TSボクッ娘は完璧な王子様系怪盗を演じたいようです。 作:最高司祭アドミニストレータ
☆月□日
星天館学園へと続く小高い丘の坂道──通称『星凪坂』を、初夏の爽やかな風を全身に受けながら登っていく。
一歩踏み出すごとに、ふくらはぎと太腿の筋肉が心地よく収縮し、肺が新鮮な空気をたっぷりと吸い込む。前世の薄暗い病室では、ベッドから起き上がることすら叶わなかった。
こうして自分の二本の足で大地を踏みしめ、坂道を駆け上がる際の「心地よい負荷」そのものに、ボクは毎朝のように密かな感動を覚えている。健康な肉体とは、なんと素晴らしい贈り物なのだろうか。
◇月〇日
坂を登りきり正門前へ差し掛かると、そこには見慣れた凛々しい人影があった。左腕の風紀委員の腕章を朝日に光らせ、背筋をピンと伸ばして立ち番をしているタテヤマ・ユイだ。
「ごきげんよう、麗しの風紀委員さん。今朝も君の立ち姿は百合の花のように気高いね」
ボクが胸に手を当てて優雅に会釈すると、ユイはビクッと小動物のように肩を跳ねさせた。
「っ! か、今朝は第一ボタンを留めているわね。よろしい。でも、そのネクタイの緩さは何なの! 結び目が鎖骨の下まで落ちているわよ、今すぐ正しなさい!」
耳の先をほんのりと赤く染めながらも、必死に厳しい視線を作って注意してくる。
朝から実に活きのいい反応だ。
▲月▽日
昇降口の下駄箱で上履きに履き替えていると、背後からドカドカと地響きのような足音が迫ってきた。
「おはよー! ねえティーエス、朝練で死ぬほど腹減ったから、今から購買行ってパン買ってきて!」
バシィッ!! と、ホシノ・ルルの豪快な平手がボクの背中を直撃した。
常人なら肺の空気が全部抜けて前のめりに倒れ込むレベルの威力だ。背骨がミシリと軋むようなこの理不尽な痛みもまた、ボクが今この世界で健康に生きている確かな証である。
「やれやれ、朝から元気なお姫様だね」とボクは苦笑しながら肩を回した。
◎月★日
1時間目の移動教室。旧校舎と新校舎を繋ぐガラス張りの渡り廊下を歩いていると、反対側からアリスガワ・リリが歩いてくるのが見えた。
手には芸能事務所のスケジュール帳らしきものを持っている。職員室へ提出に行く途中だろうか。
リリはボクの姿に気づくと、周囲の生徒たちの目を気にしてツンと顎を上げ、完璧な『孤高のアイドル』の仮面を被った。
しかし、ボクとすれ違うほんの一瞬だけ顔をわずかに寄せてきた。
「昨日の数学の課題、アンタの教え方のおかげで全部丸貰えたわ。ありがと」
消え入りそうな小声で早口に囁くと、彼女は耳まで真っ赤にしたまま、カツカツと足早に通り過ぎていった。
不器用な感謝の伝え方に、ボクの口角が自然と緩む。
◆月×日
昼休み。騒がしい教室を抜け出し、ボクは人通りの少ない旧図書館へと足を運んだ。
カビと古い紙の匂いが漂う歴史ある書架の間を歩き、奥にある『星凪市・郷土資料コーナー』の前で足を止める。
目的はただ一つ。昨夜、次なるターゲットに定めた私設迎賓館『紫陽花館』に関する、古い市報や建築当時の記録を探すためだ。
怪盗のショーは、地道な文献調査から始まるのである。
□月☆日
背の高い書架から分厚い郷土史を引き抜いていると、視線を感じてふと横を向いた。
遠くの貸出カウンターの方から、一年生の図書委員であるミツカ・ミオが、本棚の陰に半分隠れるようにして、オドオドとこちらを見つめていた。大きな丸眼鏡の奥の瞳が、小刻みに揺れている。
「あ、あの…何か、探している本があるのですか…?」
尋ねられ、ボクは極上の王子様スマイルを浮かべて振り返った。
「やあ、可愛い図書委員さん。昔の洋館の建築写真集を見たくてね。仕事の邪魔をしてしまったかな?」
「ひゃあっ…! い、いえっ、全然っ…!」
ミオはボンッと音を立てるように顔を真っ赤にし、抱えていた本で顔を隠したまま、再び本棚の影へとシュババッと隠れてしまった。
▽月◇日
資料のコピーを終え、購買で手に入れた焼きたてのクロワッサンを片手に、中庭の大きな桜の木の木陰へと移動した。
サクサクとしたバターの風味を味わいながら、ボクは昨夜母さんと整理した紫陽花館の基礎データを頭の中で反芻する。
敷地の広さ、周囲の地形、そして外壁の高さ。
さっき図書館で見つけた古い建築写真を見る限り、あのレトロな凹凸のある石壁ならば、ボクのパルクール技術で足を掛けるポイントはいくらでも見つけられそうだ。
★月▲日
午後の体育の授業は、グラウンドでの長距離走だった。
前世のベッドの上で溜め込んだ鬱憤を晴らすかのように、ボクは出力を適度に抑えつつも、風を切るような軽やかなステップで先頭集団を引っ張って走った。
心臓が規則正しく脈打ち、額に心地よい汗が滲む。
「はぁ、はぁ…ちょっとティーエス! なんであんた、そんな涼しい顔で走れんのよ! 息ぐらい切らしなさいよ!」
後方から、顔を真っ赤にしたルルが猛獣のような足音で追いかけてくる。ボクは「風が背中を押してくれているのさ!」と爽やかに笑いながらペースを維持した。
〇月◆日
放課後。ボクは風通しのいい屋上へと続く階段の最上段、踊り場の床にハンカチを敷き、一人で文庫本を広げていた。
誰にも邪魔されない静かな読書時間…と思いきや、コツ、コツと規則正しい革靴の足音が階段を上がってきた。
「こんなところで何をしているの。屋上への立ち入りは校則で禁止されているわ」
巡回中のタテヤマ・ユイだった。
「おや、また会ったね。安心したまえ、屋上へは立ち入っていないよ。こうして閉ざされたドアの前で、静かに読書を楽しんでいるだけさ」
ボクが本から目を離さずに答えると、ユイは「まったく…」と呆れたように息を吐きつつも、なぜか立ち去らず、ボクの隣の段にそっとスカートの裾を押さえて腰を下ろした。
◎月□日
夕暮れのオレンジ色の光が、階段の窓から斜めに差し込んでいる。
隣に座ったユイが、左腕の腕章の位置を指先で直しながらぽつりと呟いた。
「あなたって、本当に不思議な人ね。服装の規則は破るくせに、こうして見ていると他人を傷つけたり、誰かに迷惑をかけるようなことは絶対にしない」
ボクは文庫本に栞を挟み、パタンと閉じてから彼女の横顔を見た。
「規律を乱すのが目的じゃないからね。ボクはただ、ボク自身の『美学』に従っているだけさ」
「…相変わらず、意味不明な言い訳ね」
ユイは冷たく毒づいたが、その厳格な横顔からは朝のような張り詰めた緊張感が抜け、ほんの少しだけ肩の力が抜けたように見えた。
☆月×日
学園を出たボクは、そのまま旧市街の古い坂道へと足を向けた。石畳が続く狭い路地裏に入り、錆びた看板がぶら下がる古書店『白鯨堂』の扉を開ける。
チリンと古風な鈴の音が響いた。
店の奥に座る白髪の老店主に、「星凪市の戦前の建築マップや、昔の洋館の絵葉書はありませんか?」と尋ねる。
ホコリまみれの木箱をいくつも漁った末、ボクはついに紫陽花館が建てられた昭和初期当時の古い住宅地図のコピーを、わずか数百円で購入することに成功した。
大収穫だ。
◇月▽日
古書店を出た後、旧市街から新市街へと抜ける駅前の巨大バスターミナルへと立ち寄った。
夕方のラッシュ時でスーツ姿の大人や学生たちが忙しなく行き交う中、ボクは紫陽花館の最寄りのバス停を通る路線バスの時刻表と、夜間の運行本数を手帳に素早くメモしていく。
ワイヤーでの空中移動だけでなく、人々の流れに紛れて一般交通機関を利用するのも、怪盗としての「現実的な撤退・移動手段」の重要な選択肢なのだ。
▲月★日
一旦自宅マンションへ帰宅して制服を脱ぎ、動きやすい黒のジャージ姿に着替えてから、ボクは海沿いの遊歩道へとナイトランニングに飛び出した。
夜の潮風が火照った頬を心地よく打つ。
前世の病室で、窓の向こうの夜景を眺めながら何千回と憧れ続けた「夜の冷たい空気を胸いっぱいに吸い込んで、どこまでも走る」という行為。
それ自体が今のボクにとっては最高のフィジカルトレーニングであり、魂の解放だった。
◆月〇日
ランニングの途中、人通りの全くない港の防波堤の突堤で足を止める。
幅わずか数十センチのコンクリートの縁にひょいと飛び乗り、片足立ちでのバランス感覚と、垂直跳躍の基礎トレーニングを行う。
眼下の黒い海面に、無数の星明かりが反射して揺れている。
今のボクの身体は、かつての病弱な少年の頃とは比較にならないほどしなやかに、そして力強く進化していることを筋肉の隅々まで実感できた。
□月▲日
マンションに戻り、シャワーで汗を流してから地下研究室へと降りる。
母さんが、デスクの上で怪しい紫色に発光する試験管を振りながら迎えてくれた。
「おかえり、愛しの特異点ちゃん。夜の潮風は美味しかったかい?」
「ああ、最高だったよ。それより母さん、旧市街の古書店でいい資料が手に入ったんだ」
ボクは買ってきたばかりの戦前の古地図を、デスクの上に広げた。
▽月☆日
母さんは古地図を大型スキャナーで読み込み、メインモニター上で現代の最新の衛星写真とぴたりと重ね合わせた。
カタカタとキーボードを叩き、画像の透過率を調整していく。
「へぇ…これは面白いねェ。戦前の造成データと現代の地形を比べると、紫陽花館の庭園の地下には古い防火用水槽か、あるいは戦時中の防空壕の跡地が、そのまま埋め戻されずに残っている可能性が高いよォ」
「やっぱりね!」
ボクはモニターを指差し、得意げに胸を張った。
「あの歴史ある洋館には、絶対に何か裏の秘密があると思っていたのさ! ボクの怪盗としての嗅覚は百発百中だね!」
「ただの使われていない古い空洞かもしれないだろうが。相変わらずの跳躍思考と決めつけだねェ」
母さんは呆れたようにため息をつきつつも、その不自然な地下空洞の想定エリアをモニターの図面上に赤いラインでくっきりと引いてくれた。
◎月×日
続いて、旧市街特有の「深い谷間と厚い石壁」という地形環境を想定し、インカムの電波到達テストを開始した。
母さんが特製の小型ジャマーと高感度受信機を取り出し、数値を計測する。
「いいかい、現地の洋館の石壁の厚みが50センチを超えると、通常の無線電波は大幅に減衰する。地下に潜るならなおさらだ。当日までに、指向性の強い中継アンテナを開発しておくよォ」
マッドサイエンティストではあるが、この科学技術のサポートだけは実に心強い。
〇月★日
翌朝。少し早起きをしたボクは、自宅を出て駅前のベーカリーカフェのテラス席で優雅に朝食をとっていた。
淹れたてのホットコーヒーの香りと、焼きたてのパニーニのチーズの味わい。
朝の爽やかな街並みを眺めながら、ボクは今日の下校後に予定している『紫陽花館の現地外周ウォーキング』のタイムスケジュールを、革の手帳に万年筆で書き込んでいった。
☆月◆日
カフェを出て、学園への登校中。
星凪坂の途中で、自転車のチェーンが外れてしまい、しゃがみ込んで困り果てている他クラスの女子を見かけた。
ボクは通学鞄を地面に置き、ハンカチを出しながら歩み寄った。
「お困りかい、可愛いレディ? ボクに少し見せてごらん」
ボクはしゃがみ込み、怪盗の手品で鍛えた器用な指先を動かして、わずか数秒で外れたチェーンをギアへと掛け直した。
黒く油で汚れた自分の指先をハンカチで拭きながら、立ち上がってパチンとウインクを飛ばす。「さあ、遅刻しないように気をつけてね」。女子は顔からシュウシュウと湯気を出しながら、その場で石のように固まっていた。
◇月□日
教室に入り、自分の席に着いた途端だった。クンクンと犬のように鼻を鳴らしながら、ルルがボクの机に身を乗り出してきた。
「あんた、手から微かに機械油の匂いがするわね。朝からどこで何をいじってきたわけ? 怪しい!」
「やだなあ、道端で困っている迷子の小鳥を助けていただけさ」
ボクは笑って優雅に受け流したが、わずかな匂いすら嗅ぎ分けるルルの野生の勘は警察犬以上に油断ならない。
▲月◎日
昼休み。
人目を避けて、ボクは一人、校舎裏の誰も来ない空き地へと向かった。
昨夜、母さんと写真で確認した『紫陽花館の高い外壁を乗り越えるための足の運び』を、体育館裏の古いコンクリート壁を使ってシミュレーションするためだ。
軽く助走をつけ壁をタタッと二歩駆け上がり、跳躍して約3メートルの高さにある壁の天端に指先をかける。そのまま音もなく懸垂の要領で身体を引き上げた。
うん、筋肉の連動性と消音性は極めて良好だ。
▽月×日
放課後。いよいよ本格的な『現地の下見』のため、ボクは制服姿のまま旧市街の山の手エリアへと向かった。
レトロなガス灯風の街灯が並ぶ、急な石畳の坂道を一人で登っていく。
潮風の匂いが薄れ、代わりに湿った土と深い緑の匂いが濃くなっていく。
やがて坂の頂上付近に、高い石垣と鬱蒼とした木々に囲まれた、広大な敷地の一角が見えてきた。
◆月☆日
重厚な黒い鉄格子の門の前に到着する。苔むした石の門柱には、古めかしい真鍮のプレートで『紫陽花館』と深く刻まれていた。
鉄格子の隙間から奥を覗き込むと、手入れされた庭園の向こうに、蔦の絡まる石造りの巨大な洋館が静かに佇んでいた。
夕暮れの茜色の光の中で見るその姿は古い絵画のように美しく、そしてどこか部外者を拒絶するような冷たい重圧を放っている。
★月□日
散歩中の学生を装いながらボクは敷地の周囲をぐるりと歩き、外壁の高さを自分の歩幅と目測で正確に測っていった。
石垣と塀を合わせた高さは、およそ3メートル強。上部には鋭利な鉄の忍び返しがついている。
しかし、裏手に回ったところで、庭に植えられた巨大なエノキの木の太い枝が、壁の外側まで少しだけ張り出しているポイントをハッキリと発見した。
「なるほど…あの枝を足場に経由すれば、忍び返しに触れることなく、音もなく敷地内へ滑り込めそうだね」
☆月〇日
さらに歩きながら、正門の脇と裏の勝手口らしき木戸の上に設置された防犯カメラを、目視で確認する。
刻まれたメーカーのロゴと、少し角張ったハウジングの形状。あれは最新のAI自動追尾システムではなく、数年前に導入された一般的な固定式赤外線カメラだ。
「星凪市博物館ほど厳重なハイテク網は敷かれていないようだが…死角の計算は慎重に行わないとね。油断は禁物だ」
◇月▲日
外周の下見を一通り終え、ボクは紫陽花館の屋根を見下ろせる、さらに一段高い坂道の展望ベンチに腰を下ろした。
日が沈み、旧市街の街並みにポツリ、ポツリとオレンジ色のガス灯の明かりが灯り始める。
遠くに見える暗い海と、夜の闇へとゆっくり沈みゆく洋館の重厚なシルエット。実際に自分の足で歩き、現場の空気を肌で吸ったことで、頭の中の潜入計画がより立体的で鮮明なリアリティを持ち始めていた。
▲月×日
帰宅後、自室の机に向かい、極秘手記を広げてペンを走らせる。
現地をこの目で確認した。紫陽花館はボクの華麗なるステップを受け止めるに相応しい、極上の舞台だ。外壁の高さ、エノキの枝の配置、防犯カメラの機種と死角。
すべては、ボクの頭の中の三次元マップに完璧に焼き付けた。
だが、館内部の警備状況の把握や、母さんの新機材のテストはまだまだこれからだ。焦らず、確実に、完璧なショーの下地を作るとしよう。
万年筆を置き、窓から吹き込む心地よい夜風を感じながら、ボクは満足げに手記を閉じた。
さぁて、次回もサービスサービスゥ!