ソードアート・オンライン 百層の彼方~天空城の旅人~ 作:壊緑茶
ホルンカ村に着いたのは、デスゲームが始まって八日目の夕方だった。
はじまりの街から西へ半日。家が十軒ほどと、宿を兼ねた酒場が一軒あるだけの村だ。
それでも村の中は圏内で、モンスターは入ってこない。宿代も街の半分で、しばらく腰を据えるには悪くなかった。
俺たちがここまで来た理由は、はっきりしている。剣だ。
村外れの家を訪ねると、母親らしいNPCが水を一杯出してくれた。奥の鍋で何か煮えているのに、「今は食べるものがなくて」と言う。
妙だなと思っていたら、隣の部屋から子どもの咳が聞こえた。
娘が病気で、市販の薬が効かないらしい。西の森に棲む食虫植物、リトルネペントの胚珠から作る薬だけが頼りなのだという。持ち帰れば、家に伝わる長剣を譲ると言われた。
その夜、村の酒場で、ケンが自分の冊子を開いた。
短剣使いのケンは、この数日、ほとんど戦っていない。朝から村の入口に立って、森から戻ってくるプレイヤーを片っ端から捕まえては、何が出たか、どこで死にかけたかを聞いて回っている。
聞いた話は日付つきで冊子に書き、その日のうちに酒場の掲示板へ書き写していた。宿泊者への連絡やパーティ募集を貼るための、ただの木の板だ。誰でもタダで読める。
「で、集めた話をまとめると、こうなる」
ケンは冊子を指で叩いた。
「胚珠を落とすのは、頭に花が咲いたリトルネペントだけだ。その花つきが湧く確率は、百匹に一匹も出ない」
「じゃあ、どうやって探すんです」
「普通のリトルネペントを倒すと、そのぶん新しいのが湧く。片っ端から倒して湧き直させて、花つきを引きにいくしかない」
「それって、何日かかるんですか」
ナナが聞いた。
「今日話を聞いた四人組は、三日やって花つきを二回しか見てない。しかもそのうち一回は、横から取られたってさ」
四十過ぎのダイチが、所持金の欄を指で弾いた。
「胚珠が出るまで何日も居座るとして、飯代は持つのか、それ」
「三日ぶんです」
と俺は言った。
「今日買った食料を足しても、そのくらいで終わります」
翌日、九日目も、森は人で溢れていた。
湧いたリトルネペントに三方向から人が走ってくる。「そっちのはうちが先に削ってる!」と怒鳴り声が飛び、別のところでは押し合いが起きていた。花つきどころか、普通の個体を倒す順番すら回ってこない。
その日の稼ぎは、宿代と食費で消えた。
夕方、疲れた足で村へ戻ると、酒場の前に人だかりができていた。
「なんですかね、あれ」
コタが背伸びをする。
「ケンカじゃねえのか」
人垣をかき分けて中に入ると、掲示板の前だった。ケンの書いた紙の横に、見慣れない手書きの紙が二枚、新しく貼られている。
《森の秘薬・花つき出現ポイント 二百コル》
《西の森 夜狩りのすすめ 五百コル》
どちらも、中身は書いていない。金を払えば教える、という広告だ。
「げっ、五百コル?」
コタがパンをくわえたまま、鼻先が紙につくくらい近づいた。
「ケンさん、これ見てください!」
「見た」
「上のやつ、ケンさんが掲示板に書いてたのと同じ話じゃないですか?」
「まあ、上のはな」
言われて、俺は掲示板を見直した。
ケンの書いた紙が、どこにもない。
「あれ。ケンさんの、剥がされてますよ」
「いや。俺が自分で剥がした」
ケンはテーブルにつくなり、木目を指でなぞった。
「昨日の夜、買いたいってやつが来たんだよ。俺の書いたぶん全部で、千コル出すって」
「千!?」
ナナが口を押さえた。千コル。俺たち六人が四日かけて稼いだ額より多い。
「え、売ったんですか」
「売るかよ、そんなの」
「じゃあ、なんで剥がしたんです」
「あそこに書いてたこと、全部、俺が人から聞いた話なんだよ。自分で森に入って確かめたわけじゃない」
ケンは背もたれに体を預けた。
「今まではタダだったから、誰も文句を言わなかっただけでさ」
ナナの兄のソラが、大盾を床に立てて言った。この人が口を開くのは珍しい。
「千コル出すやつがいるってことは、ケンの書いたものに、それだけの値打ちがあると思われてるってことだよな」
「……ですね」
「だったら、同じ中身がタダで貼り出されたら困る人間も出てくる」
そのとき、酒場の奥から、どっと笑い声が上がった。
つられて振り向いた。
四人がけのテーブルに、七人が座っている。空いた椅子を近くから引っぱってきて、輪を広げたらしい。
その輪の中心で、一人だけが立っていた。
三十くらいの男だ。肩幅が広くて、頭を剃り上げている。手に持ったジョッキで、話の切れ目ごとに宙を叩いていた。
村じゅうの声が、その男の声にだけ薄まっていくのがわかった。
「——だから俺は、誰が悪いとは言ってねえよ」
男はジョッキを置いた。
「ただ、変だと思わねえか? ベータのやつら、初日の夜にはもう森の奥まで行ってたんだぜ。なんで道を知ってんだ?」
「そりゃ、ベータで来てんだから当たり前だろ」
言い返したのは、向かいに座った痩せた若い男だった。
「そうだよ。知ってたんだ」
男は、その返事を待っていたような顔をした。
「知っててな、俺らが草原でイノシシに転がされてる間に、いい剣もいい狩場も、先に全部押さえてったわけだ」
「……まあ、それはそうだけどさ」
「情報だってそうさ。タダで配ってるとか言ってるやつがいるが、本当にいい情報をタダで配るやつがいると思うか?」
男は輪の全員を、ゆっくり見回した。
「うまいとこは自分らで食って、余り物だけ配って、いい人ヅラしてるだけだろ」
また笑いが起きる。
コタが立ち上がりかけて、ダイチに肩を押さえられた。
「やめとけ」
「でも、あのスキンヘッドの人、ケンさんのこと言ってますよ!」
「言ってねえよ」
とケンが言った。
「あいつが言ってんのはベータの話だ。俺が掲示板に書いてたことなんて、誰も気にしてねえって」
それでも、話の形は同じだった。タダで配るやつには、裏がある。
十日目の森は、妙に静かだった。昨日まで五十人はいたのに、二十人もいない。
「あれ? みんな、どこ行ったんですかね」
ナナが盾の紐を締めながら言う。
「昨日のあの五百コルの紙、買ったやつらだよ」
とケンが答えた。
「夜に来いって書いてあるらしい。昼は人が多すぎて、湧かせたそばから横取りされる。夜なら誰もいないから、六人で湧きを回して、花つきが出るまで粘れるってさ」
「夜の森って、真っ暗ですよね」
「村から森の入口までは十五分だ。危なくなったら走って戻れる。……理屈としては、通ってる」
「通ってるから、みんな五百コル払ったんでしょうね」
と俺は言った。
「お前まで乗り気か」
「乗り気じゃないです。ただ、昨日は昼に六時間やって花つきゼロですよ」
ダイチが唸る。
「誰もいない森で六時間回せるなら、そっちのほうが確率は高い。そこは間違ってないと思います」
その日、俺たちが倒したリトルネペントは七匹。花つきは、一匹も出なかった。
夕方、ソラが大盾を下ろした。左腕を、さっきから何度も開いたり閉じたりしている。
「ナナ、疲れてないか」
「疲れてるよ。だからお兄ちゃんが休んで」
ナナが盾を指さした。
「さっきから腕、ぷるぷるしてるじゃん」
言ったのが妹だったので、ソラは何も言い返さずに盾を持ち直した。
その背中に、コタが小声で言う。
「ソラさん、槍のほうが楽ですよ」
「うるさい」
十一日目の朝、村の入口が人で詰まっていた。
夜の森へ行った六人のうち、三人だけが戻ってきていた。
服も装備も、あちこちが溶けている。
「ネペントの吐く酸だな、あれ」
とケンが呟いた。
「夜は違うんだよ」
戻ってきた三人のうちの一人が、地面に座り込んだまま、同じ言葉を繰り返していた。
「昼と違うんだ。湧く数が違う。あの紙を買ったら、夜は湧きが落ち着くって書いてあったのに」
村に残っていたプレイヤーが、次々と集まってくる。
「おい、残りの三人は!?」
「散り散りになった。俺らは走って戻ってきた」
「そいつら、戻ってこれんのか」
「わかんねえよ! どこではぐれたかも覚えてねえんだよ!」
誰かがメニューを開いて、パーティ欄を確かめた。仲間のHPが表示される欄だ。
しばらく見て、首を横に振る。
その一動作で、場の空気がひとつ落ちた。
「……で、誰だ」
低い声が、後ろから聞こえた。
昨日、酒場でベータの話をしていた、あのスキンヘッドの男だった。
「その夜狩りの紙を売ってたのは、誰だ」
昼前には、酒場がそのまま集会場になっていた。
売り主は、この村にいる二十歳そこそこの男だった。背が高くて、ひょろりと細い。人前で喋り慣れていない喋り方をするくせに、装備だけはやけに良かった。
「だから、俺は聞いた話を書いて売っただけだって!」
「三人戻ってねえんだぞ!」
「戻ってこないだけだろ! 死んだって決まったわけじゃねえ!」
「じゃあ生きてんのかよ!」
椅子が倒れる。圏内だから殴り合いにはならない。それでも、二十人が一人を囲んで怒鳴る光景は、十分に怖かった。
「その夜狩りの話、誰から聞いた」
スキンヘッドの男が、静かに言った。それだけで周りが黙る。人を静める言い方を知っている人だった。
「……この酒場で、知らないやつから」
「そいつはベータか」
「知らねえよ! 名前も聞いてねえし!」
「知らない、で済むのか?」
男は周りをぐるっと見回した。
「なあ、みんな。俺が言いたいのはな、こういうことだよ。この村じゃ、誰も責任を取らない情報が金になる」
誰も、口を挟まなかった。
「書いたやつは『聞いた話だ』で逃げる。売ったやつは『買うほうの自由だ』で逃げる。で、死ぬのは、金を払って信じたやつだ」
反論できなかった。俺も、誰も。
「だから、もう一度聞くぞ。この村で情報を配ってるのは、ほかに誰だ」
ケンの手が、テーブルの下で握られた。
俺が立ち上がろうとした、そのときだった。
「ここです」
入口から、女の人の声がした。
片手剣を下げて、フードを背中に落としている。二十代半ばくらいで、髪を後ろで一つにまとめていた。布の服の肩から袖にかけて、ざっくりと裂けている。
この数日、俺は何度かこの人を森で見かけていた。いつも一人で、誰よりも早く森に入り、誰よりも遅くまで残っている人だ。
彼女はテーブルまで歩いてきて、折りたたんだ紙を広げて置いた。
「その夜狩りの情報、私も買いました。これが、そのとき渡された紙です」
酒場が静まり返る。近くにいた何人かが、身を乗り出して覗き込んだ。紙には、森の東側の略図と、時間帯ごとの湧きの数らしい数字が書き込んであった。
「……あんた、あの六人と一緒に行ったのか?」
「いえ、一緒には行ってないです。ただ、ここに書いてあることが本当かどうかは知りたかったので」
彼女は紙を指で押さえた。
「昨日の日暮れに、一人で森の縁まで行ってみました」
「一人でかよ!」
「はい。二十分だけ。それ以上いたら死ぬなと思ったので、戻りました」
彼女は自分の袖の裂け目をつまんで見せた。
「夜のネペント、湧く数は昼の三倍くらいありました。湧く場所も、この紙に描いてある位置とは全然違います」
「じゃあ……」
「だから、この紙に書いてある情報は嘘です」
「だったら、なんで昨日のうちに言わなかったんだ!」
「言いましたよ」
彼女は、まっすぐ売り主の男を見た。
「昨日の夜、あなたに言いましたよね。返金しろとは言ってません。この紙を売るのをやめて、間違ってましたって掲示板に貼ってくださいって、お願いしました」
男は、答えなかった。
「……だから」
彼女は少し声を落とした。
「私は、あなたを吊るしに来たわけじゃないんです。戻ってこない三人のぶんは、私にも責任があるので。あなたに貼らせることができなかったから」
誰も、しばらく喋らなかった。
先に口を開いたのは、スキンヘッドの男だった。
「いい度胸だ。……で、あんたはそれでも情報屋を庇うのか?」
「庇ってないです」
「じゃあ、どうしろってんだよ」
彼女は、少し考えてから言った。
「売る紙にも、貼る紙にも、書いた人の名前を入れればいいんじゃないですか」
「は?」
「タダでも、お金を取っても、どっちでもいいんですけど。誰が書いたかわかるなら、間違ってたときに、直してくださいって言いに行けるので」
彼女は、テーブルの紙を指で軽く弾いた。
「この紙には、名前がないんですよ。だから、誰にも言いに行けない」
その夜、ケンは酒場の掲示板の前に立っていた。剥がしたはずの自分の紙を、手に持ったままで。
「……名前、書くのかよ」
とダイチが聞いた。
「書いたら、次に同じことが起きたとき、みんなお前んとこに来るぞ」
「来ればいいだろ、別に」
「よくねえよ。今日の集まり、見てただろ」
「いや、来ればいいんですよ」
言ったのは俺だった。自分の声が、思ったより硬かった。
「ケンさんが書いてるの、全部、森から戻ってきた人が話したことですよね。誰がいつ言ったかも、日付で入ってる」
「だからなんだよ」
「あれで死んだ人が出たら、それは俺たち全員の責任です。掲示板に貼れって最初に言ったの、俺ですから」
「お前の責任じゃねえよ」
「じゃあ、俺の名前も一緒に入れてください」
ケンは長いこと黙っていた。それから、紙の隅に自分の名前を書き足した。
《Ken》
その下を、コタが指さす。
「日付も入れましょうよ。何日目に聞いた話かわからないと、古い情報のまま行って死んじゃいます」
「……お前、そういうとこ賢いよな」
「そういうとこって、どういうとこですか」
「怖えとこだよ」
紙を貼り直して外に出ると、井戸のところに、さっきの女の人がいた。
「あの、さっきはありがとうございました」
「別に。事実を言っただけなので」
「でも、あのままだったら、俺たち、ケンさんを差し出さなきゃいけなくなってました」
彼女は少しだけ笑った。笑うと、年相応の顔になる人だった。
「名前を書けって言ったやつ、たぶん、いい提案じゃないんだけどね」
「え。さっき、みんなの前で言ったやつですか」
「うん。だって、書いた人の名前が紙に入ってたら、何かあったとき恨まれるのはその人だけになるでしょ」
「……あ」
「売った人も、買った人も、それで楽になっちゃう」
「わかってて、言ったんですか」
「あの場でね、売ってた人を一人吊るして終わりにしない方法が、それしか思いつかなかったから」
桶を持ち上げながら、彼女は酒場のほうをちらっと見た。
「あのスキンヘッドの人、上手だったな」
「はい」
「三人が戻らないって話を、三十秒でベータの話にしたでしょ。ああいう人が、たぶん一番危ないと思う」
「あの人、何がしたいんでしょうね」
「さあ。何もしたくないのかもよ」
彼女は肩をすくめた。
「ただ、腹が立ってる人が、一番大きい声で喋れる場所を見つけただけかもしれないし」
そこで彼女は、自分の袖の裂け目に目をやった。
「あと、ひとつだけ言っとくね。私が夜の森に行ったの、あの紙を確かめるためだけじゃないの」
「そうなんですか」
「私も、あの剣が欲しいから。胚珠を持っていかないと、もらえないでしょ」
「ですよね」
「でも昼の森は人が多くて、一人だと取り合いに勝てないんだよね。だから、人がいない時間に狩るしかなくて」
彼女の剣は、俺たちが持っている支給の剣より、ずっと刃こぼれがひどかった。八日間、これ一本でやってきたのだと、そのときわかった。
「一人だと、花つきが湧いても横から取られませんか」
「取られる。三回取られたよ」
「三回もですか」
「一回目は文句言った。二回目は黙ってた。三回目は、相手が六人だったから、離れた」
軽い言い方だった。そのぶん、かえって嫌な感じが残る。
「よかったら、明日、俺たちと同じ場所で狩りませんか」
言ってから、慌てて付け足した。
「あ、パーティを組もうって話じゃないです。同じ区画にいるだけで」
「うん?」
「花つきが湧いたら、先に見つけたほうのものにしましょう。俺たちは横から手を出しませんから」
「……なんで、そこまでしてくれるの?」
「取られるの、見たくないんで」
彼女はしばらく俺を見て、それから桶を持ち直した。
「ハル」
「え」
「私の名前。……夜の森で見たこと、ケンさんの紙に書くんでしょ」
「あ、はい」
「名無しの情報は信用しないって、私がさっき言っちゃったしね」
パーティを組んでいないから、頭の上に名前は出ない。名乗るまで、この世界の人間は全員、誰でもない。
「じゃあ、俺は——」
「いいよ、まだ」
ハルさんは片手を上げて、それを遮った。
「知りたくなったら、聞くから」
そのまま宿のほうへ歩いていく。
その背中に、コタが叫んだ。
「ハルさん! 明日、俺たち、東の窪地のほうにいますから!」
返事はなかった。ただ、足がほんの一瞬だけ止まった。
十二日目の朝、はじまりの街から戻ってきたプレイヤーが、黒鉄宮の石碑の話を持ってきた。あの宮殿には全プレイヤーの名前が刻まれていて、死んだ者の名前には横線が引かれる。
夜の森へ行った六人のうち、線が引かれていたのは二人。残る一人には、引かれていなかった。
つまり、その一人はどこかで生きている。
コタは、それを聞いてからずっと、村の入口のほうを見ていた。
「その、線が引かれてなかった人。戻ってきますかね」
「わかんない」
「待ってたら、戻ってきますか」
十日前の夜、はじまりの街の西門の内側で、俺は朝まで一人を待っていた。あのときは、待っていた相手が帰ってきた。
「……待つのは、いいと思うよ」
ケンは、掲示板の紙に一行だけ書き足していた。
《西の森・夜間 ネペントの湧き数は昼の三倍/目撃:ハル・Day10》
ケンの紙に他人の名前が載ったのは、それが初めてだった。