TSボクッ娘は完璧な王子様系怪盗を演じたいようです。 作:最高司祭アドミニストレータ
アンタゴという女にとって、この世界はひどく退屈な場所だった。
生まれ持った異常なまでの情報処理能力と、あらゆる物理法則や数式を直感で理解してしまう知性。彼女にとって、世の中の大半の事象は「計算通り」に動くつまらない歯車に過ぎなかった。
大学の研究室も、企業の研究開発部門も、彼女の知的好奇心を満たすには至らなかった。
結果が最初から見えている実験など、単なる作業でしかない。彼女が求めていたのは予測不可能なバグ、あるいは既存のルールの枠を完全に飛び越えた『未知』だった。
だからこそ、気まぐれに子供を産んでみたのだ。
人間の成長という、遺伝子と環境が織りなす複雑なアルゴリズム。それならば少しは自分の暇つぶしになるかもしれない、という程度の軽い気持ちだった。
母性などという感情は、彼女の中には欠片ほども存在しなかった。星凪市の高台にある自宅マンションにベビーベッドを設置した時も、彼女は新しい実験器具を搬入した時と同じような、冷めた高揚感しか抱いていなかった。
が、その『実験対象』は、アンタゴの想定をはるかに超える極上の特異点だった。
「くっふふ。こいつは、当たりを引いたかもしれないねェ」
アンタゴが最初の違和感、『確信に近い疑念』を抱いたのは、我が子が産み落とされてからわずか数ヶ月後のことだった。
人間の赤ん坊というのは、生後間もない頃は視力が未発達であり、光や動くものを本能的に追うことしかできない。脳の処理能力も白紙に等しく、その眼差しには「知性」と呼べるものは存在しないのが普通だ。
しかし、ベビーベッドの中で横たわる我が子の『白銀の瞳』には、明確な意思が宿っていた。
ある日、アンタゴはリビングの壁に新しいカレンダーを掛けた。ベッドの中の我が子は、それを見た瞬間にピタリと動きを止め、カレンダーに印字された『2010』という数字をじっと見つめたのだ。
それは、ただの模様として認識している赤ん坊の目ではなかった。アンタゴは密かにベビーベッドの縁に仕掛けた小型カメラの映像をノートパソコンで解析し、我が子の眼球運動を計測した。
驚くべきことに、その視線は数字の「2」から「0」、「1」、「0」へと、規則正しく文字の形をなぞるように動いていた。
さらに、テーブルの上にわざと放置したファッション雑誌の表紙を見せた時も、色鮮やかな写真のモデルではなく、その横に印字された『漢字』の羅列に向かって意図的に焦点を合わせていた。
「ただの視覚刺激への反応じゃない。文字という記号の意味を、脳内で検索し、理解しようとしている視線の動きだ」
暗い部屋で、怪しい蛍光グリーンのエナジードリンクを煽りながら、アンタゴはモニターの前で口の端を吊り上げた。
言語を習得していないはずの赤ん坊が、文字を認識している。
この時点で、アンタゴの天才的な頭脳は一つの仮説を弾き出していた。すなわち、『この個体の脳内には、すでに成熟した何者かの記憶と知識がインストールされている』という、オカルトめいた結論である。
その仮説は、観察を続けるごとに強固なものとなっていった。
生後半年を過ぎた頃。ハイハイを覚えた我が子は、アンタゴが与えた知育玩具や、幼児向けのカラフルな絵本には一切の興味を示さなかった。
代わりに執着したのは、テレビの『ニュース番組』だった。
アンタゴは実験として、子供向けの賑やかなアニメ番組と、国会の討論や株価の推移を報じるニュース番組を交互に流してみた。
アニメの時はすぐに興味を失って別の方向へ這っていくのに、ニュース番組で国会議事堂が映ったり政治家が発言したりすると、テレビ台にかじりつくようにして画面を凝視したのだ。
言葉の裏にある大人の事情を理解している。
もはや疑いようがない。この小さな頭蓋骨の中には、社会の仕組みを完全に理解した『大人』が潜んでいる。
そして、アンタゴの知的好奇心を最も刺激したのは、一歳半から三歳にかけての『身体の使い方の異常性』だった。
中身が大人であっても、肉体は未発達な幼児のものだ。当然、無茶な動きをすればバランスを崩し転倒する。
しかしだ。我が子はソファから飛び降りて頭から突っ込みそうになった瞬間、空中で無理やり自らの顎を引き、首を丸め込み、肩の裏側から床に接地するという『完璧な前方回転受け身』をやってのけたのだ。
「あり得ない。本能による危機回避じゃない。あんなものは、運動力学と衝撃分散の理論を完全に頭で理解していなければ絶対に不可能な軌道だ」
ガラステーブルの角に突っ込みそうになった我が子の首根っこを、片手でひょいとつまみ上げながら、アンタゴの心臓は歓喜で打ち震えていた。
宙吊りにされた我が子が、必死にキザなセリフを取り繕う姿を見て、アンタゴは腹の底から笑い転げた。
間違いない。こいつは『人生二周目』だ。
それも、ただ前世の記憶を引きずっているだけの凡人ではない。恐ろしくプライドが高く、常に完璧な自分を演じようとする極度の自己顕示欲を持った特異点。
アンタゴにとって、これほど観察しがいのある極上のオモチャは存在しなかった。
だからこそ、三歳の誕生日。
アンタゴはこのいじらしい『転生者』のプライドを完全にへし折り、その分厚い化けの皮をひっぺがすための、
「高校物理の『斜方投射』と微分積分。さて、あの高い高いプライドが、この数式を前にして幼児のフリを貫き通せるかねェ?」
自作の脳波測定ヘルメットを被せられた我が子は、目論見通り最初は幼児のフリをして泣きじゃくった。
そこで最後の一押しとして、相手の魂の最も柔らかい部分を的確に抉り抜く言葉を放った。
「これじゃあ、キミはこの先もずっと、何者にもなれない。そこら辺のモブキャラクターとして、平凡で退屈な人生を送るしかないんだねェ」
──ビンッ!
モニターの脳波が、限界を突破して急激に跳ね上がった。
幼児の演技をかなぐり捨てた我が子は、ペンを鷲掴みにすると殺気すら帯びた凄まじい集中力で数式を叩きつけ始めた。迷いはない。
美しい波形を描きながら質量、初速度、仰角の変数が見事に処理され、完璧な解答が導き出されていく。
「くっふふ。あははははッ! いやあ、見事見事! 実に美しい解答だ!」
すべてを解き終え、ドヤ顔で息を吐く我が子に向かって、アンタゴは拍手を送りながら高らかに笑った。
罠に嵌められたことに気づき、顔面を蒼白にさせて震え上がる小さな身体。その瞳には、自分のすべてを見透かされていたことへの底知れない恐怖と、絶望が浮かんでいた。
恐怖して当然だ。
アンタゴは、ただの母親ではない。この世界という退屈な箱庭を冷めた目で見下ろす、狂気の観察者なのだから。
(キミがどんな野望を描き、どんな『主役』になろうとしているのかは知らない。だが、キミという最高の特異点が引き起こすバグ…この私に、一番特等席で見せてもらうよォ。共犯者として、ね)
そう内心で歓喜の声を上げながら、アンタゴは怪しい色のエナジードリンクをグイッと煽ると、キャスター付きの椅子の上でガタガタと震えている三歳の我が子を見下ろした。
完全に正体を見破られ、まな板の上の鯉のように硬直している小さな特異点。
「くっふふ! そんなに怯えなくてもいいじゃないか。私はキミの『秘密』を誰かに言いふらそうなんて野暮な真似はしないよォ。ただ、キミという存在が、私の退屈を紛らわせてくれる最高のオモチャだと確認したかっただけさ」
アンタゴの慰めなど、我が子には全く届いていないようだった。大きな白銀の瞳には涙が浮かび、「この化け物め」とでも言いたげな警戒心を剥き出しにしている。
どうやらこの転生者は自分が世界でただ一人、理外の奇跡を体験した『特別な主人公』だと信じて疑っていなかったらしい。
(可愛いねェ。自分が一番の『特別』だと思い込んでいるその小さなプライド、もう少しだけ突っついてみようか)
アンタゴは、手元のパソコンのキーボードをカタカタと叩きながら、ひどく機嫌の良い声で口を開いた。
「キミは、自分が神様か何かに選ばれた特別な存在だと思っているんだろう? 前世の病弱な身体を捨て、性別すらも反転させて健康な少女の肉体に『TS転生』を果たした…確かに面白い現象だ」
びくっ、と我が子の肩が跳ねた。図星だったらしい。アンタゴは椅子から立ち上がり我が子の目の前まで歩み寄ると、その顔を覗き込んだ。
「でもね、この世界において『性別が変わる』なんてことは、そこまで珍しい魔法じゃないのさ。魂の転生なんていうオカルトに頼らなくても、物理と科学の力さえあれば、人間の肉体なんていくらでも書き換えられるんだからねェ」
「あぅ?」
「驚いたかい? 実はね…」
アンタゴは我が子の耳元に顔を寄せ、悪戯を成功させた子供のように、たっぷりと間を空けてから囁いた。
「──実は私も、男から女になったんだよォ。キミみたいに転生してないけどねェ」
ピタリ、と。
我が子の呼吸が止まった。脳波モニターの波形が、一瞬だけ完全にフラットになったかと思うと、直後にエラー音を鳴らして振り切れた。
「くっふふ! あはははッ! いやあ、いい顔だ!」
アンタゴは腹を抱えて笑った。
事実だった。アンタゴは数年前まで、生物学的に完全な『男性』だった。
彼女の常軌を逸した天才的な頭脳は、「生命が胎内で作られ産み落とされるプロセスを、自身の肉体で直接観察しデータを収集したい」という、狂気に満ちた知的好奇心に行き着いた。
彼女は地下の裏ルートで莫大な資金と最新鋭の医療機材をかき集め、自身の遺伝子情報、骨格、内臓器官のすべてを気の遠くなるような遺伝子治療と外科手術によって『女性』へと完全に作り変えた。人工子宮の移植からホルモンバランスの調整まで、すべてを自身の計算通りに自己改造したのだ。
「自分の肉体を実験台にして、細胞レベルから『完璧な女性』へと再構築したのさ。そして、キミという最高の実験体をこの腹の中でゼロから生成し、産み落とした。…どうだい? 転生なんていう神頼みの奇跡より、ずっと論理的で美しくて、狂っているだろう?」
神の奇跡で性別が変わった子供と、科学の力で性別を変えた母親。
アンタゴの告白を聞いた我が子は白目を剥いて泡を吹き、キャスター付きの椅子の上で完全に気絶していた。
(くっふふ。やっぱりこの子は、最高のオモチャだ。さあ、この先どんな面白いデータを見せてくれるのかねェ…)
それを見て、アンタゴは愛おしそうに目を細めた。
次回は木曜日に投稿予定です。