TSボクッ娘は完璧な王子様系怪盗を演じたいようです。 作:最高司祭アドミニストレータ
星凪市の夜空を、何本ものサーチライトの光が慌ただしく交差していた。
海と山に挟まれたこの風光明媚な港町は、今夜に限って言えば、静寂とは無縁の喧騒に包まれている。
舞台となっているのは、新市街の中心にそびえ立つ近代的な美術館だった。
周囲の道路は無数のパトカーと規制線によって完全に封鎖され、赤と青のパトランプが湿った夜のアスファルトを毒々しく照らしている。しかし、その厳重な警戒網を嘲笑うかのように、規制線の外側には人、人、人の波が押し寄せていた。
深夜であるにも関わらず集まった群衆のほとんどは、目を輝かせた若い女性たちだ。彼女たちの視線は一点、美術館のガラス張りの屋上へと注がれている。
「キャーッ! こっちを向いて! エトワールさまーッ!」
「今日も素敵!」
「お願い、私を盗んでーッ!!」
鼓膜を揺らすような黄色い歓声と、熱に浮かされたような嬌声が夜空へ吸い込まれていく。それは犯罪者を包囲する現場の空気などではなく、まるで世界的なトップアイドルのシークレットライブに熱狂する群衆のようだった。
彼女たちの視線の先。美術館の最も高い屋上の縁に、その「主役」は立っていた。
美しいシルエットを描く、漆黒のロングコート。
インナーには身体のラインに沿うタイトな黒のベストを着用し、アンティークゴールドのボタンが月光に鈍く光る。ポケットからは懐中時計の細いチェーンが優雅な弧を描いて這わされていた。
純白のシャツには黒のネクタイがスタイリッシュに締められ、コートの左襟には、星の名を象徴するチェーン飾りのついたブローチが凛とした輝きを放っている。
脚の長さと細さを強調する漆黒のスラックスに、両手には指先の所作をシックに引き締める漆黒のレザーグローブ。
頭には端正な黒のシルクハット。
露出を極限まで抑えたストイックなモノトーンの装いだからこそ、マスク越しに覗く月光を反射して輝く「白銀の瞳」と、ハットの下から覗く神秘的な「銀髪のボブヘアー」が、夜の闇に鮮烈な光を放って浮かび上がっていた。
完璧な王子様を体現するそのマニッシュな佇まいは、ただそこに立っているだけで一つの芸術品のように完成されていた。
怪盗は眼下の群衆に向けて黒手袋に包まれた片手を胸に当て、もう片方の手でステッキを優雅に横へ開いた。そして、夜の闇に溶け込むような流麗な所作で深く一礼をする。
完璧な「ファンサービス」だった。
そのキザな振る舞いに、下界の少女たちから鼓膜が張り裂けんばかりの悲鳴が上がる。中には興奮のあまりその場に崩れ落ちる者すらいた。
「──ふざけないで。そこから一歩も動くなッ!!」
熱狂を切り裂くように、非常階段の重厚な鉄扉が乱暴に蹴り開けられた。
屋上に飛び出してきたのは、星凪市警の特殊捜査課を率いる若き警部──カガリビ・リンだった。
燃えるような深紅の長い髪を機能的なポニーテールにまとめ、三白眼気味の黄金色の瞳には、一切の容赦がない氷のような冷たい敵意が宿っている。
数人の武装した警官たちが彼女の背後に続き、一斉に怪盗へとライトと銃口を向けた。
銃を向けられた怪盗は慌てる素振りすら見せない。むしろ心底楽しそうな、小鳥が囀るような涼やかな声を上げた。
「わお! これは驚いた。警備の網を抜けてくるにしては、随分と早い到着だね? 警部」
「黙りなさい。お前のその法をコケにするふざけた手口、もう見逃すわけにはいかないの。両手を挙げて、そこから離れなさい」
カガリビが氷のように冷酷な声で告げるが、怪盗はステッキを指先でくるりと回し、まるでダンスのステップを踏むように縁の上を軽やかに歩いてみせた。
「おお、それは怖い。でも、ボクを捕まえるにはまだ少しばかり足が遅いんじゃないかい? そもそもこんな美しい夜に血生臭い道具を向けるなんて、美しいレディの振る舞いとは言えないな」
余裕たっぷりに笑いかける、怪盗エトワール。対するカガリビは銃を構えたままピクリと眉をひそめ、思わず奥歯を強く噛み締めた。
幾度となく対峙してきたこの怪盗の、どこか浮世離れした静かな佇まい。大げさで芝居がかった口調。月明かりに透ける銀色の髪と、すべてを見透かしているような白銀の瞳。
遊び半分で社会を舐めきったその態度を見るたびに、法と証拠を重んじるカガリビの胸の奥で、激しい怒りが燃え上がる。
「非論理的ね。お前のような犯罪者が美学を語るなんて、不愉快極まりないわ。絶対にその仮面を引き剥がしてやる」
絞り出すようなカガリビの声には、単なる警察官としての使命を超えた、純粋で鋭い敵意が滲んでいた。
怪盗は「完璧な悪役」を演じるこの状況が、ただただ楽しくて仕方がないといった様子で、わざとらしく咳払いをした。
「コホンッ」
怪盗はニヤリと笑みを浮かべる。
「ボクかい? ボクはただの、通りすがりの怪盗さ。…さて、すまないね警部。下界のレディたちをこれ以上待たせていると、ボクの美学に反する。今夜はこの辺で退散させてもらうよ」
「逃がさないわッ!」
怪盗は指先で一枚の銀貨を弾いた。パチンと冷たい金属音が鳴り響くと同時、怪盗はもう片方の手で黒いビー玉のような球体を足元に叩きつけた。
──閃光。
警官たちが「ぐあっ」と目を塞いだ瞬間、濃密な白い煙幕が爆発的に広がり、屋上一帯の視界を完全に奪い去った。
「怯まないで! ただの煙よ! 完全に包囲しなさいッ!!」
カガリビが鋭い指示を飛ばし、煙の中へと一切の躊躇なく踏み込む。
シュガァンッ! と、何かが空気を切り裂く鋭い音が響く。煙幕の晴れ間、美術館から数十メートル離れた隣の商業ビルに向けて、極細の特殊鋼ワイヤーが射出されていた。
パルクールの振り子の原理と、機械式の巻き取り機構を組み合わせた物理的な立体機動。傍目には魔法で空を飛んでいるかのように錯覚する華麗な軌道を描き、漆黒の装束が夜空を舞っていた。
「くっ、またか…! 逃げられると思わないでッ!!」
カガリビが屋上の縁に身を乗り出し、夜空へ消えていく小さな影に向かって、氷のような声に隠しきれない苛立ちを交えて叫んだ。だが、その声が届くことはない。
カガリビの怒りに満ちた声と完全に反比例するように、下界の群衆からは割れんばかりの歓声と拍手が巻き起こっていた。
サーチライトの光が虚しく夜空を薙ぐ中、星凪の夜を熱狂させた完璧なショーの主役は、月の光の中へとあっさりと溶け込み、幻のように姿を消した。
残されたのは警備網を悠々と突破された警察の屈辱と、彼女に心を奪われた人々の熱に浮かされたような余韻だけであった。
■
美術館の喧騒から遠く離れた、星凪市旧市街。そのシンボルである赤煉瓦の古い時計塔の頂に、ふわりと漆黒の影が舞い降りた。
音もなく着地した怪盗は、夜風にはためく燕尾服の裾を優雅に押さえ、眼下に広がる街の夜景を見下ろした。遠く新市街の方角では、未だに赤と青のパトランプが慌ただしく明滅しているのが小さく見える。
(ふぅ。今夜もボクの完璧な悪役ロールプレイは、大成功だったね)
ドミノマスクの奥の白銀の瞳を細め、怪盗は満足げに小さく息を吐いた。
(ターゲットの悪党の裏帳簿も無事に回収できたし、何より警部の迫真のリアクションが満点だった。いやあ、やっぱり怪盗って最高に楽しいな!)
そんな呑気極まりない内心を抱えながら、怪盗は黒手袋に包まれた指先で、一枚の銀貨を器用に転がし始めた。パタパタと手品のように指の腹を滑る銀貨が、月光を反射してキラキラと輝く。
ふと、彼女は自身の足元にある時計塔の巨大な文字盤を見下ろした。長針と短針は、もうすぐ10時を回ろうとしている。
(おお、いけないいけない。レディにとって夜更かしはお肌の最大の敵だからね。明日も朝から学園の授業があるんだし、早く家に帰って温かいお風呂に入るとしよう)
怪盗はシルクハットのつばを軽く指で弾くと、くるりと優雅に背を向けた。街中を巻き込んだ大騒動など最初からなかったかのように、その足取りはどこまでも軽く、悪びれる様子など欠片もない。
「さて。おやすみ、星凪の街」
少女の名は、ティーエス・プロタゴニスト。かつて薄暗い病室のベッドの上で短い生涯を終え、前世の記憶をそのまま宿して生まれた美少女であった。