TSボクッ娘は完璧な王子様系怪盗を演じたいようです。 作:最高司祭アドミニストレータ
□月○日
自室の机で髪を整えていると、背後からぬるりと不気味な気配が忍び寄ってきた。
「くっふふ…お待たせしたねェ、愛しの被検体。先日の乱闘で壊れた旧型に代わり、最新型の超小型インカムを装着してあげるよォ」
白衣の裾をはためかせた母さん──アンタゴが、ピンセットで米粒大の黒いデバイスをつまみ、ボクの右耳へと伸ばしてくる。怪盗としての情報網を維持するためには必須の処置だ。ボクは無言のまま、冷たい金属が耳の奥に滑り込む感触を受け入れた。
カチリと心地よい音が鼓膜のすぐ傍で響き、皮膚の下へと完璧に同化する。
「ふむ、これでよし…いやあ、前回の誘拐騒ぎの時は肝が冷えたよ。キミの蓄積した生体データが丸ごと消し飛んだら大損失だからねェ。まあ、所詮は私の遺伝子クローン、代わりなどいくらでも作れるがね! アーハッハッハッ…oh」
高笑いの途中で、母さんの顔面からスッと血の気が引いた。ボクは瞬き一つせず、十五年間みっちりと鍛え上げた体幹のバネを利かせ、右の拳を母さんの無防備な鳩尾へと深々と沈み込ませていた。
拳の骨越しに、的確に臓腑を捉えた手応えが伝わってくる。
「ぐふッ…!?」
ドサリと床に崩れ落ち、エビのように丸まって痙攣する母さんを見下ろし、ボクは優雅にブレザーの袖口のシワを伸ばした。唯一無二のTSボクっ娘の美学を『代わりがいる』などと表現する下劣な口には、適切な物理的制裁が必要不可欠だ。
『い、痛覚のフィードバックが…完璧すぎるよォ…』
耳の奥から微かに響く恨めしげな呻き声を背中で聞き流し、ボクは軽やかに通学鞄を手に取った。
△月☆日
学校に着くなり、本日は春の健康診断と体力測定が実施される運びとなった。
消毒液の匂いが漂う保健室の空気は、前世の忌まわしい記憶を呼び覚ます。背筋に冷たいものが走るのを無理やり抑え込み、ボクはパイプ椅子に腰掛けた。
「はい、じゃあこれはどっちが開いてる?」
白衣を着た看護師が指し示す視力検査表の、一番下の小さな輪──『C』の隙間。
前世の病室で白濁した視界と天井の染みばかりを見つめていたボクにとって、今の眼球の解像度は恐ろしいほど鮮明だった。微細なインクの掠れ、光の反射、看護師の指紋の渦巻きまでくっきりと網膜に焼き付いてくる。
「右。次は下、左、上、左斜め下だね」
「え、ちょっと待って、そこまで見えるの? 2.0以上あるわよ…」
看護師の瞳が、怪訝な光を帯びてボクの顔を舐めるように観察し始めた。肌の表面がチリチリと粟立つ。これ以上人間離れした数値を叩き出せば、余計な精密検査という名の解剖台に回されかねない。
「あ、ごめんよ。最後のは少し見栄を張って勘で答えてしまったみたいだ」
ボクは人畜無害な少女の微笑みを唇に貼り付けて誤魔化し、手早く席を立った。
グラウンドに移動し、次は50メートル走の測定だ。ピストルの乾いた破裂音と共に、ボクは土を蹴った。
太腿とふくらはぎの筋肉の出力を強制的に三割にセーブする。歩幅は標準的な女子の歩調に合わせ、風の抵抗を無駄に受けるよう、意図的に肩の力を抜いたフォームで走る。
意図的に自分に枷をはめるこの感覚すら、今のボクにとっては極上の遊びだ。
結果は7秒台前半。
息一つ乱さず、心拍数すら平常のままゴールラインを駆け抜けたボクは、風に乱れた銀髪をふわりと手ぐしで払い、タイムを計測していた女子生徒たちへ向けて微笑みを投げかけた。
「付き合ってくれてありがとう、美しいレディたち」
「きゃああっ…!」
「な、なにあの笑顔…王子様すぎる…ッ」
ゴール付近の女子生徒たちが一斉に頬を林檎のように紅潮させ、両手で口元を覆って黄色い悲鳴を上げ始めた。
風に揺れる彼女たちの熱を帯びた視線を全身に浴びながら、ボクは自身の完璧な振る舞いに胸の奥が甘く満たされるのを感じていた。
○月△日
午後のホームルーム。ざわつく教室の後方、普段は空席になっている窓際の席に、見慣れた深紅の髪が揺れていた。
特殊捜査課の若き警部──カガリビ・リンだ。
彼女の周囲には、触れる者を凍らせるような氷点下の威圧感が渦巻いており、クラスメイトたちは完全に怯えきって机の距離を物理的に空けている。
同じ学び舎にいるというのに、あんな風に一人ぼっちで孤立していては青春の美学が台無しだ。
ボクは大股で歩み寄り、彼女の机に両手をついて身を乗り出した。
「やあ! 元気だったかい警部さん! 久しぶりに君のその凛々しい顔が見られて、ボクは朝からとても光栄だよ!」
教室中の喧噪がピタリと止んだ。
机に向かっていたリンは、ゆっくりと顔を上げる。その三白眼気味の黄金色の瞳は絶対零度の冷酷さを湛え、ボクの眉間を鋭いナイフで突き刺すように睨み据えた。
「何の用かしら。私には、あなたのような軽薄な人間と戯れている暇はないの。邪魔よ、失せなさい」
ボクの口角は自然と弧を描いていた。言葉の裏に隠された不器用なサイン。激務の疲れをボクの軽快なトークで癒してほしいという、彼女なりの情熱的な歓迎の裏返しに違いない。
ボクはさらに身を乗り出し、彼女の耳元へ顔を近づけた。
☆月◯日
「相変わらず手厳しいね。ところでさ、警部サン。昨日のニュースで見たかい? 新市街を騒がせたあの『怪盗エトワール』の噂。…ふふ、闇夜を華麗に駆け抜けるあの身のこなし、最高にクールでエレガントだとは思わないかい?」
ピシリ、と硬質な音が鳴った。リンの黄金色の瞳の奥で、猛烈な怒りの劫火がごうごうと燃え上がるのが見えた。彼女の白い指先が、机の天板にメリメリと食い込み、手の甲には青筋が浮き出ている。
「あのような法と秩序を愚弄する恥知らずのネズミ、この世で最も不愉快な存在だわ。次に現れたら、その四肢を叩き折ってでも檻の中に叩き込んであげる。二度とその名前を私の前で口にしないで」
ボクの背筋を、ゾクゾクとするような心地よい痺れが駆け抜けた。ボクへの執着心がここまで極まっているとは、悪役冥利に尽きるというものだ。ボクは満足げにうなずき、彼女の前を辞した。
△月□日
廊下へ出ると、柔らかな春の日差しが差し込んでいた。すれ違う他クラスの女子生徒や階段を降りてくる上級生の女子たちへ、すかさず優雅に歩み寄る。
「やあ、今日の君も春の陽光のように素敵だね」
「あ、あの…ティーエスさん…!」
ボクが華奢な手を取ってエスコートすると、彼女たちの体温が急激に上がり、潤んだ瞳でボクを見つめ返してくる。完璧な学園生活の風景だ。
しかし、ボクの慈愛は女性だけに向けられるものではない。真のカリスマとは万人に光を与える存在であるべきだ。
廊下の隅で、所在なさげに佇んでいた大柄な男子生徒の懐へと滑り込み、至近距離からその顔を覗き込んだ。
「やあ! 君もなかなかのいい目つきをしているね! その寡黙な佇まい、ボクは嫌いじゃないよ」
パチンとウインクを飛ばし、ボクは彼の広い肩を親しげに叩いた。
男子生徒はカッと目を見開き、全身の筋肉を硬直させた。瞬く間に顔が赤紫に染まり、喉がヒューヒューと不規則な音を立て始める。彼は震える手で自身の胸元を強く握り締め、涙を浮かべて天を仰いだ。
「あ…あぁ…十分に、生きた…」
バタリ。彼はそのまま糸の切れた操り人形のように背中から倒れ込み、白目を剥いて気絶してしまった。
「おい! 誰か担架持ってこい! 息が止まりかけてるぞ!!」
友人たちが血相を変えて群がる様を眺めながら、ボクは不思議そうに自分の掌を見つめ、首を傾げた。
額に脂汗を浮かべ、呼吸を乱して倒れ込むあの症状。どう見ても極度の低血糖か貧血だ。朝食を抜く現代の高校生の栄養バランスは、実に心配なものである。
「──ちょっと、何やってんのよアンタ!!」
「ティーエス、こんなところで油を売っていないで戻りなさい!」
突如、廊下の左右から凄まじい風圧と共に、二つの人影が猛然と突っ込んできた。
左側からは部活帰りのジャージを乱暴に羽織り、獲物を狙う野獣のような目をギラつかせた幼馴染のホシノ・ルル。
右側からは、顔を真っ赤にして息を荒らげたトップアイドル、アリスガワ・リリだ。
二人はボクの両脇をがっしりと挟み込み、左右の腕をきつくホールドした。
「「今週末、あたし/私とデートに行きなさい(行くわよ)!!」」
「…は?」
「…なんですって?」
重なった言葉に二人は同時に首を真横へ巡らせ、互いを至近距離で睨みつけた。
「ちょっと、あんた何割り込んできてんのよ。私の王子様を誘うなんて、百万年早いわよこの薄っぺらアイドル!」
「誰が薄っぺらですって!? この筋肉バカ! ティーエスは私の命の恩人よ!」
ルルが拳をボキボキと鳴らせば、リリはボクの袖口をきつく握りしめ、鋭い爪を立てて一歩も引かない。
互いの吐息が混ざり合いそうな至近距離で、二人の頬は紅潮し、熱を帯びた瞳が激しくぶつかり合っている。廊下の気温が一気に跳ね上がった。
ボクの胸の奥で、純粋な感動が広がっていく。
美しい二人の少女が、これほどまでに感情を剥き出しにして熱いディスカッションを交わしている。まるで冬の夜空を彩る幻想的なイルミネーションのようだ。
『嘘でしょう? この大馬鹿娘、物理法則の前に恋愛法則すら理解していないのかい? あれはキミを巡る血で血を洗う縄張り争いさね!』
インカム越しの母さんの頓珍漢なツッコミを聞き流すが、ルルとリリの握力は限界に達し、ボクの両腕の関節がメシリと悲鳴を上げ始めた。これ以上のスキンシップは物理的に危険だ。
ボクはわざとらしく咳払いをし、カラカラに乾いた喉をさすった。
「ああーッ! なんだか急に、喉が渇いてきたな! すまないレディたち、ボクは今すぐ強烈な炭酸を胃袋に流し込んでくるよ! 失礼!」
ボクは手首を巧みに捻って二人の拘束を解き、風のように廊下を駆け抜けて逃走した。
○月☆日
放課後のホームルーム。
チャイムが鳴り響き、担任の教師がプリントの束を抱えて現れた。
「来週から予定されている恒例行事、『春のオリエンテーション合宿』についての連絡だ。今回の合宿は四人一組の固定班で行動してもらう。じゃあ、読み上げるぞ」
機械的な声が名簿を読み進め、ボクたちのクラスにおける宣告が下された。
「──第4班。カガリビ・リン、ホシノ・ルル、アリスガワ・リリ、そしてティーエス・プロタゴニスト。以上四名」
「──冗談でしょう」
リンが氷のような黄金色の瞳を眇め、眉間に深いシワを刻んでボクを真っ直ぐに睨みつけた。
「はぁ!? こっちのセリフよ!」
リリが机をバンと叩いて立ち上がり、ルルを指差して激高する。
「安心しなさいよ! 私の王子様に少しでも変な手出しをする奴がいたら、それが誰であれ私がこの手で完全に叩き潰す!」
ルルが牙を剥き出しにし、拳を机に叩きつけて威嚇した。殺気、怒号、威嚇。教室の一角は、爆発寸前の火薬庫と化していた。
ボクは一人、頬を緩めて満足げに頷いていた。警察の切れ者、頼もしい幼馴染、そして可憐なアイドル。これほど個性的で賑やかで、楽しそうな班が他にあるだろうか。
『くっふふ…傑作だねェ! 最高のデータ収集場所だねェ。合宿では、キミがどのヒロインを一番狂わせるか、特等席で見せてもらうよォ』
母さんの悪辣な声に対し、ボクは真っ直ぐに前を見据え、口角を深く吊り上げた。
どんな野外活動だろうと、どんなトラブルが起きようと、ボクは完璧な『王子様』として全員を華麗にエスコートしてみせる!
次回の投稿は火曜日に予定しています。