「おい、そこの暇そうなやつ! 剣持ってるな? 採用!」
イノシシに吹っ飛ばされて草の上を転がった直後、知らない男に腕を掴まれた。
目の前に、勝手にウィンドウが開いた。パーティへの招待。招待者は《Daichi》。俺と同じ布の服に、同じ支給の剣。なのに態度だけは、もうギルドマスターだった。
「森の手前にネームドが出てる。角のでけえイノシシだ。お前であと一人、六人揃う」
「ネームドって、初日に倒せるもんなの?」
「知らん! だから行くんだろ!」
押しの強さに負けて、《OK》を押していた。視界の左上に、HPバーがずらりと並んだ。
連れていかれた倒木の陰では、四人が待っていた。全員初期装備で、ほとんどが初対面だ。その中に、声の高い小柄なアバターが一人いた。
「コタです。小六です」
「リアル年齢を言うな」とダイチが突っ込むと、コタは口を尖らせた。
「だって、六時には落ちないとだめなんだもん。晩飯だから。落ちなかったら、母ちゃんがギア引っこ抜くって」
「じゃあデカ角イノシシは六時までに倒すぞ!」
「即席のパーティだけど、ソードアート・オンライン正式サービス初日!楽しんでいこうぜ!」
作戦は「全員で囲んで殴る」だけだった。
角イノシシは、普通のイノシシの三倍はあった。一度鼻を鳴らしただけで三人が吹っ飛び、一人が木に刺さった。誰かが「逃げろ」と言い、誰かが「いや囲め」と言って、全員がばらばらに動いた。
めちゃくちゃだった。そして、めちゃくちゃに楽しかった。
調子に乗って正面から斬りかかった俺は、角で真上に打ち上げられた。着地したとき、視界の端のHPバーが真っ赤になっていた。
「赤! こいつもう赤になってる!」
全員が爆笑した。俺も笑った。
コタが走ってきて、赤い小瓶を押しつけてきた。「これ飲んで。俺の一個しかないやつ」
「あとで飲むよ。今いいとこだから」
「えー」
角イノシシのHPは、残りひと削りまで減っていた。ダイチが叫ぶ。
「決めろ! お前が決めろ、赤いやつ!」
剣を振りかぶると、刀身が水色に光り始めた。角イノシシがよろめく。もらった、と思った。
その瞬間、鐘が鳴った。
---
【2022年11月6日17時30分】
光に包まれて目を開けると、はじまりの街の広場だった。
石畳を埋め尽くすほどの人がいた。振り上げた剣の先にあったのは、イノシシではなく、知らない人の後頭部だった。
「……は?」
ダイチが空に向かって吠えた。「運営ぉ! ネームド返せ! あと一発だったんだぞ!」
周りから笑いが起きた。コタも笑っていた。
その笑い声の上、夕焼けの空に、赤いパネルが一枚開いた。《Warning》。
パネルは十枚、百枚と増えていき、空を塞いだ。
継ぎ目から赤いものが垂れ、寄り集まって、巨大なローブの形になった。フードの中には、何もなかった。
「演出すげえな」と誰かが言った。
降ってきたのは、驚くほど穏やかな声だった。
男は茅場晶彦と名乗った。ログアウトできないのは不具合ではない、と言った。
ダイチが「いやいや」と笑った。
外部からナーヴギアを外そうとすれば、内部から脳を焼く。
「悪趣味だなあ」とダイチがもう一度笑った。今度は、誰も笑わなかった。
袖を引かれた。コタだった。
「……ねえ。六時」
コタの目は、広場の端の時計塔を見ていた。針は、五時四十分を指していた。
「母ちゃん、ほんとに抜くんだよ。いつも、ほんとに抜くんだよ」
声は続いた。家族がギアを外そうとして、すでに死者が出ている。二百人以上。
ダイチが黙った。
ローブの周りに、ニュース映像がいくつも開いた。救急車、病院、テロップ。本物のニュースだった。
「テレビ」とコタが呟いた。「テレビ、見てるかな。母ちゃん、テレビ見てるかな」
俺は答えられなかった。
「ヒットポイントがゼロになれば、現実の脳も破壊される」
反射的に、視界の端を見た。
赤いHPバーが、まだそこにあった。
さっき角で打ち上げられて、この色になったのだ。俺は笑って、「今いいとこだから」と言った。
手の中には、コタがくれた赤い小瓶が、まだ握られていた。
---
解放の条件は、第百層の攻略。そう告げたあと、手鏡が配られた。
覗き込むと光が走り、鏡の顔が本物の顔に変わった。
隣で、若い声できさくに喋っていたはずのダイチが、四十過ぎの無精髭の男に変貌していた。コタは、コタのままだった。本当に、小学生だった。
ローブがほどけ、パネルが消え、空に夕焼けが戻った。
一秒の静寂のあと、広場が壊れた。
悲鳴。怒号。走り出す人の波。俺たちは突き飛ばされ、噴水の縁にしがみついた。
コタは、叫ばなかった。
時計塔を見上げたまま、動かなかった。
五時五十二分。
「コタ、大丈夫だ。ニュースでやってるって言ってたろ。お母さんも見てる」
ダイチが言った。声が震えていた。
五時五十七分。
コタが俺の服の裾を掴んだ。子どもとは思えないほど、強い力だった。
五時五十九分。
ダイチが、コタの体ごと俺たちを抱え込んだ。三人で噴水の縁にうずくまり、息を止めて、長針が真上に届くのを見ていた。
鐘が鳴った。
一つ。コタが目を閉じた。
二つ。
三つ。ダイチが、何かを祈るように呟いていた。
四つ。
五つ。
六つ。
鐘の余韻が、夕焼けの空に溶けていった。
コタは、そこにいた。
目を開けて、自分の手を見て、ダイチの髭面を見て、俺の顔を見た。それから、火がついたように泣き出した。
「抜かれなかった……っ、母ちゃん、抜かなかった……!」
ダイチがコタの頭を抱えて、同じくらいの声で泣いた。さっきまで運営に吠えていた声で。
俺はそれを見ながら、ずっと握りしめていた回復ポーションの栓を抜いた。
手が震えて、半分こぼした。
残りを飲み干すと、視界の端のHPはゆっくりと緑に戻っていった。