TSボクッ娘は完璧な王子様系怪盗を演じたいようです。 作:最高司祭アドミニストレータ
◇月▲日
カビ臭い廃倉庫の冷たい床の上で、ボクは縛り上げられた手首の感触を確かめていた。
まさかの誘拐。どうやら男たちの目的は、トップアイドルであるアリスガワ・リリを人質にして莫大な身代金をふんだくることらしい。たまたま一緒にいたボクは、完全な巻き添えというわけだ。
(まったく、計画外の事態だねェ…)
ボクは心の中でボヤきつつも、薄暗い倉庫内の構造と、男たちの配置を冷静に観察していた。
隣では、リリが恐怖のあまりガタガタと小刻みに震えている。テレビで見せる堂々としたアイドルの姿はそこにはなく、ただの怯える女の子だった。
ボクは彼女を安心させるように微笑みかけながら、背手に縛られたロープの結び目を指先で探る。パルクールと怪盗の訓練を経たボクの関節の柔軟性なら、この程度の拘束は造作もない。あとは、ほどくタイミングを窺うだけだ。
「おい、あとは事務所に身代金の連絡を入れるだけだな」
「へへっ、アイドル様がこんな薄汚い倉庫で泣いてるなんて、傑作だぜ」
下劣な笑い声を上げながら、屈強な男たちがじりじりとこちらへ近づいてきた。その濁った目は、明らかに金以外の『別の目的』にも向いている。
このままでは、リリの身が危ない。
ボクは脳内で瞬時に判断を下した。
(美しいレディを脅かすのは、ボクの流儀じゃないからね)
怪盗としての見せ場ではないが、王子様としての見せ場ではある。ボクは持ち前の身体能力と関節の柔軟性を活かし、拘束されていたロープを一瞬で引きちぎるように解き放った。
「なっ!? なんだお前、いつの間に!」
男たちが驚愕して足を止めた、そのほんの一瞬の隙。ボクは滑るような動きでリリの背後に回り込み、彼女を縛っていたロープも鮮やかに解き伏せた。
「リリ、走れるね? 行くよ!」
彼女の手を引き、ボクたちは立ち並ぶ木箱を縫うようにして、廃倉庫の隅へと走り出した。
しかし、現実はそう甘くはない。
倉庫の大きなシャッター出口は、すでに別の男たちによって完全に塞がれていた。逃げ場はない。
ボクはリリを背中に庇うようにして立ち塞がり、前方から迫る男たちを睨みつけた。
「ここはボクが引き受けるから、君は隙を見て逃げなさい!」
王子様然とした演技で、最高にキザな台詞を放つ。
「生意気なガキがッ!」
大柄な男の一人が、丸太のような腕を振り上げて殴りかかってきた。
無謀な挑戦だということは分かっている。ボクはパルクールの動きを応用してその大振りの拳を躱し、男の膝関節に蹴りを叩き込む。
しかし、相手は筋骨隆々の屈強な大人たちだ。数と体格差の壁は厚く、ジリジリと倉庫の隅へ追い詰められていく。
「ティーエス…っ! そんな無茶しないで! 死んじゃうよ!」
背後でリリが悲痛な叫び声を上げた。
今まで『目立っていて気に食わない嫌な奴』だと思っていた同級生が、自分を救うために必死で戦い、傷ついていく現実。彼女の中でパニックが起きているのが背中越しにも伝わってくる。
「ちょこまかと鬱陶しい女だ!」
男たちがついに業を煮やし、ボクの動きを封じようと一気に距離を詰めてきた。同時に別方向から回り込んだ男の魔の手が、リリの細い腕をガシッと掴み上げる。
「きゃあっ!?」
完全に退路を断たれ、絶体絶命の窮地に陥った。
そこからは、凄惨な時間だった。
男たちの力任せの暴力がボクの身体を襲う。数と体格差という圧倒的な物理法則の前に、ボクの身体は何度もコンクリートの壁や冷たい床に叩きつけられた。
怪盗の訓練をしてきたとはいえ、中身は華奢な女子高生の肉体なのだ。ダメージは計り知れない。
「やめて! もうやめてぇッ!」
屈強な男に取り押さえられながら、リリが涙をボロボロとこぼして絶叫する。
男たちの暴力は止まらない。彼らの標的は、抵抗を続ける生意気なボクへ完全にシフトしていた。
ドゴォッ、という鈍い音。
男の容赦ない蹴りや殴打が襲い掛かる。だが、ボクは絶対にそこをどかなかった。リリを庇うように立ち塞がり、すべての暴力を自分の身で受け止める。痛い、痛すぎる。だが、王子様がここでお姫様を見捨てるわけにはいかないのだ。
激しい暴行を受け続け、ボクの意識が徐々に混濁し始めていた。口の中に鉄の味が広がり、視界がチカチカと点滅する。呼吸をするたびに肋骨が悲鳴を上げているのが分かった。立っているのが不思議なほどの状態だ。
それでも、最後の一撃を背中で受け止めた時、ボクは振り返ってリリを見た。
彼女には指一本触れさせていない。
守りきった確信を胸に、ボクは血の滲む唇の端を吊り上げ、彼女に向けて満足げに微笑んでみせた。
それが限界だった。プツリと糸が切れたように、ボクの膝が折れる。力なく床に突っ伏したボクの視界が、ゆっくりと暗闇に染まっていくのを感じた。
「ティーエス!! 嫌ああああっ!!」
鼓膜を劈くようなリリの絶叫が、埃っぽい倉庫の空間に響き渡った。
彼女は自分を取り押さえようとしていた大人の腕をがむしゃらに振り払い、なりふり構わず床に突っ伏したボクのもとへと駆け寄ってきた。膝を擦りむくのも構わず滑り込み、震える両腕でボクの華奢な上半身を抱きしめる。
ポタポタと、温かい雫がボクの頬に落ちてきた。アイドルの流す涙というのは、こういう極限状況で見てもひどく透き通っていて綺麗だな…なんて、ボクは朦朧とする頭の片隅で呑気に考えていた。
(っていうかさぁ…こんな絶体絶命の修羅場で、意識を半分飛ばしながらも脳内で冷静かつ客観的に状況を実況できてるボクって、正直凄すぎないかい!? これぞ前世の病室で鍛え上げた鋼のメンタルと、十五年間の怪盗ロールプレイの賜物だよ! …でもやっぱり痛いよぉ〜〜ッ! 全身バキバキで骨が軋んでるよぉ、普通に泣きそうだよぉ〜〜ッ!!)
内心の悲鳴は誰にも届かない。外面だけは完璧な王子様を維持しなければならないこの因果な宿命を、ボクは今さらながら激しく呪っていた。唇の端から一筋の血を垂らしながら、ボクはリリの腕の中でピクリとも動けずにいた。
「へっ、英雄気取りもここまでだな。身の程知らずのバカな小娘が」
男たちが下卑た笑い声を上げながら、ゆっくりと歩み寄ってくる。
「おいおい、そんなに泣くなよアイドルちゃん。ナイト様はもうおねんねだ。さあ、次はテメエの番だぜ。身代金の交渉が終わるまで、たっぷり可愛がってやるよ…」
脂ぎった男の汚い手が恐怖で硬直するリリの肩へ、そして胸元へと卑しく伸びた。
リリはぎゅっと目を閉じ、ボクの身体を強く抱きしめ直す。守る力のない二人の少女の前に、暗澹たる絶望が口を開けた、まさにその瞬間だった。
ズドォォォォォンッ!!!
鼓膜を破らんばかりの爆発音が倉庫全体を揺るがした。
何かが衝突したとか、扉が蹴破られたという生易しいレベルではない。
倉庫の頑丈な分厚い鉄扉が、まるで大型トラックに正面衝突されたかのように内側へ向かってくの字にひしゃげ、凄まじい風圧と土煙を巻き上げながらコンクリートの床を滑って吹き飛んできたのだ。
「な、なんだぁッ!?」
男たちが悲鳴を上げて飛び退く。もうもうと立ち込める砂煙の向こう側から、ドス、ドス、と地響きのような足音が近づいてきた。
煙を切り裂いて姿を現したのは――部活帰りの泥だらけのジャージ姿、両手にボロボロのサッカーボールを抱えた、ホシノ・ルルだった。
その肩は激しく上下し、乱れた黒髪の隙間から覗く両目は、まるで獲物を八つ裂きにする直前の飢えた猛獣のように、限界まで血走っていた。
「あんたら」
地獄の底から響くような声だった。
「私の王子様に…うちの可愛いティーエスに、何してくれてんのよォォォッ!!」
「な、なんだこのガキは…女か!?」
「どこから嗅ぎつけてきやがった! 構うか、まとめて片付けろ!」
動揺した男たちが怒鳴り散らし、先頭の巨漢がルルに向かって突進した。
それは愚行以外の何物でもなかった。
ルルは右手に持っていたサッカーボールを無造作に放り投げると、踏み込み一閃、常軌を逸したスピードで巨漢の懐へ潜り込んだ。繰り出された右の掌底が、巨漢の鳩尾を正確無比に撃ち抜く。
ドムッ、と鈍い破裂音が響き、百キロ近い男の身体がくの字に折れ曲がって宙に浮き、数メートル後方の木箱の山へ派手に突っ込んで白目を剥いた。
そこからはもはや戦闘と呼べる代物ではなかった。理不尽なまでの暴力の嵐だ。
タックルで飛びかかってきた男を片手で投げ飛ばし、背後から迫った男には目にも留まらぬ後ろ回し蹴りを叩き込む。骨の砕ける不吉な音が連続して倉庫に木霊した。
「ひ、ひぃっ…! な、何なんだよコイツは!」
残された主犯格の男が、腰を抜かして後ずさりながら叫んだ。男の仲間たちは、わずか一分足らずで全員が床に転がり、ピクリとも動かなくなっている。
だが、追い詰められた悪党は、最後に最も卑劣な選択肢を取った。
男は背後の工具棚から、木箱を開けるための錆びついた日本刀紛いの抜き身の長刃を引っ張り出したのだ。
「調子に乗るんじゃねえぞ、アマがァッ!!」
なりふり構わぬ狂乱の叫びと共に、男はルルの無防備な首筋を目掛けて、渾身の力で白刃を振り下ろした。
「ルル、危ないっ!!」
リリが悲鳴を上げた。
完全な死角からの奇襲。避けるスペースもない。常人であれば確実に首を撥ね飛ばされる、まさにルル最大のピンチだった。
――しかし。
ピタッ。
空気を切り裂く金属音が、あまりにも不自然に、唐突に静止した。
男が目を見開き、ガタガタと震え始める。ルルは首筋のわずか数ミリ手前で、振り下ろされた鋭利な刃の切っ先を――たった二本の指、人差し指と中指だけで、何事もなく挟み込んで完全に受け止めていたのだ。
真剣白刃取りですらない。ただの『指でのつまみ食い』のような軽やかさで。
「…嘘、だろ…? 刃物を、指先で…?」
男が引き攣った顔で、力を込めて刀を引き抜こうとする。しかし、ルルの指は万力のように固定され、ミリ単位たりとも動かない。
ルルはゆっくりと顔を上げ、血走った瞳で男を冷たく見下ろした。
パキィンッ!
乾いた高い音と共にルルの指の力だけで、分厚い鋼鉄の刃がガラス細工のようにあっさりとへし折られた。
「ば、化け物め…ッ!!」
男が恐怖のあまり絶叫し、折れた柄を取り落とした。
ルルはその顔面に、容赦のない無慈悲な前蹴りを深々と突き刺した。男の身体が派手に吹き飛び、壁に激突してそのまま崩れ落ち、静寂が訪れた。
「な、なにこれ…」
ボクを抱きしめたまま、リリは目の前で繰り広げられた人外の演舞が全く理解できずに戦慄していた。
「本当に人間なの…? どうして高校生の女の子が、大人の男たちをあんな風に…刃物を指で折るなんて、そんなの漫画の世界だけじゃないの…?」
全身の激痛に歯を食いしばりながら、ボクはリリの腕の中でゆっくりと意識を浮上させた。
目の前ではすべての敵を殲滅し終えたルルが、ぜぇぜぇと荒い息を吐きながら仁王立ちしている。口元の血を手の甲でそっと拭いながら、ボクは引きつった笑みを浮かべリリに向かって小声で囁いた。
「えーと、彼女はね…一応、戸籍上は自称人間なんだよ。まあ、幼馴染のボクでもたまに人間かどうか疑わしくなるけれどね」
こうして、突如として巻き込まれたアイドル誘拐事件は、警察を呼ぶまでもなく、一人の凶暴な女子高生の物理攻撃によって完全に幕を閉じた。ボクは痛む身体をなんとか起こし、リリの目線に合わせて優しく微笑みかけた。
「怪我はないかい、お姫様? 怖い思いをさせてすまなかったね」
王子様としての台詞をなんとか口にしたその時、ボクはある異変に気がついた。
ボロボロになりながらも必死で自分を盾にして守り抜いてくれたボクの姿を見つめるリリ。彼女の頬は林檎のように真っ赤に染まり、両手をぎゅっと胸の前で握りしめ、トクントクンと心臓の跳ねる音がこちらにまで聞こえてきそうなほど高鳴っていた。
そして何より――彼女の潤んだ瞳の奥には、少女マンガのエフェクトのように、くっきりと巨大な『ハートマーク』が浮かび上がっていたのだ。
(えっ、なんでさ?)
命懸けで守ったのは事実だけれど、まさかここまで絵に描いたように一瞬で惚れ込まれるとは。
アイドルの凄まじいときめき具合と、底抜けのチョロさを目の当たりにして、ボクは全身の激痛も忘れてただただ呆然とするしかなかった。
次回の投稿は木曜日に予定しています。