余命数年の私の元に現れたかぐや姫 作:グランドマスター・リア
目を覚ました時、映ったのは知らない天井だったのに、私はそこが何処かすぐに分かった。
病院だ。
綺麗過ぎるベッドの感触に、無機質な色のない世界。ここは全てが灰色だ。それ自体が特徴的であるとすら言える程に、色とりどりな外界とは隔たりがある。
故にこそ、私には一目で分かるのだ。
「……やっちゃった」
体を起こす。
腕に繋がった点滴を一瞥して、ため息をこぼした。
意識的には先程まで最高の時間だったのが一転、えらい変わり様である。
「まさか、抑制剤を飲んでたのに発作が出るなんて……しかもあんなタイミングで……」
本当に、いつも絶望的に間が悪いというか、運命の女神に見放されているというか。
ここが大事、あと少し、今日だけは、そんな風に思った時ほど、この体は私の思惑に反したエラーを吐く。
過ぎた物を得ようとした咎人に罰を与えるが如く、幸福を全て取り上げてしまうんだ。
最も、一番罪深いのは、そんな人生に慣れてしまった自分自身だろうけど。
「あの後、どうなったんだろ……かぐやは無事なのかな」
なにしろ、自分は眠っていたものだから、意識を失った後に何があったのかなんて知りようがない。
知らないという事は、不安の原因になる。
特に、大切な人の安否にかかわる事なら尚更で、気が気でないという表現はまさにこの時の為にあるのだろう。
「かぐや……ヤチヨ……」
思い浮かべるのは、やはりあの二人のことばかりだ。
一歩間違えたら死んでいたかもしれないのに、そんなの少しも気にしていないとでも言いたげに、誰かの心配ばかりしている。
私はいつから、そんな人間になったのだろう。
自分も他人も、この病気のせいで悲しい思いばかりするのなら、誰にも知られたくないと、そういう道を選んだはずなのに……
コラボライブの時、圧倒的な光の中で、大切なあの子の姿に何度魅せられただろう。
発作が出た時、無理をしたら死ぬかもって分かっていたのに、それでも私は決して引いたりしなかった。
自分の命よりも、かぐやを優先した。そうできた自分が、実はちょっぴり誇らしい。
そこまで大切であるからこそ、この灰色の世界では一層、彼女の色を求めてしまう。
「会いたいな……」
ぽつりと、誰も居ない病室で独り呟いた。
枯れ葉のような言葉だ。
窓の外の曇り空へと消えていく、儚い言の葉に過ぎない。
こんな小さな声では、誰にも届くはずがない。事実として、私の人生はずっとそうだった。
か細い悲鳴が、数多の喧騒に何度も掻き消され、諦めの境地に至る。
今回もそうだろうって、苦笑した。していた。
それなのに……
「……彩葉?」
――なんで、あなたはいつもそこに居てくれるのかな。
視線を向けると、病室の入り口に彼女は立っていた。
可愛いデザインのマイ手提げ袋を持ったかぐやは、目を見開いて私を見ている。
「かぐ……」
バサリと音を立てて手提げ袋が床に落ちる。
名前を呼ぶことすらできないくらいの勢いで、かぐやは私の所まで駆け寄って来て、華奢な腕と小さな体を目いっぱい使って、私を包み込んでくれた。
「おっと……もう、いきなり抱き着いてくると危ないでしょ。それとも、そんなに心配してくれたの?」
「うん……うん。心配した。彩葉、死んじゃうんじゃないかって、怖くて……お医者さんは、大丈夫だって、言ってたけど……どれだけ待っても、全然、目を覚ましてくれなくて……」
私の肩に顔を埋めて、嗚咽交じりにそう言うかぐや。
その言葉で、それなりに長い間眠り呆けていたことを察する。
「ごめん。もっと早く起きて、かぐやの事を安心させてあげられたら良かったんだけど……」
何日か、コラボライブから日にちを跨いでいるのは間違いない。
本当に、そういう所で上手くいかない体だと辟易しつつも、客観的な視点で通した無理を鑑みれば、この結果はむしろ幸運と言える。
かぐやが言った通り、そのまま目を覚まさなくなる事だって有り得た。
こうして彼女と話せていること、それだけで、今は良しとしておくべきだろう。
「えっと、何日くらい寝てた?」
「……三日……」
そして、肝心な眠っていた期間は予想より少し長い。
一週間とかじゃなかっただけマシではあるが、そりゃずっと看病してくれてたであろうかぐやからすれば不安にもなるだろう。
「そうだ。ナースコール押さなきゃ!」
そう言って、慌てて呼び出しボタンを押すかぐやを見て微笑する。
私の中にあった心配が解消されて、ひとまず安心できたからだ。
今ここに彼女が居て、こうして話せていること、それこそがあの場をどうにか切り抜けられたことを意味している。
これなら、無理をした甲斐もあったかな。
それからしばらくして、見知った主治医の先生がやってきた。病状や、検査入院に関する説明をするのだろう。
余命や病気に関する話も当然出るので、かぐやには悪いけど外に出ていてもらって、なるべく早く終わらせるべく、話を進める。
「気分はどうですか?」
「まあ、それほど悪くは……」
苦笑いを浮かべる。
こんな濁した言い方をしたのも、最近は体調が良い日の方が珍しいから、ちょっと体が怠い程度ではどうとも言えないのだ。
「そうですか……では、まず診断結果の方からお伝えしますね。今回酒寄さんが倒れたのは、VR空間におけるライブパフォーマンスによって起きた極度の緊張と興奮。これに付随した、心拍数の増加や急激な体温の上昇が主な原因と考えられます」
「はあ……なるほど」
先生の説明に、私は相槌を打つ。
VR空間に潜っている間、現実の体はずっと寝ているか座っている。だから、向こうでどれだけ激しい運動をしても現実の体が疲れる事は無い。
しかし、仮想空間ツクヨミはそのリアリティが故に、通常のVRを遥かに超えた、多種多様な刺激を脳に与える。
「でも、本当にそれくらいの事で、発作まで起きるものなんですか?抑制剤だって飲んでいたのに……」
「信じ難いことですが……VR空間で感じた疲労が、ほぼ直接体にフィードバックされた……のではないかと、私は考えています」
フィードバック。
要するに、仮想空間で感じた疲れがそのまま現実の体にも影響を及ぼしたって事だ。
「体が疲れを感じるのは、脳がそういう指令を体全体に送っているからとされています。ですから、脳がそうと認識、或いは錯覚すれば、例え指一本動かしていなくても、全力疾走した時のような疲労感を感じる事も理論上はあり得るんです」
難しい話になってきたな。
だが、理解できなくはない。確かに、KASSENなんかでもめちゃくちゃ集中して試合をした後なんかは、息が切れるくらいへとへとになることだってある。
その限界版という感じなら、想像もしやすい。
「抑制剤も完璧ではありませんから……例え効力が続いていても、無理をすれば今回のような事になる場合もあります」
「そう、ですよね……」
無論、普通はそんなことにはならないのだろう。
だって、仮想空間はよくできてはいても”偽物”だからだ。
仮想空間が私達に与える情報量と、現実のそれには大きな差がある。どれだけ精巧なグラフィックであろうと、所詮はポリゴンで固められたハリボテ、数字の羅列でしかない。
この”差”こそが、仮想空間を偽物だと脳が認識する最たる要因だ。
矢で射られようと、剣で斬られようと、偽物である以上はちょっとリアルな映画に過ぎない。娯楽の範囲におさまる興奮でしかないわけだ。
本物の刺激じゃないのなら、本当に疲れる、なんてことも起こるはずがない。
その壁を越える可能性があるとしたら、やはり『あのルーティン』だろう。
アバターと自身を一心同体にし、普段より格段にのめり込むあの儀式。
荒唐無稽な話だが、あの瞬間、私はアバターへと憑依するのだ。
初めて、あれを二回やった。
これが直接的な原因と見て間違いない。
加えて、あのライブで感じていた情感は、これまでにない凄まじいものだった。更には、その後襲来した謎の白い人型との戦闘。
さっき先生が言った通り、抑制剤は抑える薬であって、体力増強剤でも、病気を無力化する魔法の薬でもない。
こうなるのは、最初から自明の理だったということだ。
「処置が早かったこともあり、何とか事なきを得ましたが……今後も無理は禁物ですよ」
「はい。わかりました」
話の流れ的にこんなところだろうか。
後は、入院する日数とか、諸々の手続きが主になるかな。
心の中でそう思いながら、先生の次の言葉を待つ。しかし、出てきたのは私の予想に反するものだった。
「それと、これが最も重要な話になるのですが……」
「ん?まだ、なにか?」
最も重要だなんて、物々しい単語を使った先生の顔を見て、私は冷たいものが背筋を撫でるのを感じた。
この展開は、似ている。
三年前、病院で余命宣告を受けた時と同じ雰囲気だ。
「落ち着いて、聞いてくださいね?これから私は、あなたに残酷なことを言います」
――ああ、これ、多分そういうことだな。
なんとなく、言われるであろう内容を察して、息を吐く。心は凪いでいた。さざめきも揺らぎもない、ただ訪れた運命を受け入れる恰好。
「当初の診察では、来年の夏ごろ、とされていましたが……今年いっぱいが、山場かもしれません」
来るべき時は、どうやら私の予想よりもずっと早く来るらしい。
✧・゚: *✧・゚:*
再び余命宣告から翌日。
喚いても、嘆いても、決まっていることが変わる訳じゃない。
もはや座右の銘となりつつある私の常套句だけど、いざ残り時間を提示されると、漠然とした寂しさのようなものを感じてしまう。
もう九月だ。
てことは、あと三ヶ月しかない。
――そっか、私、あと三ヶ月しか生きられないんだ。
甘い希望は抱かない。
結果がどうであれ、巡り合わせがどうであれ、私がかぐやの傍に居られる時間は、たったそれだけなんだ。
これから、どうしていこう。
本当なら、来年の夏までに緩やかに彼女を自立させて、距離を離していく予定だった。
それが半年以上繰り上がったばかりか、これっぽっちの残り時間で、一体何ができるというのだろう。
それでも、何も残せず別れるのだけは嫌だ。
死から逃げようとは思わない。けれど、死を待つだけの生き方はもうしないって、決めたんだ。
私が、かぐやに残せるものってなんだろう。
お金?家?それとも、スマコンとかPCとかの道具?
どれも違う。これらは、かぐやがその気になれば自分で買ったり手に入れたりできる物だ。
私だけにしか作れなくて、かぐやが好きだって言ってくれたもの。
―――あった。一つだけ。
「そうだ……曲を、作ろう」
かぐやはいつも、どんな曲を歌う時よりも、私の作った曲を歌う時が、一番楽しそうだった。疑いようのない純粋なかんばせで、彼女が言ってくれるのだ。
私の作った曲が大好きだって、だから私の曲が良いんだって。
「どうせなら、0から作る?いや……」
ノートPCをベッド上の台に置いて、電源を付ける。
フォルダを開き、その最下層へと至れば、そこにはあの『共作』が静かに佇んでいる。
「これにしよう。かぐやが素敵だって言ってくれた、この曲に……」
続きが聴きたいと、彼女はそう言って残念そうに肩を落としていた。
きっとこの曲を完成させれば、かぐやはとても喜んでくれるだろう。実際に歌って楽曲として配信すれば、彼女の財産にもなる。
「お父さん。もう一度だけ、私に力を貸して」
指を走らせる。
キーボードが手元にないのが歯がゆいが、仕上げは退院して家に帰ってからやればいい。今はとにかく、構想を練る。
「いろはー、かぐやが来たよー!って、およ?」
程なくして、かぐやが病室に入ってきた。
お見舞い開始時間ほぼピッタリに来てくれる辺り、私って本当に愛されてる。
「彩葉がパソコンでなんかしてる。なになに?なにしてんの?」
ぴょんぴょん跳ねるように寄って来て、横からPCの画面をのぞき込むかぐやに、私はありのまま答える。
「曲を作ってるの。あんたの新曲。この前、一緒に聞いた作りかけの音源があったでしょ?あれの続き」
「え、本当に?あれの続き、かぐやの為に作ってくれてるの!?」
「うん。寝てばっかも退屈だし、それなら少しでも、私のやれることをしたいから」
あなたがこれから先の未来を、幸せいっぱいに生きていけるように、私はこのロウソクの火のようにか細い残りの命を全て使う。
思い出が、過去が、あなたを温めてくれるようにって、願いを込めて作る。
「や、やったーー!かぐや、とっても嬉しい!歌うの楽しみしてるね!」
かぐやにそう言ってもらえるだけで、何倍もの力が湧いてくる。
「気が早いことで……まあ、期待しないで待っててよ」
これは案外上手くいきそうだと、胸の奥から自信が湧いてきて、これだけは必ず最高の出来にしようと決意を固める。
「じゃあさじゃあさ、かぐやにもなんかできる事ある?自分で歌う曲なんだし、どうせなら協力したい!」
当然、そこで待っているだけの彼女じゃない。
一人より二人、どんな時だって一緒がいいと望んでくれるのが、かぐやの愛らしいところなんだ。
「そう?うーん……あっ、それなら、家から五線譜持ってきてくれない?」
こうなったかぐやは、何かやらせてもらえないと拗ねる。
それに、今手元にキーボードがない分、メモ用紙的な役割として五線譜があるとなにかと便利だ。
「五線譜って、あの音符とか書いてる紙のこと?」
「それ。白紙のやつが、私のデスクの横にある棚の引き出しに入ってると思うから、筆記用具とかと一緒に持ってきてくれたら助かるかな」
「りょーかい!かぐや、全速力で行ってくるね!ついでにぬいぐるみとかも持ってきちゃうから!」
「いやなんでそこでぬいぐるみが出てくるの……って、もう居ないし……」
思い立ったら吉実の化身のような子だ。
またの名を昼下がりのそよ風。春のうららかな嵐。色とりどりのエトセトラ。
流れる髪の流麗さもさることながら、快活でありながら品のある美しい笑みは、万人の心を掴んで離さない。
そんな後ろ姿を、いつまで追いかけられるのかな。
手を握って歩いていられるのは、あとどれくらいなのだろう。
「ふぅ……さてと、私もやるか」
とりとめもない思考を吐息ひとつで頭の片隅においやって、作曲の続きをする。
これは私にとって、最後になるであろう作品だ。それも、この世で一番大切な人に贈るプレゼントなんだ。
これはそう、私の想いそのもの。
ねえ、いつかの私。
私にも大切な人ができたんだ。
別れたくない人。ずっと一緒に居たい人。私を好きだと言ってくれた人。
ただ死を待つだけの、空っぽだった私が、気が付けばあまりにも多くの物を貰い、こうして生きている。
それをくれた彼女が、いつまでも健やかであって欲しい。
かぐやの姿を見るたびに、私は思うんだ。
――あと何回、あなたと晴れた空を見られるのかな。
――あと何回、あなたの笑顔を見られるのかな。
ここにはない情景を思い浮かべながら、音を操り、未完成のコードを彩で満たしていく。
過去の思い出だけじゃない。今の私の色と、未来へのメッセージを込めたい。それが届いた時、私は、ずっとかぐやと……
□
病院から家までの距離はそれなりにある。
バスに乗る関係上、出戻りするとなるとそれなりに時間を食う事になるけど、わたしはと言うと、舞い上がりそうなくらいのルンルン気分で家路を辿っていた。
彩葉が新曲を作ってくれる。
しかもあの作りかけだった曲の続きだ。
ノートPCを弄っていた時、偶然見つけた音源。一度聞いた時、ビビッと来たのを覚えている。
素敵だな。これを歌ってみたい。
感じたまま衝動的に、彩葉の部屋に突撃して続きはどこかと尋ねてみたら、彼女は「もう作れそうにない」って言って笑ったのだ。
そう語る彩葉の顔は、深い哀愁に満ちていた。
まるで、大切にしていたお守りをどこかに置いてきてしまったような、諦めと後悔の織り交ざった表情。
残念だとは思ったけど、直感で、これ以上は聞くべきじゃないって感じたから、その場ではすぐに引き下がった。
けれど、それが一転。
今日病室にお見舞いに行ったら、彩葉がノートPCでなにかしていて、なんとかぐやの為に曲を作っていたって言うんだ。
その曲もあの素敵なやつ。
作れないって言ってた時の彩葉のことを、かぐやは見ていた。だから、分かるんだ。生半可な気持ちで、踏み出せる一歩じゃないって。
『曲を作ってるの。あんたの新曲。この前、一緒に聞いた作りかけの音源があったでしょ?あれの続き』
こんなこと言われたらさ。
泣きそうにもなるよ。そりゃ……
ライブの後に倒れて、入院することになっても、彩葉は少しもそれを悲観していなかった。
それどころか、かぐやの為に新曲を作ってくれようとしてる。彩葉はどこまで行ってもわたしのヒーローで、いつだってわたしの光になってくれるんだ。
「彩葉の新曲っ!彩葉の新曲っ!かっぐやの新曲ぅ~、ふふっ」
自己嫌悪とか、上手くいかない現実に、地の底まで落ちていた気分が、彩葉の言葉一つで晴れわたっていく。
鍵を回して、静まり返った家に帰るのも、寂しいと言えば嘘になるけど苦ではない。
だって、あと二日もすれば彩葉がこの家に帰ってくるから。
なんでもない幸せな日々をまた送れるんだ。だったらそれでいいじゃん。
そりゃ、コラボライブで襲ってきた連中とか、彩葉が隠してることとか、色々と考えるべきことはあるけど、彩葉さえ居てくれるなら、かぐやはなんだってやれる。
「かわいいぬいぐるみをカバン一杯に詰め込んで~、あとは五線譜と筆記用具だったよね」
自分の部屋で選りすぐりのフカフカをカバンに入れて、後は彩葉の部屋に目的の物を取りに行く。
引っ越したばかりなのもあって、まだあまり物が置かれていない、女の子にしては飾り気のない部屋。
「この部屋って、こんなに広かったっけ?いつもは全然気にならないのに……彩葉が居ないと、やっぱり寂しく感じちゃうよ……」
この一部屋だけで、あのアパートのワンルームよりも広いということを、こうして一人で立つとより明確に感じ取れてしまう。
写真とかを飾れば、少しは変わるのかな。可愛い物を置いておけば、居るだけで気分が上がるかも。
そうだ、どうせならもっと賑やかにしたい。
彩葉が帰ってきたら、一緒に色々と小道具とか買って、飾り付けでもしよう。
そうやって、この場所を、これまで以上に色鮮やかにしていくんだ。
物に染みついた古い傷のように、風化していくうちに愛着が哀愁へと変わるように、この場所をかぐやと彩葉の一生の宝物にしていこう。
「……さてと、彩葉が首を長くして待ってるだろうし、早く探しちゃお」
幸せな未来予想図を胸の中にそっとしまう。
大切に収納して鍵を掛けたら、再び部屋を見回す。畳まれた布団に、デスクと本棚、その隣に彩葉が言っていたチェストがある。
「引き出しにあるって言ってたけど、どの段かは聞いてないな……まあいっか、全部開けちゃえば見つかるっしょ」
取っ手に指をひっかけて、五段あるうちの一番上の段を引き出す。
そこには過去のテストの答案とか、プリントとか、学校関連の物が入っていた。興味深くはあるけど、これじゃない。
二段目。
おっと、ここには意外にもヤチヨやわたしのグッズが仕切りつきで整理整頓されている。アクスタ、キーホルダー、缶バッチなど小さい物が殆どだ。
「え?こんなグッズ出してたっけ?うわ、これとか一番最初のやつじゃん!」
そこには、かぐやが把握していない『かぐやのグッズ』まである。
どれも包装のビニールパッケージすら外さず、大切に保管されている。
しまわれ方も全然乱雑じゃなくて、彼女が実際にこれらを手に取り、ここに入れていく情景の一つひとつが目に浮かぶようだ。
ヤチヨのグッズも、かぐやのグッズも
その事実に、胸が熱くなる。
三段目。
ここにはゲーム機のコントローラーとかがあって、驚くべきことにボタンが潰れている物まである。彩葉らしいなぁ。
四段目。
そろそろ終わりだ。
ここでようやく、わたしはお目当ての物を見つける。クリアファイルに入っている白紙の五線譜だ。
「あった!五線譜ってこれのことだよね。あっ、他にも、音楽に関するやつが色々ある」
この段には主に音楽系の資料がまとめられていて、当然その中には彼女の作った楽曲の譜面もあるわけで。
「これ、かぐやの曲の楽譜だ……」
かぐやのオリジナル楽曲の楽譜もあった。
手に取って目を通してみると、上下左右の余白に凄まじい量のメモ書きがされていて、この曲がどれだけの情熱と心血を注いで作られたのか、痛いほどに分かってしまう。
「……こんなに、頑張ってくれてたんだ……」
わたしは、彩葉の曲を、心の底から愛している。
歌う時は全身全霊を込めて、命をかけて歌声にしている自負だってあるよ。
だけど、こうして彼女の努力を目の当たりにすると、やっぱり少しも足りてないなって思うんだ。
彩葉のかけている時間と熱量に、かぐやのそれはまだ見合っていないと、ふとした時に感じる。
その一瞬を
「もっと、ちゃんと歌いたかったな……ボイトレも、ダンスも、歌のレッスンも今よりやって……そしたら……」
――もっと良い歌になった。
もっと感動的な、感情的な音が、皆の胸に届けられた。彩葉の曲を、今よりずっと凄い物として世に出せたかもしれない。
後悔はないけど、悔しさはある。
明確に言えるのは、かけていたものは今より随分違ったという事。目的意識も今ほど明確じゃなかった。
あの頃の自分の中にあったのは、自分が楽しいことをしたいという欲深い本音だ。
彩葉の為に何かしたいって気持ちは最初からあったけど、形も、色も、大きさも今とは比較にならない。
「今度の歌だけは……絶対に、最高のものにしたい」
彩葉が曲を仕上げるまでに、わたしも出来る事をしよう。
発作を我慢したせいで倒れて、一時は危険な状態に陥り、入院まですることになった彩葉があんなに頑張ってるんだ。
わたしがやらなくてどうする。
五線譜をクリアファイルごとカバンへ、筆記用具も忘れずに放り込む。
「うん。頼まれてた物はこれで全部だし、早く彩葉のところに戻ろ……あ」
引き出しを閉じて、さあ頼まれた物は揃ったことだし、さっさと病院に戻ろう。
そう思い立ち上がろうとした時、私の視界にあるものが映った。
「そう言えば、一番下だけ、まだ見てない」
そう、引き出しの最下段。
わたしが唯一開けていない段だ。
「……………」
ここまで来て、最後だけ見ないというのも締まりが悪い。
用もないのに人の収納を覗き見するのは気が引けるけど、好奇心ってやつは大抵の自制心より優先される。
「ちょっとだけ、覗くだけだから……」
そう自分に言い聞かせ、正当化して、手を伸ばす。
なぜこんなにも、その引き出しの中身が気になるのか、自分でも分からない。ただ何となく、そこに何かがあると直感が囁いたのだ。
「ありゃ?なにこれ、鍵付きの箱?」
緊張しながら開くと、そこにあったのは小さな箱だ。
それもダイヤル式のロックがついた、大きさの割には上等そうな箱である。他には何もない。
収納の大きさに対して、中心にこじんまりと置かれている。それは、この部屋にあるどんな物よりも、異質な雰囲気を纏っていた。
例えるなら、そう、物語のキーアイテムが眠っていそうな、とりとめもない予感。
「……何が入ってるんだろ」
手に取ると、とても軽い。片手に収まる。
およそ重みと呼べる感触がなく、中からカサカサという擦れ音がしなければ、何も入っていないと思う所だった。
「気になる。絶対に見ちゃダメだけど、すごく気になる……」
人間、鍵のついた引き出しとか箱があったら、中身は気になるし開けたくなるものだ。
しかし、鍵をかけてるってことは、自分以外の誰かに中身を見られたくないってことでもある。
それも、家に人を招かない彩葉がわざわざこんな箱に入れて鍵をかけてまで隠す理由。そんなの、考えるまでも無く、わたしに見られたくないからに決まってる。
だとしたら、そっとしておくべきだ。
どう考えたって、勝手に見ていいものじゃない。
分かっている。このまま引き出しに戻して、見なかったことにすれば、何も起こらない。
けれど、一度胸の中にできた綻びは、どうもそう簡単には結びなおせそうにはなかった。
―――カチカチ。
制止を促す理性に対して、手先はわたしの本当の意思を反映し、ダイヤルを回す。
ダメ元だ。どうせ開かない。きっと大丈夫。そう思う事で、自分のやっている事の最低さから目を背け、見ないふりをする。
探る事自体が、彩葉の信頼への裏切りである事を、分かっていながら止めることが出来ない。
それでも、このまま開かなければ、自己嫌悪に沈むだけで済んだだろう。
「そうだよ。ヒントもないのに、開く訳ない……だから……えっ?」
そう、開かなければ―――
直感的に合わせた『0712』の数字。そこから、鍵の部分を横にスライドすると、カチャリと音を立てて動いた。
「う、そ……開いちゃった……」
心臓が、バクバクと鼓動する。
緊張で冷たい汗が頬をつたった。
やってはいけないことしてしまった罪悪感と、これから更に罪を重ねるであろうことへの気持ち悪さ。
だが、今更止まることはできない。
生唾を飲み込んで、震える手で箱の蓋に手を添える。
「すぅ………っ!」
意を決して、蓋を開いた。
秘密の箱の中に入っていたのは、一通の白い書簡だった。
一見、箱の仰々しさからすれば、拍子抜けしてしまいそうになる。
「……封筒?なんで、こんなものを……」
白紙であることから、見えているのは裏面だ。
恐らく、表面にこの封筒がどういったものであるのかが書かれているのだろう。けれど、そこに書かれているのは、多分わたしがまだ知っちゃいけないことだ。
嫌な予感がする。
めくれば、恐らくわたしは、何か大きな秘密を知り、後戻りできなくなる。
これが何かは分からないけど、それだけは分かる。
「彩葉……」
わたしの大切な人。
命よりも大事な人。
彼女には、わたしに言っていない秘密がある。
彼女が生きる部屋で、開かずの箱に秘められていた白紙の書面に、じっと視線を落として浅い呼吸を繰り返す。
怖い。
この一歩は、果てしなく重い。じゃあ引き返すの?
こんな事をしておいて、全部なかったことにして、かぐやは彩葉と生きていける?
無理だ。
わたしはもう、彩葉の秘密に触れてしまった。知れるところまで来てしまった。誰よりも切実に愛し、大切にしようと誓った人の秘密なんだ。
知りたいに決まっている。
最低でも、最悪でも、それがわたしなんだ。
わたし……かぐや、なんだ。
「ごめん、彩葉」
届くはずのない謝罪を紡ぎ、わたしは表面にした。
「っ……………………………」
自分が死んでしまったかのような、錯覚を受けた。
心臓が止まったんじゃないかって、思った。
かぐやと記された宛名と、併せて書かれていた文字に、わたしは目を見開き息を詰まらせる。
―――遺言書。
それが、彩葉が必死に隠してきた聖域をあばく、かぐやがこの手で詳らかにした、真相へと至る言葉だった。