時計の針は、とうに深夜二時を回っていた。
「・・・あー、もうっ!なんでこんなにややこしいの……ッ」
執務室のデスクに置かれたスタンドライトの明かりの下、絵名は頭を抱えて唸っていた
目の前に広げられているのは大淀から手渡された鎮守府の運用マニュアル、戦術書、そして分厚いノート。
明日は、着任してから初めて指揮を執る『遠征』——資源回収任務の日だ。
戦闘がメインではないとはいえ、この海域にはいつ深海棲艦が現れてもおかしくない。
軍人でもなんでもないただの女子高生である
絵名にとって彼女たちの命を預かるプレッシャーは想像を絶するものだった。
(絶対に誰一人、傷つけさせない…)
必死でペンを走らせる。
軽巡・川内型の旋回半径、夜間での索敵範囲
各艦娘の移動速度の差……手帳やノートには
絵名の細かい手書き文字と、図解のスケッチがびっしりと書き込まれていた。
「へぇ〜。提督まだ起きてんの?ナイトルーティンにしては随分と遅い時間じゃなーい?」
「ッ!? ...な、川内..さん」
不意に頭上から聞こえた声に驚いて跳ね起きると窓枠に腰掛けた川内が、からかうような笑みを浮かべてこちらを見ていた。夜間見張りから戻ってきたところらしい
「勝手に入ってこないでよ、びっくりするじゃない」
「ごめんごめん。明かりがついてたからさ。
で? 明日の初遠征が不安で眠れないわけ?」
ニヤニヤしながらデスクに近づいてきた川内は、絵名が隠すように腕で覆ったノートにパッと目を落とした
からかうつもりだった川内の表情が、一瞬で固まる。
そこに描かれていたのは、川内型水雷戦隊の特性を完璧に把握しようと描かれた、分析ノートだった。
自分たちが少しでも安全に、かつ効率的に動けるよう、何度も消しゴムで消した跡が残っている。
「……これ、アンタが全部書いたの?」
「……なによ。笑いたければ笑いなさいよ。素人が知ったかぶりして、無駄な悪あがきしてるって思いたいんでしょ」
絵名は気まずそうに顔を背けた。
だが、川内から返ってきたのは嘲笑ではなく
ポンポンと頭を乱暴に撫で回す手の感触だった。
「ひゃっ!? ちょっと!髪乱れるんだけど」
「ふーん……アタシたちのこと、本気で考えてくれてんだ。__合格!」
川内は八重歯を覗かせて、ニッと眩しい笑顔を浮かべた。
「安心しなよ、提督!明日の遠征、バッチリ大成功してきてあげるからさ!」
「川内……」
「だからさっさと寝な!目の下に隈つくった
顔で明日の朝見送られたくないし」
そう言って、川内はひらひらと手を振りながら執務室を去っていった。
残された絵名はその背中を見送りながら、少しだけ心が軽くなるのを感じていた。
翌朝。朝靄が残る鎮守府の埠頭に、5隻の艦娘——加賀、金剛、鈴谷、川内、満潮が揃っていた。
『——聞こえる?みんな、マイクの感度は大丈夫?』
無線機から響くのは、執務室でお留守番をしている絵名の、少し緊張した声だ。
「ええ、感度良好デスよ、提督!」
「まったく部屋でお茶でも飲んで待ってればいいのに」
金剛が元気に答え、満潮が毒づくものの、その表情に不機嫌さはない。
『大本営の指示だと安全海域だけど…何があるか分からないわ、加賀さん索敵を。
金剛さんと鈴谷さんは、万が一の時は火力のバックアップを。川内さんと満潮さんは無理せず周囲の警戒を頼むわ』
「了解。……行きましょう、みんな」
加賀の静かな号令とともに、5隻は滑るように大海原へと踏み出した。
___________
【執務室】
「.......っ!」
絵名は通信機のアンプにへばりつくようにレーダーの反応とマップを交互に睨みつけていた
汗で手のひらが湿る。
『——提督! 前方に小型の深海棲艦、2隻! 遠征ルート上に被ってる!』
川内の緊迫した声がスピーカーから踊り出る
絵名の心臓が跳ね上がった。
(落ち着け……落ち着け私! 昨日の夜、何度もシミュレーションしたんだから...)
「川内、正面からぶつからないで右に迂回して!加賀、爆撃機で威嚇を!金剛は右側から照準を合わせて追い払うだけでいい、無理に深追いしないで!」
絵名の指示は完璧な軍人のものではなかったかもしれない。だが、「誰も傷つけずに帰らせる」という強い意志に満ちていた。
『了解!……へっ、提督の言う通り!アタシの足ならこの程度の迂回、楽勝だよッ!』
無線の向こうで砲声と爆音が響き渡る。
絵名はじっと拳を握りしめ、ただひたすらに祈った。
(頼むから……誰も怪我しないで……っ!)
——数十秒の後。
『敵艦の離脱を確認しました。これより予定通り資材の回収に移行します』
加賀の落ち着いた声が届いた瞬間、絵名は「ふぅっ……」とデスクに崩れ落ちた。
夕暮れ時。
無事に大量の燃料と弾薬を持ち帰った5隻は
埠頭へと帰還した。
「はぁ〜、つかれた〜!提督ちゃんにジュース奢ってもらお〜!」
「勝ったのデス! 完璧な遠征作戦でしたネ!」
賑やかに歩いてくる彼女たちの視線の先に、息を切らせて走ってくる人影があった
「はぁ……ハァ……っ! みんな……っ!」
絵名は執務室から港までなりふり構わず走ってきたのだ。息を荒らげ、乱れた髪も気にせず
一人ひとりの身体をジロジロと検分するように見つめる。
「怪我…ない?どこも痛くない?・・・艦体擦ったりしてない!?」
「……アンタねぇ。無線で無事って言ったでしょ。なんでわざわざ走ってきてんのよ」
満潮があきれ顔で溜息をつくが、絵名は「だって、心配だったのよ!」と叫ぶように返した。
「私がへぼっこ指示出したせいで、誰かが傷ついたらどうしようって…本当に怖かったんだから」
安堵からか、目尻に涙を浮かべて本気で心配する絵名
その姿を見て、5隻は顔を見合わせる。
「…フッ。おかしな提督ね。勝ったことより無傷だったことを喜ぶなんて」
加賀が珍しく、小さく口元を緩めた。
「……まあ、合格点あげてもいいんじゃない? 今日の指揮」
満潮がポソッと呟き、顔を背ける。
「ね!言ったでしょ、アタシ達の提督はちゃんと考えてくれてるって!」
川内がバシバシと絵名の背中を叩き、絵名が「痛いってば!」と悲鳴をあげる。
夕暮れの港に、ささやかで温かい笑い声が響いた。
絵名と5隻の艦娘たち。
不器用で、___けれど確かな「信頼の芽」が確かにこの海で芽生えた瞬間だった。