余命数年の私の元に現れたかぐや姫 作:グランドマスター・リア
こんなにも声を張り上げて叫んだのなんて、初めてだったかもしれない。
凄惨で悪夢のような光景を前に、私は冷静さを失い、自分が今すべきことすら考えることが出来ず、泣きわめき続ける。
喉が枯れ、咳が出ると肺がじんと傷んだ。
こんなに大声を上げたのなんて久々で、体が上手くついていかない。
声が出なくなると、静かに嗚咽をもらしながら縋りつく。
悲しいとか、苦しいとか、そんなシンプルな情動じゃない。
お母さんは、私を庇って車に轢かれた。
――私のせいで……
そう考えるだけで、息が詰まって上手く呼吸ができなくなる。
不安で仕方がなくて、大切なものを失うかもしれない恐怖の中で、私は項垂れた。
眩暈がするような孤独感に、精神は限界ギリギリで、あとちょっとの圧力で押しつぶされそうになっていた。
「彩葉!」
でもそこに、光が駆け付けた。
かぐやだ。
いつだって私を助けてくれるヒーローが、今回も来てくれた。
私は弱々しく「かぐや……お母さんが……」と何とか言葉にして、彼女はその惨状に目を見開きつつも、表情を引き締めて私達の為に動いてくれた。
かぐやの対応が迅速だったのと、病院の目の前で起こった事故ということもあり、母はすぐに集中治療室に入れられた。
その後のことは、あまり正確には覚えていない。
治療室の前で、ぎゅっとかぐやの手を握りながら、無心で母の無事を祈る。
やがて兄がやって来て、病院の廊下に崩れ落ちながら、ぽつぽつと昨日のことを語った。
大方の事情を知ると、私は「なんで?」と何度も心の中で呟いた。
母はもしかしたら、兄の言葉を受けて、私に謝ろうとしてくれていたのかもしれない。
私だって、もう一度話したいと思って、怖くても前へ踏み出したんだ。
そうして感動の再会。
お互いに話したい事を話して、とんでもなく遅くなっちゃったけど、ようやく家族として歩き出せる。
まさにその一歩手前だった。
私たち家族のハッピーエンドは、すぐそこにあったんだ。
――それなのに、こんなのってないでしょ。
むちゃくちゃだ。
理不尽過ぎる。あんまりだよ。
処置が終わるまでの間、私も兄も一度も声を発しなかった。
重苦しく、しんどい空間、永遠に続く螺旋階段を下っているような気分。
温かみなんて少しも無くて、唯一の灯は隣にいるかぐやだけ。
それから数時間後、治療室のランプが消えた。
担当した医者が厳かな様子で治療室から出てくる。
『なんとか一命は取り留めましたが、撥ね飛ばされた際に後頭部を強打したらしく……意識がいつ戻るかは……』
愕然とする思いと、良かったと安心する思いが混在していた。
命を繋ぎ止め、生きていることは、何にも代えがたいことだ。
それ以上を望むことがどれだけ贅沢なことか、私は身をもって知っている。
だが、意識が回復しない。
そればかりか、覚醒がいつになるかも分からないというのは、私には重すぎる。
医師の先生が言うには、それは明日かもしれないし、数ヶ月後かもしれないらしい。
数ヶ月なんて、普通の人からしたらあっという間に流れるもので、仮に私が健常者なら、しんどくてもそれまで頑張って看病しようと思えるくらいの時間だ。
けれど、今の私にとってはあまりにも長い。
そんなに待っていたら、再会する間もなく、私はあっちへ行ってしまう。
それはつまり、あの事故の瞬間こそが、母との永遠の別れだったことを意味していた。
窓の外では黄昏色の雨が降りしきっている。夕立だ。
雨音の中、ベッドの上で静かに眠る母さんを見つめ、私は一人呟く。
「ねえ、お母さん。お母さんは……私に会って、なんて言おうとしてたの?」
聞いても答えてくれない。
いつもなら仮に寝ていようとすぐに起きて、厳しい言葉を飛ばしてくるのに、返ってくるのは心電図の波と連動した無機質な機械音だけ。
後悔も涙も、全ては後の祭り。
こうなってしまった事だけが疑いようのない現実で、取り返す事は不可能。
私の人生はいつもそんな事の連続で、今更そこを嘆いても意味がないのは分かっている。
でも、一つだけ思う事があるとすれば、それは……
「……ズルいよ」
この人はいつもそう、言葉の使い方から、伝え方まで、なにもかもがズルい。
こんなのルール違反だ。
「ズルい。ズルい。ズルい。こんなことされたら、私……どうしていいか、わかんないじゃん」
お母さんは、誰よりも私を不幸にした人であると同時に、命をかけて守ってくれた親でもある。
私はこの人との関係を諦めようと思っていた。
もう会いにいくのも嫌だった。
それなのにこの人は、あんなことを私にしておいて、最後まで私の親だった。
「ふざけないでよ。なんで母さんが、私より先にそんな姿になってんのよ。普通、逆でしょ?」
普段はああも最悪な人なのに、ここぞって時だけ母親面するなんて、これだから苦手なんだ。
でも……嫌いにはなれないくらい、好きだった。
「そもそも何で、私なんか助けるのよ……あと三ヶ月しか生きられない私なんかより、絶対に母さんの命の方が大事じゃん。こんなの、全然正しい行動じゃない」
酒寄紅葉とは、トロッコ問題を課された際、平気な顔をして多数の救済を選ぶような人だ。
弁護士らしく、一見間違っていることすらも正しくしてしまう天才である。
家族相手ですら、この人はずっとそうだった。
私が病気になっても尚、根っこは変わらなかったのに、そんな自分のアイデンティティを覆してまで、私を救った。
私を庇った時の母の顔を思い出す。
鬼気迫る形相だった。
その姿は、まさに娘を守ろうとする母親そのもので……でも、吹っ飛ばされる直前、ほんの一瞬だったけど、僅かに笑ってた。
『やってやったぞ』とでも言いたげな、誇らしげで、安心したような表情で。
「なんで、クズのまま居なくなってくれへんなかったんや。あんたのせいで、胸の中ずっと痛いままやけん……」
まともに話すことすらできなかった上に、最後があんな、喧嘩別れみたいな……
こんなことになるくらいなら、無理をしてでも、もっと話したかった。
酷いこと言われても、あと一回だけでいいから、ちゃんと目を合わせて私の気持ちを伝えたかった。
あんたの言葉が聞きたかった。
「なあ起きてや。病院行きたいゆうた私に、甘ったれんなって怒ったのはどこの誰?」
生意気なことを言っても、怒られない。
鋭い言葉の数々で、私の心をズタズタにしてきた母は、なんの因果か『私を守って』目覚めぬ人となった。
「嫌や。イヤや……起きてよ。ねえ……お母さん……」
本当に、最悪だ。
なんで私が、この人のために、こんなにも泣かなきゃいけないんだ。
□
ようやく迎えた退院日、本来なら祝福されるべきだったその日は、かぐやと彩葉にとって最悪の日となってしまった。
昼頃のことだ。
前日に病室で起こった事件のほとぼりも冷めないままだったけど、どうにか気を取り直して、家に帰ろうというその矢先。
―――彩葉のお母さんが、事故に遭った。
病院を出る時、間が悪いことに病室にスマホを忘れてしまったわたしは、彩葉を先に行かせて取りに戻っていたんだ。
それから、無事スマホを回収して、彩葉を追いかけて病院を出て少しした所で、彩葉の叫び声が聞こえた。
居ても立っても居られず走り出すと、目的の少女はすぐに見えてきて、わたしは初めてその惨状を目にした。
誰かが倒れていて、その傍で彩葉が何度も『お母さん!』と泣き叫んでいるのだ。
慌てて駆け寄ると、やはり倒れているのは彩葉のお母さんだった。
一瞬、思考が停止した。
なんでこんなところにあの人が居て、あんなボロボロになって倒れているのか、理解が追い付かず頭がショートしそうになる。
でも……
『お母さん!おかあさん!やだ!いやだぁああ!』
子供みたいに泣きじゃくる彩葉を見て、かぐやはすぐにこんな所で突っ立っている場合じゃないと、自分の両頬をひっぱたいた。
道路上だったので周囲の人達に呼びかけて車が来ないように見張ってもらい、素人ながらも様子を見つつ、すぐそこにある病院に連絡を取る。
轢いたであろう車は走り去ったのか何処にも見当たらなかったけど、とにかくやれるだけの事をした。
だって、これはもしかしたら、昨日かぐやが余計なことをしたせいかもしれないから。
震える手でスマホを握りしめ、簡潔に状況を伝えると数分と経たずに病院から人がやって来た。
彩葉の母は慎重にタンカーで運ばれ、集中治療室に通される。
数日前、彩葉が倒れた時も、かぐやはここで生きた心地のしない時間を過ごした。
それが何の因果か、今回は彩葉がこっちで家族の無事を祈っている。
酷だと思いつつも彼女から事情を聞くと……どうやら彩葉のお母さんは、突っ込んでくる車から彩葉を庇って轢かれたみたいなんだ。
どうしてそこに彩葉の母が居たのかも、後から来た朝日によって語られた。
――なんだよ、それ……
行き場のない怒りが、胸の中を支配した。
彩葉からすれば、自分のせいで母親が車に轢かれたようなもの。
かぐやも朝日も、そんなこと欠片も思っていないけど、彩葉っていう女の子は、そういう風に考えちゃう子なんだ。
こんなの普通に過ごしてたら、起こりようがない事故だ。
これじゃあまるで、世界そのものが、彩葉の苦しむ様を見て笑っているみたいじゃないか。
悔しさに歯噛みしていると、ぎゅっと重ねられた手に力がこもった。
僅かに視線を横に向ければ、彩葉は虚ろな目でずっと治療室の扉を眺めていて、その姿はまるで数日前のわたしのようだ。
あの時、消えちゃいそうだったわたしを支えてくれたのは、ヤチヨだ。
ヤチヨがずっと傍に居てくれたことが、かぐやにとってどれだけ救いだったか、幾ら言葉にしてもしきれない。
だから今度は、かぐやが彩葉に寄り添い、彼女を支えた。
自責の念にはひとまず見ないふりをして、そっと彩葉の手を握る。すると、彼女も同じだけの力で握り返してくれた。
そうして手を重ねたまま、何時間も待って、ようやく処置が終わる。
結果的に言うと、一命はとりとめたが、彩葉のお母さんはいつ目を覚ますのかも分からない昏睡状態となってしまった。
家に帰ってきたのは、午後八時を十分ほど過ぎた頃だった。
日はとっくに沈んで外は暗くなり、一般的には夕食時とされる時間帯だが、帰宅したリビングにそんな和やかな雰囲気は少しもなかった。
「ごめん、今日はご飯いらない。ちょっと……一人にして欲しい」
それだけ言って、彩葉は自分の部屋にこもってしまった。
静寂に包まれたリビングは、ここ数日の彩葉が居ない日常となにも変わらない、鼠色の空虚さに満ちていた。
いやむしろ、気持ち的な面も合わせば、今の方が何倍もしんどい。
ソファーに体を預けて、かすれた声で呟いた。
「………散々だね。本当に……」
彩葉は、久しぶりに食べるかぐやの手料理を楽しみにしていた。
だから、今日は朝から下拵えして、病み上がりに優しくもとびきり美味しい料理を食べさせてあげようと思ってたんだ。
辛いことがあっても、この家に帰ってくれば、二人一緒の日常が心の傷を癒し、冷えた心を温めてくれると信じて。
けど、現実は
――見てよ、この薄暗いリビング。
これのどこに、温かさなんてあるの?
あまりにも、理不尽過ぎる。これまで多くの傷と痛みを背負いながら、それでも頑張ってきた彩葉が、受けていい仕打ちじゃない。
「どうして神様は、彩葉にばかり辛くあたるのかな」
なにもかもが、あの子に優しくない。
幸福は別れに、愛情は哀へ。
固定されたシナリオみたいに、不幸な方へと吸い込まれていく。
そんな現実を嘆き、呪って、けれども結局は全部
「いや……どの口がって、話か。本当に、一番酷いのは……他の誰でもない、わたし自身だもんね」
何故なら、その一番向こうにある最も悲しい結末は『わたし自身』だから。
わたしは誰も聞いていないのを良い事に、自らのうちに秘めた運命を口にした。
「……ねえ、彩葉。かぐやね。もう、帰らないといけないんだよ……あと、一週間とかで……」
白い人型こと、月人に触れた時、わたしは全てを思い出した。
自らを待ち受ける運命を、結末を悟った。
その時のわたしといえば滑稽もいいところで、白昼堂々その場にうずくまって吐きそうになったんだ。
――だって、仕方ないでしょ?
それってつまり、誰よりもわたし自身が、彩葉を泣かせる人になるってことなんだ。
「帰りたく……ないよ……だって、そんなことになったら、彩葉は……」
わたしなんてどうでもいい。
彩葉が幸せならそれでいい。
そこに安心できるなら、月に帰るのだって納得できた。
けど彼女の幸せは、かぐや無しで決して実現されないことを、かぐやは知ってる。
『私には、これだけあればいい』
彩葉が病室で、かぐやに言ったことだ。
母親から酷い仕打ちを受けて、どうしようもなく悲しかっただろうに、彩葉はかぐやの手を握って、その言葉と一緒に笑ったんだ。
彩葉にとって、母親はとても大きな存在だ。
あんなことをされても尚、嫌いになれない、大切な家族だった。
そんな母親との縁が切れたとしても、かぐやが居ればいいだなんて、幾ら馬鹿なわたしでもその言葉の意味と重さくらい分かるよ。
そこから、わたしまで消えたら、彩葉はどうなる?
母親とすらあんな形での結末を迎え、自責の念でぐちゃぐちゃになった彼女の前から、あと数日でわたしまで居なくなるんだ。
かぐやが彩葉の立場で、もしそんなことになったら……
―――生きていくことすら、できなくなっちゃう。
ダメだ、ダメだ。そんなのは絶対にダメ。
「やっぱりダメ。彩葉を一人になんて、出来る訳ない」
どうにかしたい。
最初からそう思ってるけど、現実問題として厳しすぎる。
かぐやがどれだけ必死に考えても、どれも無意味だって頭の冷えた部分が言う。
それに伴って、ただでさえ最悪の精神状態が更に落ちていく。
「一体、どうすればいいの?誰か、教えてよ……」
よりにもよって、こんな無理難題をどうにかしない限り、誰も報われない結末を迎えてしまう。
考えても考えても、待っているのは『無理』の二文字。
悩み抜いた末に、これなら行けるかもと思えるような案すらも浮かばない。
いつもは恐れ知らずで、迷わず「天才ですから!」と自画自賛できる思考回路が、ここに来て完全にドツボにハマっていた。
「せめて、きっかけだけでも……なんかないの?」
しまいには逃げ場を探すように視線をリビングに彷徨わせる始末。
台所、階段、窓、テーブルと来て視線が止まる。
そこには、見慣れたコンタクトレンズ型のデバイス。わたしのスマコンが置かれていた。
「あっ……わたしの、スマコン」
ソファーから立ち上がって、テーブル上に置かれたそれを手に取る。
「月の奴らは、多分ツクヨミを通してかぐやを迎えに来る。解決の糸口があるとすれば、あそこしかない」
現実に立てこもった所で、どうせ逃げ場はない。
むしろ、もっと良くない事が起こるだろう。
必然的に向こうでどうにかする必要がある。
「一度、向こうを見て回れば、何か思い浮かぶかな……」
どちらにしても、このままここで考えていても時間を無駄にするだけ、それならいっそのこと現地にログインしてみたらどうだろうか。
彩葉のことを残して仮想世界に行く事自体、気が引けるけど、今は一分一秒が惜しい。
「よし、行ってみよう」
早速スマコンを付けて、目を閉じた。
✧・゚: *✧・゚:*
この常夜の世界は、いつだって煌びやかに光り輝いている。
和楽器の趣きある音が鳴り、露店に、ゲームに、スイーツと様々な遊び心で目白押し。
現実で何が起きようと、この世界の光が真の意味で消えることはないのだろう。
その証拠に、かぐやと彩葉はこんなにも辛い現実を送っているのに、ひとたびログインすれば、それが嘘のようにひっくり返る。
まるで現実こそが夢のように感じてしまうのだ。
「相変わらず、うるさいくらいに煌びやかな世界……いつもは来ただけでテンションが上がるのに、今はこの明るさがちょっと眩しいかも……」
犬DOGEを連れて、至る所を歩き回る。
行った事ある場所を再び訪れ、或いは行ったことない場所を見つける度に、わたしがまだこの世界の一部しか知らなかった事に気付く。
ヤチヨが心血注いで作り上げ、現在進行形で成長を続ける仮想世界。
揺らめくままに徒然と、広大な仮想世界を歩み進めば、その分だけ新たな顔と色がいくつも見えてくるし、刺激としては十分すぎるほどだ。
「こうしてちゃんと探検したことってあんまり無かったけど……こんなに広かったんだ、ツクヨミって……」
インスピレーションを得られないかと繰り出した幻想世界は、かぐやの中にあった思惑に関わらず、等身大の姿で相手してくれる。
そんな中でわたしは、自らの楽でいられる場所を探すように、広々とした神々の街の光から、半場逃げるように暗がりへと足を運ぶ。
そこは入り組んだ路地の一角だ。
気が付くとそんな所に居た。
「暗い路地。灯りはまばらな灯篭だけ……ツクヨミにも、こういう場所があるんだ」
なんでそこへ来たのか、聞かれても答えられない。強いて言うなら無意識だ。
光に包まれた世界のほんの一部、建物の隙間から覗く月と灯篭の薄明かりだけに照らされた独特な空気感の場所。
それはまるで、かぐやの心の仄暗い部分を表しているようだ。
「なんでだろ。寂しい雰囲気なのに……すこし、安心する」
苔むした石畳の上をカツカツと音を立てて歩く。
鬱蒼としていて、人によっては即座に踵を返すだろうくらいには不気味な感じなのに、かぐやは一歩また一歩と路地の奥へと歩を進める。
町の喧騒も、人々の笑い声も、ここには何一つとして届かない。
「この感じ、彩葉も好きそう」
湿っぽい雰囲気の彼女が、そこに立つというだけで絵になる。
非日常の中に芽生えたささやかなふわふわ。
それは求められた時は道となり、そうでない時は口を閉ざす。
奇術トリックのような形相で持って、わたしを誘っていく。
やがて、視界が開ける。
路地から抜けると、そこは月に照らされた小さなテラスだった。
「綺麗……こんなに良い場所なのに、誰も居ないなんて……え?」
私はそこで目にしたものに、足を止め言葉を切る。
誰も居ないかと思われたテラスには、なんと”先客”が居たのだ。
それだけならまだ驚くまでは行かなかっただろうけど、問題はそこに居た人物だった。
「なんで……」
テラスの一角、悠然と佇む銀髪の少女。
眉目秀麗。鮮美透涼。活発艶麗。夜空の下に佇むその姿はまるで月下美人の花。あらゆる賛美と称賛を受けても尚、それらが霞むほどの存在感。
かぐやもよく知るその人は、間違えてもこんな通常エリアの端も端に居ていいような身分じゃない。
「ん……?おやおや、今日は珍しいお客さんだね」
けど、その声が、振り返った貌が、彼女が間違いようもなく『月見ヤチヨ』であることを証明する。
月から落ちた雫のように、月光のもとで揺らめきながら美しく、彼女はわたしに言った。
「いらっしゃい、かぐや」
―――月見ヤチヨ。
月が良く見える、静かなる特等席。そこに座っていた彼女は、いつもみたいにやんわりした笑顔をかぐやに向けた。
思いがけない出会いだ。
ヤチヨがあの城から出て、こうしてプライベートエリアに出ているのなんて見たことがない。
それも当たり前で、ヤチヨはこのツクヨミで一番の有名人であり、圧倒的オンリーワンの歌姫なのだ。
そんな彼女がその姿のまま街へ繰り出そうものなら、たちどころに数多のファン達が押し寄せ、企画無しのゲリライベントが始まってしまう。
だからこそ、普段は二つ結びにしている髪を下ろし、悠々と佇むその姿は、一見無防備にすら見える。
「……なんで、ヤチヨがこんな所に居るの?」
わたしは迷いながらも、敢えて彼女の誘いには従わず、そう訊ねた。
「うーん、やっぱりそこが気になる?そういえば、あの子にも最初同じようなことを聞かれたっけ……」
ぶつくさとかぐやにとっては意味の分からない言葉を口にしながら、ヤチヨは視線を前に戻す。
「そうだね……隣に来たら教えてあげる」
背を向けているから、当然顔は見えない。
彼女は今、どんな表情をしているのだろう。いつみたいに、開花した鈴蘭のような微笑みを浮かべているのだろうか。
わたしからしたら『無責任』で『曖昧』な彼女の言葉と笑顔。
でも、芯がある言葉を口にする時、彼女の口調は誰よりも優しくなることも知っている。
目の前にある華奢な背中から伺える雰囲気は、そっちに近い。
「……しょーがないなぁ」
わたしはやれやれといった風を装って、テラスに足を踏み入れる。
一番奥にある簡素なベンチが、ヤチヨの神座だ。
ここには灯篭すらない。
月明かりだけが光の役割を果たしており、故に足元は見づらいけれど、それが返って上品で幻想的な絵を作り出している。
絵の中に、お姫様は居る。
寂し気で、儚げだ。
普段、大衆に見せる姿とは違った一面がそこにはあって、それはこの前、かぐやに寄り添ってくれた『優しくも強いヤチヨ』とも異なる。
なのに……否、だからこそ美しい。
艶やかに流れる銀色の髪が、月の光を反射してさらさらと風に揺れる。厳かにして高潔、純粋でありながら温和。
深みのある壮麗さに目を奪われそうになってしまう。
そういうのを見るたびに、どうしても『敵わない』と思うんだ。
「すぐ後ろまで来たよ。この距離でもダメ?」
一度、背後で立ち止まってそう聞く。
どうにも、そう簡単にそこに座りたくなかった。なんだか、その場所が、彼女にとってとても大切な場所のように感じて。
「ダメ、ちゃんと隣に来なさい」
ヤチヨは、ぴしゃりとわたしの言葉を一蹴する。
「……そう。わかった」
ここまで来て、引き返す道などありはしない。
観念すると言っては少々解釈がズレるけど、そんなニュアンスで言葉を紡ぎ、ヤチヨのゆるりと隣に腰を下ろした。
――なんだ、あんま変わんないじゃん。
ここに来て、ようやく拝むことができた彼女の横顔は、やっぱりいつも通りだった。
悲しげな雰囲気どころか、儚さの欠片もない。
「ありがとう。それじゃあ、まずは……ここに居る理由、だったよね」
適当なこと言って話を逸らすような事はせず、彼女は約束通り先程の問いの答えを口にした。
「簡単だよ。ヤチヨは、この場所が好きだから」
綺麗な色をした瞳に、まんまるとした月を映して言う。
「ここは、メインストリートとも離れてて、滅多にプレイヤーは来ないし……静かで、月が綺麗で、落ち着いて秘密の時間を過ごすのには持って来いでしょ。特に、こうして可愛いお嬢さんとの逢瀬を楽しんだりとか……」
語ることに嘘の気配は感じない。
しかし、どうも釈然としない。
だって、静かで落ち着ける場所って意味では、あの城の中にあるヤチヨのプライベートルームだって同じのはずだ。
それでもわざわざこの場所に、一人で居た理由が『それだけ』だとは思えない。
「本当に、それだけ?」
だから聞いた。
すると、ヤチヨは一瞬驚いたような顔をした後、諦めたように息をついて口を開いた。
「……やっぱり気付くかぁ」
困ったように笑って、かぐやの聞きたかった答えを語り始めた。
「どうだろ……ヤチヨにも色々あるからね。皆が思う以上に心労は多いし、悩んだりもする。そういうのを癒す為に来てるのは、嘘じゃないよ」
そう前置きをした上で、ヤチヨは再びわたしを見てこう言った。
「でも、その内側……心の奥底にある思い出が、この場所をより特別なものにしてるのは……否定できないかな」
恥ずかしそうに頬を薄く染めて、口元を隠す姫君。
その姿はまるで遅咲きの夜桜、周囲が葉になれども枯れることを知らない悠々な在り様でもって、上品でありながら可憐な仕草で夜闇を彩る。
彼女をそうまでさせる思い出とやらは、一体どんなものなのだろう。
訊きたいけど、何故かそれをここで問うのは、とても無神経な行為に思えた。
「なんだよ、それ……全然、意味わかんない」
「ふふっ、分からないくらいが丁度いいんだよ。こういうのはね」
結局そんな言葉で濁すことになって、ヤチヨは楽しそうにあの特徴的な薄笑いを浮かべていた。
前までなら、素直に憎まれ口の一つでも叩けたと思う。
でも、もうわたしはこの子の優しさを知ってしまった。
わたしの好きの中に、ヤチヨは既に入っている。そのおおらかさがムカつくのに、同時に心地よくもあるんだ。
「……ヤチヨはいいよね。少なくとも、かぐやみたいな悩みは無さそう」
ぶっきらぼうな態度で言っても、ヤチヨは意に介さず返答した。
「そういうかぐやは、今とても悩んでるみたいだね。テラスに入って来て、最初に見た時すぐにわかったよ。だから、ここに辿り着いたんじゃないの?」
「…………」
図星だった。
それも最初から気付いてたって言うなら、彼女が隣に座ることに固執していた理由も見えてくる。
かぐやからヤチヨに問いを投げ、彼女がそれに答えるという状況を作ったのも、こうして話易い雰囲気を作るため。
事実として、ヤチヨから不躾に「なにかあったの?」と最初の時点で聞かれていたとしても、かぐやは素直にはなれなかった。
「今度は、かぐやの話を聞かせてよ」
本当に、敵わない。
なんでそんな気遣いが自然に出来ちゃうんだろうな、この子は……
「ずっこいなぁ、ホント……」
彩葉のことも、かぐやのことも、ある意味では芦花や真実より知るヤチヨだからこそ、離せることもある。
それに、ヤチヨはこのツクヨミの制作者にして管理者だ。
かぐやでは考えつかないような妙案も、この子なら浮かぶかもしれない。
「……どうしたらいいのか、分からなくなっちゃって……」
ポツリぽつりと、心の内に秘めていた感傷を口にしていく。
ヤチヨは表情から微笑みを消して、優しいながらも真剣な面持ちで聞いてくれる。
「彩葉は今、色んな不幸が重なって、凄く傷付いてる。かぐやは、傍に居てその傷を癒してあげなきゃいけないのに……時間が無くて、できそうにないんだ」
とりとめもない言い方で、ヤチヨにとっては何の事か分からないはずだ。
それでも一切の口を挟まず、彼女は静かに相槌のみを打つ。
わたしにとってはそれが、とてもありがたかった。
「彩葉は、さ。多分だけど、かぐやのこと、凄く大好きなんだ。きっと、誰よりも大切にしてくれてる。かぐやが彩葉を想っている以上に、そう思ってくれてるかも……しれなくて……」
彼女の想いに答えたい気持ちと、答えられない現実。
愛を持って抱きしめるほどに、わたしは彩葉から大事なものを奪ってしまう。
与えた分だけ喪失の痛みは大きくなり、彩葉は近い未来、それらを抱えて今度こそあらゆる色を無くしてしまう。
「彩葉の傍に居るためには、どうしたらいいかって……沢山、ほんとうに沢山考えた。だけど、全然わかんなくて……」
こんな事なら、彩葉の記憶からかぐやの部分だけ消してしまおうか、なんてことも考えたんだ。
でも嫌だった。
どうしても、それだけは嫌だったんだ。
浅ましいことに、かぐやの事を忘れて彩葉が幸せになるくらいなら、例え絶望することになろうと覚えていて欲しいって思ってしまう。
彩葉が幸せになること以上に、彩葉を幸せにしたいって感情が勝って、そんな最低な自分をもっとずっと嫌いになる。
その繰り返しだ。
「信じてもらえるか分からないけど……かぐや、月から来たんだ。それで、もうすぐお迎えが来ちゃうの」
「それは……」
そこで、ヤチヨが初めて話の途中に言葉を発した。
見ると、悲しそうな表情がそこにあって、彼女はなにかに耐えるように唇を震わせていた。
どんなことを思っているのか分からないけど、少なくとも信じてない人がするような顔じゃないのは確かで、わたしは嬉しくて少し笑っちゃうんだ。
「……信じてくれるんだね。ありがとう」
やっぱり、ヤチヨと友達になれて良かった。
こんなに優しくて、可愛くて、真摯に向き合ってくれる人はそうそう出会えるもんじゃない。それこそ、彩葉の次に好きかもしれない。
「この前、コラボライブの後に乗り込んできた奴らが居たでしょ。あれが、月の連中。次の満月の日……一週間後、このツクヨミにかぐやを迎えに来る」
そんな彼女だからこそ、わたしは勇気を出して頼ることが出来る。
「ヤチヨなら、どうにかできない?」
今度こそ、ヤチヨは目を見開いて固まった。
何か言おうと口を開こうとして、閉じてを繰り返す姿は、彼女らしくない動揺の証だ。
その反応を見ただけで、大体どういう返答をオブラートで包もうとしているのかは分かる。
彼女はわたしを思いやって、伝え方を工夫しようとしてくれてるんだ。
「……ごめん。そんな事言われても、どうしようもないよね」
「ちがっ……ヤチヨは……」
分かっている。
幾らヤチヨでも、月からの干渉を防ぐのは不可能だ。
それくらい、向こうとこっちの技術力には差がある。
これはヤチヨ自身も、この前の干渉を通して分かっている。だから、なるべく傷つけない方法で『できない』を伝えようとしてくれたんだ。
「いいよ。別に、怒ってない。そもそもこれ、かぐやがどうにかするべき問題だから……ヤチヨを巻き込むのは筋違いってやつだよね」
「っ…………」
何も言わずに、ヤチヨは視線を斜め下に落とした。
わたしとか彩葉が、言葉に詰まった時たまにやる仕草。ヤチヨもやるんだって思うと、ちょっと安心する。
さっきの問いは、ヤチヨにとってはどんな返答の仕方をしても罰が悪い、いじわるな問題だ。
そんなことをわざわざこの子に言わせたくはない。
「話、聞いてくれただけでも嬉しかったよ。この事はちゃんと、かぐやが自分で考える」
「待って!」
そこまで言うと、ヤチヨは耐えきれないといった様子で声を上げた。
反射的に身を固めてしまうくらい大きな声での制止に、かぐやは思わず目を丸くしてしまう。
ヤチヨは、それはそれは真剣な眼差しをわたしに向けて、口を開いた。
「消させたりなんて、しないよ」
「え?」
どういう意味か分からず困惑してしまうが、ヤチヨはそんなかぐやを前に変わらぬ様子で言葉を紡ぐ。
「子守唄も、まずいパンケーキも……幸福なことも、ちょっと不幸なことも、二人一緒なら全部かけがえのない思い出になる。ねえ、かぐや。よく聞いて。ヤチヨは、そんな二人にずっと幸せでいて欲しい」
「ヤチヨ……」
両肩に手を置いて、慈しみに満ちたかんばせがわたしに向けられる。
誰かを思いやり、幸せを願う。
言葉にすると短いけど、それがとても難しくて、尊いことをわたしは知っている。
伝えること自体に大きな勇気が必要で、それはつまり、ヤチヨはかぐやと彩葉のためにそれだけ心を砕いてくれてるってことなんだ。
「片方が欠けたら、その瞬間に全部失ってしまう。なにもかも、灰色になって……」
わたしまで、その想いにあてられて、感情が揺さぶられる。
「どうするかは、言えない。言えないけど……絶対にヤチヨがなんとかする」
そう言ってくれることが、どれだけ救いになるか。
この子がそこまで言うのなら『ああもう大丈夫』って、なんの根拠もなしに安心できてしまう。
「ヤチヨ……」
わたしと彩葉の未来。
暗闇に閉ざされていた道に、銀色の光が浮かんで『こっちだよ』って導いてくれてるみたいだ。
助言をくれて、支えてくれて、今度は理不尽な運命から守ってくれるんだって。
なにそれ、かっこよすぎるでしょ。
「どうして、そこまで……」
ずっと聞きたかった。
付き合いの短いヤチヨが、そこまでしてくれる訳。
彩葉との間に何か特別な縁があるなら、彼女のことを気にかけるのは分かる。
でもヤチヨは、わたしのことすら何度も助けてくれた。自暴自棄になりそうになった時、そうじゃないって叱ってくれた。
わたしが、彩葉の恩人ってだけじゃ説明が付かないほどの愛情だ。
きっと、何か特別な理由がある。
そしてこれは、絶対にわたしが知るべき事だって感覚が言ってる。
なのに―――
『ネムッテ!ネムッテ!』
いつもいつも、肝心なところで間が悪い。
「あっ……」
ヤチヨは肩に現れてアラートを鳴らすFUSHIを一瞥し、またわたしを見ると、月のように淡い微笑みを浮かべた。
「今日はここまで、だね」
やめてよ。
なんでそんな悲しそうな顔して、そんな事を言うんだ。
そんなのもう、何かあるって言っているようなものだ。
「待ってヤチヨ!まだ……」
「ごめん。きっとまた、すぐに会えるよ」
そう言って、彼女は月の浮かぶ夜空へと消えていった。