余命数年の私の元に現れたかぐや姫 作:グランドマスター・リア
一日中、ずっとなにもない場所を見つめている。
東京に来たばかりの頃もそうだった。
芦花や真実といった親友も居なくて、誰かと遊ぶ予定もなく、バイト先も見つかる前だったから、休日なんてゲームする以外にやることはなかった。
そうして、死んだように過ごす時間。
時折、ヤチヨの祭壇を見つめては、ツクヨミに潜って、KASSENをやって、発作が来て。
場所が変わっただけで、私自身の姿は何も変わっていない。
――結局、何をしたかったんだろ、私……
お母さんを拒絶して、東京に来て、二年の時を経て再会し、また同じことを繰り返して、最後にはあんな結末を迎えた。
向き合うか、縁を切るか。
その二択を最初から決断していれば、こうはならなかった。
向き合う覚悟をしていたら、病室で詰められた時も臆さず立ち向かえただろう。
縁を切ると告げることができていれば、母が再び私に会いに来ることもなかった。
無数の『たられば』が頭に思い浮かぶ。
上手く折り合いを付けられない中途半端さのせいで、本当に取り返しのつかない事態になるまで、私は何もできなかった。
毎週、電話ではあっても話してはいたんだ。
ゆっくりと距離感を作る時間は幾らでもあった。
それをしなかった結果、私は分水嶺を越えるのに失敗した。
大きなショックを受けて、こうして塞ぎこんで、大切な一秒を無為にし続けている。このままでは、まるで失敗から失敗へとループするジレンマだ。
分かってるよ。
私が足を止めて、幾ら悲しみ後悔したところで、起きてしまった事が変わる訳じゃない。
何もせずに居れば、傷つかない……なんてのはまやかしで、実際は後にもっと大きな後悔を背負うことになる。
どんな過程を踏もうが、散華の結末は決まっている。
ずっとこうしていた所で、私の命は刻一刻と終わりへと近付いていく。
時計の針は、決して止まらない。
「……おなか、空いた……」
お昼からなにも食べてないせいか、とうとう空腹感が限界になり、よろめきながら立ち上がる。
デジタル時計を見れば、すでに深夜の二時だ。
軽食を求めて部屋を出るけど、かぐやには夕食はいらないと言ったから、何もあるはずがない。
「かぐやにはご飯いらないって言ったし……コンビニに行くしかないか」
冷食の類いは備蓄してないので、最寄りのコンビニに買いに行くしか腹を満たす手段はない。
憂鬱な気持ちのまま、覚束ない足取りで下へ降りる。
真っ暗なリビングにつくと、リモコンで台所の電気だけつけた。
「……ん?キッチンに、なんかある」
すると、私はそこにあった物を見つけた。
キッチンには、蓋のされた皿が置かれていて、上には簡素なメモ書きが添えられている。
変な生物の絵付きで『お腹が空いたら食べてね かぐや』と書かれたそれを見て、おそるおそる蓋を取ってみた。
「オムライス……これ、かぐやが?」
ケチャップでハートが描かれた月のように綺麗なオムレツ。
その下にあるであろうチキンライスもきっと絶品に違いない。
かぐやが作ってくれたオムライス。
その単語だけで食欲がそそられ、さっそく電子レンジで軽く温めると、テーブルへ持っていく。
「……いただきます」
スプーンでよそって口へ運ぶと、絶妙な甘酸っぱさが口に広がった。
「美味いじゃないのよ」
さっきまでは、生理的に空腹を感じていただけで、食欲なんて全然なかった。
それなのに、次々とスプーンが進む。
濃すぎず薄すぎない味付けも、腹八分で満足するように調整された量も、なにもかもが私に合わせられている。
食べているだけで、かぐやの優しさが伝わってくる。
私が『いらない』と言った後に、彼女が一人このキッチンで丹精込めてオムライスを作っている姿が、頭に思い浮かぶ。
「っ……うぅ……」
思いやりが、心にしみてくる。
病人用の食事は、作るのが難しい。
栄養バランスに気を付けながら、味、量、これらを考えた上で当人に美味しいと思ってもらうとなれば、尚更だ。
このオムライス一つ作るのだって、相当な努力が必要なはずなんだ。
普段の食事でも、かぐやはいつも感想を聞いてきて、熱心にメモを取っていたのを覚えている。
私が居ない間に、何度も自分のお金で試作をしていたのだって、知っている。
ただ一人、私の為だけにそこまでしてくれているんだ。
勿論、感謝してなかったわけじゃない。
だけど、以前も今も、余裕がなくて言えなかった『ありがとう』は無数にある。
それでも、かぐやはずっと、幸せそうに私を見ていた。
「美味しい……おいしいよ、かぐや」
――愛されているんだ。私は……
優しさや良心だけで、人はここまで出来ないことを私は知っている。
もしこのオムライスが、冷めきったまま朝まで残っていても、きっとかぐやは泣き言一つ言わずに、傷付いた私に寄り添ってくれるんだ。
何度目を逸らされ、気遣いを無下にされても、かぐやは私を嫌いにならない。
私が決して、かぐやを嫌いにならないように……
「ごちそうさま」
食べ終わると、しっかり手を合わせる。
食器も洗って片付けまで済ませると、二階へ上がって、かぐやの部屋をノックした。
「……かぐや、起きてる?」
幾ら不規則な生活をしているかぐやと言っても、こんな時間だから、寝ている可能性の方が高い。
迷惑をかけてしまう事を理解し、それでも私は彼女に会いたい気持ちを抑えられなかった。
「彩葉?うん、起きてるよ。ちょっと待ってね」
幸いなことに、部屋の中からは明瞭な返事が返ってきた。
程なくしてドアが開いた。
「どうしたの。こんな夜遅くに……」
部屋から出てきたかぐやは、態度も様子も、声音も少しも変わらない。
いつもと同じ調子で私を迎えてくれる。
「……………」
「彩葉?」
どうしても、彼女に会いたかった。会って、ご飯のこととか、それ以外にも、色んなことに『ありがとう』って言いたかった。
それなのに、いざ顔を合わせると何も言えない。
気まずいとかじゃない。私は、自分が思っている以上に、他人と話せるだけの元気がなかったんだ。
訪ねてきた癖に、何も言わない私に、かぐやは愛情のこもった笑みを浮かべて、こう言った。
「……とりあえず、入って」
導かれるまま、部屋に入る。
かぐやの匂いがする。
編集作業でもしてたのかな、パソコンには動画編集の画面が映っている。
かぐやはベッドの前辺りまで移動すると、振り返って言葉を紡いだ。
「彩葉の方から訪ねてくるなんて、珍しいね。何かあった……は、ちょっと違うか。こういう時、なんて言えばいいのかな」
必死に、私へかける言葉を探すかぐや。
無条件に、どこまでも、誰よりも愛してくれる彼女の声が聞きたくて、夜も深くなった午前二時に訪ねたというのに、片っぽからは言葉もないちぐはぐさ。
言わなきゃ伝わらない。
そんな当たり前を分かっていてできないのは、言わなくても私の望んでいるものをくれるかぐやに、弱った心が甘えているから。
「う~ん……あ、もしかして、お夜食のお礼とか?さっき下に降りる音したし、絶対そうでしょ」
ほら、分かってくれる。
「もー、そんなの気にしなくていいのに~。今は、彩葉にとって難しい時なんだし、かぐやに出来ることならなんだって……えっ、わわわ!?」
たまらなくなって、歩み寄り、彼女を抱きしめベッドに押し倒した。
胸に顔を埋めて、心身の全てでかぐやを感じる。
「彩葉……本当にどうしたの?」
人肌が恋しくて、寂しさと悲しさでひび割れた心は、無性に癒しを求めてしまう。
晴れた春の縁側で、お姫様に膝枕されて、安らかに眠っているような快感。ずっとここに居たくて、切なくて、胸の内でほろほろと甘い涙を流す。
「ごめん……ちょっとだけ、こうさせて……」
しっとりと口にすると、さわりと華奢な両手が頭を撫でる。
「よしよし、大丈夫だよ。彩葉の気が済むまで、かぐやはずぅっとここに居るから……」
こんなにも辛いことがあったのに、あなたへの気持ちだけは色鮮やかに溶けていく。
ほうっと頬がゆるゆるになって、淡い雪どけの雫が彼女の胸を濡らす。
声を上げて泣くことも、矢継ぎ早に感謝を伝えるでもない。
嗚咽のひとつもなく、二人の間に切々とした幸福を分け合いながら、時間は流れていった。
✧・゚: *✧・゚:*
お母さんの事故から二日。
そうすぐに立ち直れるものではないけれど、かぐやと過ごすうちに幾分か心持ちもマシになって、メッセージアプリを見れるくらいには調子を取り戻していた。
辛いことがあっても、沈んでいくだけじゃない。
それは私という人間の成長もそうだけど、一番は大切だと心の底から思える人に出会い、その人への気持ちに自分自身が気付けたからだ。
つまり、私はもう、彼女無しではどうにもこうにもならないってことで……
「はぁ……すっかり、かぐや無しじゃいられない人間になっちゃったな……」
デスクに頬杖ついて、作曲のウインドウを見つめながら独り語ちる。
往々にして白とでも言うのだろうか。
詩的に表そうとして、結局は訳が分からないことに気づき、苦笑する。
心の在り様を文章に起こすなんて、考えてみればおかしな話だ。
わざわざそんな事しなくたって、内に留めて大事にしていればそれだけでいいはずなのに、尚も言葉や
触れ合いを通して、感触や温度を求めるのも、その一種なのかも。
そんなプラグマチックな言い方は綺麗じゃないから好きじゃ無いけどね。
「あと三ヶ月か……短いなぁ」
幸せであればあるほど、残り時間の短さを感じてしまう。
せめて来年の夏まで一緒に生きられるなら、なにか諦めの付く落としどころを見つけられるかもしれないのに、あれやこれや、思い浮かべる未来の殆どは泡沫の夢でしかない。
「その間に、私はかぐやと、どれくらいの事が出来るのかな……少なくともその時間が、私の思ってる以上に短いってのは、確かなんだよね」
母との事は、悲しいことであったと同時に、私がかぐやとの時間を一層大事にするきっかけにもなった。
乗り越えたわけじゃないけど、これ以上悲しみを重ねないために、歩くしかない。
歩けなくなった時、私の命は一瞬してなくなってしまうからだ。
「もう九月だし、夏も終わっちゃう。まだ出来てないこと、沢山あるのに……」
春も怪しいこの身で、来年の夏を迎えるのはほぼ不可能だ。
思えば、夏休みに入ってからずっとかぐやと一緒に居たのに、夏の風物詩というものにはまるで浸っていないことに気付く。
海水浴くらいしか、季節特有のイベントをこなしていないのだ。
「夏祭りは大抵どこも終わっちゃってるし……残ってるとしたら、花火大会とか?」
そこでふと、思い出す。
そう言えば、この前芦花と真実からその手の催し事の情報をもらっていた気がする。
確か電子チラシのデータをフォルダにしまっていたはずだと検索を回すと、やはり催事関連のところに放り込んでいた。
「これだ。九月八日開催の花火大会」
サマーフェスティバルと銘打った広告には、丁度明日の夜に開催されることが記されている。
場所もそう遠くなくて、電車で行ける距離だ。
「かぐや、誘ったら喜んでくれるかな……」
分かり切っているのに、これ見よがしに不安そうな表情をしてしまう。
自分から何かする時、それがどれだけ失敗しようのないことでも、大切な人が相手となると途端に臆病になるんだ。
そういうものなんだと分かってからも、ガラス細工みたいな心情はなかなかほぐれてはくれない。
頑なで、優柔不断で、自ら一歩を踏み出すのは今でもちょっと怖いけど、その恐怖に負けた先にあるのが海より深い後悔だってだってことは、嫌という程思い知らされた。
そんな人生の先で、ようやくここまで来たのだから、私はちゃんとあの子とのひと時を尊べる人でありたい。
「ううん、私が一緒に行きたいんだし、これはちゃんと言わなきゃダメ」
ぎゅっと胸の前で手を握って、スマホ片手に立ちあがる。
言い訳してる暇なんてない。
どんなにしんどくても、今手元にある時間を大切にすると決めた。
失った物を想って、胸が張り裂けそうなくらいに痛くても、私はまだ生きてる。
手を伸ばせば、まだあの子に触れられる。
それすらできなくなる前に、思い出だけでも沢山作ってあげたいじゃない。
一階に降りると、いつもの如く台所でかぐやが料理をしている。
見たところお寿司かな。
道具まで揃えて、何をするにも本格的な彼女らしい姿だ。
「楽しそうだね。今日はお寿司?」
「おっ、彩葉。丁度いいところに……はいコレ、お昼にはまだ早いけど味見どーぞ!」
差し出された握りたての甘鯛。
ささっと醤油を塗られたそれは、見るだけで大層美味しそうで、ぱくりと一口で彼女の手から奪い去る。
「なにこれ、うますぎ」
「良かった。彩葉、退院明けでちょっとばかし味のあるもの食べたいでしょ?これなら自分で食べる量もある程度は調節できるし、結構いいかなって」
やばい、泣きそう。
どんだけ優しいんだこの子。
自分の食べたいもの以上に、私の為を思ってここまでしてくれたことに、胸がきゅうっとなる。
こんなの、好きになるなって言う方が無理だ。
「……かぐや。明日は配信の予定とか、なかったよね?」
「ん?あ~、うん。それがどうかした?」
疑問符を浮かべた金髪の姫撫でし子に、スマホの画面を見せた。
「これ、一緒に行こ。二人きりで……」
いざ口にしてみると、驚くほど滑らかに誘い文句は紡がれた。
遊びに誘うのが初めてってわけじゃないけど、それでも妙な気恥ずかしさで顔に熱がこもってしまう。
わざわざ『二人きり』なんて甘ったるい枕詞を付けた私が悪いんだけど、自然と出た言葉がそれだったんだからしょうがない。
「………夢?」
誘いを受けた本人は数秒フリーズした後、おずおずといった様子で聞いてくる。
「現実だよ。私から、かぐやへの、遊びの誘い……どう?」
こういうのも、かぐやとなら悪くないって思える。
私の純情もなにもかも、捧げるのが彼女一人なら、今更どんな羞恥心も二の次で良い。
誰よりも色んなあなたを見たくて、言葉選びにも工夫が凝らされる今日この頃。誘いの返事はさてどうだろうか。
「行く!ぜったい行く!」
確信していた大成功。
かぐやは僅かに頬を朱に染めて、笑顔で私に抱き着いてきた。
「彩葉、大好き!ねえ、折角だし和服着ていこ!」
「はいはい。当日でもレンタルできるところがあったらね」
受け止めて、手を腰に回すと、お互いの肩に顔を寄せ合って息遣いまで一緒になる。
嗚呼、幸せだな。こんな時間が永遠に続けばいいのに。
■
翌日、午後三時頃に家を出た私達は、まず駅前にある手ぶらで当日入店ができる和服のレンタル屋へと向かう。
てっきりかぐやの事だから、道中も待ちきれないと言った様子ではしゃぎまくるのかと思ったけど、そこは意外や意外。
「九月に入ったとは言っても、まだ全然暑いね。少しでも気分が悪くなったら、すぐかぐやに言ってね?」
目の前を歩くかぐやが、振り返ってそう聞いてくる。
「分かった。気にかけてくれてありがと、かぐや」
返答すると、彼女は頷きまた歩き出す。
そっと手を繋いで、歩幅も、進むペースも私に合わせて、なるべく日陰の多いコースを先導して歩いてくれるかぐや。
清楚さすら感じるほどのゆったりした歩みは、淑やかに私をエスコートしてくれる。
これではまるで、淑女というより紳士のようだ。
前までは有り余った元気に振り回されて、体が付いていかず不調に見舞われることもあったけど、今やこの通り。
年季すら感じるほどの、気配りに満ちた佇まい。
私を案じてそうしてくれているのは分かるけど、されている側はどうも浮足立って気恥ずかしい。
慣れた所作でそんなことをされるものだから、尚のことドキドキしてしまう。
どうやら、落ち着きのなさを地で行くような天真爛漫なお姫さまも、今日ばかりはお休みのようだ。
そうした心の居住まいを正しているうちに、目的地である和服のレンタル屋に辿り着く。
「ねー、彩葉。かぐやが彩葉の着物選んでいい?」
「別にいいよ。それじゃあ、かぐやの着物は私が選ぶね」
「やったー!さぁて、彩葉に似合いそうなのは……」
選り取り見取り、色合い模様鮮やかな着物の数々に目を輝かせながら、選び始めたかぐやを横目に私も彼女に合うものを探す。
かぐやのシルエットをイメージし、感覚的に目についたものを手に取る。
「これ……かぐやが着たら、綺麗だろうなぁ」
太陽のような彼女にぴったりな、ひまわりの意匠があしらわれた着物。
濃紺の地に、淡い黄色の花模様がすらりと葉と弦を伸ばしたような柄。
ちょっと大人っぽい落ち着きある色合いも、さっき私をエスコートしてくれたかぐやに合わせると、とてもしっくりくる。
「よし、これにしよう」
これと思うと他には思いつかなくて、それを持ってかぐやを探すと彼女も良い感じの物を見繕えたのか、一着の白地の和服がその手にあった。
「えっ、かぐやもひまわりのを選んだの?」
「彩葉とおそろ!いーねいーね、通じ合ってるって感じで嬉しさ十倍だね」
「また調子の良い事言って……それにしても、私にひまわりか……」
ちょっとイメージと違う気がするけど、かぐやは何を思ってこれにしたのかな。
それが気になって理由を聞いてみる。
「この前は私のこと、紫陽花みたいって言ってたけど……今日はなんでそれに?」
「うーん、別に深い意味はないんだけどね。なんかこう、穏やかで儚いのに、折れたりせず凛としてる感じが、彩葉にぴったりだなって思って……」
『折れたりせずに凛としてる』とは、また歯の浮くような表現をしてくれる。
私はそんな大層な人間じゃないのに、どうもその言葉を否定するのも嫌で、照れくささに頬をかきながら、おとなしくお互いの着物を交換する。
「まっ、かぐやが選んでくれたものだし、物は試しか。どっちが先に着付けする?」
「はいはーい!かぐや先にやりたい!」
「りょーかい、私は終わるまで待ってるね」
外に居る時はとても落ち着いた様子だったが、店内に入ってからはこの調子で薄笑いがこぼれる。
私はどっちのかぐやも好きだけど、今みたいに天真爛漫な彼女を見ていると自然と心が落ち着く。
自然体なあなたに救われ、どこまでもまっすぐなあなたを好きになったから、いつまでも輝かしいあなたであってほしいと、自分勝手な理想を抱いてしまうんだ。
けれど、そんな想いにも、もう嘘をつかなくていい。
好いた心を認めてからというもの、以前までのように苦しくなることはなくなった。
悩みは尽きないし、辛い事も沢山あるけど、それらは痛いだけのものじゃない。
自分にとって無くてはならない存在や大切なものがちゃんと分かっているから、考えて、躓いてもその足で立ち上がって、手を伸ばしたいって思える。
それを不器用ながらに『幸せ』と呼ぶことを、今の私は知っている。
「彩葉、終わったよ」
声が聞こえて、そっちを見る。
――息を吞む。
そこには、天使が居た。
「どう、かな?」
薄く頬を染めて、恥ずかしそうに笑うかぐや。
それはそれは、花も羨む美人のよう。
静かな夏の夜を思わせる色と柄をした浴衣は、未だ春を知らぬ少女を上品で美しい、清廉な乙女へと変えてしまう。
結われた浅黄色の髪には、百合の花飾りが差され、うなじから背筋にかけては、触れてしまいたくなるような特有の色気を纏っている。
暴きたくなるような頼りなさの中に、艶のある貞淑さ。
趣きある言い方をするなら『星涼し』。
夏の夜空に輝く星のように、和服を着たかぐやは綺麗だった。
「綺麗だよ。かぐや」
「っ、ありがとう!最っ高に嬉しい!」
一言、不要な語彙のない褒め言葉を送ると、かぐやは嬉しそうに満開の笑顔を咲かせた。
そして、かぐやの着付けが完了したなら、次は私の番だ。
「それじゃあ、次は彩葉の番だよね。彩葉の和服姿、たのしみすぎ!」
「あんまりハードル上げないでよ……」
着物を着るのなんて、それこそ十年ぶりとかそういうレベルで、正直に言うと結構恥ずかしい。
でも、目を輝かせてこっちを見てくるかぐやの手前、恥ずかしいから無理だなどとはとてもじゃないが言えない。
「しゃーない。腹くくるか」
着物も所々、体のラインが出るからあまり着たくはないのだけど、コンプレックスだった細身もかぐやのお陰で前より大分マシになったから、今はそこまで嫌じゃない。
店員に案内されて店奥の部屋に通されると、テキパキとしながらも流々と着付けが進み、ヘアアレンジにメイクまであっという間に終わる。
最後に姿見で確認すると、なんともまあ、言うほど悪くないと感じるくらいに纏まっていた。
「……うむ、悪くはない、か」
横から店員の人から「お綺麗ですよ」と称賛される。
自分には合わないと思っていた白地とひまわりの柄も、思いの外しっくり来るし、これならかぐやも満足してくれそうだ。
僅かに緊張する気持ちを胸に、お披露目。
「かぐや。できた、けど……」
声をかけると、かぐやは視線を私に向けて、固まった。
いやそこでフリーズしないでよ。あんたが着ろって言ったんでしょこれ。早く感想言ってくれないと、こっちがいたたまれなくなるじゃん。
「か……」
「か?」
びゅんと風の鳴る音が聞こえて、気が付くとかぐやの顔が目の前にあった。
「かわいすぎーー!なに着ても似合うよー、彩葉まじ天使!」
「ちょっ、着物乱れるから抱き着かないで……ああ、ほんと、しょうがないなぁ」
褒めすぎ褒めすぎ、そこまで良いものかね。
そりゃ嬉しいよ。かぐやに可愛いって言ってもらえて、嬉しいに決まってる。
「どんな姿の彩葉も、大大大好きだよ」
純粋な顔をしてそう言ってくるかぐやに、自然と頬が緩む。
本気で言ってんだよな、この子。
かぐやから好きと言って貰えることが、一番の喜びであると同時に、言い様のないわびしさもまた大きくなる。
あなたに触れて得たものは、どれもこんなに大切なのに、これ以上どこへ行く事もできないから。
私からかぐやに送ったものは、これから先の未来、多かれ少なかれ彼女の人生に光と影を落とすだろう。
だけど、それが例え、正の方向であろうと負の方向であろうと、先々へと繋がるという事実があるのなら、希望を持つ事はできる。
私には、どれだけ望んでもできない、時を経て育てるという行為。
愛を育み、二人で成長し、見えるものも見えないものも大事にしながら、お互い歩み寄って光と幸せに溢れた場所を目指す。
大人になって、背丈も顔つきも、考え方も変わって、関係性も空色から赤色へ。
可愛い少女から、綺麗な女性へと変わっていくこれからのかぐやを、ずっと見ていたい。
この子の成長を誰よりも近くで感じていたいのに、欲している時間の八千分の一すら、私は持ち合わせていない。
――本当に、なんで私なんだろう。
最近になって、とりとめもなく自らの不幸を嘆くことが多くなった。
前は『死ぬなら死ぬで仕方ない』とか思ってた癖に……
残していく物が多くなると、途端に怖くなるなんて……
花火が始まる一時間ほど前に、会場につく。
人が多いと尚のこと、かぐやは私の手を強く握って、慎重と言っても良いくらいに私の前を歩いている。
「すご、屋台もたくさんあるよ。彩葉!」
「そこそこ大きな花火大会だし、ここで買って花火を見ながら食べるって人も多いからね。私達もなんか買ってこっか」
「ほんと?じゃあー、たこ焼きでしょ、やきそばでしょ。あとあと、射的とかもやりたい!」
「花火まであまり時間ないから、程ほどにね」
なんでも買おうとするかぐやを制御し、手頃に小腹を満たせる物を買って河川敷へと向かう。
既に観覧客が場所取りを始めており、私達もレジャーシートを広げて屋台で手に入れた戦利品をおろす。
かぐやが釣った二匹のカニと、私が射的で落とした景品とかもある。
「なんとか間に合ったね。見た感じ、あとちょっとで始まりそう」
「お祭り、めっちゃたのしー!花火もどんな感じなのかなぁ」
回れた屋台は、全体の三分の一にも満たない。
かぐやのことだから、きっと全部回りたかっただろうに、あくまでずっと私のペースに合わせてくれた。
私にも、せめて普通の人くらい体力があれば、もっとかぐやのやりたい事をさせてあげられるのに……
何度も嚙みしめた悔しさだけど、同時に気遣ってくれるかぐやの気持ちも嬉しくて、守ってくれる小さな背中がカッコ良くて、複雑だ。
「私も来たのは初めてだから、ちょっと楽しみ」
嘘じゃないけど、嘘。
本当に大事なのは、花火の内容じゃなくて、かぐやと一緒に過ごす時間。
夕日が暮れ、空が暗くなってきて、とうとうメインイベントが始まろうとしている。
「………」
「………」
独特の空気。
重くないけど、軽くもない。近頃、私達の間にはこういう時間が増えた。
嫌いじゃないけど、特段好きにもなれない。ほろ甘くてわびしい、私達の現在の関係性を表したような静かな合間。
「……彩葉は、さ」
沈黙を破ったのはかぐやの方だった。
「今、幸せ?」
聞かれて、私は考えるまでもなく頷いた。
「幸せだよ。まあ辛い事は、いっぱいあるけど……」
悲しみの中で、幸せを感じたっていい。
かぐやと居る時間は、どうやったって楽しいし、ふさぎ込むだけの私じゃ居られなくしてくれる。
「そっか。やっぱり、彩葉は強いね」
どういう意味かは、分からない。
不躾にも思えるその言葉に、私はなにも言わず、星の輝きだした空を見上げる。
これよりそこに、火の大輪が咲く。
「月って……」
タイミングだと思った。私は、言葉を探して、初めてそれを口にした。
「どういう所なの?」
意図を察したのか、そうでないのか、かぐやは視線を落としたまま答える。
「つまんない所。味も、温かみもなくて、一生同じことをループするだけの毎日。楽しいお話の一つも出来ないし、しようとする事自体が異常って感じなんだ。だから、かぐや……浮いてたんだよね」
悩みを打ち明ける風でもなく、淡々と事実を語っていく。
その話を聞きながら、私はかぐやの変化の理由におおよその察しを付けつつも、黙って彼女の言葉を聞く。
「この場所は、本当に楽しい。皆自由で、不規則で、かぐやが何かすれば、それ以上の反応を返してくれる」
私が当たり前に見てきた世界と、かぐやの当たり前は大きく違う。
自ら心を殺して生き、温度も味もなにもかも拒んだ私と、それを欲してこんな所まではるばるやってきたかぐや。
きっと二ヶ月前の私は、かぐやの語った月の世界を大真面目に羨ましいと言ったに違いない。
それだけ、変わったんだ。
私も、かぐやも。
「月からこの世界を見た時、ここに行きたいって……それで、気付いたら舟に乗って、飛び出してた」
自らの手を見つめ、握ったり開いたりしながら、感慨深げにそう語るかぐや。
「でも、こっちに来て気付いた。皆、抑えてもいるんだよね。もっと大事なもの……人によっては、命より大切なものの為に……」
ハッとした。
かぐやを見ると、彼女もこちらを見ていた。三角にした膝の上に、顔を置いて微笑んで、優し気なまなざしを向けている。
「かぐやも見つけたから、そういうの……」
花火が始まる。
火薬の匂いと、圧のある爆ぜの音。
「あっ、始まった。うわぁー、綺麗」
きれい。
そう、綺麗だ。
かぐやは上がっては咲く花火に夢中で、そんな彼女を私は花火そっちのけで見つめている。
心臓がとくり、とくりと脈打つ。
胸に手を添えると、音はどんどん明瞭になってくる。
「っ………う……」
熱い。
気温のせいじゃない、体内側から上ってくるような熱。
そっと傍に置いてある青いポーチに手を伸ばす。
薬を取り出して、口に放り込んで、水を飲む。
苦しい、嗚呼、苦しいな。
これは発作のせい?
それとも……
「大丈夫」
背中に、そっと手が添えられる。
視線を横に移すと、かぐやが傍に居た。
「落ち着いて、深呼吸だよ。そう、良い感じ。大丈夫、かぐやが付いてるよ」
あったかい。
今しがた感じていた、苦しい熱じゃない。背をさすってくれるかぐやの手から伝わる温度が、そっと体の芯をほぐしてくれる。
彼女の声が、心のしんどい所を撫でてくるんだ。
「っ……かぐ、や……おねが、そのまま……」
闘病は私の中の戦いだ。発作が起きた時、私は一人で苦しまなきゃいけない。
そうでないとダメだって、干渉されそうになったら怒鳴ってでも拒絶して、ずっと耐えてきた。
それが当たり前で、誰にも心配をかけたくなかった。
こんな惨めな姿を誰にも見られたくなくて、大切な人に見せるのはもっと嫌で、それくらいなら、痛みと苦しみの果てで涙をのんだ方がずっとマシだって。
「いいよ。かぐやはずっと、こうしてるから……」
けど、本当は、誰かに助けてほしかった。
手を振り払っても、構わず無理やりにでも、踏み入って欲しかった。
苦しみを一緒に背負ってくれとは言わない。
少しで良いから、辛い時に傍に居て欲しかった。
一人で苦しみ続けるのが、平気なわけなかったんだ。
「ごめんね。今まで一人にして……」
やめてよ。そんなこと、言わないでよ。
自分がどれだけ勝手な人間かなんて、私が一番分かってる。
だってこれは、私にどれだけ、何を言われても、受け入れて励まし続けてほしいという、あまりにも最低な願いだから。
「大丈夫。手を振り払っても、どんな事言われても、かぐやは絶対にどこにも行かないよ」
花火の音も遠くなるくらい、かぐやの声は柔くて、心地よくて、楽しいはずの花火大会もそっちのけで浸り続けた。
発作が収まって、しばらく観覧すると花火大会は終了した。
病気が進行しているのか、最近は薬を飲んでも収まるまでが長くて、フィナーレ以外はあまり見れなかった。
「終わっちゃったねー」
「ごめん。私のせいで……」
そんな事言っても意味ないって分かっているのに、ついつい口から出てしまう。
かぐやはというと苦笑を浮かべて、特に残念そうにするでもなく首を横に振った。
「別に、気にしてないよ。最後のすんごいのはちゃんと見れたしさ!」
これも、嘘じゃない。
彼女は本心からそう思って言ってるし、私も今更それを疑ったりできない。とんだ弱みを持っちゃったもんだよ。
「それなら、いいんだけど……」
周囲では、観覧客が次々と帰りだしている。
私達も、帰る時間だ。
そう、楽しい時間が終わったら、帰らなきゃいけない。
「……かぐや」
「ん?」
さっきの続きじゃないけど、タイミングだと思った。
私にはまだ、かぐやとできていない大事な話がある。
余命のこと、彼女のこと、それらは絶対に話しておかなきゃいけない事だけど、同時にそう簡単に切りだせるものじゃない。
年内に死んじゃう可能性が高くて、時間が幾ばくも無いからこそ、折入った話が出来るタイミングもそう多くない。
雰囲気、節目、区切り、色んな意味で今がその数少ない時の一つなんだ。
「えっと……それ、いつも付けてるよね」
けど、直前で話題を変えた。
まだだ、ここじゃ話せない。
逸らした先で指さしたのは、彼女の手首についている銀色のブレスレットだ。
「あー、これ?まあ、そうだね。なんだか、故郷って感じがして、落ち着くって言うのかな……」
「故郷……そっか。いや、そうじゃなくて……」
さっき聞いた月の話を頭の中で反芻して、頷く。
かぐやは、話が途切れても、じっと私を見ている。多分、見透かされてるんだろうな。
どっちつかずで、中々勇気が出ない。でも、このまま帰る事もできなくて、その場で立ち尽くす。
これじゃあ、前の私と同じだ。
こんなにしてもらって、歩み寄ってもらって、まだ踏み出せないのか。
けれど、どんなに焦っても言葉は上手く出てこない。
そんな私を見かねたように、かぐやが助け舟を出してくれる。
「少し、歩こっか」
かぐやはまた私の手を握って、ゆっくりと歩き出す。
帰り路とは反対方向に向かう河川敷の散歩道は、二人きり。
「今日の花火大会、楽しかったね。屋台も沢山回って、花火も見れたし……」
「うん」
かぐやの方から振ってくれる取り留めもない話。
「明日はなにしようかなー。あっ、そうだ。新曲、そろそろ出来るんだよね?」
「それは……あとちょっとかな」
お膳立て、雰囲気作り。
そうでもしないと、踏み出せそうにない。
だってこれは、私達の関係の終着点を、想いの端を、決めてしまう話だから。
それからも、歩きながら色んな話をした。
来年も来たいねって、無邪気に笑うあなたを見ていると、これ以上残酷な隠し事をしたくないと、心が悲鳴をあげる。
十分か、二十分か。
月の美しい静かな逢瀬の末、かぐやは足を止めると私の手を離して、向き直った。
夜風が草葉を揺らす音が、鳴る。
「かぐや」
「うん」
意を決して、言った。
「……帰っちゃうの?」
風に乗って、言葉は思ったより軽やかに出た。
かぐやは目線を僅かに斜め下に落として、口元を震わせながら返答する。
「仕事、放り出して来ちゃったからさ。このままだと、そうなっちゃう」
分かり切っていたことだ。
本人だってそう言っていた。
いつかお迎えが来る。そう遠くない未来、避けられない別れが訪れる。仮にかぐやが帰らなくたって、私は死ぬ。どっちが先か、それだけの話。
「次の満月の夜に、お迎えがくる」
―――2030/09/12。
後、たったの四日しかない。それが、私の問いに対する彼女の答えだった。
「それは……うちに来るの?」
「ううん、多分ツクヨミ。仮想世界と月は近いから、あそこなら舟を飛ばさなくても干渉できる」
変わる事のない運命だと、かぐやの口調からそれが伝わってくる。
四日……か。
無いも同然の残り時間。寝て起きてを四回繰り返せば、その日にはかぐやがこの世界から居なくなる。
私の余命よりも、更に短い。
「そっか……そう、なんだ」
事実を飲み下して、何度も、何度も繰り返す。
私の死と、かぐやの迎えは、後者の方が早かった。つまり、私の悩みもなにもかも、その殆どは杞憂だったってことになる。
悲しい?
違う。
苦しい?
違う。
胸の内は、凪いだ水面のように穏やかだった。
問う直前の方が荒れていたように思う。
その理由は分かっている。
「良かったぁ……」
安心したからだ。
思わず見せてしまった安堵。しまったと思うよりも早く、かぐやは困惑の表情を浮かべていた。
「……え?」
よりにもよって『良かった』だなんて、大切な人との別れを彩るにはあまりにも不相応で、歪んだ言葉。
今までは、その真意を語る事が出来なかった。
「あ……ごめん。かぐやが居なくなるのが嬉しいとか、そういう事じゃなくてね。安心したって言うのかな……」
でもこれ以上、必死になって隠す必要はない。
だって、あと四日でお別れなんだ。
例えそこがつまらない場所だろうと、彼女にとっては生まれ育った場所で、家族のいる地だ。
――故郷に帰れば、私の死を目の当たりにすることもない。
――故郷に帰れば、私が死んだ後に一人で生きていくこともない。
それでいい。絶対に、そっちの方が彼女にとっては良い結末だ。
ずっと、それだけが心配だった。
私が生きてる間は良いけど、もし死んだ後もかぐやがこの世界に居るなら、目を覚まさなくなった私を前に、彼女がどんな思いをするのか、考えるだけで胸が張り裂けそうになった。
私の居ない世界で、決して幸せになれない世界で、彼女は月からの迎えが来るまで生きることになる。
そんなのってないでしょ。
そりゃ別れは寂しいけど、それが片方の死によって訪れるよりはずっと良い。
かぐやが居なくなったら、私はきっとダメになる。生きる気力を失って、年内なんて言わずにひっそり死んで行くのだろう。
それでもいい。絶望するのには慣れている。
だから、私はずっと願っていた。
『私が死ぬよりも早く、彼女を迎えに来てあげて』って。
『どうか、一人で死なせてください』って。
やっと言える。
もう、隠さなくてもいい。
これで最後にしよう。
「死ぬんだ、私」
打ち明ける。
かぐやが目を見開く。
「来年まで、生きられないかもしれないんだって……」
願いが叶った夜。
私は誰にも言えなかった秘密を、最愛の人に告げた。