正確に何時からかは私にも分からない。ひょっとすると上京したての頃からだったのかも知れない。もしかして、かぐやを護れなかった時からかも知れない。或いはヤチヨを、かぐやをハッピーエンドに連れていくと決めた時かも知れないし、はたまた研究に行き詰まって泣いてた時かも知れない。まさかかも知れないが、『この前掛かってきた電話ですらそうであったのかも知れない』何て言うのは、流石に妄想が過ぎるだろうか?
『あんた、何時まで休んでるん?結構な御身分やね。そんなだから何も成し遂げられないんよ』
「うん。ごめんなさいお母さん。もっと頑張るよ」
私にしか聞こえないらしいその声。基本的に一人で居る時に何処からともなく聞こえてくるその声。
『お母さん』の声。
最初に述べた通り、それが何時からかは本当に分からない。いつの間にか、としか言いようがないのだから。しかし、私を叱咤し、叱責し、甘ちゃんめと罵るその声は、私からしてみれば激励以外の何物でも無かった。
『あんたくらいの努力なんて誰でもしてるんや。自分だけが特別努力してるやなんて、烏滸がましい考えやで?』
「そうだよね。うん、そうだ。私程度は幾らでも居るんだ。だからやらないと」
一時期は治まっていたんだ。かぐやを拾って過ごしたあの2ヶ月。その期間は確かにこの声が途絶えた。あれ?するとやはり、上京した頃には聞こえていたと言うことか?その辺の正確さは曖昧だが……兎に角、その頃は一時的に声がしなくなった。だけど、かぐやを失った頃には声は再発していた。私を駄目なやつだと罵るこの声こそが私にとって希望だった。
「私はまだ足りない。まだ劣っている。まだ先に行ける。まだこんなもので満足しちゃいけない」
『満足?これで?エラい程度の低い目標なんやね。その程度で満足できるんやったら最初から持たん方がええよ?無駄なんやからね』
まだまだ止まっちゃ駄目だ。まだまだ諦めちゃ駄目だ。私は他より劣っているんだから。私は他より遅れているんだから。私は二人を、かぐやとヤチヨをハッピーエンドに連れて行くと決めたんだから。その為には幾らだって無理しなくちゃ。幾らだって頑張らなきゃ。ありがとうお母さん。やっぱりお母さんは厳しいけれど正しいよね。私は前に進むから。
がちゃ
「い、彩葉?さっきから……何か、独り言?誰と喋っているの?」
「誰かと電話でもしているの……?ねぇ、彩葉?」
あれ?二人とも、今日は配信の予定だったんじゃないの?
「え、うん、そうなんだけれど……彩葉の様子を見に来ようと思って……部屋の前を通ったら……こ、声が……」
「ねぇ、彩葉?もしかして、何か聞こえているの……?」
『ほんま情けないわぁ。こうやって心配と迷惑ばかりかけてしまう。これが私の娘やなんて泣けてくるわ』
「うん、ごめんなさいお母さん。私は皆に心配を掛けてばっかりだよね。これからは気を付けないと」
「は?お母さん?彩葉、何を言って……?」
「……ま、さか……いろ、は……お義母さんの声……聞こえているの……?」
なんでそんな青い顔しているのヤチヨ?そして、それを聞いてかぐやまでそんな青褪めて。お母さんの声?此処にはお母さんは居ないんだよ?そんな、声なんてねぇ?
「うん、聞こえているよ。お前は甘ちゃんだ、情けない、他人に迷惑ばっかり掛けるやつだ、何も成し遂げられない、劣っているって。そう言われているの。だから頑張んないと。お母さんの事はちょっと怖いけれど、間違いだけは言わないから。正しいことだけしか言わないんだから」
「あ、あぁ……うぁぁぁ……」
「で、でんわ、びょういん、ううん、あ、あさひ、ろか、まみ……は、はやく、はやくでんわ……」
うん?なんで焦っているのかな?別に困るものじゃないよこれ。すっごい応援してくれるんだから。ねぇお母さん。
『これが応援に聞こえているのなら大層おめでたい頭やねぇ。感激のあまり泣けて来たわぁ。ほんまに私の娘なんかねぇ?』
「うん、ごめんなさい。これは応援じゃなくて 責だよね。気を付けないと」
─────
「心療内科に受診されているのですね。でしたらお薬の処方を進めましょう。抗不安薬の内服を……」
「お断りします」
そう言う薬は嫌だ。そんなの飲んだらますます回復が遠退いちゃうじゃないか。私は一刻も早く回復しなくてはいけないのだ。こんなところでもたもたしているわけにはいかない。
「彩葉、お願い……お薬ちゃんと飲もう……?」
「嫌だよ。ちゃんと病院には通院しているじゃないか。これ以上は嫌。治療が長引いたらお仕事に復帰も遠退いちゃうもん。そしたら研究も遅延しちゃう。私は所長なんだから。これ以上遅らせられない。かぐやとヤチヨのお願いは全部叶えてあげたい。だけどこれはやだよ」
「そんなこと言わないで、お願いだよぉ……」
二人が泣きだすのはもう何時もの事だ。だけどこれだけは譲れない。内服治療だけは嫌だ。病院通いは続けるけど、それだけは嫌だ。
「彩葉……なんでそんなに薬を嫌がるんや……?」
『薬に頼る?はん、やっぱり弱虫の甘ちゃんやねぇ。そんなもん使わんと前に進めんやなんて。いっそ諦めて止めてまったらええんやないの?』
「薬に頼るなんて弱虫のやることや。お母さんはそんなもんに頼らんって。私が眠れんから病院に行きたいって言った時も、甘ちゃんやって言ってたから。お母さんの言う事は何時だって正しい。どれだけ怖くてもそれだけは間違いないんやから。せやから薬は飲まん。自力で治す」
「……なんや、それ?お母さんがそう言ったんか……は、はは……」
「……どうしよう真実……このままだと私……彩葉のお母さんのこと……殴っちゃうかもしれないよぉ……」
「どうしたら、どうしたら良いのぉ……」
お兄ちゃんたちも相変わらず泣いている……だけどこれだけは絶対に譲らない。絶対にだ。
この後、散々の押し問答の末、薬の内服だけは拒否することに成功した。だが、交換条件として毎日の食事はきちんと完食するようにと厳命されてしまった……まぁ、食事は大事だしね。仕方ないと受け入れた。
「……彩葉、ご飯、ちゃんと食べたね……」
「……お薬混ぜているの……バレてないよね……ごめんね、ごめんね彩葉ぁ……」
それから数日して、声はまた聞こえなくなっちゃった。残念だ。あの声があればもっともっと頑張れたのにな。でも大丈夫。私は自分で頑張るんだから。
「二人とも、最高のハッピーエンドまで絶対に連れてって上げるからね♡」
続く……
まだ足りないって声が欲しい。