コタは、しばらく泣き止まなかった。
俺は空の小瓶をポーチにしまい、視界の左上を見た。
HPバーが六本並んでいる。解散する前に、あの鐘が鳴ってしまったのだ。六本とも緑で、俺のHPも元に戻っていた。
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噴水の周りに、残りの三人がばらばらと戻ってきた。
角イノシシに木まで吹っ飛ばされていた大学生くらいの《Mocchi》と、その友達の《Ken》。それから、中学生くらいの女の子の《Nana》。
誰も、すぐには口を開かなかった。
「……なあ」
最初に言ったのはモッチだった。
「マジで死ぬと思う? 茅場ってさ、話題作り好きそうじゃん。三日くらい閉じ込めて、『これが本物の仮想世界です』みたいな」
「ニュースのキャスター、見たことある人だったぞ」とダイチが言った。
「映像なんて、今いくらでも作れるでしょ。二百十三人なんて、誰が確かめたんすか」
「そうだよ」
ケンの声が、急に大きくなった。
「嘘に決まってんだろ。ゲーム会社が人殺すとか、ありえねえって。捕まるじゃん。普通に捕まるじゃん!」
ケンは空に向かって叫んだ。
「おい! 聞いてんだろ! もう十分ビビったから! 出せよ! 俺、明日朝からバイトなんだよ!」
周りの何人かが振り返った。モッチが「ケン」と腕を掴んだが、ケンはそれを振り払った。
「なんで黙ってんだよ、お前ら! 嘘だって言えよ!」
それからケンは、自分の顔を両手で掴んだ。
「……じゃあ、なんでこれ、俺の顔なんだよ」
声が裏返った。
「なんで知ってんだよ。俺の顔。ほくろの位置まで。なんで——」
ケンは、そのまま石畳にしゃがみ込んだ。モッチが隣に膝をついて、背中に手を置いた。
しばらく、誰も何も言わなかった。
「……お兄ちゃんなら、本当だって言うと思います」
ナナが、手鏡を握りしめたまま小さな声で言った。
「お兄ちゃん、こういうのすごく詳しいから。ナーヴギアなら、たぶんできるって」
コタが、ダイチの服から顔を上げた。
「……母ちゃん、六時に抜かなかったです」
全員がコタを見た。
「いつもほんとに抜くのに。抜かなかったのは、テレビで見たからですよね。……本当じゃなかったら、抜いてますよね」
誰も、言い返せなかった。
モッチが、ケンの背中に手を置いたまま言った。
「……じゃあ本当だとして。どうやって確かめんの」
確かめる方法を、俺は一つしか思いつかなかった。
「確かめたら、それで終わりなんだと思う」と俺は言った。「HPがゼロになって、本当だったら、もう戻れない。……だから、本当だと思って動くしかない」
モッチは俺の顔を見て、しばらく黙っていた。
「……だよな」
それから、息を吐いた。
「だったら、なおさら今のうちに稼がないとだろ。ベータのやつら、もう西門からどんどん出てってる。明日になったら狩場も埋まるし、宿代だってすぐ尽きる」
「夜だぞ」とダイチが言った。
「二人じゃ行かねえっすよ。さっき西門のとこで、五、六人で固まって出てくやつらがいた。ああいうのに混ぜてもらう」
ケンが、ゆっくり顔を上げた。目が赤かった。
「……俺も行く。じっとしてたら、頭おかしくなる」
モッチが俺を見た。
「お前も来るか? さっきのソードスキル、けっこう決まってたじゃん」
一瞬、行こうかと思った。明日の宿代のこと。角イノシシへの最後の一撃と、光り始めた剣の感触。人数がいれば、なんとかなる。
足が半歩、前に出た。
袖が引っぱられた。コタが、何も言わずに俺の袖の端を掴んでいた。
「……俺は、明日にする」
「朝じゃ遅いんだって」
モッチは笑おうとしていた。
「じゃ、先に稼いどくわ。朝、西門な」
モッチはケンの肩を抱くようにして、西へ歩いていった。パーティは抜けなかった。
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ナナは、また広場の人混みを見回していた。
「お兄ちゃんとは、一緒に始めたんです。お兄ちゃんが二台当たったからって。お昼からは別々に狩りに行ってて。……顔、変わっちゃったから、わかんないかもしれなくて」
「フレンド登録は?」とダイチが聞いた。
「家で隣の部屋だったから、いらないと思って」
ダイチは頭を掻いた。
「探すか。どうせ宿も探さなきゃならねえ。ついでだ」
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「昼間、お兄さんとはどこで別れた?」と俺は聞いた。
「武器屋の前です。『六時に噴水な』って」
でも、その噴水にはいなかった。同じ噴水を目指している人が、何百人もいたのだ。
二手に分かれることにした。コタと俺で北側を、ダイチがナナと南側を回り、パーティのチャットで居場所を知らせ合う。
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北側の通りは、昼とはまるで違った。
時計塔の下には、何百人もの人が座り込み、空を見上げていた。泣いている人より、そうしている人のほうが多かった。
「明日には、政府がなんとかするって」
「専門家がすぐ外し方見つけるよ。動かないのが一番だ」
そう話す輪が、少しずつ大きくなっていく。
転移門の前では、男たちがNPCの衛兵に詰め寄っていた。「責任者出せよ!」と殴りかかった男の拳は、紫色の光に弾かれた。衛兵は「はじまりの街へようこそ」と笑っているだけで、男はそのまま足元に座り込んだ。
路地では、男が二人、剣を向け合っていた。
「ほんとに死なないか、試すだけだって」
「お前が先に斬られろよ」
足を止めかけたコタの肩を、俺は押して歩かせた。
「……街の中って、ほんとに死なないんですか」
「たぶん」
「たぶん、ですか」
「俺も、さっき知った」
「ユウタ!」「カナ、どこ!」。名前を呼ぶ声が、あちこちで上がっては消えていく。
コタが大きく息を吸い込んだ。
「ナナちゃんのお兄さーん!」
周りの何人かが振り返った。「名前わかんないのに、それでわかるか」と俺が言うと、コタはしゅんとした。それでも少しして、もう一度、小さな声で呼んでいた。
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十五分探しても見つからず、南側のダイチからも《いない。宿の列も見た》とチャットが来た。
お兄さんも妹を探しているなら、「六時に噴水」を思い出したはずだ。でも噴水は人で埋まっていて、近づくことすらできない。
だとしたら、どこへ行くか。
「……武器屋だ。最後に別れた場所に戻るかもしれない」
チャットに《武器屋の前、見てください。俺たちも行きます》と打った。
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武器屋の前の人垣の端に、二十歳くらいの男が立っていた。看板の下から動かず、通り過ぎる人の顔を一人ずつ確かめている。
南から走ってきたナナが、足を止めた。男もナナを見て、二人ともしばらく動かなかった。
「……菜々?」
ナナが駆け出す。男はナナを抱きとめて、その場に膝をついた。
「ごめん。ごめんな。俺が誘ったから」
ゲームの中の名前ではなく、本当の名前としてナナの名を、何度も呼んでいた。
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ナナのお兄さんは、何度も頭を下げた。
「妹と、HPバーずっと見えてたほうが安心だろ」とダイチが招待を送ろうとして、手を止めた。
「……満員だ。六人までか」
ナナは、左上のUIとお兄さんの顔を見比べた。
「私、このままでいいです。……モッチさんとケンさんの、見えなくなるの、嫌だから」
お兄さんは少し考えてから、ナナの前にウィンドウを飛ばした。フレンド申請だった。
「これで、もうはぐれないな」
ナナは、何度も《OK》を押し直すようにして、それを受けた。
「お兄ちゃんと、宿探してみます」
「ああ。また明日」
二人が歩いていくのを見送って、また三人になった。左上には、六本のバーが並んでいた。
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宿はどこも人で溢れていた。
一軒目には五十人以上が並んでいた。NPCの女将が笑顔で「一人部屋が、あと三部屋でございます」と告げると、ため息と怒鳴り声が同時に上がる。
昼までは、誰がどんな人かなんて気にもしなかった。今は誰もが、手鏡で本物になった周りの顔を、じっと見ていた。
前に並んでいた女の子の二人組に、後ろの男が声をかけた。
「女の子だけ? 部屋取れたら入れてあげよっか」
二人は顔を見合わせ、黙って列を離れていった。「親切で言ってんのに」と男がぼやいても、誰も何も言わなかった。
四軒目まで回って、全部満室だった。
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屋台で、串焼きを三本買った。昼と同じ値段で、同じ味だ。
「おいしい。……え、なんで味するんですか。こんなときなのに」
一本目をあっという間に平らげたコタは、二本目の途中で手を止めた。
「……俺、明日、漢字テストだったんです」
「俺は数学の小テスト」
「勉強してました?」
「してない」
「俺もです。ちょっとだけ、ラッキーって思いました」
言ってから、コタは口を押さえた。
「……今の、なしで」
「俺も思った」
コタは俺の顔をじっと見てから、また串にかじりついた。
「外周から飛べば、強制ログアウトされるらしい」
「さっき何人か、南の端に行ったって」
そんな噂が聞こえてきて、コタが振り向きかけた。俺は噂とのあいだに体を入れて歩いた。
「北を探してるとき、東の通りに教会があった」と俺はダイチに言った。「子ども連れの人が入っていくのが見えた」
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教会の中は、宿に入れなかった人で埋まっていた。子どもを抱いた人、制服の上に布の服を重ねた女子高生らしい二人組、膝を抱えて床を見ている男。
「女の人と子どもは、奥のほうに」入口の年上の女性が小声で言った。「誰が決めたわけでもないけど、そのほうがみんな少しは眠れるから」
奥で肩を寄せ合う女の人たちが、入ってきた俺とダイチを一度だけ見て、すぐに目を逸らした。ダイチは気まずそうに、入口近くの壁際へ下がった。
「コタ、奥に行け」
コタは奥を見て、それから俺を見た。
「……お兄さんは、どこですか」
「ここにいるよ」
「じゃあ、俺もここがいいです」
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しばらくして、扉が乱暴に開いた。
入ってきたのは男が二人。ゲームで酔えるはずはないのに、妙に声が大きい。
「うわ、女の子いっぱいいんじゃん。こっちで一緒に寝ようよ」
ふらふらと奥へ向かう二人の前に、入口の女性が慌てて出た。
「なんだよ、何もしねえって」
ダイチが立ち上がり、俺も立っていた。膝が震えている。圏内なら殴られても死なない。わかっていても、足が冷たかった。
近くで横になっていた男たちが、顔を上げて目配せし合った。
二人はその視線に気づいて、口をつぐんだ。
「……なんだよ。冗談じゃん」
二人が入口近くの床に座り込むと、男たちもまた横になった。
座った俺に、コタが小声で聞いてきた。
「……お兄さん、今、怖かったですか」
「……コタは大丈夫?」
「ちょっとびっくりしました」
コタはまた、俺の袖を掴んだ。
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教会の夜は、静かではなかった。誰かがずっと小さな声で謝り続け、扉が開くたびに何人もが顔を上げては、また伏せた。
コタは何度も目を覚ました。
「お兄さん。明日、帰れますか」
「わかんない。でもなんとかなるよ、コタ」
「……ナナちゃん、お兄さんに会えてよかったですね」
「うん」
「……ゲームの中でも、おなら出ますか」
ダイチが吹き出した。近くの何人かも、つられて小さく笑う。こんな夜に笑い声が出たことに、みんな少し驚いた顔をしていた。
「知らねえよ。出してみろ」
「……出ないです」
「じゃあ出ねえんだろ」
「つまんないです」
コタはダイチの膝を枕にして、今度はすぐに寝息を立て始めた。
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「武器屋、よく思いついたな」とダイチが言った。「俺は噴水の周りをぐるぐる回るしか思いつかなかったわ笑」
それから、天井のステンドグラスを見上げた。
「さっき、モッチについていこうとしたろ」
「……ちょっとだけ」
「コタに止められてたな」
ダイチはそれ以上言わなかった。
「コタの母ちゃんは、テレビ見てたな。お前んとこは」
「母さんは、晩飯作ってたと思います。俺が部屋から出てこないのは、いつものことだから」
何回、ドアの外から呼んだんだろう。
「……たぶん、怒ってから、気づいた」
ダイチは小さく笑った。
「俺んとこは一人暮らしでな。……俺の部屋、誰が開けたんだろうなあ」
窓の外では、NPCの酒場の笛が、何も知らないまま鳴っていた。
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夜が深くなっても、俺だけは眠れず、視界左上のパーティーメンバーの名前を見ていた。
ナナは、緑。モッチとケンのバーは、少し減っては戻るのを繰り返していた。どこかで、知らない誰かと一緒に、まだ戦っている。
朝、西門な。
壁にもたれて、少しだけ目を閉じた。
次に目を開けたとき、二人のHPバーは黄色になっていた。
跳ね起きてチャットに《戻っ》と打ちかけたところで、モッチのバーがまた減り、端が赤に変わった。ケンのバーも赤くなって、そこで止まる。
モッチのバーだけが、減り続けた。
何を送っても、止まらない気がした。指が動かない。
赤いバーが少しずつ縮み、一瞬だけ止まって、また減った。
端まで縮んで、あっけなく消えた。
そんな、
嘘だろ。
チャット欄には、送れなかった《戻っ》の二文字だけが残っていた。
ケンのバーは赤いまま、震えるように動いていた。減ってはいない。
六本だったバーは、五本になっていた。
あそこに並んでいたのは、俺のだったかもしれない。コタに、袖を掴まれなかったら。
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気がつくと、ダイチも目を開けて、同じところを見ていた。
長いこと、ダイチは何も言わなかった。やがて、膝の上で眠るコタの髪に、そっと手を置いた。
「……コタには、朝、俺から言う」
低い声だった。俺はうなずいた。
赤いまま止まっているケンのHPを、もう一度見た。
ケンは、たぶん西門へ戻ってくる。
朝、西門な。
俺は立ち上がった。
「どこ行く」
「西門です。外には出ません。門の内側で待つだけです。昨日が初対面でも、さすがにもうじっとしてはいられません」
ダイチはコタを見下ろして、長く息を吐いた。
「圏外、越えるなよ。朝になっても戻らなかったら、迎えに行くからな」
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西門の内側には、何人もの人が座っていた。誰も喋らず、門の外の暗い草原を見ている。誰かの帰りを待つ顔だった。
石畳には、うっすらと光る線が引かれている。圏内と圏外の境目。昼に角イノシシを追いかけて、何度も跨いだ線だ。
その向こうの草原は、月が薄く、黒い波のようにうねっていた。遠くで、昼には聞かなかった遠吠えがする。
門の柱の横に腰を下ろし、左上のケンのバーを見ていた。赤いまま、ほとんど動かない。
一度、草原から男が一人走ってきて、線を越えて倒れ込んだ。待っていた女の人が名前を叫んで駆け寄ると、ほかの人たちは、また静かに座り直した。
空がほんの少し白み始めたころ、草原の向こうに、いくつもの影が見えた。
五人。固まって、足を引きずりながら歩いてくる。先頭の男が、剣を杖のように突いていた。その後ろで、一人が誰かに肩を借りていた。
肩を借りていたのは、ケンだった。
影たちは線の手前で一度立ち止まり、それから次々と越えてきた。石畳に座り込む者、両手をつく者。先頭の男は、門の内側で待っていた人たちの顔を見回して、首を横に振った。
「……一人、やられた」
誰に言うでもない声だった。
「ケンさん」
肩を貸していた男から離れて、ケンが顔を上げた。しばらく、俺が誰なのかわからないような目をしていた。
「……お前、なんで」
「朝、西門って言ってたから」
ケンの顔が、ぐしゃりと歪んだ。
「狼が、急に増えて。暗くて、気づいたら囲まれてて。みんなで逃げて。モッチ、一番後ろにいて。俺が遅いから、先行けって。すぐ追いつくって。振り向いたら、もう」
言葉が途切れた。ケンが、俺の顔を見る。
「……バー、見てたのか。お前」
嘘はつけなかった。
「……見てました」
ケンは石畳に額をつけるようにして、動かなくなった。
一緒に戻ってきた男たちは、誰も何も言わなかった。先頭の男だけが、ケンの背中を一度だけ見て、それから黙って街の中へ歩いていった。ほかの男たちも、ばらばらとそれに続いた。
何を言えばいいのかわからないまま、俺はケンの隣に座り、その肩の震えが止まるまでそこにいた。
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空がすっかり白くなったころ、ケンがようやく立ち上がった。
「……宿、取れてんの」
「取れてないです。教会に、みんなで」
「……そっか」
帰り道、ケンは一度だけ、西門を振り返った。
パーティのチャットに、一件だけ新しいメッセージが来ていた。ナナからだった。
《皆さん、大丈夫ですか》
俺は、何も返せなかった。
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途中、開いたばかりの道具屋で、赤い小瓶-回復ポーションを一つ買った。所持金の、ちょうど一割だった。
教会の入口のすぐ横に、ダイチが立っていた。ずっとそこで待っていたらしい。ケンを見ても何も聞かず、肩に一度だけ手を置いて、壁際の自分の隣を空けた。
コタは寝ぐせのまま座っていた。
「昨日の。返す」
「え、いいですよ、別に」
「借りたままだと、気持ち悪いから」
コタはポーションの小瓶をポーチにしまいかけて、手を止めた。壁際に座り込んだケンの、裂けた服と、赤いHPバーを見ていた。
少し迷ってから、コタはケンの前まで歩いていき、両手で小瓶を差し出した。
「これ、飲んでください」
「……いいのか。お前のだろ」
「今、お兄さんに返してもらったやつなんで。だから、いいんです」
真剣な顔だった。ケンが受け取って飲み干すと、赤いバーがゆっくり緑に戻っていく。コタはそれを満足そうに見届けてから、視界の左上に目をやって、首をかしげた。
「……あれ。モッチさん、パーティ抜けたんですか?」
静止したケンの手の中で空の小瓶はポリゴンになった。
ダイチがコタの頭に手を置いた。
「あとでな」
コタはダイチとケンと俺の顔を順番に見て、何か聞こうとして、口を閉じた。
---
黒鉄宮の前には、誰も何も言わないまま列ができていた。
冷たい石造りの広間の奥に、巨大な黒い石碑が立っている。一万人の名前がアルファベット順に刻まれ、そのいくつもに横線が引かれていた。
前のほうで、女の人が石碑に額をつけたまま動かなくなり、後ろの誰かにそっと脇へ連れていかれた。
ケンは列のあいだ、一度も顔を上げなかった。自分の名前は探さず、まっすぐMの段へ向かう。俺もその隣に立った。
《Mocchi》の上に、一本の横線。
ケンはその線を、何度も指でなぞった。
後ろでは、自分の名前を見つけたコタが、小さくガッツポーズをしかけていた。その手が、俺たちの立つ場所に気づいて止まる。
コタはゆっくりMの段の前まで来て、線の引かれた名前を見上げた。
長いこと黙っていたコタが、俺の袖を、そっと掴んだ。昨日の夜と、同じ場所を。
「……朝、西門って。言ってましたよね。モッチさん」
ケンの指が止まった。
「……言ってた」
石碑から手を離し、ケンは俺のほうを見ないまま言った。
「西門、来てくれて、助かった」
俺は何も言えなかった。袖を掴むコタの手に、少しだけ力がこもった。