____執務室。
「マルナナマルマル。朝です、提督」
静かに執務室に入ってきた加賀の目に飛び込んできたのはデスクに突っ伏して眠る絵名の姿。
その手元には、白紙のままのスケッチブックと、強く握りしめられた1本の鉛筆。
紙の上には、何度も描いては消したような
痛々しい黒い擦り痕だけが残っている。
(……描けないのかしら?)
加賀は何も言わず、絵名が寒くならないように羽織をかけてあげる。
目覚めた絵名は白紙のスケッチブックを隠すように慌てて閉じ、悔しそうに唇を噛む。
「ごめんね、加賀さん。こんな、弱虫な私が
提督なんかして....」
自虐的に笑う絵名に対し、加賀は静かに温かいお茶をデスクに置く。
「焦る必要はありません、ここは戦場です。
あなたの心が追いつかないのも無理はありません」
「加賀さん……」
「あなたが何に苦しんでいるのか私にはわからないわ。
ですが、あなたが不器用なまでに必死に戦術書を読み込み私たちを生かそうとしてくれていること。それだけで、十分です」
加賀は去り際、ドアの直前で足を止め少しだけ振り向く。
「…あなたがいつか、思い描く絵を描けるようになった時。___その時は私を一番最初に描いてみてください。」
_______
(ねえ、みんな...みんなは今、どうしてる?)
加賀が去り静まり返った執務室
カチ、カチと規則正しく刻まれる柱時計の音だけがやけに大きく耳に障る。
机の上に置かれた、うんともすんとも言わないスマホ。
画面に触れても、漆黒のガラスに映し出されるのは酷くやつれてクマを作った自分の間抜けな顔だけだ。
(突然私が消えて…みんな、探してくれたのかな。……それとも、最初からいなかったみたいに、何事もなく時間は進んでるの?)
頭を抱え込むと胸の奥がぎゅっと締め付けられて息がうまく吸えなくなる
残してきた人たちの顔が、走馬灯みたいに次々と脳裏を駆け巡っていく
(奏は、ちゃんとご飯食べてる?
集中すると睡眠も食事も全部疎かにするから、本当に目が離せないのになぁ...また倒れてるんじゃない? 奏は私がいなくなっても変わらず『誰かを救う曲』を作り続けてるのかな……)
(まふゆは、お母さんの圧にちゃんと抵抗できてる?……無理だよね、あの母親だもん。
私、結局まふゆのこと救えないままこんなとこ来ちゃった。
ごめんね、まふゆ。
お願いだから…奏と瑞希に救われてよ。自分を諦めないで…)
膝の上に置いた拳にポツリと温かいものが落ちる。
(瑞希...私、結局瑞希の『秘密』本当のこと
聞けないままになっちゃったな
……バカね、瑞希。
私を誰だと思ってんの__画家志望よ? 人体の
骨格もラインも嫌っていうほどデッサンして勉強してきたんだから。気づかないわけないじゃない。
でも、私は瑞希の口から…瑞希の言葉で聞きたかった...教えてほしかったんだよ……)
(彰人…お父さん、お母さん。愛莉。)
彰人は急にいなくなった私にブツブツ文句言いながら案外一番心配して探してくれてるのかもしれない。なんだかんだ優しい弟だ。
愛莉だって「絵名、どこ行ったのよ!」って
怒りながら泣いてくれてるかもしれない。
お母さんの手料理...食べたいよ。
人参が入ってても好き嫌いせず食べるから___
あいつは...お父さんは__突然居なくなった私に何を思うんだろう?...逃げたって、思われる
かも____「やはりお前は画家にはなれない」ってまた言われるかなぁ...
でも——それも、最初のうちだけだ。
1ヶ月、
半年、
1年……。
私が戻らないまま時間が過ぎれば、みんなの日常は嫌でも戻っていく
ニーゴは私以外の『誰か』が描いたイラストで曲を投稿し続けるかもしれない。
みんなの記憶から、少しずつ「東雲絵名」という存在の輪郭がボヤけていって…
いつか、誰も私を思い出さなくなるんじゃないか。
「……嫌だよ……っ」
消えたくない。
忘れられたくない。
私という存在を、
私が描いた絵を、
みんなの中に残したかった。
なのに——。
目の前に広がる、真っ白なスケッチブック
震える手で鉛筆を握りしめるけれど紙に刃を立てることすらできない。
(…笑っちゃうよね。こんなに誰かに忘れられるのが怖い癖に、私自身が自分の絵に怯えてるんだから)
この世界で命を懸けて戦う艦娘たち。
ボロボロになって戻ってくるあの子たちを前にして、私は描くのが怖いのだ。
もし、私が心を込めてあの子たちの姿を描いたあとにその子が海に沈んでしまったら?
私の絵が、あの子たちの『遺影』になってしまったら——?
「描けない___描けるわけないじゃない…こんなの……っ」
ガタッと椅子を鳴らして立ち上がり、鉛筆を床に投げ捨てる。
コロン、コロンと転がっていく鉛筆の音。
絵を描かない私に、何の価値がある?
絵を描けない東雲絵名なんて、ただの『居場所のない偽物』だ。
大本営からは使い捨ての駒として扱われ、艦娘たちからは「何もできない女の子」と見下され、元いた世界のみんなからは忘れ去られていく。
精神が削り取られていく感覚の中、絵名は両腕で自分の身体を強く抱きしめ暗い執務室で一人、声を殺して泣き続けた。
自分が何者であるかも、見失いそうになりながら——。