TSボクッ娘は完璧な王子様系怪盗を演じたいようです。 作:最高司祭アドミニストレータ
☆月◯日
夜の冷たい風が、ボクの漆黒のテールコートを優雅にはためかせていた。
向かいのビルの屋上から射出した特殊鋼ワイヤーの振り子軌道を利用し、ボクは星凪市博物館の屋上へと、まるで重力を持たない羽毛のように音もなく降下した。
十五年間、母さんの狂気的なスパルタ教育のもとで鍛え上げてきたパルクールの技術と、この健康な肉体。そのすべてが完全に調和し、ボクの頭脳が描く理想の軌道を寸分の狂いもなくトレースしていく。
『くっふふ、最初の着地は合格点だねェ。もっと優雅に膝を柔らかく使いなさいよォ』
博物館の館長が『完璧』だと豪語していたというセキュリティシステム。確かに、常識的な人間を相手にするなら鉄壁だっただろう。
だが、ボクにとってそれは、少しばかり手応えのあるアスレチックに過ぎなかった。
『おや、自信満々だねェ。そのセキュリティの裏に私が仕込んだ隠しトラップに気づけるかな?』
空調用の通気口のルーバーを特殊工具で静かに外し、暗く入り組んだダクトの中を、関節の柔軟性を極限まで活かして滑り降りていく。眼下に広がるのは、目当ての宝石が眠る特別展示室へと続く長い廊下だ。
『埃っぽいからアレルギーに気をつけるんだよォ。くしゃみで位置がバレたら台無しだからねェ』
床には三十キロ以上の重量を感知する感圧センサーが敷き詰められ、空間には不可視の赤外線レーザーが蜘蛛の巣のように張り巡らされている。ボクは特殊なスプレーを空中に微量だけ散布し、レーザーの赤い光線を可視化させた。
『そこから先は踏んだら即アウトの激ムズゾーンだよォ。腕の見せ所だねェ』
あとは、踊るだけだ。
ボクは床に一切触れることなく、壁面の僅かな装飾の出っ張りに指を引っかけ、体操選手も顔負けの反り身と捻りで、レーザーの隙間を縫うように空中を移動していく。
チタン合金のシャッターを落とすためのトリガーなど、触れるどころか掠りもしない。
『いいねェ、その無駄のない身のこなし。私の調教の成果がよく出ているよォ』
展示室の入り口周辺では、何人もの警備員たちがピリピリとした様子で銃を構え、周囲を警戒していた。だが、彼らの視線は「床」と「扉」にしか向いていない。
ボクは天井の梁から逆さにぶら下がったまま、小さな銀貨を一枚、彼らから一番遠い部屋の隅へと弾き飛ばした。
チリン、という微かな金属音。
「なんだ!? そっちか!」
警備員たちが一斉に音の鳴った方へ銃口を向けた、ほんの数秒の死角。
その隙に、ボクは影のように無音で降下し、彼らの背後をすり抜けて展示室の最奥へと到達した。あまりにもあっけない。これが、前世の病室で憧れ続けた『怪盗』の力だ。
『警備員なんて所詮は木偶の坊さね。さあ、心理誘導の実験台にしておしまい』
青白い照明の中、円柱形の展示ケースに鎮座する特大のブルーサファイア『月下の宝石』。
ボクは白手袋の指先で専用のピッキングツールを操り、ダイヤル式と電子式のハイブリッドロックをわずか十数秒で解除した。
美しい本物の宝石を慎重に回収し、代わりに母さんと徹夜で作った精巧なガラスのレプリカを台座にセットする。ついでに展示台の隠しスペースに保管されていた、この博物館の館長の『裏帳簿』のデータもしっかりと懐に収めた。
これで今夜のミッションはコンプリートだ。あとは優雅に撤収するだけ──。
『おや、もう足音が聞こえてきたよォ。どうやら追っ手がご到着のようだねェ』
そう思った矢先だった。鼓膜を震わせるような、無数の重い足音が階下から急速に迫ってくるのが聞こえた。
おかしい。警報は一切鳴らしていない。警備員たちも気づいていないはずだ。しかし、この足音の主たちは、一直線にこの特別展示室へと向かってきている。
(なるほど、事前の予測通りに動いて網を張っていた人間がいるってことか。流石は警察といったところだね)
ボクは口の端をニヤリと吊り上げた。
通常の逃走ルートはすでに塞がれているだろう。ならば、最も派手で、最もボクの美学に相応しい舞台から退場させてもらおう。
ボクは踵を返し、展示室の吹き抜けを利用して、一気にガラス張りの屋上へと続く非常階段を駆け上がった。
屋上の扉を開け、夜風に吹かれた瞬間。眼下の道路から、鼓膜を揺らすような黄色い歓声と、熱に浮かされたような嬌声が夜空へ吸い込まれていくのが聞こえた。
「キャーッ! こっちを向いて! エトワールさまーッ!」
「今日も素敵!」
「お願い、私を盗んでーッ!!」
深夜の規制線の外側に、異常なまでの数の若い女性たちが群がり、屋上に立つボクを見上げて熱狂しているのだ。
…さて。手記だから正直に白状しよう。
いくらボクが完璧な美貌とキザな振る舞いを兼ね備えているとはいえ、今夜は怪盗エトワールの『記念すべきデビュー戦(初犯)』である。まだ一度も世間に姿を見せたことがない泥棒に、これほどの熱狂的なファンが大挙して押し寄せるはずがないのだ。
種明かしをすれば、すべてはあのマッドサイエンティストな母さんの仕業である。
彼女はここ数日、裏のハッキング技術とSNSの裏アカウントを駆使して、「今夜、世紀の美少女怪盗が星凪の夜に舞い降りる」という噂を爆発的に拡散させた。
おまけに、雰囲気を盛り上げるために大量の『サクラ』の女性エキストラまで雇い、最前列で黄色い悲鳴を上げるよう仕込んでいたのだ。
そのサクラにつられた野次馬の女性たちが連鎖的に熱狂し、結果としてトップアイドルのシークレットライブのような、異常な空間が出来上がってしまったというわけだ
『ふふふ、私のSNS工作とエキストラの演出がピタリとハマったねェ。最高の盛り上がりじゃないか』
母さんの悪ノリには呆れるばかりだが、おかげでボクの『王子様系怪盗』としての初舞台には、これ以上ないほどの極上のスパイスとなった。
『さあ、サクラの歓声に応えて華麗に一礼しなさい。カメラ写りを意識するんだよォ!』
ボクは眼下の群衆に向けて、白手袋に包まれた片手を胸に当て、もう片方の手でステッキを優雅に横へ開いた。夜の闇に溶け込むような流麗な所作で、深く一礼をする。完璧なファンサービスだ。
『おや、本物の番犬のお出ましだ。機嫌を損ねないように可愛がってあげおしまい』
「──ふざけないで。そこから一歩も動くなッ!!」
熱狂を切り裂くように、非常階段の重厚な鉄扉が乱暴に蹴り開けられた。屋上に飛び出してきたのは、息を切らした大勢の武装警官たち。
そしてその先頭に立つのは、星凪市警の特殊捜査課を率いる若き警部──カガリビ・リンだった。
『おっ、噂をすればだねェ』
星凪市警が相次ぐ凶悪犯罪や前例のない奇抜な犯行に対抗するため、あらゆる権限と精鋭を集めて新設した「特殊捜査課」。その初代リーダーとして抜擢されたのが、カガリビ・リンであった。
徹底的な合理主義と法と秩序に対する異常なまでの執着心を持ち、着任早々から数々の難事件を圧倒的な検挙率で解決に導いてきた、警察組織の中でも一際異彩を放つ危険なエリートである。
燃えるような深紅の長い髪。そして何より、三白眼気味の黄金色の瞳に宿る、一切の容赦がない氷のように冷たい敵意。
一目見ただけで分かった。彼女は、ボクの命を本気で狩りに来ている。
「わお! これは驚いた。警備の網を抜けてくるにしては、随分と早い到着だね? 警部さん」
ボクは心底楽しそうな声を上げ、小鳥が囀るように涼やかに笑ってみせた。
「黙りなさい。お前のその法をコケにするふざけた手口、もう見逃すわけにはいかないの。両手を挙げて、そこから離れなさい」
カガリビ警部が氷のように冷酷な声で告げる。その手にはしっかりと銃が握られ、銃口はボクの心臓を正確に捉えていた。
怖い、怖い。けれど、十代の血が沸き立つようなこの極限のスリルこそ、ボクが求めていたものだ。
ボクはステッキを指先でくるりと回し、まるでダンスのステップを踏むように、屋上の縁の上を軽やかに歩いてみせた。
「おお、それは怖い。でも、ボクを捕まえるにはまだ少しばかり足が遅いんじゃないかい? そもそもこんな美しい夜に血生臭い道具を向けるなんて、美しいレディの振る舞いとは言えないな」
「お前のような犯罪者が美学を語るなんて、不愉快極まりないわ。絶対にその仮面を引き剥がしてやる」
絞り出すような彼女の声には、単なる警察官としての使命を超えた、純粋で鋭い執念が滲んでいた。いい目だ。ボクの完璧な悪役に立ち向かう、完璧な正義の番犬。最高に胸が躍る。
「コホンッ」
ボクはわざとらしく咳払いをし、ドミノマスクの奥でニヤリと笑みを浮かべた。
「ボクかい? ボクはただの、通りすがりの怪盗さ。…さて、すまないね警部サン。下界のレディたちをこれ以上待たせていると、ボクの美学に反する。今夜はこの辺で退散させてもらうよ」
「逃がさないわッ!」
『さあ、お楽しみの煙幕タイムだよォ! 盛大に視界を奪ってやりなさい!』
カガリビ警部が鋭く叫んだ瞬間、ボクは指先で一枚の銀貨を空高く弾いた。
パチン、と冷たい金属音が鳴り響くと同時。もう片方の手で、隠し持っていた黒いビー玉のような球体──母さん特製の強力煙幕弾を、足元のコンクリートに全力で叩きつけた。
──閃光。
目を焼くような光に警官たちが怯んだ瞬間、濃密な白い煙幕が爆発的に広がり、屋上一帯の視界を完全に奪い去った。
「怯まないで! 完全に包囲しなさいッ!!」
カガリビ警部的確な指示が飛ぶ。彼女は一切の躊躇なく煙の中へと踏み込んできたが、その時にはすでに遅い。
ボクの腕のデバイスから放たれた極細の特殊鋼ワイヤーが、数十メートル離れた隣の商業ビルに見事命中する。巻き取り機構とパルクールの振り子の原理が、ボクの身体をふわりと夜空へ持ち上げた。
「くっ、またか…! 逃げられると思わないでッ!!」
煙を抜けたカガリビ警部が、屋上の縁に身を乗り出して叫ぶ。その声には、隠しきれない苛立ちと悔恨が混じっていた。
ボクは夜風を全身に受けながら、下界から湧き上がる割れんばかりの歓声と拍手を背に、華麗な軌道を描いて星凪の夜空へと溶け込んでいった。
■
美術館の喧騒から遠く離れた、星凪市旧市街。
そのシンボルである赤煉瓦の古い時計塔の頂に、ボクはふわりと音もなく着地した。
『お疲れ様、見事な脱走劇だったねェ。…さて、お迎えのパトカーがそっちに向かってるかもしれないから、長居は無用だよォ』
「分かっているさ、母さん。これでおしまいじゃない。始まりなんだ」
夜風にはためく燕尾服の裾を優雅に押さえ、眼下に広がる街の夜景を見下ろす。遠く新市街の方角では、未だに赤と青のパトランプが慌ただしく明滅している。
懐から取り出した『月下の宝石』と、悪党の裏帳簿。
どちらも無事に回収できたし、何よりあのカガリビ警部の迫真のリアクションが満点だった。母さんのサクラによる黄色い歓声も、結果論としては悪くない演出だったと言えるだろう。
ふと、足元にある時計塔の巨大な文字盤を見下ろす。長針と短針は、もうすぐ十時を回ろうとしていた。
ボクはシルクハットのつばを軽く指で弾き、くるりと優雅に背を向けた。
『くっふふ、いい面構えだねェ。明日からの学校生活がますます楽しみになるねぇ』
「さて。おやすみ、星凪の街」
怪盗エトワールの完璧な伝説は、今夜、ここから始まるのだ。
次回は水曜日に投稿予定です。