TSボクッ娘は完璧な王子様系怪盗を演じたいようです。 作:最高司祭アドミニストレータ
☆月□日
完璧な朝には、完璧な出立が必要不可欠だ。ボクはパンパンに膨らんだ巨大なボストンバッグを優雅に肩へかけ、初夏の爽やかな風を全身に浴びながら学校の校庭へ向かった。
今日から二泊三日の『春のオリエンテーション合宿』。前世の病室では決して経験できなかった、健康な肉体を持つ者だけが許される青春のビッグイベントである。
「ふっ、合宿という名の新たな舞台の幕開けだね」
ボクが前髪をふわりと風に流して涼やかに佇むと、集合場所周辺にいた女子生徒たちから「きゃああっ」「王子様がいるわ!」という黄色い歓声が上がった。
実に心地よい。
◇月〇日
各班ごとに指定された大型観光バスに乗り込んだ瞬間、ボクの脳内の時空がグニャリと歪んだ。
バスの最前列。見覚えのある制服スーツにスカーフを巻き、マイクを握って満面の笑みを浮かべていたバスガイド。
──あのマッドサイエンティスト、母さんだった。
「はにゃ?」
ボクの口から怪盗エトワールとしての美学の欠片もない、間抜けなカエルのような声が漏れた。
幻覚か? いや、あの白衣の下に隠しきれていない狂気の色は本物だ。
『あー、あー、本日は晴天なりィ。皆様ァ、ご乗車ありがとうございますゥ』
バスが発進した途端、マイク越しに耳を劈くような特徴的な声が車内に響き渡った。
『本日皆様の観察…ゴホン、ガイドを担当させていただきますゥ、アンタゴですゥ。どうか命を大事に、楽しい旅をォ』
なぜここに!? 徹夜のサクラ代の請求書はどうした!? 疑問が火山のように噴出し、問い詰めようとボクが席を立とうとした瞬間。
「席を立つな」
後ろの席から伸びてきたリンの腕が、ボクのブレザーの襟首をがっしりと掴んで強制的に着席させた。「走行中の離席は道路交通法および安全規定に抵触するわ」と、氷のような声で釘を刺される。
◎月★日
逃げ場を失ったボクを取り囲むのは、正真正銘の地獄の座席配置だった。
2列シートの通路を挟み、ボクの左隣には「当然でしょ! 私の横に座りなさい!」と腕を組んでドヤ顔を極めるホシノ・ルル。
通路を挟んだ逆側には、「ちょっと、そこ代わりなさいよ! ティーエス、私と一緒に外の景色を見なさいよ!」とルルを睨みつけるアリスガワ・リリ。
そして斜め後ろからは、警察手帳をチラつかせたリンが「全員、私語を慎み、速やかにシートベルトを着用しなさい。違反者は切符を切るわよ」と冷徹な監視の目を光らせている。
息が詰まりそうだよぉ。
◆月×日
バスが高速道路に乗り、退屈な時間が流れ始めた頃。
母さんが車内レクリエーションと称して、不気味なクイズ大会を始めた。
『さぁ皆様ァ、ここで楽しい物理クイズだよォ! 質量五十キロの人間が、シートベルトをせずに時速百キロでフロントガラスに衝突した際、人体に加わる運動エネルギーは何ジュールになるでしょうォ!? 正解者には特製の発光液をプレゼントォ!』
クラス中がドン引きし、誰もが一言も発さずに窓の外を見つめ始めた。
その時、ボクの右耳に仕込まれたインカムから『おいバカ娘ェ、ちゃんとボケなさいよォ。場を盛り下げるんじゃないよォ』と母さんの邪悪な脅しが響いてきた。
ボクは必死に胃を押さえ、見えないプレッシャーと戦い続けた。
□月☆日
数時間の移動を経て、山奥の広大な研修センター『星凪青少年の家』に到着した。
大講堂での入館式。年配の館長先生が「自然の中で協調性を…」と退屈な挨拶をしている横で、ボクの視力2.0の瞳は見てしまった。
母さんがバスガイドの制服のまま、引率教員たちが持っていた名簿や日程表の書類を、背後から高速で盗み見して暗記している姿を。
…あのマッドサイエンティスト、完全に全日程に帯同してボクの観察を続ける気満々だ。
▽月◇日 12:00
館内の食堂へ移動し、配られたお弁当を班ごとに食べる時間。
「ティーエス、これあげる。別に、アンタのために残したわけじゃないんだからね。私の手作りの卵焼き、食べなさいよ」
リリが顔を赤らめながら、お弁当の隅にあった卵焼きをおずおずと差し出してきた。
「なっ、抜け駆けすんじゃないわよ! ティーエス、私のこの巨大から揚げを食いなさい! 顎が外れるまで食わせてやるわ!」
ルルが割り込み、ボクの口に凶器のようなから揚げを押し込もうとする。板挟みになって後退りしたボクの背中を、ドン、と誰かが突いた。
「栄養バランスが偏っているわ。肉ばかり食べず、この茹でブロッコリーを摂取しなさい。ビタミンCの欠乏は集中力の低下を招くわよ」
リンが箸の先でブロッコリーをボクの口元へねじ込んできた。
逃げ場はない。ボクは涙目で卵焼きとから揚げとブロッコリーを同時に咀嚼し、口の中で最悪のハーモニーを奏でた。
★月▲日
昼休みの数十分。トイレに立ったボクが手を洗っていると、物陰からぬるりと伸びてきた手に首根っこを掴まれた。
「ちょっと! なんでここにいるんだい!? 学校行事にまで潜り込むなんて、いくらなんでもやりすぎだ!」
「くっふふ! なに、愛娘が青春の密室に放り込まれるんだよォ? 合宿先での思春期ホルモン分泌データを特等席で採取するためさねェ。さっきの三つ巴の食事風景、最高にドーパミンが出てたよォ」
ニチャァ、と笑う母の鳩尾に向けて、ボクは無言で会心の肘打ちを叩き込んだが、母はゴキリと人間離れした関節の動きでぬるりとそれを躱し、煙のように姿を消した。
〇月◆日
午後の研修第一弾、『高校生活の心得』。
大講堂に集められ、教頭先生による進路や学習習慣についての退屈な話が続く。多くの生徒がうつらうつらとし始める中、ボクは背筋を伸ばし、ノートに真面目にメモを取っていた。
前世の病室では、学校の授業を受けることすら満足にできなかった。どんなに退屈な話であっても、こうしてノートに文字を書き込めるという事実が、ボクにとっては奇跡のような喜びなのだ。
ふと視線を感じて横を向くと、リリがボクの横顔をじっと見つめていた。目があった瞬間、彼女はなぜか急に顔を真っ赤にしてパッと俯き、ノートに無意味な渦巻きを描き始めた。
◎月□日
講義の後半、ついにルルが限界を迎えて盛大に船を漕ぎ始めた。
「おいルル、起き──」
ボクが注意しようと身を乗り出した瞬間、コテンとルルの頭がボクの肩に落ちてきた。
「むにゃ、から揚げ…」
周囲の席から、「やっぱりあの二人、デキてるんじゃ…」というヒソヒソ声が上がる。
すぅ…だから付き合ってないってば!!
☆月×日
体育館に移動し、研修第二弾のアイスブレイク。
学年全体でのレクリエーションが始まるが、第4班の空気は緊張をほぐすどころか、一触即発の核戦争前夜の様相を呈していた。ルルの肩もたれ事件が、リリの逆鱗に触れたままなのだ。
◇月▽日
悲劇は『班対抗の大縄跳び』で起きた。
ボクの完璧なパルクールジャンプ力とタイミング合わせは完璧だった。しかし、野生の身体能力を持つルルが気合いを入れすぎて跳びすぎた結果、空中で足を引っ掛け、極太の縄を物理的に引きちぎってしまったのだ。
「非論理的ね! 自分の体重と滞空時間を計算して、効率的な跳躍角度を導き出しなさい!」
リンが氷のような声で激怒する。
「ちょっとアンタのせいで縄が私の顔に掠ったじゃない! アイドルの命の髪が乱れたらどうしてくれるのよ!」
リリがヒステリックに叫び返す。
結果、ボクたちの班の記録は、学年ぶっちぎりの最下位である驚異の「2回」だった。
▲月★日
グループワーク。模造紙に『この合宿で達成したい目標』を書き込む作業。
ルルはマジックをひったくり、「打倒、アリスガワ」と血文字のように書き殴った。
リリはそれを押し退け、「プライベートの死守。獣の立ち入り禁止」と書き殴る。
リンは静かにペンを取り、「犯罪の未然防止、および不審者の排除」と極めて実践的な目標を書き添えた。
…まともな意見が一つもない。
ボクは涙目になりながら、模造紙のど真ん中に、丸文字で「みんなで仲良くしようね」と書き込むしかなかった。
◆月〇日 17:00
宿泊棟へ移動し、いよいよ運命の部屋割り。
女子部屋の和室に入り、荷物を解く。青々とした畳の匂いに感動し、ボクは思わず目を閉じて正座した。日本の伝統、美しき和の心だ。
すると、正面からリリがずいと身を乗り出してきた。
「アンタ、制服のボタン開けすぎ。だらしないわよ。隙だらけなんだから…ッ」
リリは耳まで真っ赤に染めながら、震える指先でボクのブラウスの胸元をきっちりと留め直してきた。
その顔の近さに、ボクの方が少しだけ動揺してしまった。
□月▲日 17:30
夕食前、布団敷きの陣取り合戦が勃発した。
「私がティーエスの隣よ! 幼馴染の特権よ!」
「ふざけないで! いびきがうるさい女の隣なんて、ティーエスが可哀想でしょ! 私が隣よ!」
ルルとリリが、シーツを握りしめたまま目力で殺し合いを始めた。見かねたリンが、氷のような声で二人の間に割って入った。
「非生産的ね。揉めるくらいなら、全員の真ん中に私が寝るわ。風紀の乱れを阻止し、不測の事態に備えるためよ。異論は認めないわ」
リンはそう宣言し、なぜか一番美味しい『ボクの真横』のポジションを堂々と強奪していった。公権力の濫用ではないだろうか。
▽月☆日 18:00
施設の食堂で、夕食のバイキング。
ボクがトングを持って優雅にサラダを選んでいると、後ろから足音もなく母さんが忍び寄ってきた。
「くっふふ、愛娘よ。集中力を極限まで高める特製ドレッシングをかけてあげようねェ」
母さんはボクのサラダの上に、謎のドロッとした蛍光紫色の液体を垂らしていった。
「やめて!! なんでバスガイドが配膳までしてるんだい!」
ボクは悲鳴を上げ、紫色のサラダを泣く泣く廃棄処分にした。
★月◇日 18:45
夕食後の歓談タイム。他の班の生徒たちが楽しそうにおかわりやデザートを取りに行っている中、第4班のテーブルだけは異様な空気に包まれていた。
「ほら、ティーエス! このエビフライ、尻尾まで食べなさい!」
「私の取ってきたこの高級メロンの方が、絶対ティーエスの口に合うわよ!」
ルルとリリによる、『ボクにどれだけ美味しいものを食べさせられるか』というプレゼン大会と化していたのだ。
ボクが胃もたれで死にそうになっていると、横からスッと小皿が差し出された。
そこには、リンがペティナイフで完璧なウサギの形に剥き揃えたリンゴが並んでいた。「ビタミンを補給しなさい」とそっぽを向く彼女の横顔が、一番美しく見えたのは内緒だ。
◎月×日
時間指定の大浴場。湯煙が立ち込める灼熱地獄。
前世が男のボクにとって思春期の女子たちとの全裸での入浴など、精神崩壊を引き起こすトラウマの再演でしかない。
湯船の一番端の隅っこで、石像のように固まって息を潜めていると。
「ボボボボボ…くっふふ、背中を流してあげようかァ?」
湯船の底から、シュノーケルを装着した母さんが潜水して迫ってきた。
「ヒィッ!?」
ボクは情けない悲鳴を上げ、秒で湯から飛び出した。怖いんだけど…。
〇月★日
各部屋の代表が集まる室長会議。
第4班の室長であるリンが、教員たちに対し「明日の野外活動における不審者対策、および土砂崩れ時の避難ルートの不備について」本職の警察官として理路整然とダメ出しを連発。
三十代の教頭先生が、涙目でメモを取りながら平謝りしていた。流石は我が班の誇る紅き警部だ。
☆月◆日
部屋に戻り、就寝準備。ボクは持参したネイビーのシルクパジャマに着替えた。
また無意識にボタンを二つ開けてしまったボクに対し、リリが「だから! 何度言ったら分かるの! ガードが緩いって言ってるでしょ!」と顔を真っ赤にして突進してきて、首元までキッチリとボタンを留め直してくる。
その横で、ルルはすでに布団を蹴っ飛ばし、大いびきをかいて眠りに落ちていた。
◇月□日
カチリ、と部屋の電気が消え、消灯の時間が訪れた。
暗闇の中、隣の布団から伝わってくるリンの微かな体温と、リリの規則正しい寝息。
天井を見つめながら、ボクは深く息を吐き出した。
神出鬼没な母さんの監視。一触即発のヒロインたちの視線。そして、明日控える過酷な野外活動…。
大変だなァ、ボクの人生。
窓の外から聞こえる虫の音を聞きながら、不思議と退屈だけは絶対にしない夜だと、ボクは暗闇の中で小さく笑った。
次回の投稿は金曜日に予定しています。