余命数年の私の元に現れたかぐや姫 作:グランドマスター・リア
ここから熱入ります
分かり切っていたことだ。
「久しぶりやね、彩葉」
救急搬送されるような自体になれば、当然親にも連絡が行く。
母がここに来るのは当然の事で、何もおかしいことじゃない。私自身、こうなる可能性はずっと頭の中にあった。
「お母さん……」
案の定とでも言うべきか。
結果的にはこうして遅い到着となったが、普通に考えれば、倒れたその日の内にすっ飛んで来ていてもおかしくはなかった。
むしろ、娘の大事ともなればそうあって然るべきだ。
その辺りは、多忙なこの人らしいタイミングとも言える。
まあ、流石の母と言えど、こんな状況になってまで仕事を優先するとは考えにくいし、だとすればタイミング悪く連絡が付くのが遅れたか。
どっちでもいいが、私としては複雑な気分だ。
「…………」
「…………」
重苦しい沈黙。
母は言葉もなくベッドの傍まで来ると、椅子に座る。
私はというと、染み一つないパリッとしたシーツの上に視線を落として、会話のきっかけを探していた。
「……今更、来たんだ。随分と遅い到着だったじゃん。仕事でも忙しかった?」
思い切って口を開けば、自然とそんな言葉が出た。
母はそんな私に対し、ため息をついてこう答えた。
「昨日、病院から連絡があったんや。『親族にはお兄さんの方から連絡する』って聞いてたのに、一向に母親である私がこうへんから、念の為にかけてきたってな」
なるほど、お兄ちゃんが気を利かせて時間を稼いでいてくれたらしい。
それ自体は確かにありがたい配慮だ。実際、目覚めてすぐの状態でこの人の相手をするのはしんどい。
「そう……」
空気は重く、視線は斜め下へ固定されてしまう。
視界に母の顔は映らない。会話こそ成立しているものの、私は母がどんな表情をしているか分からない状態で言葉を吐いている。
その構図はまさしく、あの時と同じだ。
顔を見ていないから、母の言葉は当然なんの前触れもなくやってくる。
「最近は、やりたいこと見つけて生き生きしとるって朝日から聞いとったけど……ちょっとはしゃぎ過ぎなんとちゃうん?仮想空間でのライブに出演してる最中に倒れたって聞いたで?」
お小言。
久方ぶりに、母のそれを聞いて、自分の心が空っぽだった頃を思い出す。
「それは、ライブの後に、色々とトラブルがあったの。抑制剤だって…………」
言いかけて、私はふと思った。
こんなやり取りを続けていて、果たして意味があるのだろうか。
ライブの出演中に倒れたとは言っても、原因はほぼ想定外のトラブルによるものだし、私を含め周囲に落ち度があったとは言い難い。
しかし、母からすればそうではない。
この人の目には、自分の体の事も忘れてはしゃぎまくった結果、倒れた阿呆にでも見えているのだろう。
余命宣告から今日までのあれこれが、そこまで言わせてないだけで、きっと心中ではそう思っている。
私には、説明する義務がある。
その程度のことは分かっているけど、じゃあなんでそれを言う時に顔すら見ないんだって話だ。
「なんや?なんか言いたい事があるんとちゃうの?」
急かす母に、私は心の中でため息をついた。
向き合うと決めたじゃないか。
もうあんな生き方はしないって、未来が短くとも、自分の意思で歩いていくと、そういう道を選んだはずだ。
――これが、最後のチャンスかもしれない。
目を逸らして逃げるのは、もうやめにしたい。
正面から語れば通じるなんて甘い幻想に縋るつもりはないけど、だからといって私がそれを言い訳にして逃げるのは違う。
ここで決裂するなら、それもまた、私の人生なんだろう。
過去を清算するなら今しかない。
「……確かに、お母さんの言う通りかもね」
顔を上げて、久しぶりに母の顔を見る。
こうして面を合わせるのは、大体三年ぶりだ。余命宣告をされてからというもの、母の顔をろくに見た事がことがなかったから。
久しぶりに見た母親は、私が知るそれよりも少し老け込んでいて、見るからに瘦せていた。
――この人は、こんなに頼りなさそうな人だっただろうか?
活力に溢れ、鋭い刃物のような空気を纏っていた母は、もうそこには居なかった。
「はしゃぎ過ぎちゃったのは、否定できないかな。それくらい、あのライブは楽しかったんだ。これまで生きてきて、一番ってくらいに……」
私は、そんな母に、出来る限り明るい話を聞かせてあげたかった。
週に一度電話するとは言っても、余命いくばくかの娘が遠方の地に行って一年半も帰ってこないのは、相当精神に堪えたはずだ。
心配してくれていた事だって、電話越しにだけど伝わっていた。
今更と言えばそこまでだ。
許さないと割り切ってしまえば、全てが終わる。
「お母さん。私……東京に来てから、本当に色んなことがあったんだ。親友ができて、バイトをして、自分なりに楽しめることを見つけて………そして、大切な人にも出会った」
でも、私は結局、この人を心の底から憎むことはできない。
嫌いとも言えず、縁を切ることも出来ず、最終的に『誰も居ない所で死にたい』なんてボカした言葉で突き放すことしか出来なかった。
何度、絶縁状を書こうとしてやめたか、数え切れない。
「その人が、私に光をくれた。空っぽの命を満たして、私に生きる希望をくれた」
母はクズだ。
これは間違いない。
けれど、それでも家族だ。私だって、こんな風になった母を見たかったわけじゃない。だから、少しでも安心してもらえるように、今私がどう生きているのか伝えたい。
私の幸せを分かってもらいたかった。
「色んなことをしたんだよ。その子と一緒に動画撮って、配信して、曲作りもまた始めたし、大きな会場でライブとかもしてさ。まるで、大冒険みたいな毎日でね」
好きでもないが、嫌いでもなく、だからといって無関心でもない。
この気持ちは複雑で、言葉にして表せるようなものじゃないし、そもそも好きか嫌いかで簡潔できるような関係じゃない。
血の繋がりは、切っても切れない絆であると同時に呪いでもある。
この世で最も歪で、難解で、綺麗な縁で結ばれている。
母から生まれ、育てられるっていうのはそういうことなんだ。
「楽しみ過ぎて、結果的に”こんな事”になっちゃったけど……」
「…………」
ただ黙って聞いている母。
その沈黙を拝聴の姿勢と判断し、夢中になって話した。
「私は、今が一番幸せで、やりたいことをやれてる」
『死ぬまでに家族とちゃんと話す』と密かに望んで、心の中では諦めていて、けれども意図せずそれが叶ったように思えて、有頂天になっていたのは否めない。
「だから―――」
「彩葉」
腕を掴まれる。
そこで、私はようやく気付いた。
母が、苦虫を嚙み潰したような悲痛な顔をしていたことに。
「もう、帰るで」
一瞬、なんて言われたのか、理解できなかった。
「…………え?」
母は黒く淀んだ目で私を見ていて、ようやくその意味を理解する。
『帰る』、主語のかけた言葉でも”何処へ”かなんて聞くまでも無い。だからこそ、一層困惑した。
「もう帰るで、彩葉。京都に……」
再びそう言われて、咀嚼した意味が正しかったことを認識する。
「か、帰る……って、いきなりなに?どうして、そんなこと……」
意味が分からなかった。
伝わらないにしたって、あまりにも脈絡がなさすぎる。
なんであの話を聞いて、私を連れ戻す方向に思考が行くのか、まるで見当がつかなかった。
「あんたはここにおったら早死にする。自分から命を縮めるような真似しとるのに、それを自覚すらしてない子を連れ戻そうとするのは、親として当然のことや」
「命を、縮める?なにを、言ってるの……?」
母が言っていることが理解できない。
だが、ここに来て、私は自らが致命的なミスを犯したことに気付く。
言葉選び、話し方、どれかは分からないがとにかく何かを間違えた。その結果、私の言葉は歪んだ受け取り方をされてしまったんだ。
「お母さん。一度、落ち着こうよ?私の話、ちゃんと聞いてよ」
認識がズレたなら正さなければならない。
どう考えたってこのままにしておくのはまずいと、必死に語りかける。
「私は落ち着いてるし、あんたの話だって一言一句逃さず聞いてる。その上で、ダメやって判断した」
しかし、私がなんと言おうと、母は取り付く島もない様子で冷淡に構えた。
病気が発覚する前、言葉の刃物で何度も私にトラウマを植え付けた母が、ぐっと腕を掴んで見下ろしていた。
「………なんで、そうなるの?私の気持ちが……本当に伝わってるなら、どうしてそんな事……」
また、こうなるのか。
この人はいつもそうだ。どんな言葉も選択も、自分がしたことなら正しいに決まっていると思い込んで、一度顧みることすらせずに進んでしまう。
良く言えば唯我独尊。悪く言えば自己中心的。
過酷な人生経験が故に自らの価値観を疑えないから、修正しきれない程の間違いを起こすまで、そこに気付けない。
更にタチが悪いことに、なまじ人として力を持っているせいで、生半可な人じゃこの人を止められないのだ。
「彩葉。あんたが今を幸せやって思ってるのは、病気のせいで普通の感性がおかしくなってしもうてるからや。優先順位ってやつが狂ってるのが、何よりの証拠やろ?」
手首を掴む手に力がこもる。
それはまるで、私を長年縛ってきた鎖だ。大切な人が解いてくれたそれが再び表出して、
私の全身を雁字搦めに縛り付けていく。
嫌だ。やめて。
そう訴えようとしても、声を出すどころか、口を開く事すらも出来ない。
「やっぱり、東京に行かせるなんて間違いやった。短い命なら尚のこと、慣れ親しんだ地で、穏やかに過ごした方が良いに決まってる」
――どうしたらいいの?
会話さえできれば、説得できるかもしれない。でも、こうなったお母さんを止められた試しなんて一度もないし、それこそお兄ちゃんやお父さんじゃないと……
「痛い、よ……やめて……お母さん……」
やせ細った細腕を握りしめられ、骨ごと軋むような痛みが走る。
力で支配される感覚に、心は完全に怯え切っていた。
――………怖い………
恐怖がトラウマをフラッシュバックさせる。
思い出すのは、数年以上も前。それはお兄ちゃんが出て行ってから、まだ一ヶ月も経っていなかったある日のことだ。
お母さんに殴られた。
原因は、あまり覚えていない。確か、お母さんの小言に嫌気が差して、一度言い返したんだ。
すると、次の瞬間には頬に鈍い痛みが走っていた。
一瞬なにをされたのか分からなくて、ぶたれたと自覚したと同時に大泣きした私を、お母さんは尚も厳しい言葉で縛り付けた。
抵抗すれば、またあの時のように手を上げられるかもしれない。
上京について話した時は、その場にお兄ちゃんも居たから大丈夫だったけど、今は病室に私ひとり。
とてもじゃないが、あの時のように声を荒げて猛反発するなんて無理だ。
そうして完全に身を縮めてしまった私に、母は決定的な言葉を吐いた。
「やりたいこと見つけるんはいいけどな。あんたは病人やねん。まずは生きること、命を伸ばすことだけに集中しといたらいい」
「……………………」
それはもう、私にとっては死刑宣告も同然だった。
生きる事だけに終始する毎日とは、まさしくかぐやと出会う前の私だ。
間違ったまま息をして、溺れて沈んで、暗闇の中でもがく術すら失った羽の折れた鳥。
――本当に、もうダメなんだ……
私には無理だった。
親と子供という関係の間に刻まれた大きすぎる溝を、今更埋めることなんて出来るはずもないのに、再び向き合おうだなんて過ぎた幻想に手を伸ばした結果がこれだ。
けれど、このまま檻に入れられるのだけは、耐えられない。
あんな寂しいところで一人死んでいくなんて、嫌だ。
――誰か。
「たすけて」
誰にも届くはずのない、小さな悲鳴。
それに呼応したように、視界の外からもう一つの手が伸びてきてお母さんの腕を掴んだ。
「彩葉を離せ」
そう、彼女はいつだって、私の声を聞き逃さない。
□
面会開始の時間に間に合うように、家を出てバスに乗る。
彩葉が入院してからというもの、わたしは毎日、朝から夜まで彩葉の病室に入り浸っていた。
一秒でも長く彩葉と居たいって言うわたし自身の願望もあるけど、かぐやが行くと彩葉はいつも嬉しそうにしてくれるから、つい面会時間ギリギリまで居てしまう。
それに、かぐやの付き添いがあれば、少しだけなら外にも出れるから、ずっと病室に居るわけじゃない。
幸い、何かあった時の為に撮りためていた動画でチャンネルの方は回せているし、ライブ配信も夜にやればいいので、その点も問題なくこなせている。
『明日には退院できるんだって?彩葉』
隣りからそう言ったヤチヨにわたしは首肯する。
「うん。もともと検査入院っていう話だったから、目を覚ましさえすれば、一週間くらいで退院できるとは言われてたんだ」
それもあって、今日はキャリーバッグを持ってきている。
病室に置いてある私物を一足先に持ち帰るためだ。
『待ちきれないって様子だね』
「そりゃ……まあ」
あと一日で、またあの家に彩葉が帰ってきてくれる。
そうすれば、またいつもの日常に戻れる。一緒に眠る事も、動画を撮ることも、遊ぶこともできるんだ。
もう一秒だって、無駄にしたくない。離れたくない。
あの日、知ってしまった秘密と、確信した『自らの正体』。
こうして平穏に過ごせるのも、あと数日だけかもしれない。来るべき時が訪れれば、私達は否応なく過酷な運命と直面することになる。
嗚呼、こんなことなら、どうか世界そのものが私達を放っておいてくれたらいいのに……
『かぐや、着いたよ』
「え?あぁ、ホントだ。ありがと、ヤチヨ」
ヤチヨの言葉で、病院前にバスが到着したのに気付き慌てて荷物を持って降りる。
冷房の効いた車内から、うだるような暑さと、不揃いでありながら独特なハモりで奏でられるセミの合唱。
病院のエントランスに入るまでの約数分ですら、足取りは一歩ごとに重くなる始末だ。
夏の陽差しから逃れるように建物に入ると、受付にて彩葉の名前を伝え、病室へと向かう。
彩葉の事だから、何時間か前にはすでに起きて曲作りの真っ最中のはずだ。
一度集中すると、誰かに止められない限りとことんまでのめり込む性格だから、果物でも切って一度クールダウンを促してもいいかもしれない。
休憩中は、色んな事を話そう。
配信であった面白いエピソードや、退院したらやりたいこと。
『来年の事を言えば鬼が笑う』なんてことわざがあるけど、だったらせめて明日や明後日、少し先のことで胸をときめかせるくらいは許して欲しい。
尊い時間を、大切にすることを、罪なことだとは思いたくない。
かぐやに、そんなことを望む権利はない。
―――けど、それがどれだけ自分勝手な行いだとしても、かぐやがそこに納得して『仕方がない』って言ってしまったら、彩葉を想うこの感情すら嘘になってしまうような気がするんだ。
『それじゃあ、私はツクヨミに戻るから。彩葉にもよろしく言っておいて』
病室の前に着くと、ヤチヨがそう言ってきた。
「え?彩葉に会ってかないの?」
『私は面会時間が終わった後に、ツクヨミでも会えるし、今はかぐやとの時間を出来る限り大切にして欲しいからね。ヤッチョからの大サービスなのです♪』
そういうことなら遠慮なく甘えておこうかな。
最近は、家に居る時もなにかとヤチヨと話す時間が多く、こうして気遣いなんかも素直に受け取れるようになってきた。
「わかった。今度なんかお礼するね」
『いいのよいいのよ。楽しんおいで。そんじゃ、さらばーい』
虚空にヤチヨの姿が消えたのを見送った後、頬を軽く揉んで気持ちを切り替える。
「よしよし、今日もちゃんと笑えてる……」
扉に手をかけて、ゆっくりと開いた。
一秒後には、きっと笑顔で出迎えてくれる彩葉がそこに居る。そう思うだけで、あと一秒すらも待ち遠しい。
しかし、病室の扉を開くと同時に見えた光景は、わたしの期待していたものとは全く違うものだった。
面会が始まってから、まだ三十分も経っていないのに、病室にはすでに先客が居た。
その人は彩葉とよく似た顔つきをした大人の女性で、瓜二つという程ではないがかなりのそっくりさんである。
彩葉が大人になったらこんな感じになると言われたら、思わず頷いてしまうくらいには面影があった。
この時点で、この女性が『彩葉の母親』であることをほぼ確信する。
家族なら、確かにこの時間に会いに来ていてもおかしくはない。
倒れてから既に数日が経っている今になって訪れたことには疑問が絶えないけど、問題なのは””そんなこと””じゃない。
「あ?」
なんとその女性は、彩葉の腕を掴み上げていたのだ。
手首を強い力で握りしめ、高圧的に何事かの言葉を吐いている。そして、当の本人である彩葉は怯え切った顔で、身を震わせている。
あんな風に、恐怖に涙を滲ませた彩葉の顔なんて、初めて見た。
発作が辛くて泣いているのとはまた違う、明確な他人への恐れ。
つまりそれは、誰かが彩葉を怖がらせて、意図的に泣かせてるってことで……
―――彩葉が、暴力を振るわれている。
そう認識したと同時に、彩葉の口が僅かに開き、掠れ切った悲鳴を紡いだ。
「たすけて」
衝動的に駆けだし、気が付けば女の人の手を横から掴んでいた。
「彩葉を離せ」
女の人は突然現れたわたしに、驚いたような顔をした。
空気が凍りつく。一触即発とはこの事で、雰囲気は張り詰めている。
彩葉はというと、呆けたような表情でわたしを見ていた。
驚愕、困惑、恐れ、色んな感情が入り混じっている中に、僅かにだが『安心』の色が宿って、肩の震えも収まったように見えた。
わたしは『大丈夫だよ』という想いを込めて彩葉に笑いかけると、すぐに下手人へと視線を移した。
「……離せって言ってんでしょ?聞こえなかったの?」
「っ!?」
ギリっと骨が軋むほどの力で捻り上げると、女性は反射的に彩葉の腕から手を離した。
反射的に後退った隙に、彩葉との間に割って入って庇う様に立ちふさがった。
かぐやよりも二回りは背の高い大人の女性に対して、真正面から半ば殺意のこもった目で睨みつける。
「いきなりなんや?あんた、彩葉の友達か?」
「そういうあなたは彩葉の母親だよね。娘を散々傷つけて、こんな状態にまで追いやったって言う」
彩葉の母親。それはつまり彩葉がこんな状態になった原因の張本人が、今目の前に居るコイツってことだ。
彩葉から普通を奪った奴。彩葉から、楽しい時間を奪ったクズ。
それだけでも煮えつくような赤黒い怒りが湧いてくるっていうのに、コイツは今、彩葉になにをしていた?
「それは家の事情や。彩葉から何を聞いたのか知らんけど、他所の子がずけずけと首を突っ込まんでくれる?」
「だったらさっきのアレはなに?友達が、大人から手を上げられてるのに黙ってるわけないじゃん。頭湧いてんの?」
彩葉を傷つけた。
彩葉を泣かせた。
こいつだけは絶対に許さない。
「失礼な子やね。親子の事情やって言うてるやろ。そもそもこうして病院に運ばれたのだって、あんたら周りの人間が彩葉の無理させたからとちゃうん?」
「……は?」
吐かれた言葉にわたしは素で困惑してしまった。
いや、言いたいことは分かるが、それをこいつが言うのかって、頭の処理が追い付かなかったのだ。
「友達の為に勇気を出して、大人に立ち向かう。できた友達が居てくれて、母親としても嬉しいわ。けどな、そのせいではしゃぎ過ぎて、自分のことに気が回らんようなら、責任を持って親が叱りつけなあかんやろ」
叱りつける?
それがさっきのあれ?
大体はしゃぎ過ぎたってなんだ。自分のことに気が回ってないって、それこそ酷い誤解だ。
彩葉は、ちゃんと自分の体には気を遣っていた。苦い薬を毎日飲んで、辛い発作とも四苦八苦しながら付き合って。
出来る限りの予防と対策をしていたのは、事情を全部は知らないかぐやですら分かった。
「誰も彼もあかんね。全然わかっとらん」
それをこいつは、今なんて言った?
「なあ、いろ―――」
バチンッ。
何を言おうとしたのかは分からないけど、ろくな事じゃないのは間違いない。だから、その言葉の最中に、平手をお見舞いした。
もう一言だって、彩葉と話させるつもりはない。
「かぐやっ!?」
これには流石の彩葉も背後で驚きの声を上げているけど、そんな事も気にならないくらいに、感情は沸騰した熱湯みたいに熱くなっていた。
「もう……ホントに無理。ふざけんなよ、オマエ」
わたしはそのまま胸倉をつかんで、壁に押し付ける。
「彩葉がこの場所で、輪の中で……どれだけ大変な思いをしながら生きてきたと思ってんだ!」
「っ……」
声を荒げると、目の前の女は怯んだように言葉を詰まらせた。
「気が回ってない?不注意?そんな訳ないでしょ」
発作のせいで、彩葉は普通に遊ぶ事すら出来ない。
何度、彩葉がそれに心を痛め、物陰で人知れず泣いていたと思ってるんだ。
「どんだけ注意したって、お薬飲んだって、コントロールなんて出来ないんだ。彩葉が何回、あの理不尽な発作のせいで幸せな時間を台無しにされたと思ってんの?」
「……あの子はさっき、人生で今が一番幸せやって言うとったわ」
目を逸らしながらそう言った彩葉の母に、ギリッと歯を食いしばる。
分かった。こいつは、まだ何も受け止められてないんだ。自分のせいで彩葉がこうなった事も、彩葉が東京に行った理由とかも、全て。
それを認めてしまったら、自分のやって来たことが間違っていたことになるから、そんな事には耐えられない。
だから、こうやってずっと、正論ぶった強い言葉で逃げ続ける。
自分本位な正しさだけで、物事をどうにかしてきた哀れな人だから、こうやって大切なことにも向き合えない。
挙句の果てには、彩葉の言葉を使って――――
「ッ!!!」
ガタンと鈍い音が鳴るくらい、再び強い力で押さえつけた。
「彩葉が幸せを手に入れたのは、あの子が一生懸命に辛い現実と向き合って、何回転んでも諦めずにやってきたからだ!」
冷たくて、熱い怒り。
誰かに対して、こんなにも敵意を向けた事なんて無かった。感情がコントロールできない。
「こんな世界でも必死に生きて、誰かを大切にして!」
想像を絶する苦しみを抱えながら、それでも彩葉は生きてるんだ。
どんなに不幸でも周囲を呪ったりせず、それどころか、あんなに優しく笑って……
「そこまでして、やっとここまで来たのに……あんたはまた奪うの!?」
彼女を誰よりも理解してあげなきゃいけない母親が、最後まで味方で居てあげなきゃいけない肉親が、こんな事をするなんて酷すぎる。
「母親なんでしょ?なに手ぇ上げてんのよ!少しは娘に優しくしてあげなよ!!!」
矢継ぎ早に繰り出した叫び。
肩で息をしながら、熱を飲み込む。全部わたしがこいつに言ってやりたかったことだけど、その中でも一番はこれから口にすることだ。
「……あんたどうせ、彩葉がなんで泣いてたのかも……分かってないんでしょ?」
その言葉に、彩葉の母は訝しみながら答えた。
「そんなん、私に怒られるのが怖かったからやろ」
そんな見当違いな事を、まるで吐き捨てるように言う。散華する花のような失望を浮かべて、わたしは心の中で呟く。
――ほら、やっぱりわかってないじゃん。
「そっか。もういいよ」
拳を振り上げて、ぐっと握りしめる。
思考を怒りに支配されたわたしに、止まる選択肢はない。正しいとか、正しくないとか、そんな常識的な沸点はとうに超えているから。
手加減なしに拳を振り抜こうとした、その時だった。
「ダメ、かぐや!!」
華奢な手が、わたしの手をぎゅっと包み込んだ。
背中にふわりと温もりが広がって、紫陽花のような香りが思考にそっと浸透する。
「………いろは?」
彼女の声、匂い、気配、温度、それらを感じると、不思議と頭にのぼっていた血が引いて、猛烈な怒りの熱が急速に冷めていく。
どんな時も、かぐやを心安らかにしてくれる彩葉の気配。
「分かってるよ。かぐやは、私のために怒ってくれたんだよね?でも、それはダメだよ」
ヒートアップした衝動が収まる。
「私なら、大丈夫だから……お願い。もう、やめて……」
そう言う彩葉に、わたしは少しずつ自分がしたことを理解し始める。
おもむろに降ろした手を見つめた。未だ汚れの無い手でありながら、衝動のままに誰かを傷つけようとようとした手だ。
我に返って、気付く。
今彩葉が止めてくれなかったら、わたしは、取り返しの付かない事をしてしまっていた。
「あ………」
ドタンと病室の扉が開く。
数人の看護師が入って来て、引き剝がされる。
放心状態となったわたしの代わりに、彩葉が事情を説明してくれている。
あそこまで、したかったわけじゃない。
そりゃ言ってやりたいことはあったけど、殴ってやりたいとも思ってたけど、それはあくまで思考の中での話というか。
それくらい許せなかったといえばそうだけど、じゃあ幾分か冷静になった今でもまだそうしたいかというとそんな事はない。
拳を振り上げた時、何を考えていた?
思い出せない。おそらく、強いて言うなら、何も考えていなかった。
衝動とは要するに『わたしがしたい』という自己中心的な意思に他ならない。
何より、あんな行いが、彩葉の為であるはずがない。
つまり、わたしは………
自分が許せないってだけで、誰かを傷つけようとしたんだ。それも、彩葉の境遇や置かれた状況を理由に。