深夜の執務室。
静まり返る部屋で、絵名は机に突っ伏していた。
目の前に広げられているのは、街の文具店で買い求めた白いスケッチブックと一本の鉛筆。
「…っ、なんで……っ」
絵名は右手にぎゅっと力を込め、鉛筆を紙に走らせようとする。
だが、ペン先が紙に触れた瞬間、胸の奥から押し寄せてくる強烈な吐き気と戦慄に、指先がピキリと固まった。
(描けない……っ。また……っ)
あの世界で抱えていた「才能への葛藤」や「認められない苦しみ」。
それに加えてこの血と硝煙の匂いが漂う、この世界に一人取り残された現実。
「戦争」、「兵器」、「命のやり取り」という圧倒的な異世界の異物感が、絵名の中にあった「絵に対するトラウマ」を容赦なく刺激し絵名から絵を奪っていた。
(絵を描かない私なんて…私じゃないのに……!!)
唇を噛み締め、悔し涙がぽろぽろとスケッチブックの空白に落ちて輪を作る。
___絵を描くことが自分そのものだった。
それなのに、描こうとすると手が震えて線一本すらまともに引けない。
自分が自分でなくなっていくような猛烈な恐怖が絵名を襲う。
その時、コンコンと静かに扉が叩かれ、
加賀が入ってきた。
手に持った温かいお茶の湯気の向こうで加賀は涙を拭う絵名と、何も描かれていない白いスケッチブックに目をやる。
「...提督」
「あ…加賀。ごめん、何でもないの!ちょっと…疲れちゃって」
慌ててスケッチブックを閉じようとする絵名。
だが、そのページから落ちた一枚のメモ用紙を、加賀が静かに拾い上げた。
そこに書かれていたのは、綺麗な絵ではなかった。
文章と、歪でな図形のような、「文字のメモ」だった。
『加賀:弓を引く時に左足軸。射撃の瞬間、左の視界が一瞬死角になる』
『金剛: たまに火力頼みになっており、周囲の警戒注意』
『鈴谷: 火力も回避も申し分ない 性能の差がある。要 改造へ』
『川内:右へ回頭する時の沈み込みが大きい。夜戦での回避癖』
『満潮:後方警戒時の肩の強ばり。左からの突撃に反応が遅れる』
「これは……」
加賀が目を見張る。そこには言葉にすらならない焦燥感と恐怖と戦いながら、それでも必死に自分たちを生き残らせようと絞り出された文字がびっしりと並んでいた。
「……描けないの」
絵名は膝の上にポタポタと涙をこぼしながら
震える声で吐き出した。
「私ね、絵を描くのが大好きなはずなのに……描かなきゃ私じゃないのに……怖くて…手が震えて、何も描けなくなっちゃったの……っ」
顔を覆って泣きじゃくる絵名。
軍人でもなく、提督らしくもなく、ただ「自分を見失いそうになって泣いている少女」の姿がそこにあった。
加賀は静かに膝をつき、拾い上げたメモを大切に握りしめると、そっと絵名の頭に手を置いた
「無理に描く必要はありません、提督」
「え……?」
「貴女が絵を描けなくても、貴女が東雲絵名であることに変わりはありません。そして…このメモを見てください。貴女のその強い想いと目は、絵を描かずとも、すでに私たちを誰よりも深く見つめてくださっている」
加賀の温かい手が、絵名の震える心をゆっくりと溶かしていく。
「貴女が再び筆を握れるその日まで...私が、貴女のキャンバスを守りましょう」