余命数年の私の元に現れたかぐや姫 作:グランドマスター・リア
ヤチヨカップの優勝から翌日。
彩葉が体調を崩した。
朝からしんどそうにしてて、ご飯も喉を通らない。汁物でようやくと言った所で、目に見えて憔悴した姿に、優勝の余韻すら消し去るほど胸が締め付けられる。
「だいじょうぶ……一日寝てれば治る、から……」
本人はこう言っているけど、わたしとしてはすぐにでもタクシーに放り込んで、病院に連れて行きたかった。
だけど、頑張ってわたしを安心させようと、なりきれない微笑みを浮かべようとする彩葉を見ていると、そんな事はできなかった。
「……わかった。じゃあかぐや、今日一日いろはの看病を頑張るから!して欲しい事あったら何でも言って!」
「うん……ありがとう」
それに、彩葉がこんなふうに体調を崩すのは初めてじゃない。
皮肉なことに病人の看病に関しては慣れたものだ。
買い出しは、ご飯を食べて本人が寝たタイミングで済ませる。
食事の準備から、身の回りの世話まで、そうやって動くのもスケジュールを管理してテキパキと終わらせ、後はずっと傍に居る事。
病は気からと言うし、誰かが傍に居て、手を握っていることがなによりも力になる。
病床で気が滅入って、弱気になっている彩葉を、安心させてあげるんだ。
「かぐやは、ずっと傍に居るよ。寝ても起きても、彩葉が望んでくれる限り、こうして手を握ってるから」
一人じゃない。
孤独じゃない。
前みたいに、彼女の秘密を聞き出そうとして、余計に不安にさせるような馬鹿なことはしない。
かぐやの気持ちなんてどうでもいい。
彩葉が健やかでいてくれること、良くなってまた笑ってくれること、それ以外に望むことなんて無い。
「配信とか……いいの?優勝した、次の日……なのに……」
「そんなの、彩葉の方が大事だもん。それに、苦しんでる彩葉を放って配信なんかしてたら、それこそファンの皆に怒られちゃうよ」
「なにそれ……でも、すごく安心する。かぐやの手、柔らかくて、あったかいね」
普段の儚げな様子に加えて、ふにゃっとした雰囲気に、胸がきゅんとなる。
好き。好き。
「彩葉の手も、すべすべで心地いい。ずっと触れていたい。あーあ、好きだなぁ」
聞こえてる?
かぐやの本心なんだよ。
「また言ってる……こんな私の、どこがいいんだか……」
そう言いながらも、わたしの手を手繰り、すり寄ってくるの。
可愛すぎるし、一生見ていられるけど、それと同時に思うこともあった。
「……彩葉、前よりも甘えん坊さんになったね」
「え?そう、かな……」
彼女の変化を見逃すわたしじゃない。
今までも、体調を崩して一日中寝込むということは何度かあった。しかし、終始彼女は強がって、わたしに心配をかけないように振るまっていた。
それが、今はこうして、わたしに寄りかかってくれる。
「そうだよ。前はもっと、強がってた」
「強がってたって……別に、そんなつもりは……」
言いかけた否定を、彩葉は途中で飲み込む。
そして一拍置いてから再び口を開いた。
「いや、確かに、そうかもね……」
その言葉こそが、今の彩葉と、過去の彩葉が、明確に違う事を意味している。
けれどそれは、マイナスな変化じゃない。成長だ。
わたしにも、親友である芦花や真実にも、兄である朝日にさえ、線を引いてその向こうから話していた彩葉が、少しずつだけど、誰かの傍に歩み寄り、触れ合おうとしているんだ。
「今までの私は、誰に対してもそうだった。受けとる事も、与える事もせず、いつか自分の手で壊してしまう”何か”を得てしまうことを……ずっと、怖がってた」
彩葉の苦しみの一部すら、かぐやは知らない。
それでも、彼女がずっと悩んでいたことはなんとなくわかるから、何も言わず、静かにその言葉を聞き入れる。
「返せるほどの物なんて、持ってないけど……せめて、誰かがくれた優しさに、向き合うくらいはしないと、あとで死ぬほど後悔するって……わかったから……」
それほどまでに、彩葉が思い詰めるに至った原因はなんなのだろうか。
彼女が、何か重い病を抱えている可能性に関しては、ずっと考えている。でも、それだけじゃないような気がしてならない。
もっと別の何かが、あったんじゃないかって。
「彩葉は、どうして……」
そこで、口を噤む。
聞いてはいけない。
踏み込めば、また”あの時”みたいになる。
しかし、途中までとはいえ、一度口に出してしまえば、彩葉の耳に届くのは避けようがない。
区切られたかぐやの言葉を聞いた彩葉は、こう言った。
「……気になる?」
「え?」
今まで、一度も言ってくれた事がなかった言葉だ。
わたしが何か訊けばはぐらかし、疑問を途中でやめれば、安堵したように胸をなでおろしていた彼女が、自ら歩み寄ってくれている。
「……話してもいいよ。かぐやが、知りたいなら……」
「ほんとに?いいの?」
おもむろに上半身を起こした彩葉はわたしの目を真正面から見て、頷いた。
「あんまり楽しい話じゃないけどね。かぐやが
「っ……聞きたい。聞かせて!」
食い入るようにそう返答したわたしに、彩葉は苦笑して視線を落とした。穏やかに、それでいて考える仕草をして口を開く。
「うーん……最初からってなると……十年前くらい、のことになるかな……」
古い鏡をなでるように、幼少期の記憶を引き出しから取り出す。
十年前ともなると、彩葉はまだ六歳だ。今のようになってしまった原因の根深さに、改めて聞く覚悟を固める。
「お父さんが死んだ……あの日から……お母さんも、温かった家も、全部が変わっちゃった」
ぽつぽつと語り出した内容に、かぐやは相槌を打つのすら忘れてしまう。
これまで、何となく、そこは触れてはいけない部分だと思っていた。
一度彼女の体の不調について問いただしてからは、彩葉の過去にはなるべく触れないようにしていた。
けれど、彼女の父親がもう居ない事は、朝日との会話とかから、何となくだけど察することはできた。
ということは、これは、そこから始まる酒寄家の過去と現在の話。
「お兄ちゃんが、元々やってたスポーツをやめて、ゲームばっかりやるようになった……あの人、今はトッププロなんて言われてるけど、その道が始まったのはそこからなんだよね」
まず語られたのは兄である朝日の話だ。
「お母さんも、前みたいな優しい一面がなくなって、とっても厳しくなった。今でも、その時言われた事は、頭の中に残ってる。おぼろげなものもあるけど……うん、全部覚えてる。あははっ、あの時は、本当に、ずっと怖かったなぁ……」
「…………」
お母さんの話をする時、彩葉の顔はずっと強張っている。
トラウマを刺激されたみたいに、手は震え、呼吸が浅くなり、それらの様子が、彼女にとって辛かった記憶の殆どがその母親によってもたらされたものであることを語っている。
「最初の方はまだマシだったんだ。お母さんが怒っても、お兄ちゃんが仲裁して助けてくれてたから……でも……」
「あっ……」
そうだ。
朝日は今、東京に住んでいる。
彩葉よりも長いことこの地域で過ごしているのは明らかで、それはつまり、そんな地獄みたいな家から唯一の味方が居なくなったことを意味していた。
「そっ、お兄ちゃん、夢を追いかけるって言って、家を出て行っちゃって……私、家に一人になっちゃったの」
母親が一緒に居るはずなのに『ひとりぼっちになった』と語るその言葉こそが、彩葉の当時の心境を表している。
いや、今も尚、そこから抜け出せていないのかもしれない。
本当に過去になったなら、そんな顔しないはずだから。
「それはもう、思い出したくもないくらいきつくて……しんどくて……」
辛そうな顔なら、何度も見てきた。
けれど、こんな風に何かを怖がるような、そんな表情は、初めてだった。
「お母さんは、誰よりも強くて、正しくて……お母さんから見たら、私にはいつも何か足りなくて……そんなお母さんの言葉に答えようとする度に、何をしても怒られて、失望の目を向けられた」
酷い、酷すぎる。
彩葉が語る、母親から言われた言葉の数々は、どれも、どう考えたって子供に言うような事じゃない。
大人げないにも程がある。
ハッキリ言って、それらは当時の彩葉に言っても意味のないことばかりだ。
なにが正論だ、ふざけるな。それのどこに正しさなんてものがある?
ただ自分の経験則を、子供に押し付けてるだけじゃないか。
「限界が来たのは、中学二年の時だったよ。体が弱いのに無理ばっかりして、気付いたら、私は病院のベッドの上に居た」
「そんな………」
当たり前だ。
今の彩葉を見れば、そんなハードな環境に体がついていけるとは到底思えない。幼少期は今よりマシだったとしても、限度ってものがある。
「まあ、一年くらいずっと体調不良が続いてたし、当然といったら当然の末路なんだけどね」
「い、一年って……病院は?そうじゃなくてもお休みするとか……」
「全部却下された。お母さんが言うには『体調管理は全ての基本。ここで躓くやつはどんな阿呆よりも下』なんだってさ。病院に行きたいなんて言った日には、弱音を吐くなって言われて、ああもうダメだなって思ってからは、それっきり……」
「なっ……はぁ!?」
――なんだ、それ……
酷い、酷すぎる。
ありえない。
彩葉はこんなに優しいのに、母親はそんな最低なやつだなんて、正直信じられなかった。
たった一ヶ月、一緒に過ごしただけのかぐやにすら分かる。彩葉の苦しみ様は、明らかに普通の体調不良とは、様子が違う。
多分、その時は薬も飲まず放置していただろうから、今よりもっと酷かったはずだ。
それを、無視?
「なにそれ……どう考えてもおかしい……そんな事したら、彩葉ほんとうに死んじゃうかもしんないじゃん!親のやる事じゃないよ!」
「分かってる。今は私もそう思ってるよ。でも……あの時は、色々と、まともじゃなかったから……」
あまりにも壮絶すぎる人生。
ここまで聞いた限りでも、彼女がこんなふうになってしまった理由としては十分だ。人間不信になったって、誰も疑問には思わないだろう。
しかし、この話にはまだ続きがあった。
「……話を戻すね。それで、その時ようやくお医者さんに診てもらって……私の体の状態が、思ったより悪いってことが、分かったの」
点と点が繋がり始める。
彼女があくまでもぼかして語るその部分の内容は、聞かなくてもわかることだ。
「病弱なのが余計に悪化して、今じゃこの有様。発作が出始めたのも、その辺りから……」
無性に、腹が立った。
全部、その母親のせいじゃないか。
彩葉が、なにをした?
彼女は、そんなに悪い事をしたのか?
聞いてるだけでもわかる。病弱だとしても、それまでは特段お薬を飲む必要もなく、健康体の人のように普通に過ごせていたんだ。
それが、その日を境に激変した。
毎日、彩葉がどれだけの量の薬を飲んでいるのか、かぐやは知ってる。
発作が出た時、死にそうなくらいに苦しそうな顔を、何度も見てきた。
彼女が本来当たり前に持っていたはずの”普通”は、誰でもない家族の手によって奪われたんだ。
――あ……あぁ……
ダメだ。
頭がどうにかなりそう。
ふざけるなって、叫びたい。でもそんな事をしたって、この場に居るのは彩葉だけだ。体調を崩している彼女の傍で無暗に喚いても、余計に悪化させるだけ。
感情を抑えれば、精神を擦り減らす。
もうぐちゃぐちゃだった。
「それからは……流石にお母さんも優しくなったし、お兄ちゃんも、定期的に家に帰ってくるようになった。………本当に、凄い変わり様だったな。人って、こんな簡単に変わっちゃうんだって、凄く驚いたもん」
「いろ、は……」
自嘲した彩葉の顔は、当時の彼女をそのまま映し出したように、何もかもに諦め尽くしていた。
「それから、故郷に居るのも段々辛くなってきて、高校進学のタイミングで上京した……そこからは、かぐやも知ってる通りだよ」
そこで、彼女の過去の話は終わり。
彩葉は、なんでもないように笑っている。綺麗な笑顔。それなのに、なんでこんなにも痛々しいんだろう。
けれど、ひとつだけ、分かった事がある。
彼女を最も苦しめたのは、体を悪くしたことでも、父親の死でも、母親の罵詈雑言でもない。
それは、周囲の反応だ。
医者から実際に病状の深刻さを告げられ、手のひらを返したように優しくなった母と、顔を出し始めた兄と、彼女によく気を遣うようになったであろう級友。
それまで、どこにも味方が居なかった世界が、いざ病人になると、全てが”良い方向”へと進んだ。
その事実に、彼女は一体どれだけ絶望しただろう。
全てが上っ面に見えて、誰の言葉も、思いも信じられなくなったはずだ。
確かに、そんな中でも、本当の意味で彼女に優しくしてくれた人や、対等に接してくれた人だって居たんだろう。
しかし、その時の彩葉に、それらを抽出して受け入れる余裕なんて無かった。
死んだように日々を生き、最後には誰も自分を知らない場所に行きたいと願う。その想いを推し量ることは、かぐやにはできない。
「……しんみりしちゃったね。こうなるから、あまり話したくなかったんだけど……でも、もう終わった話だから。かぐやも、そんなに………かぐや?」
「え、なに?」
驚いたように目を丸くした彩葉に、わたしは首を傾げた。
「いや、だって……あんた、泣いて……」
「あ、あぁ……そっか……」
そこで、わたしはようやく、自分が涙を流してることに気付く。
この涙は、彼女の過去に対する哀しみから出たものだ。それは間違いないけど、それだけじゃない。
本質は、自己嫌悪。
「っ……うぅっ……ごめん。ごめんね、いろは……」
「なんで、かぐやが謝るの?別に、あんたは何も悪い事なんか……」
そんな彩葉の言葉に、わたしは首を横に振った。
「だって、かぐや……彩葉の、気持ちも、これまでの事とか、なんも知らないで……病院行こうとか、話したくないことしつこく聞いたり……」
涙は、拭っても、拭ってもこぼれおちる。
全てを聞いて、これまで自分がしてきたことが、いかに彩葉の気持ちを考えない無神経な行動だったのか知った。
彩葉の為を思ってのことが、その全部が、結局は傍迷惑な詮索でしかなくて、彼女を余計に苦しめていたと確信した今、そんな自分が、嫌いで、恥ずかしくて、仕方がない。
「かぐや……ずっと……彩葉のこと、苦しめて……」
「違う、それは違うよ。かぐや」
そんなわたしの両肩に、彩葉は手を置いて、目をまっすぐと合わせて明確に否定の意を示した。
「あのね。これだけは言っときたいんだけど………私はかぐやのしてくれたことや、気遣ってくれたこと、心配してくれたことを、嫌だって思ったことは一度もないよ」
それが紛れもない本心である事が、彼女の目から伝わってくる。
「そりゃ、言ってあげられない事を苦しく思ったことはあるし、感情が抑えきれなくて、怒鳴っちゃったこともあった。けど、それはかぐやが悪いからじゃないんだ。私に……あなたの真っすぐな想いと、向き合う勇気がなかっただけ……」
後悔を浮き彫りにして、それでも前を向こうとする強い瞳。
それに射貫かれて、わたしの胸が高鳴る。
「ずっと、ご飯の味がしなかった。景色に、色がなかった。皆居るのに、何もない。そんな私が、かぐやのご飯を初めて食べた時、心の底から美味しいって、思えたの。あなたの、綺麗な髪だけは、色づいて見えたの」
当時はまだ金色じゃなかった髪を撫でながら、また初めての表情を見せる彩葉。
笑ってるのに、今まで見たどんな笑顔とも違う。
「私を大切にしてくれたこと、嬉しかったよ。何度も気にかけてくれたの、ちゃんと心に届いてた。何度も……何度も、かぐやが諦めずに私に触れてくれたから、今になってやっと、色んな事と向き合おうって思えた」
肩に顔をのせて、背に腕を回してくれる。
アツアツだ。軽くて、柔らかくて、脆い。
「小さい頃のまま、止まってた私を、かぐやが見つけてくれた。幸せだったよ。今の私にとって、それはもう大切な心の一部。かぐやにだって、否定させない」
誰よりも辛いのは彩葉なのに、何でこの子は、こんなにも人を思いやり、優しさを貫き通すことが出来るんだろう。
かぐやはただ、自分のやりたいようにやってただけだ。
本当に彼女の為だったかも怪しい。
そんなマイナス感情を、彩葉の持つ温度は意図も容易くプラスに変えてしまう。
「………かぐやは、ね。彩葉のこと、好きなんだ」
「うん」
言いたかった。この想いを、他でもないあなたに。
「世界で一番……ううん、宇宙で一番、彩葉が大切なの」
「わかってる。伝わってるよ」
思いが伝わって、お互いに通わせることが、こんなにも幸せだなんて知らなかった。もう手放せない。
「絶対に、かぐやが、彩葉のこと……守る。どんな未来になっても、手を、繋いでたい」
「嬉しいよ。ありがとう」
守りたい。
この少女のことを、どんな運命からも、かぐやの手で守り抜いて、幸せな未来をプレゼントしてあげたい。
「いろは」
「かぐや」
今はこれでいい。
だけど、ずっとこのままでは居られない。
予感がするんだ。これからきっと、とても過酷な事がわたし達のことを待っているだろう。
でも、大丈夫。
いつだって、私は―――彩葉の為だったら、死ねるんだから。
□
案の定、抑制剤の副作用で体調を崩した日の夜。かぐやの必死の看病のおかげで、ようやく回復した。
日中寝すぎたせいで、今はかぐやが疲れて布団で寝ており、私はこうして起きている状態だ。
夜の闇の中、少女の寝息だけがこだまする静かな部屋で居ると、ついつい感傷的になってしまう。
「もう、一ヶ月になるんだ……」
デスクライトで軽減された淡い闇、布団にくるまって寝ているかぐやを一瞥する。
すやすや眠っているお姫様の健やかな寝顔に、微笑みが漏れ出る。
「ふふっ、無垢な寝顔。これだけは、赤ん坊だった頃変わらないよね」
月の光を反射する金色の髪。
さらさらとして、触れると心地よいそれに、感触的な快感以外の何かを感じ始めたのはいつからだろうか。
何度も否定しようとした感情は、気が付けば、どうしようもないくらいに膨れ上がって、取り返しのつかない所まで来てしまっていた。
その感傷の名前を、私は知っている。
どれだけ願おうと私の命の残り時間が変わらないように、目を逸らしたって、心の奥底にあるものが変わる訳じゃない。
「ずっとべったりくっついて、何回も……好きだなんて、言ってくれちゃってさ。ねえ、かぐや……分かってんの?月からのお迎えが、来ようと来なかろうと……私は、あんたと、ずっと一緒には……」
―――かぐやはこう思っているはず。
自分こそが、誰かを置いていく者であり、いつかは別れるのが運命であると。
だが、それは大きな間違いである。最後に、誰かを置いていくのは、泣かせるのは、私の方なんだ。
今はこれで良いのかもしれない。
だけど、そう遠くない未来、私は多くの物を壊してしまう事になる。
そして、私が刻んだあらゆる傷や破損が治る機会すら、永遠に奪う事になるのだ。
「ダメだな、これ以上はやめよ………今のうちに、
机に広げられた便箋。
横には無地の封筒。
その表紙に筆ペンで書かれた達筆はえらく仰々しい、それでいて大きな悲しみの予感をはらんでいた。
遺言書―――
✧・゚: *✧・゚:*
それから一週間。
私達の生活は変化を余儀なくされた。
優勝したことに伴う登録者数の増加と、コラボや案件の数々。
体力のないわたしは出るべきものをピックアップして出ているけど、如何せん、いつ来るか分からない発作のせいで、そういうのはかぐや頼りになりがちだ。
そうして、様々な案件に頭を悩ませつつも、ようやく迎えた、わたしとかぐやの引っ越し当日。
物件は、前にかぐやが私に提案したタワーマンションの最上階だ。
それを打ち明けた時のかぐやの喜びようと言ったら、計画したこっちとしてはやった甲斐があるというもの。
「でも、前は……もっと手頃な物件にしようって言ってたよね。保証人は朝日に頼んでたからいいとして、どういう風の吹き回し?」
「私の方でも色々と考えたの。あんたがすぐに物を増やすから、それなりに広い所じゃないとダメだし……顔バレしてる事も考えたら、セキュリティ面に関しても気を遣う必要がある。全部満たそうと思ったら、どうしても、ね」
というのが表向きの理由。いわば建前だ。
本音の部分、むしろこっちがメインまである。
「後は、頑張ったうちのお姫様にサプラーイズ……的な?」
「っ!彩葉!大好き!」
目を潤ませて抱き着いてくる彼女を、暑苦しいと突き放すどころか、自然と抱きしめ返すようになったのは、いつからだろう。
癖付いた動きをなぞる様に頭をなでながら、思う。
家賃はかぐや・いろPの収益から出ることになるので、全然プレゼントでも何でもない。
勿論、私もこれまで以上に作曲とか活動のサポートとかは頑張る。
けれど、それとは別に考えたのは……私が死んだ後の事だ。
そろそろ、ちゃんと向き合うべきだと、意識付いたのはやはりヤチヨカップの優勝と共に迎えた、一ヶ月の区切りのタイミングである。
まず、稼ぎの柱はできた。このまま配信活動を続ければ、かぐや一人でも十分に生活していける。
彼女は要領が良いから、早々職を失うような失敗なんてしないだろうし、やらかしたとしても自分でカバーできる。
住むところも、今回選んだ物件で当分は事足りる。
そういう幅を持たせる意味合いで選んだ節も少なからずあるのだ。
徐々に、私の居なくなった後の溝を埋める準備をしていく。
お迎えが来るなら、それでいい。
帰る場所があって、私が気を回す必要すらなくなるなら、万々歳だ。
寂しくはあるが、あとちょっとで死んでしまう私の元に居続けるよりは、ずっと良い。
だけど、本当に来るか分からない以上は、私が考えるべきなのは、私が死んだ後も彼女がこの地球に居続ける場合の事だ。
お兄ちゃんとヤチヨにも、話はしてある。
私が居なくなった後、かぐやの事を助けてあげて欲しいと。
残酷なことを言った私に、二人は無理した笑みで「わかった」と返答した。
後は、私の余命について、どのタイミングでかぐやに打ち明けるか、だけ。
しかしこの”だけ”こそが、何よりも難しい。
ずっと親友として一緒に居てくれた芦花や真実にすら、まだ言えてないのだ。
早ければ早いほどいいのは間違いない。
ヤチヨとのコラボライブに響くと良くないので、それが終わり次第、伝えるべきなのだろう。
だけど……
「―――はい。向こうにもう一人いるんで、よろしくお願いします」
引っ越し業者の人に一言二言交わした後、もぬけの殻になったワンルームを見つめた。
この部屋から全てが始まった。二人の生活も、ヤチヨカップの優勝も、思い出の全てがここにある。
名残惜しくはある。
「今までありがとう………さようなら」
一言、小さくそう口にして扉を閉める。
そうした時、初めて”置いていく”という言葉の意味を実感した。
薄く、一粒の生暖かい感触が頬をつたう。何の気なしにそれを指ですくって自嘲する。
そう、こんな私だから。
こんな事ですら、感傷的になってしまう私に、秘密を告げるような勇気なんて、ないに決まってるよ。
新居に踏み入り、テンション高めにバルコニーに突撃したかぐやの後ろ姿を見ながら、私は胸にくすぶる思いに蓋をし、張り付けたように微笑んでみた。
あれ、上手くいかない。
私って、こんなに笑うの、下手だったかな。
分かり切った顛末を自覚して、今更しんみりしてんのかな。
「見て、彩葉!めっちゃ高いよ!風きもちぃー」
とうのお姫様は、最上階の風にハニーゴールドのロングヘアーをなびかせながらご満悦の様子だ。
「はいはい。落ちないようにね」
まだまだ荷解きの段ボールが山積みなのに、遊んでる場合じゃないのに、このかぐやに甘い性格も直すべきなのかな。
「ねえ、彩葉もこっち来なよ!涼しいよ!」
「あっ、もう、この子は……ちょっとだけだよ?まだまだ荷解きあるんだから」
手を引いて、バルコニーに導かれる。
確かに涼しい。風の心地よさと、手から伝わるかぐやの体温に自然と強張っていた表情がほぐれていく。
絆されていく。
そんなふうにさ、隣りで笑っちゃって……
「彩葉。これで、二人で居ても狭くない。ずっと一緒に居れちゃうね」
「……うん」
否定しろよ、馬鹿彩葉。
そんな気休めにもならない嘘ついたって、最後には大切な人をより悲しませる結末になるって、分かってるでしょ。
自分の気持ちに、一つの区切りをつけて、他人と向き合うことに意識をおいてから。
兄の前で、かぐやが好きで大切であることを認めてから、ずっとこんな悩み方をしている。
引越し準備が粗方終わって、一緒にご飯を食べている時も……
「んっ!おいしー!」
買い物に行ってる時も……
「いーっろは!彩葉が居ないとつまんないよー」
手作りパスタに舌鼓を打つかぐやに、後ろから抱き着いてきたかぐやに、こんなにも心を乱してしまう。
そんなに大切なら、やるべきことは決まっている。
それなのに、私は、
「えへへ、彩葉と一緒のお布団☆」
「いや……これだと寝室分けた意味ないじゃん。別にいいけどさ」
いつまでもこの子の優しさに甘え続けてしまう。
かぐやは賢い子だ。こうして無邪気にすり寄って、笑顔でいる間にも、胸の奥では感じているはず。
私が隠している事にも……そしてこれが、なにか私の命に関わるような大きな秘密だってことにも。
それでも、ずっと追及すらしてこず、黙って支えてくれているのは、きっと彼女も怖いからだ。
その何かを知ったと同時に、関係が変わってしまうんじゃないかって。
知る事で楽しい日々が唐突に終わってしまうんじゃないかって。
「………かぐや」
「なぁに?」
名前を呼ぶと、背中越しに嬉しそうな声が聞こえた。
そんな彼女に、私は、今思っていることと、これまでの事全部を含めてこう口にした。
「いつも、ありがとね」