TSボクッ娘は完璧な王子様系怪盗を演じたいようです。 作:最高司祭アドミニストレータ
それではご覧ください。中学生回になります。
〇月△日
星凪市立の中学校に入学した。
初めて袖を通すセーラー服。鏡の前に立つと、そこにはどこか憂いを帯びた、ミステリアスな美少女の姿があった。
前世の魂が男であろうと、この完璧なビジュアルは認めざるを得ない。ボクは新入生代表のような涼やかなオーラを纏って校門をくぐろうとした。
しかし、右耳のインカムがそれを許さなかった。
『くっふふ。無駄にキラキラしたオーラを出すんじゃないよォ。もっと極端な猫背になって、重度のスマホ依存症のように虚空を見つめながら歩きなさい。それが現代の中学生のリアルな擬態だ』
意味不明の指示なんですけど…。
△月〇日
部活動の見学期間。
体育の授業での身のこなしを見た体操部と陸上部の顧問から、熱烈なスカウトを受けた。ボクの完璧な身体操作能力がようやく評価されたのだ。
が、母さんからの指示は非情だった。
『運動部なんかに入ったら、過度な筋肉がついて今後の骨格の発達データにノイズが混じるだろう。キミは美術部に入りなさい。そこで石膏デッサンでもして、大人しく空間認識能力だけを鍛えておいで』
ボクは泣く泣く絵筆を握ることになった。
×月×日
初めての中間テスト。
数学や英語など、ボクからすれば目を瞑っていても解ける。あまりの簡単さにペンを走らせ、全教科満点を確信したその時、インカムが鳴った。
『目立ちすぎだ。学年平均点プラス5点の、最も無害で目立たない順位をキープしなさい。いいかい、数学の問3と問7の符号を今すぐワザと逆に書き換えるんだ』
ボクは血の涙を流しながら、完璧な数式のマイナスをプラスに書き直した。自分の手で自分の正解を汚すこの屈辱、誰に分かるだろうか。
〇月×日
制服のスカートの丈が、入学時よりも明らかに短くなっていることに気がついた。どうやら、確かな栄養と健康によって上へ上へと伸びているらしい。これが健康の身体か…っ。
ボクは自室の鏡の前で感動し、ボロボロと号泣してしまった。
翌日、少し目が腫れた状態で登校すると、ルルから「あんた、スカート短くなったくらいで泣くとか情操教育どうなってんのよ」と本気で引かれた。彼女にこの感動を理解してもらうのは一生無理だろう。
△月△日
体育の授業で1500メートル走があった。
驚くべきことに、どれだけトラックを周回しても、心臓が破裂しそうにならないし、肺から血の味がしないのだ。息が上がらないことが嬉しすぎて、ボクは終始満面の笑みを浮かべたまま長距離を走り抜いてしまった。
結果、周囲の女子たちから「あの子、ずっと笑顔で走っててちょっと怖い…」「不気味な爽やか系だよね」とヒソヒソ噂される羽目になった。インカムの母さんは手を叩いて爆笑していた。
×月〇日
下校中、ルルに連れられてコンビニのホットスナックコーナーへ行った。彼女が勝手に買ってきたフライドチキンを押し付けられ、ボクは恐る恐る口に運んだ。
前世の徹底した食事制限では絶対に口にできなかった、油分と塩分の暴力的な美味さ。脳が痺れるほどのジャンクな味にボクが打ち震えていると、遠くから見回り中の生活指導の先生の姿が見えた。
ルルに腕を引っ張られ、チキンを咥えたまま路地裏へと全速力で逃走した。悪いことをしているという背徳感と、走れる喜び。ボクの青春は、少しずつ彩りを取り戻している気がする。
〇月△日
水泳の授業が始まってしまった。
いくら女の子の身体として育ってきたとはいえ、ボクの魂の根幹は十代の男だ。スクール水着を着て、同級生の女子たちと更衣室で着替えるという行為は、精神的な苦行以外の何物でもない。
ボクが視線をどこに向けていいか分からず、壁のシミを見つめて直立不動になっていると、インカムから母さんの嘲笑が響いた。
『くっふふ。スマートウォッチの心拍数データが跳ね上がっているよォ。思春期の男子中学生みたいな反応をしていて、実に滑稽だねェ』
うるさい。ボクは紳士としての理性を総動員して、この地獄の時間を耐え抜いた。
△月×日
合唱コンクールのパート決め。
声変わりを経験することなく、高く澄んだ声帯を手に入れたボクは、ソプラノパートで優雅に天使のような歌声を響かせようと意気込んでいた。
だが、ボクの隣に立ったルルが、すべてを破壊した。
彼女は腹の底から、ジャイアンも青ざめるような凄まじい大声で、しかも微妙に半音ズレた音程を張り上げてきたのだ。ボクの完璧な絶対音感と天使の歌声は、彼女の破壊音波の前に完全に掻き消された。
×月△日
夏休みの自由研究。
母さんが「これ提出してきなさい」と、黒いプラスチックケースに覆われた謎の基板を渡してきた。一目見ただけで、それが市販の通信機器の電波を遮断する『小型盗聴妨害装置』だと分かった。
中学生の自由研究でこんなオーパーツを提出したら、確実に公安警察が飛んでくる。
ボクは母さんの隙を見てその危険物を庭の土に埋め、徹夜で『走れメロス』の無難な読書感想文をでっち上げて学校に提出した。自分の身は自分で守るしかない。
〇月×日
席替えの日。
一年間、ルルの暴走に巻き込まれ続けたボクは、「今度こそ彼女と離れた席になりますように」と神に祈りながらくじを引いた。
結果。ボクの右隣の席には、満面の笑みでガッツポーズをするルルが座っていた。
小学校の頃から数えて、これで何度目の隣の席だろうか。この野生児との腐れ縁の強さに、ボクは静かに天を仰いだ。
△月〇日
休日のこと。ボクは前世から憧れていた『紳士としてのエスコート力』を磨くための実験として、ルルを映画とカフェの『デート』に誘ってみた。もちろん恋愛感情などではなく、社交訓練の一環だ。ボクは完璧なプランを練り、彼女をエスコートしようと試みた。
しかし、現実は非情だった。
ルルは映画の途中でポップコーンをボクの顔面にぶちまけて爆睡し、カフェの代わりに「こっちのクレープ屋の方が美味い!」とボクの腕を引っ張って商店街を練り歩いた。
挙句の果てに、ゲームセンターのパンチングマシンで成人男性のハイスコアを叩き出し、周囲の不良たちをドン引きさせていた。
デートというより、猛獣の餌付けと散歩だった。ボクの紳士的なエスコート計画は、開始五分でチリと化していた。
×月×日
中学二年生になった。
最近、ボクの肉体に劇的な変化が起きている。骨格と筋肉のバランスが整い、前世の思考スピードに、この身体の反応速度が完全に追いついたのだ。
頭で描いた軌道通りに、手足が寸分の狂いもなく動く。今のボクなら、重力すら支配できる。そんな全能感に満ち溢れていた。
〇月△日
ついに、ボクの『健康的で自由な身体』の喜びが限界を突破して爆発した。
朝の通学路。ボクは普通の道を歩くことに耐えきれなくなり、山田さんの家のブロック塀を蹴り上がって一気に屋根の上に登った。そこから隣のカーポート、アパートの非常階段へと、流れるような跳躍で飛び移り、空を飛ぶように学校へのショートカットを開始したのだ。
自発的な『パルクール通学』の幕開けである。
風を切り、重力を置き去りにするこの感覚。これこそが、ボクが求めていた怪盗の身のこなしだ!
△月×日
パルクール通学が、近所の住民からの通報によってあっさりと学校にバレた。
ボクは職員室に呼び出され、学年主任の先生から正座で二時間の大説教を喰らった。教室に戻れば、ルルから「あんた、毎朝どこから降ってきてんのよ! サルなの!? 恥ずかしいからやめなさい!」と烈火の如く怒鳴り散らされた。
だが、ボクの心は不思議と晴れやかだった。
怒られるのも、説教されるのも、健康な身体があってこそだ。反省はしているが、後悔は微塵もしていない。
×月〇日
パルクール通学の件で、ついに母さんが学校に呼び出された。
職員室で学年主任を前にした母さんは、いつもの白衣ではなく地味なスーツを着て、困り果てたような顔を作っていた。
「申し訳ありません。この子は昔から野生の猿のように落ち着きがなく、私の言うことなど全く聞かないのです」
母さんは見事な嘘泣きを交え、すべての責任をボクの『野生』に押し付けてきた。
ふざけるな。インカムで常に監視し、怪しい物理訓練を裏で強要してきたのはアンタだろう。ボクも負けじと「母さんの放任主義と、おかしな体幹トレーニングのせいです!」と抗議した。
ボクと母さんは息の合った連携で、互いに見事な責任転嫁のラリーを繰り広げた。
結果として、一切反省の色を見せないボクたち母娘の態度に、学年主任の堪忍袋の緒が完全に切れ、職員室が震えるほどのガチギレを起こさせてしまった。
〇月×日
体育の授業で跳び箱をやった。八段の高さが設定されていたが、今のボクの身体能力からすればただの踏み台だ。
ボクは助走をつけて踏み切り板を蹴り、空中で見事な回転を決めた後、跳び箱を跳び越すのではなく、八段の『一番上』に音もなく着地して直立してしまった。
さらに勢い余って、そのまま体育館の天井の梁に手を伸ばしかけ、あと数センチでスパイダーマンのようにぶら下がるところだった。
体育教師もクラスメイトも、全員が言葉を失って凍りついていた。やりすぎた。
△月〇日
ルルに腕相撲の勝負を挑んだ。
幼稚園の頃から腕力では一度も勝てなかった野生児だが、肉体が完全覚醒した今のボクなら勝てるはずだ。
放課後の教室で、ボクたちは互いの手を握りしめた。
「ふんっ!」
「っ!」
ボクの完璧な体重移動とテコの原理を使った力に対し、ルルは純粋な野生のパワーで対抗してきた。互角だ。互角の勝負が三十秒ほど続いた時、ボクたちが肘をついていた机が「バキィッ!」という悲鳴を上げて真っ二つに割れた。
直後に入ってきた担任に、二人揃って廊下に立たされた。勝負は引き分けだ。
×月△日
下校中、普通に歩いているだけでも、ボクの目は無意識に街の建築物を品定めしてしまう。
『あのビルの屋上から、向かいの非常階段の踊り場へは、助走をつけて三角跳びをすればギリギリ着地できるルートだな…』
空を見上げ、脳内で完璧なパルクールの軌道を描く。ただの散歩道が、極上のフィールドアスレチックに見えるのだ。この脳内シミュレーションが楽しすぎて、うっかり一時間も同じ交差点で立ち止まってしまい、警察官に声をかけられた。
〇月△日
雨の日は屋根が滑るため、パルクールはお休みだ。
しかし、傘を差して普通の道路をペタペタと歩くのが退屈すぎてフラストレーションが溜まってきた。
ボクは我慢できなくなり、目の前に現れた巨大な水たまりを、傘を差したまま連続側転で飛び越えるという荒技に出た。
水しぶき一つ上げずに完璧な着地を決めたボクに対し、隣を歩いていたルルは傘を落としてドン引きしていた。
△月×日
病院での思春期定期検診。
白衣を着た医師の姿や消毒液の匂いを嗅いだ瞬間、前世の長く苦しかった闘病生活のトラウマがフラッシュバックし、少しだけ足が震えた。
しかし、聴診器を当てた医師から告げられたのは「異常なし。健康で理想的な発育状態です」という言葉だった。
その言葉を聞いて、ボクは深く息を吐き出した。トラウマを上回る圧倒的な健康の事実が、ボクの心を軽くしてくれた。
×月〇日
夜中、母さんが寝静まったのを見計らい、ボクはベランダに出てトレーニングを開始した。片手腕立て伏せだ。
誰にもバレずに己を鍛え上げる、暗闇のストイックな時間。十回目を終えたところで、外して机の上に置いていたはずのインカムから、不意に母さんの声が漏れ聞こえてきた。
『くっふふ…左肩のフォームが崩れているよォ。あと三ミリ下げなさい』
背筋が凍った。ボクはゆっくりと周囲を見回し、エアコンの室外機の裏に、赤く点滅する超小型の監視カメラが増設されているのを発見した。
この家には、プライバシーという概念が存在しないらしい。
〇月△日
中学三年生になり、最高学年となった。
教室で配られた進路希望調査の用紙を前に、周囲のクラスメイトたちは「公立か私立か」「偏差値がどうだ」と頭を抱えている。
だが、ボクの脳内フィルターを通すと、学校選びの基準は完全に狂ってしまう。パンフレットに載っている星凪市内の高校の航空写真を見ながら、『この校舎は屋上へのアクセスが容易だな』『中庭の吹き抜けはワイヤーアクションに最適だ』などと、無意識に高低差や潜入難易度ばかりを品定めしてしまうのだ。
インカムから『進学校の偏差値を見なさい、要塞の防犯設備を見るんじゃないよォ』と母さんの冷ややかなツッコミが飛んだ。
△月〇日
最近、どういうわけか周囲からの視線がやけに熱い。
女子の身体として成長期を迎え、銀髪のショートヘアに整った顔立ち、さらにパルクール等で引き締まった無駄のない肢体。どうやらボクは、自覚のないまま学校内で「王子様系女子」としてモテ期の絶頂を迎えてしまったらしい。
登校すれば他クラスの男子からラブレターを渡され、下校時には後輩の女子から「ファンなんです!」と黄色い歓声を浴びる日々。前世の薄暗い病室で誰にも認知されずにいたボクにとっては、過剰すぎるほどの脚光だ。
しかし、その横でルルが「チッ、何よあいつら、見る目がないにも程があるわね!」と舌打ちを連発し、凄まじい眼光で告白相手を睨みつけて威嚇している。
そんなにボクがモテるのが悔しいのだろうか。
×月×日
放課後、下駄箱でラブレターの山を処理していたところ、クラスの男子数名と女子数名に囲まれた。
また告白かと身構えたボクに対し、クラスメイトたちはニヤニヤとした生温かい笑みを浮かべてこう言ってきた。
「おいおい、そんなに他から言い寄られてるけどさ…ルルとはいつ結婚すんの?」
「あんたら、幼稚園からずっと夫婦みたいな距離感じゃん! 私たち応援してっからさー!」
…何を言っているんだ、この連中は。
ボクとあの猛獣が、結婚? 冗談ではない。あの怪力ゴリラと家庭を築くなど、命がいくつあっても足りない。
〇月×日
修学旅行で京都・奈良へやってきた。歴史ある木造建築や広大な寺社仏閣を巡る時間。クラスメイトたちがガイドの説明を聞いて「へぇー」と感心している中、ボクの目はどうしても寺院の『塀の返し』や『梁の強度』を品定めしてしまう。
『あの高さなら、助走をつけて壁を二歩駆け上がれば音もなく屋根裏へ忍び込めるな…』
歴史へのロマンではなく、防犯システムの脆弱性にばかり目がいくボクに対し、インカムの母さんが呆れたように囁いた。
『観光客の目が完全に死んでいるよォ。少しは修学旅行生らしく八ツ橋でも頬張りなさい』
はいはい。
〇月×日
修学旅行の宿、大浴場の時間。前世が男であるボクにとって、思春期の女子たちと入る大浴場は、精神的防御力を限界まで試される灼熱の戦場だ。ボクは邪念を払うため、水面だけを見つめて湯船の端で石のように固まっていた。
すると背後から音もなく忍び寄ってきたルルが、「隙ありぃ!」と叫びながらボクの頭を湯船に沈めてきた。
激しい水飛沫と共にボクは湯を飲み、溺れかけながら浮上した。色気もへったくれもない。ただの暗殺未遂である。
〇月×日
消灯時間を過ぎた大部屋。
修学旅行の定番、枕投げが勃発した。
女子たちのキャッキャとした戯れ合いかと思いきや、ルルが参戦した瞬間に戦場はデスゲームへと変貌した。彼女の投げる枕は風を切り、鈍い重低音を響かせながら飛んでくる。
ボクは前世の知識とパルクールの反射神経を総動員し、空中で身を捻ってルルの剛速球枕をギリギリで躱し続けた。
障子に直撃した枕がバリィッと音を立てて穴を開けた瞬間、見回りの学年主任が襖をガラリと開けた。全員が息を呑む中、ルルは素早くボクを指差し、「こいつがやりました!」と満面の笑みで裏切った。
その夜、ボクは正座で二時間説教された。
△月△日
修学旅行も終わり、現実の受験戦争が本格化した。放課後の教室で、ルルがボクの机にドカッと腰を下ろしてきた。
「あんた、どこの高校受けるのよ」
「まだ具体的には決めてないよ。星凪市内のどこかだけどね」
ボクが曖昧に答えると、ルルはボクの胸ぐらをガシッと掴み、鼻先が触れそうなほどの至近距離で睨みつけてきた。
「はぁ!? 決めてないじゃないわよ! あんた、私と同じ高校受けなさいよね! 落ちたら承知しないから!」
理不尽の極みである。なぜ高校までこの猛獣とセットで進学しなければならないのか。だが、その瞳の奥に微かな不安の色が見えたため、ボクはため息をついて「善処するよ」とだけ答えておいた。
×月〇日
中学校最後の体育祭。
クラス対抗リレーで、ボクたちのクラスは第三走者が盛大に転倒し、最下位に転落していた。
アンカーのボクにバトンが渡った瞬間、スタンドから割れんばかりの歓声が上がった。女子たちからの黄色い声援と、男子たちからの「頼むぞー!」という怒号。
目立たないように走るつもりだったが、前世で病室のベッドから運動会を眺めることしかできなかったボクの魂が、勝負の熱気に当てられてしまった。
ボクはコーナーを遠心力ギリギリの驚異的な傾きで曲がり、三人を一気に抜き去ってトップでゴールテープを切ってしまった。
クラス中が熱狂の渦に包まれ、ルルは「よくやった!」とボクの背中を骨が折れそうな強さで叩いてきた。インカムからは『あーあ、目立ちすぎだねェ』と母さんの冷ややかな声が聞こえた。
〇月△日
受験勉強の追い込み期。
高校入試レベルの模試などボクにとっては児戯に等しい。全教科で満点を取り、志望校の判定は常に「A判定」の一番上だ。
しかし、母さんからの注文は理不尽を極めていた。
『全国模試で一位なんか取ったら教育委員会に目をつけられるだろう。いいかい、偏差値は六十五前後でピタリと止めなさい。社会の歴史の年号と、国語の漢字をわざと二問ずつミスして、凡人のフリを演出しろ』
ボクは解ける問題をわざと間違えるという、精神を削る作業を強いられた。天才を演じるより、凡人を演じる方がよほど疲れる。
△月×日
深夜の自室。机に向かって受験勉強のフリをしていた。
深夜二時を回った頃、ドアが開き、母さんが珍しくお盆を持って入ってきた。
「夜食だよォ。頭の回転を良くする特製スープだ」
差し出されたのは紫色の湯気を立てる、どう見ても劇薬にしか見えない怪しいお粥だった。薬物混入を本気で警戒し、ボクは慎重にスプーンですすった。
…普通に美味い。鶏ガラと生姜が効いた、完璧に滋味あふれる美味さだった。
逆に怖い。このマッドサイエンティストが、まともな親のような温かい差し入れをしてくること自体が最大のホラーだ。
×月△日
星凪市に大雪が降った。吐く息が真っ白に染まり、凍えるような寒さの中、マフラーを巻いて登校する。
ふと、前世の記憶が胸をかすめた。前世のボクならこんな寒さの日に外に出れば、一発で高熱を出して肺炎を引き起こし、集中治療室送りになっていただろう。
だが今のボクは自分の二本の足で雪を踏みしめ、元気に白い息を弾ませている。肺が痛まない。熱も出ない。
健康であるという、ただそれだけの事実。その奇跡のありがたさに、ボクは通学路の途中で立ち止まり、思わずボロボロと涙をこぼしてしまった。
通りかかったルルに「雪で泣くとかマジで意味わかんないんだけど」と雪玉を顔面に投げつけられ、感動は急速冷却された。
〇月×日
入試本番の前日。
下校間際、ルルがぶっきらぼうに「ほら」と、ボロボロの合格祈願のお守りを突き出してきた。
「神社で買ってきた。あんた、本番で変なポカやらかしそうだから」
手作りの刺繍が入った、少し歪なお守り。凶暴で不器用な幼馴染。けれど、その根底にある不器用な優しさに、ボクは少しだけ胸が温かくなった。
「ありがとう、ルル。大事にするよ」
ボクがキザに微笑むと、ルルは顔を真っ赤にして「な、生意気言ってんじゃないわよ!」とボクの鳩尾に肘打ちを入れて逃走していった。痛い。
△月〇日
高校入試本番。星凪市内のトップクラスの公立高校の試験会場。配られた数学と理科のテスト用紙を見る。あまりにも簡単すぎて、思わず欠伸が出そうになった。
母さんの言いつけ通り、満点にならないようギリギリの計算ミスを演出しながら、涼しい顔でペンを走らせる。周囲の受験生たちがプレッシャーで青ざめる中、ボクはただただ健康な肉体で試験を受けられる喜びに浸っていた。
×月×日
高校の合格発表。
掲示板には、ボクの受験番号と、そのすぐ隣にルルの受験番号がしっかりと並んで刻まれていた。
「受かったーっ!」
ルルが叫びながらボクに飛びついてきて、二人でアスファルトの上に派手に転がった。これで、春からもあの猛獣と同じ高校に通うことが確定してしまった。前途多難ではあるが、まあ退屈はしなさそうだ。
〇月〇日
中学校の荷物を整理するため、自室の大掃除をしていた時のことだ。クローゼットの奥深く、段ボール箱の底から、埃を被った一冊の古い大学ノートが出てきた。
それはボクが三歳の誕生日──あの脳波測定ヘルメットを被らされ、母さんに正体を見破られたあの日、必死に書き殴ったテスト用紙をスクラップしたノートだった。
表紙をめくると三歳児の拙い筆跡で書かれた、懐かしい数式が目に飛び込んできた。
『x = (v0^2 / g) * sin2θ』
斜方投射の公式。ワイヤーアクションにおける、最適な跳躍角度と水平到達距離の計算式。
その瞬間、ボクの脳天に凄まじい威力の特大の雷が直撃した。
(…あ)
息が止まった。視界がぐるぐると回り、全身からサーッと血の気が引いていく。
健康な身体が嬉しくて。走れる喜びに浮かれて。パルクール通学で怒られ、ルルとケンカし、母さんのインカム指示をこなす平穏で騒がしい日常を、あまりにも全力でエンジョイしすぎていた。
ボクは、ノートを抱きしめたまま、絶望の叫びを屋根まで突き抜ける勢いで轟かせた。
「そうだったァァァーッ!! ボク、将来『完璧な怪盗』をするんだったァァァーッ!?」
人生の最終目標を十五年間、完全に忘れていた。
高校入学を目前にしてボクの第二の人生最大のパニックが、今、幕を開けたのだった。
さぁて、次回もサービスサービスゥ!
第二章をお楽しみに!