朝6:00 提督室
ジリッリーーーパシッ!
「……うう……」
目覚まし時計を止め、東雲絵名はベッドの上で重い身体を起こした。頭がガンガンと痛む
深夜にひとり、戦略書を読み込んでいたせいだ。
ニーゴで活動していた頃の絵名なら、朝の6時なんて寝る準備をしているか眠りこけているかの時間だ。
深夜までキャンバスや液タブに向かい、朝方に疲れ果てて眠りにつく。朝は一番苦手な時間のはずだった。
(でも寝てられない。…あの子たちを、守らなきゃいけないんだから)
絵名は脚を少し震わせながらベッドから立ち上がり、ハンガーにかけられた「提督服」へ手を伸ばす。
白を基調とした、少し大きめの提督用の軍服。
普通の女子高生だったはずの自分が着るには
あまりにも重たく異様な服。
パチン、
パチンと、
一つずつボタンを留めていく
袖を通すたびに、「東雲絵名」という輪郭が削ぎ落とされ、この鎮守府の命運を預かる「提督」としての重圧が肩にのしかかってくる。
最後に、姿見の鏡の前に立った。
鏡に映っているのは、眠気の目で今にも泣き出しそうな不安に満ちた自分の顔。
「…ダメ。こんな顔あの子たちに見せられない」
両手を頬に当て——パンッ!!と、痛いほどの音を立てて叩いた。
「よし……っ!」
鏡の中の自分を睨みつけるように目力を込め、表情をキュッと引き締める。
朝が苦手で、「自分の絵に傷つき苦しんでいた女の子」の顔を胸の奥に押し込め____
艦娘たちの前で立つべき「覚悟の顔」を作る
これが、今の絵名の朝の儀式だった。
7:00 鎮守府の食堂
「お、来た来た!提督ちゃんおっはよ〜!」
食堂の扉を開けると、鈴谷が明るく手を振って迎えてくれた。
テーブルには湯気が立つお味噌汁と焼き魚、だし巻き卵が並んでいる。
「おはよう、みんな今朝の当番は・・・」
「アタシと金剛さん!提督ちゃんの分もちゃんとあるから座りなよ〜」
「Good morning, 提督!朝はしっかり食べないと、頭が回らないデショ?」
金剛が豪快に盛り付けられたご飯を差し出してくる。
隣では川内が欠伸を噛み殺しながら「ん〜、夜戦の後のお米は染みるわぁ……」とフワフワしており、満潮は「ちょっと川内!行儀悪いわよ」と小言を言っていた。
加賀も静かに茶碗を持ち、絵名へ軽く目礼を送る。
この5人——加賀、金剛、鈴谷、川内、満潮。
過酷な過去を背負い、大本営から見捨てられかけたこの鎮守府で、お互いを支え合って生きてきた5人だ。
辛い戦況の中でも、金剛や鈴谷がこうして明るく振る舞ってくれることが絵名にとってどれほど救いになっているか分からない。
「ありがと。いただきます」
絵名が一口ご飯を口に運ぶと、どこか気まずそうに離れた席から小さく声が上がった。
「あ、あの、提督……。お、お茶…お代わり、いりますか……?」
別の鎮守府から転属になった軽巡洋艦——
阿武隈だ。
彼女は自分の袖口をぎゅっと握りしめ申し訳なさそうに身を縮めている。
「あっ、阿武隈さん。ありがとう、大丈夫だよ、自分で淹れるから気にしないで」
「は、はいっ……!す、すみません、でしゃばった真似をして……!」
ぺこぺこと頭を下げる阿武隈に、鈴谷が「阿武隈ちゃん、そんなに怯えなくて大丈夫だって〜!提督ちゃんは優しいからさ!」と明るく肩を叩く。阿武隈は「ひゃいっ!?」と肩を跳ねさせ、オドオドと視線を泳がせた。
(他の鎮守府から急に転属になっちゃって、不安なのかな……。早くこの鎮守府に慣れてくれるといいんだけど)
絵名は優しく微笑みながら、心の中で阿武隈を気遣う。
だが——。
絵名たちが談笑に戻った一瞬の隙。
俯いた阿武隈の前髪の影で、その瞳から「気弱な少女」の色彩が完全に消え去っていた。
(……大本営の事前報告通り、指揮経験のない素人の娘。部隊全体の緊張感も欠如……)
阿武隈の脳内で、冷徹な分析が繰り広げられる。
表向きは「他鎮守府からの転属艦」。しかし彼女の本当の正体は、大本営から送り込まれた査察官。
監視し、処分するか否かの報告書を書くのが彼女の真の任務だった。
(若い女の子の提督ごっこ...ですか。
まあいいでしょう。せいぜい今のうちに仲良くお喋りを楽しんでおきなさい……)
阿武隈は再び「あ、あの……」と気弱な声を作りながら、おどおどと箸を動かし始めた。
8:30
食後、各々が動き出す。
川内は「アタシは夜に備えて寝る〜」と自室へ戻り、加賀と満潮、金剛は工房へ向かう
鈴谷は庭のベンチで日向ぼっこを始めていた。
絵名は一人、執務室のデスクに向かっていた。
書類の端には、小さなメモ帳と、一本の鉛筆が転がっている。
(あの子たちの顔…残しておけたらいいのに……)
ふと、そんな思いが頭をよぎる。
鈴谷の伸びやかな笑顔、加賀の凛とした横顔、金剛の温かい瞳。
絵描きとしての本能が、「残したい」と疼く。
絵名は、吸い寄せられるように鉛筆へと手を伸ばした。
指先が、冷たい木軸に触れる。
——その瞬間。
『お前には才能がない』
『どうして、私には描けないの……!?』
『——また失われるのか? あの6隻目のように……!』
脳裏に凄まじいフラッシュバックが駆け抜けた。
あの頃の自分の才能のなさに打ちのめされ、血が出るほど唇を噛んだあの夜の記憶。
そして___この世界線へ突然飛ばされ艦娘たちが傷つき、兵器として散っていく恐怖とトラウマ。
「…っ!ハぁ……っ、ハぁ……っ!!」
視界が歪み、急激な眩暈と吐き気が絵名を襲う。
指先が激しく震え、鉛筆を握ることすらできず、カチャンとデスクの上に転がり落ちた。
「、、描けない……っ」
絵名は震える自分の手をギューッと抱きしめ、デスクに伏せた。
『描かない』のではない。『描けない』のだ。
絵を描こうとすると、自分の無力さと、この世界の残酷さがフラッシュバックして手が固まってしまう。
「……提督?」
執務室のドアが少しだけ開き、阿武隈が恐る恐る覗き込んでいた。
書類の提出に来たフリをした、監視のための巡回だ。
「っ……!」
絵名は慌てて顔を上げ、必死に乱れた息を整えた。
震える手をデスクの下に隠し、鏡の前で作った提督の顔を無理やり貼り付ける。
「あ…阿武隈さん。どうしたの?」
「い、いえ……書類をお持ちしたのですが体調、悪そうに見えたので……」
「ううん、大丈夫!ちょっと考え事してただけだから。ありがとう!」
絵名は努めて明るく笑ってみせたが、阿武隈は見逃さなかった
デスクの上に転がった一本の鉛筆と、絵名が隠した手がかすかに震えているのを。
(...体調不良ではない。何か強いトラウマや心理的拒絶による過呼吸……?)
阿武隈の脳裏に、小さな疑問が浮かぶ。
(ただのお気楽な女子高生ではない……?一体何をそんなに恐れて何を抱え込んでいるの?)
「…失礼しました。お仕事、無理なさらないでくださいね」
阿武隈は深く一礼して部屋を出て行った。
だがその心の中では、絵名に対する「ただの素人娘」という評価に、初めて大きなノイズが混じり始めてた。