両腕のない女〟から教わったのだと答えた。青年はその存在に興味を覚えた。さっそく翌日にヒイネと、また現在の巫女(みこ)であるスズカとともに森の奥をたずねていくことにした。ヒイネは当代の巫女以外は女と会ってはならない決まりなのだと忠告したが、青年は村長から許諾(きょだく)を得ることに成功した。それで三人で森へいくことになった。

 

スズカが先導して三人は〝両腕のない女〟の家に着いた。女が出迎え、四人は狭い家の中に入り込んで床に直接座った。女とヒイネは久々の再会だった。

 

スズカは女にこれまでの経緯を説明した。また、この帝国の御仁はこのような田舎の村で退屈であると思うから、物語を読んでやってほしいと依頼した。

 

女は了承し、いつものように本を取り出して足で開いた。男は女の肉体のあり方に目を見張り、その器用な動作にとても感心した。

 

女が朗読を始めると、すぐに青年を含めたその場の三人は物語に引き込まれていった。騎士が戦場で立てた武功に青年たちは心を躍らせ、試練の旅先で会った女性との悲しい恋に切ない思いを抱いた。騎士が故郷の姫君を思って吟(ぎん)じた詩を女が朗誦(ろうしょう)すれば、三人の男女はほうとため息をついた。

 

物語が一段落したところで女は本を読むのをやめた。四人はスズカたちが持ってきた酒を飲みながらさまざまな話をした。ヒイネがこれまでの村の暮らしについて女に伝え、青年が帝国の文明や文化についての話を一同に披露(ひろう)した。青年はその会話の中で、なぜあなたはそのような体になってしまったのかお聞かせくださいませんか、と慇懃(いんぎん)に女にたずねた。だが答えは返ってこなかった。

 

返事の代わりに女は大工道具が欲しいと青年に申し出た。青年はそれを快諾(かいだく)した。村に戻ってから青年は護衛の者に手持ちの金を渡し、大工道具を買ってくるようにと命じた。そのような経緯により鋸(のこぎり)や金槌(かなづち)や槍鉋(やりがんな)といった道具がスズカの手に渡ったのだ。

 

アラタは散歩を終えてマンションに帰ってきた。

 

彼女は部屋に入ると、机につき、引き出しからノートを取り出した。そして時間をかけて丁寧に空想の内容を書き留めていった。アラタはその作業を終えると台所にいって、冷蔵庫より水を取り出し、一口飲んだ。

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