TSボクッ娘は完璧な王子様系怪盗を演じたいようです。 作:最高司祭アドミニストレータ
どうぞご覧ください。
五月の夜風は、まだ少し肌寒かった。
星凪市の高台に続く坂道を、ホシノ・ルルは一人、とぼとぼと歩いていた。普段であれば、邪魔な小石を蹴り飛ばし、大股で我が物顔に夜の街を闊歩する彼女だが、今夜ばかりは足取りがひどく重い。
数十分前まで開催されていた、ティーエス・プロタゴニストの自宅での合同勉強会。そこから逃げるように帰ってきたルルの胸の奥は、今、焼けた鉄でも流し込まれたかのように、息苦しいほどの痛みに支配されていた。
(痛い。苦しい)
ジャージの胸元を強く握りしめる。
この痛みには、痛烈な覚えがあった。
あれは今世ではなく、『前世』での記憶だ。病院特有の消毒液の匂いが充満する、真っ白で無機質な病室。
先天性の重い病を患い。ベッドの上で点滴のチューブに繋がれたまま、ただ無為に死を待つしかなかった前世のルル。
毎日泣き叫び、理不尽な運命を呪っていた彼女の前に、ある日、隣の病室から車椅子に乗った一人の少年が現れたのだ。
『泣かないでおくれよ、可愛いレディ。いつか必ず、ボクがキミをこの退屈な部屋から連れ出して、本当の海を見せてあげるからさ』
その言葉だけが、暗闇の中で怯えるルルにとって唯一の光だった。彼が読んでくれる絵本の物語だけが、ルルを外の世界へと繋ぎ止める希望だった。
しかし、その約束が果たされることはなかった。
ある日の朝、ルルの病室に医師たちが駆け込み、「彼が息を引き取った」と告げられた。そしてルル自身もまた彼を追うようにして、その短い生涯を病室のベッドの上で終えたのだ。
そして今世。
奇跡のように健康な肉体を得て、同じ時代に転生したルルだったが、彼女の心だけはずっとあの前世の白い病室に置かれたままだった。
周囲の子供たちと上手く馴染めず、持て余した体力と空虚感を粗暴な暴力性へと変換して暴れ回る日々。
そんな荒みきったルルの前に理不尽なまでの衝撃が訪れたのは、幼稚園の砂場でのことだった。
ふと現れた、銀髪の美しい少女。
姿も性別も違う。なのに、その芝居がかった手つき、人を食ったような言葉の癖、そして何より『絶対に誰かを見捨てない愚直なお人好しっぷり』から滲み出る魂の輪郭が、あまりにも前世の「あの病室の少年」そのものだったのだ。
『やあ、レディ。そんなに泥だらけになって、何か悲しいことでもあったのかい?』
差し伸べられた小さな手を見た瞬間、ルルは理解を超えた恐怖と歓喜に襲われた。
失ったはずの光が、奇跡のように目の前へ現れた動揺。今度こそ、また消えてしまうのではないかという絶望的な恐怖。
だからルルは、その手を素直に握り返すことができなかった。代わりに、銀髪の少女に向かって強烈なドロップキックを放ち、泣きながら馬乗りになってポカポカと殴りつけたのだ。
触れて痛がって怒ってくれなければ、彼女が幻のように消えてしまいそうで怖かった。暴力的なスキンシップという過剰な防衛反応でしか、ルルは彼女に関わることができなかったのだ。
自宅のマンションに帰り着き自室のドアを乱暴に閉めると、ルルはそのままベッドへと倒れ込んだ。
バサリと音を立てて床に投げ出されたスクールバッグから、教科書と一緒にいくつかの中身がこぼれ落ちる。
それはティーエスが「君の暴走祈願さ」と冗談めかしてくれた高校受験の合格お守りや、小学校の頃に一緒に撮った泥だらけのツーショット写真だった。
ルルはベッドから身を乗り出し、その写真を拾い上げて指でそっと撫でた。小・中学校の九年間。ルルはずっと、ティーエスの「一番近くの席」を死守し続けてきた。
どれだけ理不尽に蹴飛ばしても、プロレス技を掛けても、泥を投げつけても、ティーエスは決してルルを拒絶しなかった。
『やれやれ、相変わらず元気なお姫様だね』と呆れながらも、あの病室での約束そのままにいつも眩しい笑顔を向けて側にいてくれた。
いつしかルルにとって「ティーエスの隣」こそが、自分の世界の中心であり帰るべき唯一の居場所になっていた。
「ボクは君の王子様だよ」と言ってくれたティーエスの言葉を、ルルは真に受けていた。この先もずっと、高校生になっても大人になっても、当たり前のように二人で並んで歩いていくのだと、信じて疑っていなかったのだ。
だが、高校に入学して何かが決定的に狂い始めた。
美しく中性的な魅力に磨きがかかったティーエスは、もはや「ルルだけのもの」ではなくなってしまった。廊下を歩けば黄色い声援が飛び交い、学園中の女子生徒の憧れの的である『王子様』へと昇華してしまったのだ。
何よりあのオリエンテーション合宿を経て、ルルの聖域に土足で踏み込んでくる強力なライバルたちが出現した。
法と秩序を盾にティーエスと高度な知的な会話を交わす、特殊捜査課のエリート警部カガリビ・リン。
トップアイドルとしての圧倒的な美貌と可憐な仕草で、ティーエスの視線を惹きつける転校生アリスガワ・リリ。
二人はティーエスと関わり、急速に距離を詰めている。
(…私だけが、アイツの特別だったはずなのに)
ルルはベッドのシーツを、爪が破れるほど強く握りしめた。
自分が何年もかけて守ってきた聖域が、音を立てて崩れていく焦燥感。アイツの隣が、自分の知らない色に塗り替えられていく恐怖。
限界まで追い詰められているルルは、数時間前の合同勉強会の光景がフラッシュバックのように網膜に焼き付いて離れない。
『なぜここで公式を逆に代入するのかしら。非論理的極まりないわ』
リンの容赦ない正論マシンガンに、ルルは反論すらできなかった。頭脳明晰なリンは、勉強という土俵においてティーエスの隣に並び立つ資格を完全に満たしていた。
『ねえ、この単語の意味、教えて…?』
英語の長文読解で、リリが小声でティーエスの袖を引いたあの瞬間。
覗き込むように顔を近づけたティーエスと、息を呑んで赤面するリリ。二人の間に流れた、甘く親密な空気。
勉強が致命的に苦手なルルは、その洗練された輪の中に入っていくことができず、ただ蚊帳の外で唇を噛み締めながらノートを握りしめることしかできなかったのだ。
(私には、暴力と悪態しか残っていないのに…あんな風に、アイツに頼ったり、甘えたりすることなんてできないのに…)
ティーエスがリリに顔を近づけたあの瞬間、ルルの心臓はドクンと嫌な音を立てて跳ね上がり呼吸が一気に浅くなった。
喉の奥がカラカラに渇き、視界が歪む。腹の底から湧き上がるのは、リンやリリに対する怒りではなかった。
(…違う。怒ってるんじゃない。私、怯えてるんだ)
ルルはノロノロと立ち上がり、部屋の隅にある姿見の前に立った。
(あいつがまた私の手の届かない場所へ、遠くへ行っちゃうんじゃないかって…!)
鏡に映る自分の顔を見る。いつも周囲を威嚇している『猛獣』のような凶暴な少女の面影など、微塵もなかった。
あるのはただ恋敵たちの圧倒的な魅力に怯え、大好きな人を取られたくなくて泣きそうな顔をしている、惨めで不器用な「一人の女の子」の姿だけだった。
ポタッ、と。目尻から溢れた涙が、頬を伝ってフローリングの床に落ちた。
自分がティーエスに向けるこの激しく重い感情の正体。単なる幼馴染としての執着や、親愛の情などという生易しいものではなかった。
他の誰かがティーエスの隣で笑うだけで、心臓が握り潰されるほど痛い。ティーエスの視線が自分以外に向けられるだけで、息ができないほど苦しい。
これは、どうしようもないほどの「激しい嫉妬」と、「失うことへの絶望的な恐怖」だ。
つまり、初恋なのだと。
「ばかみたい。私、アイツのこと、こんなに…っ」
暴力的な仮面の裏にずっと隠し続けてきた、自分の本当の心。それをはっきりと自覚した瞬間、ルルの身体はガタガタと震え出し、止まっていた涙が次々と溢れて止まらなくなった。
ルルは自室の窓辺に歩み寄り、開け放たれた窓から、星凪市の夜空を見上げた。
冷たい夜風が、火照った頬を撫でていく。
前世のあの病室の窓から、二人で海を眺めていた時のように。
「渡さない。誰にも、絶対に渡さない」
ルルは拳を強く握りしめ、溢れ出る涙を手の甲で乱暴に拭い去った。
エリート警部だろうがトップアイドルだろうが関係ない。
前世のあの薄暗い病室からずっと、あいつのあの眩しい笑顔を、あいつと一緒に歩く未来を、誰よりも長く待ち望んでいたのは私だ。
あいつが「王子様」だというのなら、その隣に立ちあいつを守る役目は、他の誰でもないこの私でなければならない。
(これ以上、あんな女たちにアイツの隣を独占されてたまるか…!)
もしこのまま中間テストで自分だけが赤点を取り、放課後に補習を受けるようなことになれば。その間にティーエスと過ごす貴重な時間は、リンやリリに完全に奪われてしまう。
そんな屈辱、死んでも御免だ。絶対にアイツの隣の席は譲らない。
ルルの瞳の奥に、かつてないほど獰猛で熱い炎が宿った。
彼女は窓を閉め、一直線に勉強机に向き直った。そしてリンから散々ダメ出しをされ途中で投げ出した問題集を乱暴に開き、ペンを握る指先に渾身の力を込めた。
「見てなさいよ、ティーエス。あんな女たちに、あんたの隣を譲る気なんてサラサラないんだから!」
もう怯えたりしない。前世で置いていかれたあの場所から、今度は私があの手首を掴んで絶対に離さない。
不器用な幼馴染が抱え込んでいた激重感情が、明確な「恋心」と「執着」へと昇華され、強固な鋼のように固定された瞬間だった。
深夜の静寂の中、ルルは赤点回避という悲願。何よりティーエスの隣の席を奪還するために、鉛筆の芯が折れるほどの勢いで問題集に立ち向かい始めた。
さぁて、次回もサービスサービスゥ!