余命数年の私の元に現れたかぐや姫 作:グランドマスター・リア
病室での騒動が収束したのは、昼過ぎのことだ。
彩葉がしっかり事情を説明してくれたお陰で、かぐやは厳重注意に留まり、彩葉の母親に関しては患者である娘に手を上げたことを理由に面会謝絶となった。
病室には、再びわたしと彩葉の二人きり。
静かで、穏やかで、それなのにどうしてこうもやるせなく感じてしまうのだろう。
彩葉を守るために、かぐやはあの人に立ち向かった。
早く彩葉から引き離して、この場所から追い出してやるって、そう思って行動を起こしたのに、いざ思惑通りになると少しも心が晴れない。
むしろ曇天だ。さめざめと泣いている。
「ねえ、かぐや。そろそろこっち向いてよ」
正面から、彩葉の声が聞こえる。
わたしは今、ベッドの下の隙間に視線を落とし、俯いている格好だ。大体一時間くらいは、ずっとこの状態。
「……………………」
なんでかな、彩葉に合わせる顔がない。
考えれば考えるほど、自分が余計なことをしたような気しかしなくて、正しいことをしただなんてちっとも思えない。
親子の問題に、部外者が口を挟んではいけない理由がよく分かった。
関わり方を間違えた瞬間、こうなるからだ。
「さっきのことは、事故みたいなもんだよ。かぐやが気に病む事じゃない。私は、かぐやが怒ってくれて、本当に嬉しかったよ?」
「……でも」
絞り出すように、口を開き言葉を発する。
自分の中のどうしようもない現実、どうしようもないわだかまりを、どうにか語彙にしようと首を横に振った。
「わたし、は……こんな風にしたかったんじゃ、ない」
――こんなの、わたしの望んだ形じゃない。
後になってみれば、最善手は簡単に思いついた。
衝動に任せて出て行くようなことをせず、看護師など病院の職員を呼べば良かった。そうすれば、ここまでこじれなかったんだ。
「違う。全然、こんなのじゃない。だって、まだ誰も幸せになれてない。それどころか、かぐやがしたことのせいで、変な方向に曲がって行って……」
両手が震える。
簡単に何でも出来て、簡単になにかを壊せてしまう手だ。
「その度に思うんだ。やっぱり、何もしない方が良かったんじゃないかって……」
配信を始めたことも、海へ一緒に行った時も、新しい家を探そうと連れ出しても、コラボライブも、なにもかも、わたしが彩葉のためにしたことは裏目に出ている。
そして今回も、かぐやは、かぐやがした事のせいで彩葉に悲しい思いをさせた。
「わたしじゃなくて、ヤチヨなら、芦花なら、真実なら、朝日なら……こんな事にはならなかった」
――だからかぐやは、ダメな子なんだ。
ヤチヨは『かぐやが彩葉に沢山のものを与えたから』って言ってくれたけど、それを帳消しにして余りある程の失敗を、わたしはしてきている。
それなのに同じくらい、わたしの心は諦めきれない往生際の悪さで一杯で、いつもどうにかしようって手を伸ばしてしまう。
「……私がなんて言っても、多分かぐやは納得できないんだろうね」
押し黙ったわたしに、彩葉は静かに言う。
「空っぽだった頃は、何とも思わなかったのに……大切なものを、大切にしようとすればするほど、そんな『たられば』が後について離れなくなる。その気持ちは、凄く分かるよ」
声音はとても穏やかで、まるで赤ん坊をあやすような優しい色合いをしている。
まるで、わたしと彼女が出会ったあの夜、歌ってくれた『Remember』の歌声のように、わたしが大好きな儚くも美しい楽音。
「私だって、後悔だらけだもん。傷つけ、壊してばかりの、上手くいかない人生。それでも私は、大切な人のお陰で『意味』を見つけることができた」
「……意味?」
その言葉の示すところがどうしても気になって、自然と顔をあげてしまう。
彩葉は温かな視線をわたしに送り、いそいそと両手を伸ばすと、ふとももの上で握られたわたしの両の手を握って、ゆるやか柔らかに自らの傍へと誘う。
「今、私はこうしてかぐやと手を握ってるよね?これこそが、私の見つけた『意味』だよ」
言われて、わたしは握られた手をまじまじと見た。
わたしの右手と彩葉の右手、わたしの左手と彩葉の左手、重なって穏やかに触れ合った肌から伝わる熱が、こそばゆく情緒を刺激する。
尊い調和だ。
この時間そのものが、離れ難い心地よさで満たされている。
「私には、これだけあればいい」
とても悲しい言葉なのに、なんでこうも魅せられてしまうのかな。
「お母さんとの事は、気にしないで。正直言って、ああなったのも仕方ないって思ってるんだ。誰かが悪いわけじゃない。私とお母さんが、その運命だったってだけ」
どうして、そんな諦めたような顔つきが、こんなにも美しく見えてしまうのかな。
「そんなの……そんな、の……」
わたしは、彩葉にそんな事を言わせたくなかったから、そんな顔をさせたくなかったから、一歩を踏み出したのに。
「彩葉、余計に可哀想じゃん……」
なにも繋ぎ止められなかった。
□
東京都内、某所の居酒屋。
黄昏時のがらんどうな店内のカウンター席に、その人は居た。
「よっ、久しぶりだな。母さん」
探すのにそう手間はかからなかった。
彩葉から事情を聞いて、ちょっとズルいけどヤチヨちゃんから情報もらって、指定の場所に来ればそれ見た事か。
やらかした肉親が一人で呑んでやんの。
「朝日、今までどこをほっつき歩いてたんや……?」
「はいはい、連絡よこさなかったのは悪かったって……まあ、その様子じゃ、俺の行動は正解やったみたいやけどな」
当然のように隣りの席に座って、一杯だけ注文する。
「彩葉から聞いたわ。またやらかしたんやって?そんで、病室でかぐやちゃんと揉めたってな」
「かぐや?あぁ、あの子か……まあ、せやね。病室で非常識な行動したんは、確かにやらかしやわな」
特に不機嫌そうにするでもなく、不景気そうな表情で呟いた母に俺は小さくため息をついた。
「……あんた、昔と全然変わってねぇのな。そりゃかぐやちゃんがキレるのも無理ねぇわ」
「は?誰のどこが変わってないって?」
睨まれ凄まれ、一昔前はそれなりにおっかなかったこの人が、今は瘦せこけ目の下に隈作ってこの有様だ。
そう言う意味じゃ、変わってないって言葉は不適切かもしれない。
「ああ、変わってねぇよ。その全部分かった気になって、なんも分かってないところ、ちっとも変わってない」
レモンチューハイが運ばれてきて、それを口に含む。
母さんは不機嫌そうに顔をしかめていた。
けれど、黙っている辺り俺の次の言葉を待っているのだろう。
「………あんたさ、彩葉のこと理解してなさすぎなんじゃねぇの?」
だから言った。
俺が思っていたことも含めて。
「はっ、何を言うかと思えば……私が何年、あの子の面倒見てきたと思ってんねん。あの子の考えとることくらい……」
「数年前までなら……な。あいつ、もう十七になるんだぞ」
口を噤む母さん。
ぶっちゃけ数年前ですらこの人がちゃんと彩葉のことを理解できていたのかは怪しいが、少なくともここまでは酷くなかった。
「俺に言わせてみれば、あんたはちょっと彩葉のことを舐めすぎだな」
親であるが故の固定観念と、凝り固まった認識が混ざって、この人の中ではまだ、彩葉はあの頃のままなんだろう。
あの日『誰も知らない場所で死にたい』と言った、自暴自棄に囚われた娘の姿で止まっている。
「あいつ、来年には十八歳なんやで?世間的には一応、成人って言われる年齢やね。拙いながらも、善悪の区別が付いて、価値観も育っとる。自分の病気とだって、この数年しっかり向き合って生きて来たんだ」
彩葉は成長した。自分なりに生き方を見つけて、誰かと共に最後まで足掻く道を選んだ。
「一生治らない病気と、いつ来るかも分からん発作。常に体調は悪くて、こんな暑い日は外もろくに出歩けない。そんな中で、彩葉は十分すぎるほどよくやってるさ」
指折り数えるだけじゃ効かない。
それくらいに、彩葉は一生懸命、自分の出来る事をやっているってことだ。
「……妙なこと言うんやな。じゃあ何で、あんたの言う十分すぎるほど必死にやってる子が……自分が倒れて病院に運ばれたっていうのに、あんなふわふわした態度で数日前の事を楽しそうに話すねん」
しかし、母さんはこう言う。
病室でのことだろう。
彩葉やかぐやちゃんから聞いた話では、そこまで具体的なことまでは分からなかったが、何となくその当時の状況が見えてきた。
「そんな姿を見て、この子は自分の置かれてる状況が分かってないって考えた私は間違ってるか?なあ、私は間違っとるか?」
「ああ、間違ってる。見当違いもいいところや。母さん、あんたはいつだってそうだよ」
だったら、ここでこの人が考えを改めるまで話し続けるのが、兄である俺の役目だ。
そうでもしないと、勇気を出して向き合おうとした彩葉があまりにも報われない。
「あんたは見ようとしてないだけさ。病気になる前の彩葉も、今の彩葉も……そうやって、いつまでもあいつの優しさにつけ込んで、理解した気になっとる甘ちゃんには分からねぇだろうな」
この人は馬鹿じゃないんだ。
能力はあるし、弁護士らしく口も達者だ。
人を見る目だってある。
だが間違っても、この人は正しさの化身でも、完璧超人でも、正論モンスターでもない。
言うなれば、それっぽく言うのが上手い人ってところかな。
化けの皮が剝がれれば、俺や彩葉と同じ、どこかしらに欠点を抱えた一人の人間だ。
「知っての通り、俺はこっちに来てからの彩葉をずっと見てきたからな。あんたよりは知ってる自信がある」
アルコールを喉に流し込みながら、彩葉が東京に来た日から、今までの道筋を追想する。
「十四で病気が見つかって、余命宣告。十五から知らない土地で一人で暮らして、加えて友達には病気のことを隠していると来た」
彩葉の苦悩は筆舌に尽くし難いものだっただろう。
確かに、上京したのは彩葉自身の選択だが、あいつの立場になって考えれば、それ以外に選択肢なんてなかったようなものだ。
「そんな中でも色んな人と出会って、大事な人も見つけて……俺とも、また昔みたいに話してくれるようになったんだ」
もし俺が彩葉と同じ境遇に置かれたとして、あいつみたいに生きられるかは分からない。
今年いっぱいかもしれない命なら、立ち止まったって誰も責めたりしないのに、それでも彩葉は歩き続けている。
今だってそうだ。
「あんたとすら、向き合おうとしたんやぞ?それと、さっきの質問の答えやけどな。あれは彩葉なりに、あんたに気ぃ遣ったんや」
「は?」
母親であるこの人が、その純粋なまでの誠意と努力を知らないままで居るなんて許されるはずがない。
「見るからに元気無さそうで、瘦せ細った顔付き、数年前と比べたら見る影もない。そんな状態の親が現れたら、家族やけん心配くらいするやろ?それも……彩葉からすれば、自分のせいでそうなったかもしれへんのや」
病室に現れた母さんを見た時、彩葉はどう思っただろうか。
優しいあいつの事だから、この人の精神的な疲れを察し、安心させてあげたいと思ったに違いない。
それが伝わらずにこじれたのは決して彩葉のせいじゃなく、気付いてやれなかったこの人の落ち度だ。
「……私は、実の娘に哀れまれたってことか」
「まあ、その通りやな」
酷な言い方だが内容自体は正しい。
自嘲気味に口角を上げ、頬を手で擦った母さんの横顔には、俺ですら若干の悲しさを覚える。
「可哀想やなぁ、彩葉……今のいままで、頑張って病気と戦ってきたのに、久しぶりに会えた母親は昔となーんも変わってないどころか、精神を病んだクズと来たもんだ。俺やったら、家族の縁を切るな」
彩葉が、母親への絶縁状を書こうとしていたのは知っている。
それくらい追い詰められていたのに、それでも彩葉は自らの手で、その書状を破り捨てた。
そして今もなお、彩葉は望んでいる。母親と再び、家族になることを……
「多分、これが最後のチャンスやで。もう一回、自分自身の事も含めて、しっかり考え」
「……………」
俺はもう家族のことから逃げたりしない。
彩葉がそうしたように、俺だって今までと同じで居たくないんだ。
✧・゚: *✧・゚:*
残念だな、とは思う。
私はきっと、戻りたかったんだ。
兄ともそうなれたように、母とも、父がまだ居たあの頃のような……とまでは行かなくても、顔を合わせて普通に話せるくらいの、腐っても親子だと言える関係に―――
一晩挟んで退院の日。
ノートPCなどのかさばるような荷物は、前日のうちにかぐやが持って帰ってくれたので、私自身の手荷物は小さなリュックに収まる程度だ。
「かぐや。準備できたよ」
椅子に腰掛けて待っていたかぐやに声をかける。
「ん、りょーかい」
口先ではいつもの調子で返事をしたかぐやだけど、昨日からずっと元気がない。
やっぱり、母との間にあったことを気にしているんだろう。
何度も『かぐやは悪くない』って言ったんだけど、私が幾らそう言った所でかぐや自身がどう思うかは別の話。
何もできなかった悔しさか、余計なことをした事への自責か、或いはどちらもか。
これは彼女の心の問題だから、予想する事はできても、全てを理解し察するのは難しい。
ただ一つ言えることがあるとすれば、私は、彼女のその向こう見ずにも見える行動によって、救われたということ。
「はぁ、やっと帰れる。数日ここで過ごしたけど、やっぱり病室で眠るのはいつまで経っても慣れないよ」
「そりゃそうでしょ~。だって、かぐやちゃんという名の最高の抱き枕がないんだから。さぞ恋しかったんじゃないの?」
「ふふっ……そうだね」
私にとって、トラウマの象徴ですらあった母。
絶対的とすら言えた恐怖と正しさの化身を前に、この子は立ち向かってくれた。
その背中が、私にとってどれだけ感動的で、頼もしく見えたか、この子は知らないんだろうな。
「ちょっと、恋しいかも……」
きゅっと、小さく握ってみる。
指も絡めてみようかな?
流石に大胆すぎる?
でもね、今はそれくらいしたい気分なの。
かぐやにとっては失敗だったかもしれない昨日の一大事が、私にとっては、この子を一層愛おしく想うきっかけになったのだから。
「っ……もう、そんなに寂しかった?仕方ない彩葉だな~」
そんなに申し訳なさそうな顔して、笑わないでよ。
私は、もういいんだ。
良くないけど、いいって思えるようになったんだ。
家族との縁が、本当に切れちゃったかもしれない。
生まれてから、ずっと一緒だった母との間に、決定的な亀裂が走ってしまったのは、そりゃどうしようもなく悲しいことだ。
何度も笑いかけてくれた。
幾つも楽しかった思い出がある。
ある日、買ってくれたアイスが美味しかったとか、勉強を教えてくれた記憶とか、そうして当たり前のようにあった日常は、もう二度と返ってこない。
まさしく、尊い思い出として過去のこととなった。
けれど、そう簡単に飲み下せやしない悲しみも、かぐやと一緒に居れば、そのうち癒える。
少しくらい寂しくたって時間が温めてくれる。
「帰ろっか。かぐや達の家に……」
私にはもう故郷ではない別の場所に、帰るべき家がある。
手続きを終えて、病院から出れば、晴れて私は自由な身だ。
今日からはまた、かぐやの作る絶品のご飯を食べられる。
帰りは病院の近くで昼食を取りつつ、バスで帰宅するという予定になっており、夕食はかぐやが腕によりをかけて作ってくれるというので、それなりに気分は良い。
「あ……」
けれど、そんな折、病院のエントランスから出てすぐ、かぐやが何かに気付いたように振り返った。
「どうしたの?」
聞くと、かぐやは夏なのに冷や汗を流しながら引き攣った笑みを浮かべて言った。
「えっと……ごめ~ん。スマホ、病室に忘れてきちゃった」
「なにやってんのよあんたは……」
ありがちなミスだが、出鼻をくじかれて苦笑がもれる。
それなりに大きな病院なのもあって、今から病室に戻るとそれなりに時間がかかる。数分程度だが、このまま猛暑の外で待つのは得策ではない。
「一緒に取りに行く?それとも、私はエントランスで待っとこうか?」
「うーん……いや、先に喫茶店の方行っといて。かぐやならダッシュすれば、後からでも彩葉に追いつけるし!」
「誰の歩く速度が遅いって?」
いやまあ事実だけど。
確かにかぐやの言う通り、私は先に向かっていた方が時間的にも短縮できる。
「……分かった。じゃあ先に行ってるからね?遅かったら、私だけでランチ済ませちゃうから」
「おっけー。ああでも、先に食べちゃうのはダメだからね?かぐやが来るまで待っててよ!」
「気が向いたら……って、もう居ない」
病院の中は走らないように言っておくべきだったな。
まあいいや、かぐやはああ見えてその辺はきちんとしてるし、私もゆっくり目的の店へ向かうとしよう。
病院沿いの道を歩き始める。
生暖かい風を浴びながら、薄雲のかかった空を一瞥した。
「……それにしても、暑い。もう九月なのに……」
こりゃ十月までは引きそうにない。
体調には一際気を付けたいところだ。
しかし、気温が下がって、冬の訪れを感じる時分には、私も辞世の句を読む頃合いなのかな。
ごめんねも、ありがとうも、言える時に言うべきだってことは、これまで歩んできた短い人生のうちに嫌というほど思い知らされた。
かぐやとヤチヨはもちろん、芦花や真実、兄さんにも、これから何度も『ありがとう』と私は言うのだろう。
けれど、伝えようにもできない相手が往々にして居ることも知っている。
随分前に亡くなってしまった父さん、帰るつもりのない故郷にだってお世話になった人は沢山いるんだ。
それらの共通点は、誰も彼もが、遠すぎて今後会うことができないという点にある。
だからこそ、その気になればすぐにでも話せる距離に居るのに、何も伝えることができないというのは一層の悲しさを伴う。
母は、多分最低な人だったんだろうけど、それでも……
「永遠の別れ……か」
私が死ねば、母さんは泣くと思う。
ちゃんと、私の死を引きずって、何でもないような態度を取りながらも、心の内のどこかしらを壊して、あの人自身も死んだように生きていくんじゃないだろうか。
母は、そういう人だ。
そこまで分かっているのに、歩み寄れない不器用さに囚われた哀れな人。
でも、そんな人ともまた色んな事を話したいって、家族としての輪を修復したいって思ってしまった私も大概だ。
今、あの人はどこで何をして、何を考えているのだろう。
その思考の中に、私は居るのかな。
取り留めもない考えを抱きながら歩き、ふと視線を上げると、少し先に横断歩道があった。
「……あれ?」
そこを渡って向かい側へ行き、更にまた真っすぐ行けば目当ての喫茶店だ。
でも、横断歩道までまだそれなりの距離があるのに、私の足は止まった。
「あそこに居るのって……」
何故なら、横断歩道の反対側、そこに誰よりも知る人の顔があったから。
「お母さん?」
間違いない、母だった。
『なんでこんな所に……』と疑問に思って、すぐに答えが出る。
母には、今日が退院日である事を伝えていない。
そして、この時間に、病院の近くにいる。ここまでくれば、おのずとその目的は見えてくる。
――私に、会いに来たんだ。
面会謝絶を言い渡れても尚、足を運んできたのは予想外だったけど、そうまでして私を故郷に連れ帰りたいってこと?
それとも、何か別の……
いや、どちらにしてもこの場で取るべき行動は決まっている。
「……逃げた方が、いいよね……」
そう、今は私一人だ。加えて、病院の外。
こんな状態で昨日のような事になったら、今度こそ抵抗できない。助けてくれる人も居ない。
分かっている。
まだあの人は私に気付いていない。引き返すなら今だ。
分かっているのに、足は、踵を返すどころかおもむろに前へと進もうとしている。
「……分かってる。分かってるのに……本当に、馬鹿だよね……私って……」
最低なことをされた。あの人のせいで、病気になった。
あの人さえ居なければ、かぐやともっと一緒に居れたかもしれない。
楽しいこと沢山出来たかもしれない。
でも、それでも……
母親なんだよ、あの人。
そんな簡単に割り切るなんて、無理だよ。
「っ……ああ、もう!」
わだかまりを吐き捨て、駆け出す。
今ここで見かけさえしなければ、諦められた。
そのまま京都に帰ってくれたなら、悲しくても、終わりにすることができた。
それでも、あの人はそこに居る。
もう一度だけ、話すチャンスがある。
「お母さん!」
母が、私を見た。
驚いたような顔をしている。
タイミングよく信号が青になった。
右も左も見ず、母のもとへ行こうと最後の境界線とも言える通りへと足を踏み出す。
「ッ、アホ!!!」
その瞬間、母が叫んだ。
ほぼ同時に、右からけたたましいクラクションが響く。
「……え?」
視線を横に移すと、車が目前まで迫っていた。
足が止まる。思考が停止し、数秒後に自らが迎える末路が脳裏に過り。幼少期から今までの人生、かぐやとの思い出が―――
バッ。
衝撃が、体を横から押しのけた。
ゆっくりと流れる視界、そこには必死な顔で両手を突き出した母が居た。
「お母さ……!!」
ズドンと鈍い衝撃音が響き、鉄の塊が、私の言葉と一緒に母を吹っ飛ばした。
数メートル、或いはもっと遠いかもしれない。
母の体はボールみたいに撥ね飛ばされ、車道の固い地面を滑った後、歩道の縁石にぶつかって止まった。
「……うそ……」
尻餅をついた私は、震えながらゆっくりと立ち上がり、痛む右足を引きずりながら母のもとへ向かう。
「……なんで?」
もつれそうになりながら、ようやく辿り着く。
力なく倒れた母の傍に膝をつくと、触れようとして、けれど寸前でその手を引っ込め、どうしていいのか分からず右往左往と彷徨わせる。
「お母さん?」
固く目を閉じた母。
「お母さん!」
何度呼んでも起きてくれない。
血の気が引いて、そのボロボロな姿を何秒も見ていると、ようやく頭が現実を理解する。
「いや……」
わなわなと震えた唇から、我を忘れたように慟哭した。
「いやああああああああああああああああ!!」
――第22話『親子』