早朝の鎮守府はどこかピンと張り詰めた空気に包まれていた。
絵名がこの鎮守府に着任してから、初めての「6隻編成」での出撃。
旗艦の加賀を筆頭に、金剛、鈴谷、川内、満潮、そして他鎮守府からの転属を装う阿武隈。
「あ、あの……っ!私、足手まといにならないように頑張りますので……っ!」
出撃前、埠頭で袖口をぎゅっと握りしめオドオドと頭を下げる阿武隈。
鈴谷が「大丈夫だって〜!」と笑いながら背中を叩き、満潮が「まあ、足を引っ張ったら承知しないわよ」と素っ気なく声をかける。
だが——阿武隈の俯いた瞳の奥には、氷のように冷たい光が宿っていた。
(……大本営の目論見通り。指揮経験もない素人の娘。この6隻出撃でボロを出せば、それがそのままこの落ちこぼれ鎮守府の『処分決定書』になる)
阿武隈の正体は、大本営から遣わされた査察官
相手の警戒を解き弱みを炙り出すための完璧な仮面に過ぎない。
「——全艦、出撃準備完了です」
加賀の静かな声が響く。
執務室でお留守番を務める絵名からの通信が、スピーカー越しに届いた。
『みんな...無事で、絶対に帰ってきてね。出撃!』
その声はどこか震えていたが不思議なほど強く、海原へ踏み出していく6隻の背中を押していた。
航行中、阿武隈は密かに絵名から渡された「作戦指示書」を思い返していた。
大本営のエリート提督たちが好むような、美しく華やかな陣形や攻撃優先の攻略法ではない。そこにあったのは、「生存優先の航路」だった。
過去の海域データを血眼になって読み込んだ跡。
「この海域は波が高いから加賀さんの足元に負担がかかる」「満潮ちゃんの射程のためこの距離を保つ」——艦娘一人ひとりの癖や傷を細かく観察し、命を守るためだけに書かれたメモがびっしりと埋め尽くされていた。
(……戦術の基礎すら怪しい女の子が、不眠不休でこれを調べ上げたというの……?)
阿武隈の胸に、小さなノイズが走る。
だが、戦場は絵名の綿密な計算すら易々と粉砕した。
海域深部——大本営の情報にはなかった敵の増援、空母ヲ級を含む強力な深海棲艦の伏兵と突如遭遇したのだ。
「なっ……何よこれ!?情報と違うじゃないの!!」
「チッ……! 囲まれたか」
満潮の叫びと川内の吐き捨てが交錯する。
まだ「改二」として覚醒していない6隻の火力では、圧倒的な戦力差だった。
その混乱の最中——不気味な海鳴りとともに、敵の魚雷が迫る。
「阿武隈、避けなさいっ!!」
加賀の声が響いた時には、すでに遅かった。
ドカァァァンっ!!
「きゃあぁぁぁっ!?」
激しい衝撃と水柱。艤装が大きく砕け散り、阿武隈は海面へと打ちつけられた。
右足の艤装が炎上し、黒煙が上がり足の自由を奪われた。
(……ああ。…ここまでか)
冷め切った思考の中で、阿武隈は己の終わりを察した。
(所詮、私だって大本営の使い捨ての駒。大破した一隻を捨てて残りを撤退させるのが軍隊の正しい効率、あんな素人提督に、私を救えるわけがない...)
視界が赤く染まり、死の恐怖が脳を麻痺させていく。
その時——通信機から、耳を聾するほどの叫び声が破裂した。
『——させない!!』
あまりの音量に、加賀たちすら足を止める。
執務室にいるはずの絵名が悲鳴のような、けれど恐ろしいほどの執念を込めて叫んでいた。
『阿武隈を置いて進むなんて、絶対に認めない!頼むから……みんなで阿武隈を庇って!!責任は私が全部取る!
私の命令だからお願いだから全員で帰ってきて!!』
あの世界、自分の無力さに打ちのめされ、「誰も見捨てたくない」「繋ぎ止めたい」と血を吐くような思いで葛藤してきた絵名。
彼女にとって、艦娘を「兵器」として切り捨てることなど、死んでもできるわけがなかった。
「……ハッ、言われなくても分かってるわよ!!」
満潮が叫び、真っ先に阿武隈の前へと滑り込む。
「提督が『連れて帰る』って言ったのよ!アンタなんかに足を引っ張られたら、あの女に怒られるでしょ!!」
「全員、阿武隈を防護!提督の命に応えます!」
加賀が弓を構え、金剛と鈴谷が覆いかぶさるように敵の砲撃を弾き返す。
ボロボロになりながら、泥をすするような必死の撤退戦。
阿武隈は信じられない思いで目を見開いていた。
自分の命を守るために金剛の装甲が砕けてる
なぜ?
どうして?
自分は大本営のスパイでお前たちを切り捨てるために来たのに——。
(…どうして、そこまでして私を……?)
深夜。鎮守府の執務室
命からがら生還し応急処置を受けた阿武隈は、足を引きずりながら執務室のドアをそっと開けた。
室内は静まり返っていた。
デスクの上には疲れ果てて突っ伏し、眠りこけてる絵名の姿があった。
全員が無事に帰還したことを確認した瞬間、張り詰めていた緊張が切れ、そのまま倒れ込むように眠ってしまったのだ。
絵名の細い手首。そのすぐ横には、一本の鉛筆が転がっていた。
絵名は前の世界でのトラウマとイップスで、
絵を描くことができない。
筆を握ろうとすると手が激しく震えて呼吸ができなくなる。
しかしデスクの上には、激しい過呼吸に耐えながら、指を血が滲むほど震わせて描き殴ったと思われる____
6隻が生き残るための「歪な図」が残されていた。
『描かない』のではない。『描けない』恐怖と戦いながら、それでも彼女は鉛筆を握りしめていたのだ。あの子たちの命を、この手で救うために。
「…………」
阿武隈は無言で胸ポケットから、一枚の紙を取り出した。
【大本営提出用:鎮守府査察報告書】
ペンを走らせようとする。
【本鎮守府および東雲提督は指揮能力を欠き、極めて非効率的。即刻の解体を推奨——】
(書けばいい。ありのままを書いて、報告すれば私の任務は終わり……)
だが_______
万年筆を握る阿武隈の指先が——ピタリと止まった。
カタカタと、激しく指が震え出す。
どれだけ力を込めても紙の上に黒いインクの一滴すら落とすことができない。
脳裏に焼き付いて離れない。
自分を庇って傷ついた仲間たちの背中。
そして、「全員で帰ってきて」と泣き叫んでいた。
この華奢で、無力で、けれど誰よりも艦娘を大切にしてくれる少女の叫びが。
(______書けない)
阿武隈の口から、掠れた声が漏れる。
(こんな報告書……書けるわけがないっ...)