「——以上が、本鎮守府の現状となります。提督」
机の上に並べられたのは、埃をかぶった大量の報告書と、どこか諦めたような数字の羅列
眼鏡の奥の瞳を冷ややかに光らせながら事務的に説明を終えた大淀は、小さく息を吐いた
彼女だけは知っている。私がこの世界の人間でも、軍学校を出たエリートでもなく、どこからか落ちてきたただの「異邦人」だということを。大本営の実験台として、この荒れ果てた鎮守府に放り込まれた素人だということを
「大本営も無茶な人事をなさりますね。あなたが何者か、他の艦娘たちには伏せてあります。
ですが、知識も実績もない少女が着任したという事実は隠せません。…期待はなさらない方がよろしいかと」
「……分かってるわよ、そんなこと」
私は強がって見せたけれど、去っていく大淀の背中を見送り一人になった執務室で大きく肩を落とした。
昼間、鎮守府の廊下ですれ違った艦娘たちの視線が頭から離れない
特に、秘書艦として私を迎えた加賀という人は凄かった。氷のように冷たい目で私を見下ろし、一言「…下がんなさい。ここは遊び場ではありません」と吐き捨てて去っていったのだ。
___悔しい。
見下されて、
素人扱いされて、
捨て駒にされて、
でも、一番悔しいのは——彼女たちの言う通り、今の私が『本当に何も知らない』ということだ。
陣形の意味も、燃料の管理も、あの艦娘たちがどんな痛みを抱えて戦ってきたのかも、何一つ分からない。
知識もないまま適当に指示を出して、もし誰かが傷ついたら?
「…そんなの、絶対に嫌」
絵を描くときだってそうだ__
上手くいかなくて、評価されなくて、どれだけ惨めでも自分をごまかして描いた絵なんて
なんの価値もないから
ここで何も分からないまま指揮を執るなんて、私のプライドが絶対に許さない。
「逃げてたまるか……!」
私は誰もいなくなった資料室に潜り込み、棚から分厚い海軍戦術書や、各艦娘の史実が記された記録集を抱えられるだけ抱え込んで執務室へ戻った。
___どれくらい時間が経っただろう
「……う、苦っ……」
湯気が立つカップを口につけ、私は思わず顔を顰めた。
本当は、コーヒーなんて嫌いだ。苦くて、全然美味しさが分からない。
紅茶やカフェモカみたいな甘いものばかり飲んでいた。
でも、この世界には私の眠気を手軽に飛ばしてくれる都合のいいエナジードリンクなんてない。
舌に残る嫌な苦みを無理やり冷たい水で飲み下し、重くなるまぶたを必死でこじ開ける。
デスクの上に積んだ本の山
ノートに殴り書いた陣形図と
艦娘たちの特性メモ。
あの子たちの命を預かるんだ。私が無知なせいで、誰も傷つかせたくない...
帰る方法を見つけるまでの間だろうとなんだろうと、やるからには完璧にやってみせる
気づけば、窓の外がうっすらと白み始めていた。
——カチャリ。
執務室のドアが静かに開く音がした
入ってきたのは、朝の報告に来た加賀だった。
「提督、朝の報告に——」
言葉を途切れさせた加賀の視線が、部屋の異変を捉える。
散らばった大量の専門書、びっしりとメモが書き込まれたノート、空になった数杯のコーヒーカップ。そしてデスクに突っ伏し、握りしめたペンを離さないまま必死に眠気と戦っている私の姿に。
「…あ、加賀、さん……?」
霞む目で彼女を見上げると、加賀は呆れたような、けれど今までとは少し違う眼差しで、積まれた本と私を交互に見つめていた。
「一晩中、これを?」
「…当たり前でしょ。何も知らないまま……あなたたちに指示なんて、出せるわけないじゃない」
眠気で回らない頭でそう言い捨てると、加賀はしばらく無言のまま立ち尽くし、やがて小さく、本当に小さく息を吐いた。
「…形だけ勉強したところで、戦場が甘くないことに変わりありません」
吐き捨てられた言葉は相変わらず冷たかった
けれど、彼女がデスクの脇にそっと置いた温かいお茶の湯気が、朝の冷え切った部屋にゆっくりと広がっていった。