TSボクッ娘は完璧な王子様系怪盗を演じたいようです。 作:最高司祭アドミニストレータ
カガリビ・リンにとって、ティーエス・プロタゴニストという人間は──本来ならば、人生において最も関わってはいけない『不純物』のはずだった。
深夜。静まり返った自宅の自室で、リンは冷たいフローリングの上にキャリーリュックを広げ、ストイックな手つきで合宿の準備を進めていた。
ベッドの上に整然と並べられているのは、規定通りの日数分の着替え、野外用のコンパス、止血帯やテーピングを含む本格的な救急キット、そして星凪市警・特殊捜査課の身分証だ。
必要最低限の機能性だけを追求した持ち物のラインナップは、これから「春のオリエンテーション合宿」という名の学校行事に向かう女子高生のそれとは程遠く、さながら過酷な野外任務に赴く特殊部隊員のようだった。
無駄なものは一切持ち込まない。感情の揺らぎは任務のノイズになる。
両親を理不尽な一般犯罪で失って以来、リンは己の心を殺し、自身を「法と証拠を執行する冷徹な機械」として厳しく律してきた。他者との馴れ合いは弱さを生み、判断を鈍らせるだけだ。
そうやって自立という名の孤立を自ら選んできた彼女の世界は、常に白と黒だけの無機質で絶対的な色彩に支配されていた。
それなのに。
リュックにタオルを詰め込もうとしたリンの動きが、ふと止まった。脳裏を過ったのは、昼間の教室での出来事だ。
警察の激務の合間を縫って、久しぶりに登校した教室。
特例の警察キャリアであるリンの存在は、平凡な高校生たちにとっては畏怖と忌避の対象でしかない。
彼女が席に着いた瞬間、教室の空気は張り詰め、周囲の生徒たちは腫れ物に触るかのように目を逸らし、遠巻きにヒソヒソと囁き合うばかりだった。
「あいつ来てるよ」
「警察官がなんで高校に…」
「関わらない方がいいって」
そんな陰口など、とうの昔に慣れっこだった。リンはただ窓の外を眺め、氷のような無表情を保って時間をやり過ごすつもりだった。
だが、その凍りついた静寂を粉砕して、土足でズカズカと踏み込んできたのが──あのティーエスだった。
『やあ! 元気だったかい警部さん! 久しぶりに君のその凛々しい顔が見られて、ボクは朝からとても光栄だよ!』
悪びれる様子など微塵もなく、机に両手をついて大声で笑いかけてきたその姿を思い出し、リンはギュッと眉間を寄せた。
最初は、心底嫌悪していた。大げさな身振り、芝居がかった口調、周囲の目を引こうとする痛々しいまでの『王子様』ロールプレイ。
論理的思考の欠片もないその存在は、リンの構築してきた完璧な秩序を乱すノイズ以外の何物でもなかった。「非論理的ね。離れなさい」と、何度氷のように突き放したか分からない。
彼女は決してリンの前から消えなかった。
以前、警察の捜査で恨みを買った不良グループの残党が、下校中のリンを待ち伏せて絡んできたことがあった。制服姿で丸腰だったリンが、戦闘を覚悟して身構えたその時。
周囲の生徒たちが見て見ぬふりをして足早に逃げ去る中、たまたま通りかかったティーエスだけが、一切の躊躇なくリンの前に立ち塞がったのだ。
『レディが困っているなら、助けるのが王子様の務めなのさ』
相手はナイフを隠し持った複数の男たち。それでもティーエスは、いつものふざけた態度のまま、ただの一般人の女子高生であるにもかかわらず、リンを守る盾となった。
損得勘定を抜きにした、裏表のない純粋な高潔さ。誰に何を言われようと、どんな理不尽な暴力に晒されようと、決してブレることのない愚直な信念。
その真っ直ぐな白銀の瞳に見つめられた時、リンの冷え切っていた心がどれほど強く揺さぶられ、救われてしまったか。
ティーエス自身は気にも留めていないだろうが、あの瞬間から、リンの世界に差していた白と黒の色彩に、どうしようもない熱が混じり始めてしまったのだ。
「バカみたい。あいつ、犯罪者を称賛するような真似までして…」
リンはぽつりと呟き、唇を噛んだ。
今日の昼休み、あろうことかティーエスはリンに向かって、世間を騒がせているあの忌まわしい『怪盗エトワール』の布教をしてきた。法を執行する番人に対し、犯罪者の身のこなしがクールだと語るなど、正気の沙汰ではない。
本来なら胸ぐらを掴んで説教してやるべきところだったが、リンは激しい怒りを覚えながらも、本気でティーエスを拒絶しきれない自分に苛立っていた。
そして、その感情が完全に決壊したのは、ホームルームでの『班発表』の瞬間だった。
担任教師の口から、【カガリビ・リン、ホシノ・ルル、アリスガワ・リリ、ティーエス・プロタゴニスト】という四人班が宣告された時。
教室中が息を呑み、「あのカガリビと同じ班なんて、息が詰まって可哀想に」という同情と憐れみの視線が、残りの三人に向けられたのをリンは肌で感じていた。
やっぱり、私はどこにいても異物なのだ。そう自嘲しかけたリンの視界を塞ぐように、ティーエスが相好を崩して歩み寄ってきた。
『おや! カガリビ、君と同じ班だね! なんと心強い味方だろう、最高の合宿になりそうだ!』
計算も打算も、一切の陰りもない、ただ純粋に「お前と一緒で嬉しい」と告げる白銀の瞳と、屈託のない笑顔。
両親を失い、自ら壁を作って生きてきたリンにとって、それは何年ぶりかに向けられた『無条件の歓迎』だった。
自分という存在を、肩書きや偏見を抜きにして、真正面から受け入れてくれる温もり。その言葉の圧倒的な破壊力の前に、リンが長年かけて張り巡らせてきた心の防壁は、音を立てて脆くも崩れ去っていたのだ。
「──っ」
不意に、我に返ったリンは自分の胸元を強く押さえた。制服のブラウス越しに伝わってくる心臓の鼓動が、信じられない早さで早鐘を打っている。
静かな部屋に響くほどのその音は、激しい運動をした後よりもずっと不規則で、激しかった。首筋から耳の先端までが一瞬にしてカッと熱を帯び、燃えるように熱くなるのが分かる。
リンはふらつく足取りで立ち上がり、部屋の隅にある姿見の前に立った。
そこに映っていたのは、氷のように冷徹なエリート警部ではなく、頬を林檎のように真っ赤に染め、瞳を潤ませて戸惑う、年相応のただの少女の姿だった。
「なっ…脈拍数が、異常値を示している…? 呼吸も浅い。これは自律神経の失調症? それとも、過労による微熱……?」
リンは警察官としての論理的思考をフル稼働させ、己の身体に起きている異常事態の原因を必死に分析しようとした。
だが、どれだけ理屈を並べ立てても、脳裏に浮かんでくるのは、今日自分に向けて手を差し伸べてくれた、ティーエスのあのキザで、大げさで、どうしようもなく眩しい笑顔ばかりだ。
心臓の奥底が、ぎゅっと締め付けられるように甘く痛む。
(…違う。これは、病気なんかじゃない)
リンは鏡から目を逸らし、その場にしゃがみ込んだ。
法でも数式でも証拠でも割り切れない。論理など全く通用しない、原始的で、最も厄介な感情。
それは紛れもなく──「恋」だ。自分があのお調子者の同級生に、どうしようもなく惹かれてしまっているという事実。
「あ、あああ…っ!」
それをはっきりと自覚した瞬間、耐え難いほどの羞恥と自己矛盾がリンの全身を駆け巡った。
リンは傍らに落ちていた合宿のしおりを引っ掴んで自分の真っ赤な顔を覆い隠すと、そのままベッドの上へダイブし、枕に顔を押し付けて「うううーっ!」と唸りながら足をバタバタと悶絶させた。
冷徹な『紅き警部』らしからぬ、あまりにも隙だらけで滑稽な姿。だが、胸の奥で暴れ回るこの熱い情動を、今はどうやって処理すればいいのか全く分からなかったのだ。
数分間、ベッドの上でシーツを握りしめてジタバタと暴れた後、リンは乱れた深紅のポニーテールを直し、ようやく荒い呼吸を整えて顔を上げた。
黄金色の瞳には、冷徹な警察官としての鋭い光と、不器用な恋心を持て余す少女の情動が、複雑に入り混じっている。
思い出すのは、班が決まった後、ティーエスを巡って教室で火花を散らしていた二人の存在だ。
幼馴染だという理由で我が物顔で威嚇してくる、あの狂暴な猛獣のような少女、ホシノ・ルル。そして、命を救われたからといって露骨にすり寄ってくる、生意気で騒がしい転校生アイドルの、アリスガワ・リリ。
「…あいつ、誰にでもあんな顔をして。危機管理能力がゼロにも程があるわ」
リンは不満げに唇を尖らせた。
ティーエスは誰にでも等しく優しい。無防備でお人好しで、自分が誰かの特別な感情の矢面に立っていることすら全く自覚していないのだ。
放っておけばまたどこかで誰かの盾になり、勝手に傷ついて壊れてしまいそうな危うさがある。
そんな奴を、あんな猛獣や腹黒いアイドルと一緒にしておくわけにはいかない。
リンはベッドから降り、開いたままだったキャリーリュックの前に戻った。救急キットの隣に、タオルと着替えを押し込む。
「私は警察の仕事が本分だから。合宿なんてただの学校行事、面倒なだけよ…でも」
ジジジッ、と、リュックのファスナーを力強く閉める音が、深夜の自室に響いた。
「あの馬鹿が他の連中に騙されたり、勝手に無茶をして怪我をしたりしないよう、私が一番近くで徹底的に監視してあげるわ…警察官としての義務としてね」
誰も聞いていない部屋の中で、誰に対する言い訳かも分からないツンとした悪態をつく。
だが、その実、リンの心はすでに強い決意と執着に支配されていた。
(合宿の数日間、あの騒がしい奴らからコイツを守る…いいえ、監視しなければならないわ)
素直になれないながらも、ティーエスを明確に特別視し、他の誰にも渡したくないという強烈な独占欲。
リンはリュックを机の横に置き、窓の外に広がる星凪市の夜空を見つめた。
さぁて、次回もサービスサービスゥ!