9日目の朝、酒場には30人近いプレイヤーが集まっていた。
その真ん中で、眼鏡の大男が立ち上がった。昨日の夜、ベータの話で部屋を一つにした男だ。
「少し、いいかな」
声は大きくない。それでも、ざわつきが引いていく。会社員みたいな雰囲気もあるのに、なぜか目を引く人だった。
「昨日は、俺も頭に血が上ってた。悪かった」
男はそこで、一度だけ頭を下げた。
「トガだ。そのうえで、提案がある。聞くだけ聞いてくれ」
トガは、手に持っていた紙を掲示板に貼った。定規で引いたみたいに、整った字だった。
《胚珠の共同分配について(参加者のあいだの約束) 案:トガ》
コタが背伸びをして、声に出して読んだ。
「参加するパーティは、花付きが出たら、誰が倒しても、胚珠を夕方に酒場へ持ってくる。村に着いた順に渡す……」
「はあ!?」
奥の席から、声が飛んだ。昨日、実を割られて胚珠を奪われた4人組のリーダーだった。
「俺らが削って、俺らが取ったもんを、なんで他人にやらなきゃなんねえんだよ」
「嫌なら、入らなくていい」
トガは、あっさり言った。
「これは村全体の決まりじゃない。入ったパーティ同士の約束だ。入らないやつには何の効力もないし、実を割るやつを止められるわけでもない」
「じゃあ、意味ねえだろ」
「意味はある」
トガは、紙の下のほうを指さした。
「入ったパーティ同士は、花付きを取り合わない。狩場も、時間で分けて回す。そうすれば、少なくとも入ったやつら同士では、昨日みたいな横取りは起きない。一人でも多く入れば、そのぶん森で奪い合う相手が減る」
「約束破ったら?」
「名簿から外す。それだけだ。外されたやつは、その日から入ったパーティ全員の狩場の外で、一人で奪い合うことになる」
トガは、指で紙の端を叩いた。
「誰が何を持ってきて、誰に渡したかは、毎晩記録して掲示板に貼る。記録は、誰でも読める。……完璧じゃない。抜け道もある。でも、昨日よりはましだと思う」
それから、紙の最後の一行を指さした。
《一パーティにつき、アニールブレードは1本まで》
「おい、それは——」
今度は、俺の隣でダイチが声を上げた。
「片手剣が3人いたら、3本要るだろうが」
「仮に片手剣3人のパーティが3人分取るまで順番を回したら、1人でやってる人にはいつまで経っても回ってこない」
トガは、ダイチをまっすぐ見た。責める目ではなかった。
「それに、3人や4人でやってる少ないパーティのほうが、森では危ないんだ。人数が少ないぶん、1人が受ける蔓の数が多い。盾を持てる人がいないパーティもある。剣が要るのは、むしろそっちなんだよ。……あんたたちは6人いる。6人いるってことは、1本の剣を6人で守れるってことだ」
ダイチは口を開けたまま、何も言い返さなかった。
俺も、言い返せなかった。この案で一番損をするのは、間違いなく俺たちだ。俺、ダイチ、ナナの3人が片手直剣を使っている。それでも、筋は通っていた。
しばらく、誰も喋らなかった。
やがて、奥のほうで誰かが「……乗る」と言った。それから、ぽつぽつと同じ声が続いた。乗らない、と言って出ていったパーティも、いくつかあった。
「分かった。俺らのとこも乗る」
ダイチがトガにそう伝えた。
そのとき、俺の向かいでケンが立ち上がった。
「俺からも、ひとついいか」
30人近い視線が、今度はケンに集まった。昨夜、この部屋で追い詰められかけた男に。
ケンは、しばらく黙っていた。冊子を握る手に、力が入っているのがわかった。
「昨日の朝、俺があそこに貼った紙を読んで、森に入ったやつがいるかもしれない」
声が、少しかすれていた。
「俺はこの1週間、戻ってきたやつの話を聞いて、書いて、貼ってきた。タダで。役に立ってると思ってた。でも、書いてたのは全部、人から聞いた話だ。俺が自分の目で見たことは、一つもない。聞いた話を、聞いた話のまま貼って、それで誰かが死んでも、俺は聞いただけだって言える場所にいた。……それが、昨日よくわかった」
ケンは、そこで頭を下げた。
「すまなかった。これからは、自分で確かめたことと、聞いた話を分けて書く。確かめられないことは、確かめられないって書く」
誰も、すぐには何も言わなかった。
最初に口を開いたのは、トガだった。
「分けて書いてくれるなら、そのほうが助かる。記録係も、あんたみたいなのがいい」
それだけだった。それだけで、部屋の空気が、少しだけ緩んだ。
酒場を出てから、ダイチが唸った。
「……昨日と同じ人間とは思えねえな、あの眼鏡」
「昨日は、腹を立ててる人たちの側にいたんだと思います」
俺はそう答えた。
「今日は、どうやったら次が起きないかを考える側にいた。どっちも、たぶんあの人なんじゃないですか」
「おっかねえな、それ」
「はい。でも、今日の話は、完璧じゃないけど正しかったと思います」
井戸のところに、昨夜戻ってきた3人が待っていた。
その横に、ハルさんもいた。
「来てくれたんですか」
俺が言うと、ハルさんは肩をすくめた。
「北の縁のこと、教えるって言ったでしょ」
コタが、3人のうちの1人の前で足を止めた。
「あの」
男が、顔を上げる。
「戻ってこない3人の、名前を教えてもらえませんか」
「……なんで」
「探すときに、呼ぶので」
男はしばらくコタを見ていた。それから、ゆっくり3つの名前を言った。
コタは、それを1つずつ、自分のメモに書き写した。
「ありがとうございます」
頭を下げたコタに、男は何も答えなかった。ただ、少しだけ顔を背けた。
北の斜面へは、村から40分ほどかかった。
森の縁を、東から北へ回り込んでいく。ハルさんが先頭を歩いて、昨夜見た場所を1つずつ指さした。
「このあたりまでは来た。ここから北は、木が詰まってて、見えなかった」
その先は、斜面が急に立ち上がっていた。岩と木の根が入り組んで、道らしい道はない。下草の陰に、リトルネペントの壺がいくつも覗いている。昼の森とは思えないほど、数が多かった。
「……ここ、昼でもこんなに湧いてるんですか」
ナナが盾を構えたまま言った。
「私も初めて見た」
ハルさんの声が、少しだけ硬かった。
戻ってきた3人のうちの1人が、パーティ欄を開いたまま、何度もチャットを送っていた。
《今どこ》《近くまで来てる》《音立てられるか》
返事は、来なかった。
「……HPは」
俺が聞くと、男は画面を見たまま答えた。
「3人とも、まだある。1人は、朝よりまた減ってる」
コタが、斜面に向かって、メモに書いた名前を1つずつ呼んだ。大きな声で。
木々の奥で、何かが動く気配がした。人ではなかった。壺の群れが、声のほうへ、ゆっくり向きを変えていた。
「コタ、声出すな」
ダイチが、コタの口を手で押さえた。
「匂いだけじゃねえ。音でも寄ってくるかもしれねえ」
1時間、斜面の下を東西に歩いた。登れそうな場所を探しては、群れに押し戻された。
昼を過ぎたころ、男の手が止まった。
「……1人、消えた」
パーティ欄を見たまま、動かなかった。
誰も、何も言えなかった。
男は、斜面を見上げた。
「行く。この上だ。絶対この上にいる」
「待ってください」
気づいたら、俺は男の前に立っていた。
「この先、地図もないし、何がいるかもわかりません。今登ったら、群れの真ん中に入ることになります。ここにいる全員が」
「じゃあ見捨てろってのか!」
男が俺の胸ぐらを掴んだ。圏外だから、弾かれない。
「……見捨てたくないです」
声が、ひどく震えた。
「でも、ここから先に入ったら、探しに来た俺たちが、次に探される側になります。日が傾く前に戻るって、昨日の夜、決めました。今、決めた時間です」
男の手に、力がこもった。
それから、ゆっくり、離れた。
男はその場に座り込んで、斜面を見上げたまま、長いこと動かなかった。
戻ると決めたのは、俺だった。
誰も俺を責めなかった。それが、かえって重かった。
村への帰り道、ハルさんが俺の横に並んだ。
「あそこで止めたの、正しかったと思う」
「……正しくても、嫌です」
「うん。私も嫌」
ハルさんは、それ以上何も言わなかった。
午後、俺たちは森の浅いところにだけ入った。奥へは行かない。人の多い区画にも近づかない。
かわりに、ケンが短剣を抜いた。
「マジですか、ケンさん」
コタが目を丸くする。
「マジだよ。自分で確かめたことを書くって、30人の前で言ったんだ。なら、自分で森に入って、自分で見て、帰ってこられなきゃ話にならねえ。……さっきの斜面も、俺が自分で見てたら、もうちょっと何か書けた」
「でも、しばらく戦ってないですよね」
「モッチの夜からだから……8日か」
ケンは短剣の柄を握り直した。その手が、少し震えていた。
俺は、その震えに見覚えがあった。
はじまりの街の西門で、夜の草原を見ていたときの自分の手だ。モッチさんが、ダイアウルフの群れに追われて戻らなかった夜。俺はあの門の内側で、待つことしかできなかった。
「……あの夜から、俺、門の前に座ってただけなんだよ」
ケンが、ぽつりと言った。俺に言ったのか、自分に言ったのか、わからなかった。
「戻ってきたやつに話を聞いて、書いて、情報を集めて、それで役に立ってる気になってた。でも、あれ、ただ門の前に座ってるのと同じことだったんだな」
最初のリトルネペントとの戦いは、ひどいものだった。
蔓の来る方向を読み違えて、ケンは何度も転んだ。無理もない。8日ぶりの戦闘なのだ。何度目かでようやく短剣が光ったが、位置が悪くて、技の後の硬直中に横から蔓で殴られた。
「ケンさん、下がって!」
ナナが叫ぶ。
「ソラさん、スイッチ!」
俺の声に合わせて、ソラさんが大盾で割り込み、蔓を受け止めた。
「……悪い」
「謝るのは後にしましょう」
と俺は言った。
「今は、ソラさんの後ろに入ってください。そこからなら、蔓の長さが見えます」
少し離れた場所で狩っていたハルさんが、休憩のときに歩いてきた。
「その人、短剣でしょ」
ハルさんはケンを見ていた。
「《隠蔽》、セットしてる?」
ケンが顔を上げた。
「してるけど」
「ネペントには効かないよ。あれ、目がほとんど見えてないの。匂いで追ってくるから」
「……あー、そうだ」
ケンが頭を抱えた。
「道理で、隠れても寄ってくると思った。俺が集めた情報なのによ」
「気づいてないと、1回は死ぬやつですよね、それ」
俺が言うと、ハルさんは肩をすくめた。
「私も、ここに来た3日目に知った。茂みに隠れてたら、真後ろから蔓が来て」
「それ、どうやって助かったんですか」
コタが身を乗り出す。
「全力で走った。それだけ」
夕方、村へ戻る道で、ダイチが不意に立ち止まった。
「なあ、ハルさん」
ハルさんが足を止める。
「明日から、うちと一緒に回らねえか」
「……パーティは、6人が上限ですよね」
「わかってる。組めねえのはわかってるよ」
ダイチは頭を掻いた。
「組めなくても、同じ場所で同じタイミングで動くだけで違うだろ。今日見てて思ったんだよ。あんた、うちの誰より上手いのに、1人で3体に囲まれたら終わりだ。……今日の斜面みたいなのを、また見るのは、もう嫌なんだよ、俺は」
ハルさんは、少し考えているようだった。
「……7人で、まとまりますか」
「まとまるかね」
ダイチはそこで、俺たち全員を親指で示した。
「見ろよ。うちはただでさえ、年齢がバラバラの珍しいグループなんだぞ。そこにあんたが入ったら、もっとバラバラだ。まとまるか、これ」
ハルさんが、ひどく気まずそうな顔をした。視線が、地面とダイチの顔を何度も往復した。
「……すみません」
「謝るなよ。褒めてんだよ」
「褒めてないですよね、それ」
ナナが横から突っ込むと、ダイチは「うるせえ」と笑った。
ハルさんは、まだ困った顔をしていた。それでも、小さくうなずいた。
「じゃあ、明日から。……邪魔だと思ったら、言ってくださいね。私、1人のほうが慣れてるから、たぶん、変な動きすると思うので」
10日目の朝、夜狩りから戻った3人は、村を出ていった。
「パーティは解散した」
井戸のところで、1人がそう言った。
「見てるのが、もう無理だ。……はじまりの街に戻る」
それきり、3人は北西門のほうへ歩いていった。コタは、その背中に頭を下げていた。
その日は、朝から7人で森に入った。
ハルさんは声が小さい。かわりに、彼女が言うことは必ず当たっている。
「ソラさん、正面のを一瞬だけ止めてください。そのあいだに私が後ろの1匹を片付けます」
ソラさんが大盾で蔓を受け止め、ハルさんが背後へ回る。《ホリゾンタル》の光が横一文字に走り、壺が裂けた。砕けるころには、ハルさんはもう次の位置に移っている。
「速っ」
ナナが目を丸くした。
「ハルさん、それ、敏捷に振ってるんですか」
「うん。1人だと、殴り合いになった時点で負けるから。当たる前に、いない場所にいるしかないの」
ナナは、しばらく自分のステータス画面をにらんでいた。
昼過ぎ、それは起きかけた。
窪地の縁で、コタが1匹のリトルネペントに槍を構えていた。蔓の動きが遅い個体だった。コタは、盾の後ろから出て、正面に回り込んでいた。
その頭の上に、赤い丸いものが揺れているのが見えた。
実だ。
実付き。
コタは、敵の蔓しか見ていなかった。穂先が青く光りはじめる。
「コタ、待——」
俺が叫ぶより早く、横から誰かの手がコタの槍の柄を掴んだ。
ハルさんだった。
光りかけていた穂先が、ふっと消える。ソードスキルがぎりぎりで止まった。
「上」
ハルさんは、それだけ言った。
コタが、ゆっくり顔を上げた。自分の目の前で揺れている赤い実を見て、そのまま固まった。
「……実付き」
「うん」
「俺、斬るとこでした」
「うん。私も最初のころ、2回やりかけた」
ハルさんは、コタの槍から手を離した。
「下がろう。こっちから回れば、実に当てずに倒せる」
コタはしばらく黙っていたが、村の門が見えたところで、ようやく口を開いた。
「ハルさん」
「うん」
「さっき、ありがとうございました」
「どういたしまして」
「……俺、絶対斬らないって、覚えましたって言ってたんですけどね」
ハルさんは、少しだけ足を緩めた。
「覚えてても、やるんだよ。疲れてると。気にしなくていい」
それから、コタの頭を軽く叩いた。
「だから、疲れたら言ってね」
コタは、毎日夕方になると、村の入口の石に座った。
9日目の朝に書き写した、3つの名前のメモを膝の上に置いたまま。
「まだ待ってるのか」
10日目の夕方、俺はその隣に座った。
「はい」
「……帰ってくるとは限らないぞ」
「わかってます」
コタは膝を抱えて、村の入口をまっすぐ見ていた。
「でも、誰も待ってなかったら、帰ってきたとき、誰も気づかないじゃないですか。名前、知ってる人がいないと」
俺は、斜面の下で「戻ります」と言った自分の声を思い出していた。
あのとき戻ると決めたのは、俺だ。
その俺が、今、この子の隣に座っている。
その夜、ハルさんの順番が回ってきた。
彼女は村に3日目に着いている。俺たちよりずっと上だ。
分配は、毎晩酒場で行われる。30人近いプレイヤーが集まる、あの部屋で。
酒場の扉の前で、ハルさんの足が止まった。
扉の向こうから、笑い声と、椅子を引く音が聞こえる。2日前、20人近いプレイヤーが1人を囲んでいた部屋だ。そのとき、1人でその輪に入っていったのは、この人だった。
「代わりに受け取ってきましょうか」
俺が言うと、ハルさんは首を横に振った。
「ううん。自分で行く」
それでも、足は動かなかった。
ダイチが、ハルさんの隣に立った。何も言わなかった。
ソラさんが、その反対側に立った。ナナが、ケンが、コタが、その後ろに並んだ。
最後に、俺が扉を押し開けた。
ハルさんは、少しだけ驚いた顔をして、俺たちを見た。
「……変なグループ」
「知ってます」
酒場の真ん中で、トガが名簿に目を落とした。横で、ケンの冊子が開かれている。今日から、記録はケンがつけることになっていた。
「3日目着の、ハルさん」
ハルさんが、一歩前に出る。
トガは眼鏡の奥で一瞬だけこちらを見て、それから、淡く光る小さな玉をハルさんの手のひらに載せた。
「どうぞ」
「……ありがとうございます」
受け取ったハルさんの指が、少しだけ震えていた。
村外れの家から出てきたとき、ハルさんは両手で新しい長剣を抱えていた。
《アニールブレード》。
刃こぼれ一つない、まっすぐな刀身が、月明かりを受けて淡く光っている。
ハルさんは、それを一度だけ振った。風を切る音が、スモールソードとはまるで違った。
「……10日ぶり」
「何がですか」
「ちゃんと切れる剣で戦うの」
その言い方があまりに静かで、俺は何も言えなかった。
ハルさんは剣を鞘に収めて、俺のほうを向いた。
「借りができた」
「借りじゃないです」
「借りだよ」
彼女は、きっぱりそう言った。
「明日、あなたたちの番でしょ。私、朝から全力でやるから」
その帰り道、宿の前の暗がりに、人影が立っていた。
背が高くて、ひょろりと細い。2日前の夜、20人近いプレイヤーに囲まれていた男だった。
「……情報屋さん」
男は、ケンを見ていた。
「あの夜、俺はあんたのせいにしようとした。悪かった」
ケンは、しばらく黙っていた。
「売ったのは、お前だろ」
「わかってる。だから謝ってる」
男は、足元を見たまま言った。
「酒場でで、夜は湧きが落ち着くっていう情報をくれたやつ、黒っぽいフードの、上から下まで丈の長いのを着てた」
「俺もそんなやつの話し声が、廊下の奥でたまたま聞こえた。誰かに話しかけるみたいに、少し大きめの声で」
「いやまてよ、あのときは、たまたま聞こえたと思ってた。でも今思うと、聞こえるように喋ってた気がする」
「やっぱり、なんかちょっと変じゃないか」
男はそれだけ言って、頭を下げ、夜の中へ歩いていった。
ケンは冊子を開いて、一行だけ書き足した。
俺は、その文字を横から読んだ。
《Day7夜 宿の廊下 夜間の誤情報の発信者 黒いフードの男(本人未確認・伝聞)》