余命数年の私の元に現れたかぐや姫 作:グランドマスター・リア
わたしの視界の端で、狐耳の女の子がゆらゆらと倒れていく。
そのままライブステージの床に体を打ち付けた彩葉は、ぴくりとも動かなくなった。瞬間、時間が止まったような錯覚に襲われる。
腕が、足が、ショッキングな光景を前に動作不良を起こし、その隙をついて白い人型が襲い掛かってくる。
「いろ、は……?」
手を伸ばす。
遠い。
能天気だって傍から見れば思うだろう。ゆっくり徐にとした動きのわたしに、白い手が触れようとした。
「ダメ!!!!!」
その時、ヤチヨの悲鳴にも似た叫びが響く。
白い人型が一斉に四方八方へと吹き飛んで消滅した。
「ヤチヨ……?そうだ、現実に戻らなきゃ!」
けれど、それのお陰で正気に戻れたわたしは、すぐにツクヨミからログアウトして、現実へと戻ってくる。
「彩葉!………え?」
私達は椅子を並べて、隣り合ってログインしていた。
ならば、横に視線を映せば彼女が居るはず。しかし、椅子の上に彼女の姿はない。おそるおそる、その下へと視線をむける。
心臓が嫌な音を立てる。
ゆっくり、心の準備をするかのように、音のしない部屋で、自分自身の鼓動に背を急かされるように、意を決して彼女の姿を視界に収めた。
「ぁ……いや……」
赤、そう赤色だ。
綺麗な赤色。澄んだ紅色。そこに、わたしの大切な人の体が沈んでいる。
なんで?分からない。なんでこんなことに……分からない。
崩れ落ちるように椅子から降りて、彩葉の傍に膝を落とす。横たわった彼女の目は固く閉じられ、乾いて青白くなった唇は辛うじて薄く呼吸するのみ。
血の気の引いた顔つきは、まるで彫刻のように白くて、美しい。
「いや……や……ヤだ……」
呼吸が詰まる。
正常な思考ができない。嫌な感触が喉元にこみ上げてくる。
幾らか我慢して、落ち着けと自分に言い聞かせる。でも、ダメだった。ぐるぐる回って、何も考えられない。
必死の努力も虚しく、それを吐き出す。
「いやああああああああああああああああああああ!!!!!!!!いろは!いろはぁっ!!」
さっきまで流麗な美声を放っていた喉で、喚き散らす。
――彩葉が死んじゃう。彩葉が死んじゃう。彩葉が死んじゃう。
そればかりが頭に浮かんで、冷静な思考なんて出来るわけがなかった。
それでも怪我人に不用意に触れてはいけないと考える理性だけは残っていて、伸ばした手を彷徨わせて、最終的に血だまりへと落として、無力にあえぐ。
「どうしよ……ねぇ彩葉、どうしよ?かぐや、どうしたら……」
いつも、かぐやが迷ってしまった時に、道を指示してくれる彩葉は目の前で倒れている。
つまりは、かぐやが自分で考えて何かしなきゃいけない。
彩葉の危機なんだ。早く行動を起こさないと、手遅れになってしまう。
それなのに、こうして当人に頼ってしまう辺り、いつだってわたしは情けなさばかりが一人前で、何もできない馬鹿な小娘だと思い知らされる。
視界が滲んで、頬をつたった涙すらも汚らわしく思えてしまう。
これでは、海に行ったあの日と同じだ。
「誰か、助けて……」
ぽたぽたと、こぼれた雫が赤い花へと落ちる。
『落ち着いて、かぐや』
無意識に助けを求めたその時、ここに居るはずのない人の声が聞こえた。
「この声……ヤチヨ?」
涙をぬぐって顔を上げると、そこにはヤチヨが居たんだ。幽霊みたいに僅かに浮遊していて、体も半透明だけど、幻覚なんかじゃない。
「なんで……ヤチヨが、ここに……?」
彼女は電子の存在だ。本来なら、現実に出てくることはできない。だが、事実としてここに居る。かぐやの助けを求める声に応えて、駆け付けてくれた。
『話は後。今は彩葉を助けなきゃ』
言われてハッとする。
夢見心地のような状態から我に返ると、地獄絵図のような現実を突きつけられる。
「そうだ……彩葉、血……出て、動かなくて……」
上手く説明できないわたしの手を、ヤチヨは安心させるように握ってくれる。
『不安だよね。ゆっくりでいいから、一度深呼吸して。彩葉は絶対に、かぐやを置いて居なくなったりしない』
感触はない。温度も、匂いも、何もないけれど、傍に彼女が居るというだけで、さっきまでのせん妄状態が嘘のように心が落ち着いた。
『救急車はもう呼んでおいたから、すぐに来てくれるよ。かぐやの役目は、助けが来た時に、ちゃんとその人達を彩葉の所へ案内すること。……分かった?』
「……うん」
ヤチヨの言葉は、とても頼もしかった。
こうして現実に体があるかぐやよりも、電子の檻から言葉を伝えることしかできないヤチヨの方が、よっぽど多くの事ができている。
こうして傍に居て、言葉を交わしてくれることが、何よりもかぐやを安心させてくれるのに、同時に悔しい気持ちもあって……
――ヤチヨは、すごいね。それに比べてかぐやは、なんにもできてないや……
わたしならなんでもできるって、そう信じられている内はいい。
歌って踊って、彩葉とも、ヤチヨとも、心を繋げて舞い上がって、全能感に包まれている間は無敵だった。
それが、今はどうだろう。
ヤチヨは、彩葉を助ける為に最善の働きをしているのに、傍に居るかぐやは混乱して右往左往とするばかり。
何でもできるはずのかぐやは何も出来なくて、何もできないはずのヤチヨには、多くの事ができている。
それは、無力である事よりも、もっと酷い。
しばらくして、マンションの下に救急車が到着した。
今度こそはって、そう思っても、どうにも上手くいかない。
結局は、救急隊員の人達を先導する時も、ヤチヨの言葉を聞きながらしどろもどろに説明するばかりだった。
付き添い人として救急車に乗り込んで、けたたましいサイレンの中で揺られながら、生きた心地のしない時間を過ごす。
怖い、怖い、怖い。
考えれば考えるほど、最悪の結果が頭に浮かんでくる。
ヤチヨはずっと、わたしの傍について励ましてくれているけど、その言葉もまともに聞き取れやしないくらいに、心は限界ギリギリだった。
彩葉はずっと眠っている。かぐやがどれだけ泣いていても、目を覚ましてくれない。
かぐやにとって、彩葉はいつだってヒーローだった。
わたしが弱っていたり、助けを求めた時、彩葉は決して放っておかなかった。弱々しい体でも芯の通った強い心で、かぐやを包んであっためてくれた。
そんな彩葉が危機的状況に陥った時、かぐやがなにか出来た試しがあっただろうか。
発作で苦しんでいる姿を見かけても、手を差し伸べることすらできない。
隠れて泣いて、踏み込むべきあと一歩を先送りにし続けた結果が、さっきの無力なわたしだ。
不動産屋の前で倒れた時だって、彩葉の願いを聞いて、家に連れ帰って看病したと言えば聞こえはいいが、元はと言えば、かぐやが考えなしに彩葉を外へ連れ出したのが原因だ。
あれもこれも、全てにおいて、彩葉の苦しみの原因が自分にあるかのように思えてくる。
もうなにもかも滅茶苦茶だ。
わたしは、ただ、わたしは…………
治療室の前で、うなだれる。
彩葉がここに運び込まれて、処置が始まってからどれくらい経っただろうか。
気を紛らわすように、断片的に、救急隊員の人が言っていたことを反芻する。
床を流れていた血は、彩葉が倒れた時に、机なんかで頭を打って額を切ってしまった為のものらしく、怪我自体は軽度であったこと。
しかし、やはり容態は芳しくなく、無理やり発作を我慢したせいで、危険な状態になっているという。
かぐやがどれだけ頑張っても、彩葉を治すことはできない。
こうして病院の廊下で「お願いします」「彩葉を助けて」と、祈ることしかできない。
「お願い……お願いだよぉ……戻って来て、彩葉」
――なんで、こんなことになったのかな。
かぐやはただ、彩葉に喜んでほしかっただけなんだ。
彩葉はヤチヨが好きだから、コラボライブなんて絶対に喜ぶはずで、それをプレゼントできたなら、今度こそ彼女は心の底から笑ってくれる。
いつもの湿っぽい笑みじゃなくて、幼子みたいな無垢な笑みを。
結果は大成功。彩葉は、これまでで一番楽しそうに、笑っていたんだ。
本当に、嫉妬しちゃうくらい、幸せそうだったんだ。
それなのに、こんなのってないよ。
楽しい思い出で終わらせてよ。
『かぐや……』
ヤチヨは、わたしと、治療室の扉を交互に見て、ずっとあっちへこっちへと足を動かしている。
「うっ……うぁ……あぁ……」
涙が、あふれて止まらなくなる。
心臓をぎゅっと握られたみたいな息の詰まる苦しみが、ずっと続いている。
「かぐやちゃん!」
そこで、聞き覚えのある男の声が聞こえた。
見ると、いつ来たのか、そこには彩葉の兄である朝日が居た。
「朝日……?」
「ヤチヨちゃんから連絡があってすっ飛んできた。彩葉は?」
その問いに、わたしはそっと治療室を示唆した。
すると、朝日も察した様子で「そうか……」と言葉をこぼし、私の隣りに座った。
一時間か、二時間か、或いはもっとか、幾何かの刻を経て、ようやく治療室のランプが消える。
扉が開いて、医者が出てくる。
「っ、先生!彩葉は!?」
わたしは飛びつく様な勢いで捲くし立てた。
医者は冷静な様子で、慌てることなくやんわりとわたしを宥めると口を開いた。
「危険な状態でしたが、幸いなことに、命に別状はありません。今はまだ眠っていますが、時期に目を覚ますでしょう」
―――命に別状はない。
その言葉を聞いて、全身の力が抜けていくのを感じた。無意識に張っていた気が解けて、その場にへたり込んでしまう。
「よかった……彩葉……生きてる……」
本当に、良かった。
彩葉が生きている。
「……今後の処置についてご説明したいのですが、ご家族の方は……」
「俺です」
朝日が前に出て、医者との話しに対応してくれる。
その間に気持ちを落ち着かせ、しばらくしてからわたしはようやく立ち上がる事ができた。
そうする頃には、朝日も粗方話が終わったのか、こちらへ向き直っていた。
「かぐやちゃん、少しいいか?」
「……なに?」
なんとか返答できる程度。
それでも、さっきまでと比べたら大分マシな精神状態なのは確かで、今なら朝日の顔も見れるし話もちゃんと聞ける。
「先生が言うには、彩葉は入院することになるらしい。数日の検査入院だけどな。それで、色々と、必要な物を家から持ってきて欲しいんだ。ほら……俺が行くわけにも行かないだろ?鍵も持ってねえし……」
色々と濁して言葉にしているが、言わんとしていることは分かった。
確かに、数日入院することになるなら、着替えとか、それこそスマホやノートPCにスマコンなど、必要なものは山ほどある。
それなら、かぐやは持ってくるしかない。
「わかった。とりあえず、いりそうなものを片っ端から持ってくるね」
「助かる。あと………いや、これはまだいいか」
そこで、朝日がなにか言いかけてやめた。
続く内容が気になったけど、途中でやめたって事は少なくとも前向きな話ではないだろう。仮に追及した所で、今のわたしにそれを受け止められるほどの余裕はない。
だから、気になりつつも、聞かなかったことにする。
「とにかく、そっちは頼んだ。俺は彩葉に付き添ってるから」
「うん」
本当は、片刻だって彩葉の傍を離れたくない。
だけど、ここまで何もできなかった罪悪感もあって、かぐやがなにか役に立てるなら、ちゃんと動きたかった。
それと、これは情けない話だけど、まだ、眠ったままの彩葉と会うだけの勇気が、わたしにはなかった。
それだけ、あの時の光景は、わたしにとって衝撃的なものだったのだ。
あれはもう、わたしの記憶の中で、明確なトラウマとして刻まれてしまった。忘れることは、きっと一生できないだろう。
一時とはいえ病院を離れることは、一種の防衛本能のようなもので、それも自分では分かっているからこそ、感情の板挟みで気持ち悪くなる。
ぐちゃぐちゃにかき乱された心を抱えながら、わたしはただ、ずっと隣りに居てくれるヤチヨに少しばかり甘えた。
✧・゚: *✧・゚:*
タクシーを使って、家まで帰ってきた。
しんと静まり返った玄関口から、リビングにかけての廊下を歩き、吹き抜けの二階へと昇れば、わたしの部屋と彩葉の部屋がある。
彩葉の荷物を取りに来たのだから、彼女の部屋にいかなければならない。
しかし、それを戸惑わせる理由があった。
『かぐや、本当に大丈夫?』
「……だと、思う」
自信は、あまりなかった。
震える手で雑巾とバケツを持ち、意を決して扉を開く。
すると、そこにはやはりまだ乾ききっていない血だまりがあった。そう、これがあると分かっていたから、わたしはこの部屋に入るのを躊躇していたのだ。
床に広がっている赤を前にすると、あの時の光景がフラッシュバックする。
こみあげてくる物をぐっと抑えて、パンッと足をひっぱたいて、前に動かす。
「大丈夫……大丈夫……」
言い聞かせるように何度も言葉にしながら、必死に床を拭く。
『かぐや……』
「大丈夫……」
ずっと、こすってこすって、痕跡一つ残らないくらい。
『もういいよ』
「だいじょうぶ……」
少しでも残っていたら、また思い出してしまう。
この部屋は、かぐやと彩葉にとって大切な居場所で、マイナスなものなんて一つもあって欲しくない。
『かぐや!!』
「っ……」
ヤチヨの大声が耳に入り、ぎょっとして彼女の方に視線を向けた。
一体何度わたしの名前を呼んだのか、触れられないと分かっていながら、その手をわたしの肩にそえて、泣きそうな顔でわたしを見ていた。
『かぐや。落ち着いて、ちゃんと手元を見て。もう綺麗になってるから』
「あっ……そ、っか……」
ヤチヨの言葉通り、そこには染み一つない。ピカピカだ。そこに痛ましい血だまりがあったなんて、想像もつかない。
そもそも、大惨事と呼べるほどの出血量でもなかったのだ。
血だまりなんて大袈裟に表現したけど、実際には大匙一杯か二杯程度で、パニックになったかぐやにはそういう風に見えたというだけ。
「……はぁ……」
息をついて、雑巾をバケツに投げいれる。
壁に背をもたれさせると、膝をかかえてそこに顔を埋める。心も体も、なにもかもが、疲れ果てていた。
目はしょぼって、四肢も体も全部が億劫に苛まれる。
きっと今のわたしの顔は、やつれ切ったものになっているに違いない。
外から雨の音がする。そう言えば今日は雨だったな。
サーっと降りしきる音が、静かな部屋の中でわたしの息遣いと一緒に奏でるのは、哀想のエピソード。
あのまま、何事もなくライブが終わってたら、わたしは今頃、彩葉と一緒にパンケーキでも食べていたのかな。
そう言えば、リビングの机の上に、材料が置いてあったっけ。彩葉のことだから、わたしがパンケーキを食べたいって言いだすことまで見越していたのかな。
でも、どうしてか、ここに居るのは、かぐやだけだ。
部屋の中に幻が浮かび上がる。それらは、叶わなかった未来予想図だ。
幸せそうだな。今日のライブ最高だったねって、またやりたいねって、そう言いながらジュースを飲んでパンケーキに舌鼓を打つ。
幸せの絶頂を迎えることができたに違いない。
やっとかぐやの目標が叶って、彩葉に届けることができたこの日、もしかしたら『新たな一歩』を踏み出せたかもしれない。
全部、壊れちゃった。
どうしよ。
どう、しよ……
「……ねえ、ヤチヨ」
行き場のない想いは、傍に居る少女へと向いた。
『なに?かぐや』
やっと口を開いたわたしに、ヤチヨは優しい声で返答してくれた。
ここまで、彩葉のことを心配しながら、わたしのことも気にかけてくれた、かぐやには勿体ないくらい素敵な友達。
そんな彼女の優しさすら、自己嫌悪の材料にしてしまいそうになる自分自身を、心の中で自嘲する。
言おうか言うまいか、今わたしが言おうとしていることは、そういう意味のない自白に過ぎない。
それでも、
「かぐやは、ね?彩葉に、喜んで、欲しかったんだ……」
胸に留まったものを抑えていることは、今のわたしにはできなかった。
「彩葉はさ、ヤチヨのこと、めっちゃ好きなんだ。かぐやと一緒に居ても、不意にヤチヨの話をしちゃうくらい、大好きなんだ」
ヤチヨについて語る時、嫉妬しちゃうくらいに熱い愛情が、言葉にこもっていたのを覚えている。
そこにわたしが居れたらって、何度思ったか分からない。
けれど、実際に本人と話してみると、彩葉が虜になっちゃうのも仕方がないくらい良い子で、その瞬間、かぐやじゃダメなんだって思い知らされた。
「だから、そんなヤチヨとコラボライブができたら、彩葉ぜったいに喜んでくれるって、そう思って……」
天才的な案だと自画自賛した。
これなら彩葉に恩を返せる。なにより、彩葉の”心からの笑顔”が見れると、そう信じていた。
その試み自体は成功した。彩葉は、これまでにないくらい輝かしい晴れ晴れとした笑顔を見せてくれた。
あの瞬間を、かぐやは決して忘れない。
――けど、その結果は……?
「バカだよね。それで、彩葉がこんなことになって………わたし、ずっとそうなんだ。ちょっと器用なだけで調子に乗って、肝心なところで何もできない」
『かぐや、それは違うよ』
ヤチヨが否定してくれるけど、何を言われたって納得できないくらい、かぐやは自分が悪者にしか見えなかった。
「違くない。かぐやが彩葉を巻き込まなかったら、こんな事にはならなかった。それか、わたしにもっと勇気があれば、彩葉の抱えている問題とも向き合えた。少なくとも、こんなことにはならなかった!」
嫌いだ。
きらい、きらい、きらい、きらい、きらい、きらい、きらい、きらい。
こんなわたし、大嫌いだ。居なくなっちゃえばいいんだ。
「わたしなんて、居なければ……」
決して言ってはいけないことを言おうとした、その時だった。
『ふざけないで』
低い声がこだまする。
一瞬、誰が発したものなのか分からなかった。だって、ヤチヨのそんな、少しも笑っていないような声を聞くのは初めてだったから。
「っ…………」
優しさを消した真剣な顔つきで、ヤチヨの目がわたしを射貫く。彼女は、怒っていた。分かりづらいけど確実に、彼女は怒っていた。
けれどそれは、憤りというよりは、悲しみのあまり漏れ出た、感情の雫のように感じられて。
『かぐや、さっきからずっとそう。結果ばかり見て、かぐやが彩葉にしてくれたことを、全部無視してる』
すずらんのような君が、流麗な楽器のような声が、今この時だけはまるで特別な要素なんてひとつもない『誰か』みたいに思えた。
気高さも、凛々しさも、美しさもない。
普遍的でありながら、そうじゃないちぐはぐさもあって、言い表すと『不器用』で『不格好』。
でもなんでかな、だからこそ無視できない。
『ふざけないでよ。かぐやが、どれだけ多くの希望を、あの子に与えたと思ってるの?』
「そん、なの……」
月見ヤチヨとしてではなく、かぐやの友達として、彼女はわたしに言ってくれている。
『私には……無理だった。彩葉の世界に、色を取り戻してあげることは、できなかった……』
拳をぎゅっと握って、昔日の後悔を吐露するヤチヨは、まるでさっきまでのわたしだ。
思えば、かぐやはヤチヨと彩葉の繋がりってやつを何も知らない。
過去にどういう経緯があって、彩葉がヤチヨをあそこまで推すようになったのか、それすらも知らないのだ。
ヤチヨの言葉からして、何かしらの関わりはあったんだろうけど、それも推測の域を出ない。
だから、ヤチヨが胸の奥で抱いているものも分かるはずがなくて、だとしたら私が吐いた毒が、彼女の心に刻んだ痛みは、どれほどの……
『みんな、かぐやに感謝してるの。あなたと出会ってから、彩葉はよく笑うようになった。沢山話すようになった。一つひとつは小さな変化でも、関わっている人達の喜びは、決して小さくない』
そう、かぐやは、かぐやと出会う前の彩葉を知らない。
けれど、当然ながら彼女の周囲の人達は、彩葉がどんな人生を歩んできたのかを大なり小なり見ている。
『お願いだから……私達の恩人を、貶めるようなことを……居なきゃよかったなんて、言わないで』
ヤチヨが、そっと抱きしめてくれる。
あったかいな。
物理的な温度じゃない。心にすっと染み渡ってくる、不思議な感覚だ。
「……ごめんね。ヤチヨ」
まだ全てを受け止められたわけじゃない。されど、伝わってきたものはある。
自己への嫌悪がそう簡単に消えることはないし、自分のしてきた事を『良かった』と言うにはまだまだ遠い。
でも、一つだけ分かった。
自分を憐み、蔑めば、わたしだけでなく、わたしに感謝し、心を許してくれた相手まで一緒に傷つけてしまうということ。
その感覚は、何となくわかる。
だって、彩葉が同じように自分を貶めるようなことを言っていたら、かぐやもとても悲しい気持ちになるから。
「っ……ほんとうに、ごめん……ね」
嗚呼、本当に良い子だな。
わたしにとって親友と呼べる誰かが居るとするなら、それはきっとヤチヨのことだ。彩葉とは違った形で思いやり、違った形で心を許せる。
だってわたし、この子の為なら泣いていいって思えるもん。
■
ヤチヨの言葉のお陰で、どうにか心の落としどころを見つけられたわたしは、当初の目的通り彩葉の荷物を回収して再び病院に戻っていた。
「そう言えばさ。ヤチヨは、なんで現実に出てこれてんの?」
道中、タクシーの中で気になっていた事をヤチヨに聞いた。
『スマコンのAR機能だよ。かぐや、ライブの後からずっと付けたままでしょ?』
「あっ、確かに……」
つまりは、実際に出て来てるんじゃなくて、わたしのスマコンを通してそこに居るように見せているといった具合だ。
そして、一つ疑問が解決すると、今度は別のことがまた一つと出てくる。
「そうだ……ライブは?最後、あんなことになっちゃったけど……」
『そっちも大丈夫。ファンの子達には申し訳ないけど、ステージが終わってしばらくした辺りからダミー映像流しといたから』
本当に全部やっている。
あの間に、ヤチヨはどれだけの働きをしていたのか、改めて分かって感嘆してしまう。
救急車を呼んでくれたこともそうだけど、彼女が居なければ、本当にかぐやは全てを失っていたかもしれない。
「……本当に、ありがとね、ヤチヨ。その、色々と、やってくれて……」
『いやいや、こんなの彩葉とかぐやの為だと思えば、どうってことないよ。ヤチヨにとって、一番大事なのは、二人の幸せなんだから』
ふと思う。
ヤチヨは、どうしてここまでしてくれるのかな。
やっぱり、気になりはする。
けどこれは、そう簡単に訊いていい事じゃないんだろうな。
なんとなく分かるんだ。彼女の普段の所作や言葉から、それは彼女の最も柔らかくて、触れ難い聖域なんだと。
これでいい……とは、もう思わない。
かぐやも、そろそろ進む時だと、いい加減自覚した。
漠然と、自らの運命が動いていくのを感じる。それはまるで大きなうねりのようで、何処へ向かって行くのかさえ分からない。