『五等分の花嫁 〜転生した俺は、五月の笑顔を守るために動き出す〜』 作:夜幻
翌日の放課後。
「……よし」
神城蓮は、教室の時計を見上げた。
時刻は午後四時。
終礼が終わってから、まだ五分も経っていない。
それなのに蓮は、まるで大事な試合でも控えているかのように落ち着かなかった。
「……落ち着け、俺」
机の上には教科書とノート。
そして、昨日五月と一緒に食べたコロッケの包み紙。
……ではない。
さすがにそんなものを持って帰ってきてはいない。
「いや、何を緊張してるんだよ俺……」
昨日、五月に言われた。
『明日も、勉強を教えていただけませんか?』
それだけだ。
ただ、それだけなのだ。
「……でも、五月と二人で勉強か」
思わず頬が緩む。
「……へへ」
「何ニヤニヤしてんの?」
「うおっ!?」
突然、背後から声をかけられ、蓮は椅子から飛び上がった。
振り返る。
そこには一花が立っていた。
「お、お前か……」
「お前かってひどくない?」
一花は頬を膨らませながら、蓮の机を覗き込む。
「なになに? ずいぶん嬉しそうじゃん」
「別に」
「ふーん?」
一花はニヤリと笑った。
「もしかして、誰かと待ち合わせ?」
「……まあ」
「女の子?」
「……」
「図星だ」
「うるさい」
「えー、お姉さんにも教えてよ」
一花が楽しそうに顔を近づけてくる。
「誰? 誰?」
「……五月」
「へぇ」
一花の目が細くなる。
「五月かぁ」
「なんだよ」
「いやいや。昨日も一緒に帰ってたよね?」
「たまたまだ」
「ふーん」
「本当にたまたまだって」
「でも、今日は自分から残って待ってる」
「……」
痛いところを突かれた。
「神城君って、意外と分かりやすいね」
「……そうか?」
「うん。顔に出るタイプ」
「マジか……」
蓮は両手で顔を覆った。
「やばいな、俺」
「ふふっ」
一花が楽しそうに笑う。
「まあ、頑張ってね」
「何をだよ」
「さあ?」
そう言い残して、一花は教室を出ていった。
「……なんなんだよ」
蓮はため息をつく。
その直後。
廊下から、聞き慣れた声が聞こえた。
「神城君!」
蓮が顔を上げる。
教室の入り口に立っていたのは――五月だった。
赤みの強い長い髪。
毛先にかけて柔らかく波打つ髪。
そして、ぴょこんと跳ねた大きなアホ毛。
両側の髪には、星型のヘアピン。
「……」
蓮は一瞬、言葉を失った。
昨日も見たはずなのに。
どうしてだろう。
今日は、昨日より少しだけ可愛く見えた。
「……神城君?」
「え?」
「どうしました?」
「いや……」
蓮は慌てて目を逸らす。
「なんでもない」
「そうですか?」
五月は不思議そうに首を傾げた。
「では、勉強を……」
「おう!」
蓮は勢いよく立ち上がった。
「やろう!」
「……元気ですね」
「まあな!」
「昨日はもっと落ち着いていた気がしますが」
「気のせいだ!」
「そうでしょうか」
五月は少しだけ笑った。
その笑顔を見て、蓮の心臓が跳ねる。
――やっぱり。
俺、この子のこと……。
「……?」
「どうしました?」
「いや、なんでもない」
「今日、そればかりですね」
五月が小さく笑う。
蓮は頭を掻いた。
二人は昨日と同じように、空いている教室の窓際の席に向かった。
五月が椅子に座り、教科書を開く。
「今日は数学です」
「おう」
「昨日の続きからお願いします」
「任せろ」
蓮も隣の席に座った。
距離が近い。
肩を少し動かせば触れそうな距離。
「……」
「……」
二人とも、なぜか少しだけ黙る。
「……あの」
「ん?」
「近くないですか?」
「え?」
「昨日より……」
五月が自分たちの距離を見る。
「……確かに」
蓮も気づく。
机を二つ並べているせいで、かなり近かった。
「じゃあ、少し離れるか?」
「……いえ」
五月が小さく首を横に振った。
「このほうが教科書を見やすいので」
「そ、そうか」
「はい」
五月は平然としている。
しかし。
耳が少し赤い。
蓮も気づいた。
そして、自分の耳もきっと赤い。
「……よし」
蓮は誤魔化すように教科書を指差した。
「じゃあ、この問題な」
「はい」
「昨日やった公式を使う」
「ここですね」
「そう。それで――」
蓮はノートに式を書いていく。
五月は真剣な表情でそれを見つめている。
「ここまでは分かりますか?」
「はい」
「じゃあ、この次は?」
「……」
五月は鉛筆を持ったまま止まった。
「……分かりません」
「おしい」
「おしい?」
「うん。考え方は合ってる」
「本当ですか?」
「ああ」
蓮は五月のノートに少しだけ書き足す。
「ここをこうして……」
「……あ」
「ほら」
「分かりました」
五月の目が輝いた。
「なるほど……!」
「だろ?」
「はい!」
嬉しそうに笑う。
「神城君は、教えるのが上手ですね」
「……」
今度こそ。
蓮は固まった。
「……どうしました?」
「いや」
「?」
「……褒められると、照れるな」
「え?」
「俺、こういうの慣れてないんだよ」
「そうなのですか?」
「ああ」
五月は少し考えるように首を傾げた。
「意外ですね」
「何が?」
「神城君は、もっと自信がある人だと思っていました」
「まあ、勉強とか運動はそこそこできるけど」
「そこそこ?」
「……いや、まあ」
蓮は視線を逸らす。
前世の知識がある。
さらに転生してからの努力もある。
だが。
「俺だって普通の高校生だからな」
「……そうですね」
五月が柔らかく笑った。
「それなら、安心しました」
「安心?」
「はい」
「なんで?」
五月は少しだけ恥ずかしそうに目を伏せる。
「……私だけが不器用なのではないと思えるので」
「……」
蓮は目を丸くした。
「五月」
「はい」
「そんなことないぞ」
「え?」
「お前は不器用かもしれないけど……」
蓮は五月のノートを見る。
何度も書き直された跡。
消しゴムで消した跡。
途中で諦めずに解こうとした跡。
「ちゃんと頑張ってるじゃん」
「……」
五月の手が止まった。
「昨日だって、分からないところをそのままにしなかっただろ」
「……はい」
「分かるまでやろうとしてる」
「……」
「それって、結構すごいことだと思うぞ」
五月はしばらく黙っていた。
やがて。
「……ありがとうございます」
小さな声だった。
「神城君にそう言っていただけると……なんだか、頑張れそうです」
「……そっか」
蓮は笑った。
「じゃあ、今日も頑張るか」
「はい!」
――そのとき。
ぐぅぅぅぅ。
教室に響く音。
「……」
「……」
蓮と五月の視線が交差する。
五月の顔が、一気に赤くなる。
「……」
「……」
「…………」
「五月」
「なんでしょう」
「腹減った?」
「……違います」
「いや、今の音――」
「違います」
「でも――」
「違います!」
五月は顔を真っ赤にしたまま、机を叩いた。
「これは、その……!」
「うん」
「身体が勝手に……!」
「うん」
「仕方のないことなのです!」
「うんうん」
「笑わないでください!」
「笑ってないって」
蓮は必死に笑いを堪えていた。
「……ぷっ」
「笑っているではありませんか!」
「ごめん、ごめん!」
五月は頬を膨らませる。
「……もう」
その姿があまりにも可愛らしくて。
蓮はますます笑ってしまう。
「……仕方ないな」
「?」
蓮は鞄を開けた。
「これ食べる?」
取り出したのは、小さなパンだった。
五月の目が一瞬でパンに向く。
「……」
「……」
「いただいても?」
「もちろん」
「ありがとうございます!」
五月は両手でパンを受け取った。
その瞬間。
ぱぁっと表情が明るくなる。
「……」
蓮は思った。
分かりやすい。
ものすごく分かりやすい。
「五月ってさ」
「はい?」
「食べ物の前だと、すごく素直になるよな」
「……」
五月が固まった。
「……それは、褒めていますか?」
「もちろん」
「なら、許します」
「許すんだ」
「はい」
五月は袋を開ける。
そして一口。
「……おいしいです」
「だろ?」
「はい」
二口目。
「……」
三口目。
「……」
あっという間に半分。
「早っ」
「……?」
「いや、なんでもない」
五月はパンを食べながら首を傾げる。
その頬が少し膨らんでいる。
蓮は思わず笑った。
「……何か?」
「いや」
「?」
「なんか、安心するなと思って」
「安心?」
「うん」
蓮は窓の外を見る。
夕暮れの光が、教室の床を赤く染めている。
「こういう普通の時間って、いいなって」
五月は少しだけ黙った。
「……私も」
「え?」
「私も、そう思います」
五月はパンを持ったまま、窓の外を見る。
「五人でいるのも楽しいです」
「うん」
「ですが……」
少しだけ間を置く。
「こうして誰かと二人で勉強するのも、悪くありません」
「……」
蓮の胸が、また跳ねた。
「……そっか」
「はい」
五月は微笑む。
「ですから……」
「ん?」
「明日も、お願いします」
蓮は笑った。
「ああ」
「明後日も」
「おう」
「その次も……」
「もちろん」
「……本当に?」
「本当に」
五月の顔が、嬉しそうに綻ぶ。
「……ありがとうございます」
その笑顔を見て。
蓮は思った。
原作を知っているから守りたい。
未来を変えたい。
そう思って、この世界に来た。
でも。
今はもう、それだけじゃない。
五月が笑っている。
ただ、それだけのことが。
自分には嬉しかった。
「じゃあ、もう一問やるか」
「はい!」
「この問題、解けたらご褒美な」
「ご褒美?」
「そう」
五月の目が輝く。
「何でしょう?」
蓮は少し考えて。
「……明日、好きなもの奢ってやる」
「!」
五月が勢いよく顔を上げる。
「本当ですか!?」
「ああ」
「では、頑張ります!」
「現金だなあ……」
「食事は大切です!」
「はいはい」
「では、この問題を解けばいいのですね?」
「そう」
五月は鉛筆を握り直した。
「絶対に解きます!」
「その意気だ」
夕暮れの教室。
二人の勉強会は、もうしばらく続いた。
そして。
その翌日から。
放課後になると。
一人の少年と、一人の少女が。
自然と同じ教室に集まるようになった。
それはまだ。
恋と呼ぶには、少し早い。
けれど。
確かに二人の間には。
昨日までにはなかった「特別な時間」が、少しずつ生まれ始めていた。