荷馬車は、4日前と同じ場所に止まっていた。
酒場の脇、井戸から10歩ほど離れた土の上だ。車輪には、乾いて白っぽくなった泥がこびりついている。繋がれたままの馬は、足元の草をもう根元まで食べ尽くしていて、ときどき鼻先で土を掘っては、諦めたように首を垂れていた。
14日目の朝だった。
今日から3日間、ナナは《アニールブレード》を実戦で使う。16日目に、あの剣を使い続けるかどうか、6人で決める。そういう約束の、最初の朝だった。
荷台の陰に、行商人のNPCが座り込んでいた。膝の上に帳面を広げて、同じページを指でなぞっている。俺が近づくと、帳面から顔を上げた。
「ああ、旅の人。朝から悪いねえ、こんなところに荷馬車を置きっぱなしで」
「東へ行くんですか」
「行くはずだったんだよ。4日前にね」
行商人は、荷台に積まれた木箱を、手のひらで軽く叩いた。
「この先の街道を東へ抜けて、向こうの村へ塩と布を届ける。毎月そうしてきたんだ。それが、イノシシで道が埋まっちまってね。白い毛の、見たこともない化け物みたいなイノシシだよ。1頭2頭なら護衛を頼んでどうにでもするが、あれは違う。道の上に、ずらっと並んでるんだ」
「並んでる?」
「そうとしか言いようがないねえ。まるで誰かに呼ばれて、集まってきたみたいに」
行商人のNPCは、帳面を閉じた。
「誰か、あの道を通れるようにしてくれないものかねえ」
視界の端に、小さなウィンドウが開いた。
《閉ざされた街道》
クエストの名前だった。受諾するかどうかを尋ねる表示が、指先の下で待っている。
東。ホルンカに来てから、一度も足を向けたことのない方角だった。北の洞窟を抜ければトールバーナという町に行ける、という話は、ケンの紙で読んだ。前線のプレイヤーが書いたもので、今の俺たちの装備とレベルでは、洞窟の入口で引き返すのが精一杯だろう、とケンも言っていた。
でも、東なら。
猪が道に並んでいる、という言い方が、妙に引っかかっていた。群れているのでも、湧いているのでもなく、並んでいる。
俺は、《受諾》に触れた。
「東の街道、見てこようと思うんです」
宿の前で冊子を読み返していたケンに声をかけると、ケンは顔も上げずに、ページを1枚めくった。
「白いイノシシのとこか」
「はい、行商人のクエスト、受けました。《閉ざされた街道》って名前で」
「名前がついてんのか。じゃあ、ただの湧きすぎじゃねえな」
そこでケンは、ようやく冊子から目を離した。
「東の街道の話、この4日で3枚も掲示板に出てる。3枚とも中身はほとんど同じなんだけどな。白いイノシシがいっぱいいて通れない、以上。どれも、入口から先の話がない」
「つまり入口で引き返したってことですか」
「たぶんな。俺も1枚目を読んだときは、東はしばらく放っとけって思った」
ケンは冊子を閉じて、腰の短剣の位置を直した。
「で、2人以上だろ。誰と行く」
「ケンさんに、頼もうと思ってました」
「俺かよ」
「東のことを書いた紙が3枚あるって、知ってるのはケンさんだけなので」
ケンは少しのあいだ、何か言いたそうな顔をしていたが、結局それは言わずに、宿の中へ荷物を取りに戻っていった。
ほかの4人は、いつもどおりネペントの森の窪地へ行くことになった。ナナの剣を試すなら、慣れた場所のほうがいい、とダイチが決めた。
出発の前、ナナが俺の前で足を止めた。背中のアニールブレードの柄が、肩の上で少し揺れていた。
「東の街道、行くんだ」
「ケンさんと。夕方には戻る」
「そっか」
ナナは、背中の柄に一度だけ手をやった。
「……今日、私、たぶん何回か失敗しそう。スキル、途中で止まるやつ」
「うん」
「それで、ダイチさんとかお兄ちゃんに、あれ大丈夫かって顔されたら、たぶん私、もっと失敗する」
「……俺がいても、たぶん同じ顔すると思うけど」
「そういうこと言う?」
ナナは少しだけ口を尖らせてから、小さく息を吐いた。
「でも、カイくんがいないと、なんか、変なとこで緊張しなくて済むかも。見られてる人が1人減るから」
「それ、褒めてる?」
「わかんない。……そっちの話、帰ってきたら聞かせてね。何があったか」
「ちゃんと、いい話だったらね」
「悪い話でもいいよ。私も、たぶん悪い話しか持って帰れないし」
ナナはそう言って、ソラさんの背中を追っていった。
ホルンカの東の門を出ると、道はゆるい下りになっていた。
轍の跡が2本、草の中に続いている。何台もの荷馬車が行き来してできた溝だ。ところどころに雨水が溜まっていて、朝の空を映していた。道の両側は膝ほどの草原で、ずっと向こうに、背の低い丘がいくつも並んでいる。
北の森とも、はじまりの街の西の草原とも、空気の匂いが違った。乾いた土と、どこかで咲いている花の甘い匂いが混ざっている。
「……なんか、ピクニックみたいですね」
言ってから、場違いな言葉だったと思った。
ケンは、ちょっとだけ口の端を曲げた。
「弁当持ってくりゃよかったな。黒パンしかねえけど」
「黒パンのピクニックって、罰ゲームっぽくないですか」
「塩振ったらいけるだろ。行商人が塩運んでるって言ってたし、分けてもらえばよかった」
「クエスト受けた相手から、報酬の前に塩もらうのはどうなんですか」
「前払いだよ、前払い」
ケンはそう言いながら、冊子を開いたまま歩いていた。歩きながら書いているので、字がときどき跳ねる。
「その字、あとで読めるんですか」
「読めねえときもある。前、自分で書いた字が読めなくて、1日悩んだ」
「何してんすか。てか何て書いてあったんですか」
「結局、『パン』だった」
「パン」
「たぶん、朝飯の値段をメモしてたんだと思う。なんでそれを冊子に書いたのかは、今でもわかんねえ」
道の脇に、腰の高さほどの石が立っていた。表面に何か刻まれているが、苔と風化で、ほとんど読めない。ケンが足を止めて、その石を指でなぞった。
「道しるべかな」
「……数字みたいなのが、かろうじて見えますね。距離ですかね」
「かもな。村までの距離なら、ありがたいんだけどな。帰り道の目安になる」
ケンは石のスケッチを冊子の隅に描いて、横に小さく「道しるべ? 文字判読不可」と書き足した。
30分ほど歩いたところで、道から少し離れた草原に、見慣れた青い背中が見えた。
フレンジーボアだった。草に鼻先を突っ込んで、のんびり根を掘っている。俺たちが通り過ぎても、顔すら上げなかった。
「平和だな、あいつ」
「フレンジーボアって、こっちから殴らないと来ないですよね」
「来ねえな。はじまりの街でさんざん追いかけ回したけど、向こうから来たのは、殴ったあとだけだったな、そういえば」
そのさらに先、道の真ん中に、白いものが立っていた。
最初は、岩だと思った。
形が違った。フレンジーボアより一回り、いや二回りは大きい。全身を覆う毛が日の光を受けて、白っぽく光っている。毛というより、針に近かった。背中から尻にかけて、無数の硬い毛が逆立っている。鼻先から突き出た角は、俺の腕くらいの長さがあった。
注視すると、カーソルに名前が浮かんだ。
《ブリッスルボア》。
「……あれか」
ケンが、声を落とした。
白い猪は、ゆっくりとこっちを向いた。
ザッ、ザッ。
前足で、地面を2回掻いた。
「ケンさん、あいつ、こっち見てますよね」
「見てるな」
「俺たち、何もしてないですよね」
「してねえ。道歩いてるだけだ」
白いイノシシが、突っ込んできた。
速い。フレンジーボアの突進の感覚で踏み出した足が、半歩遅れた。横に跳ぶ。巨体が鼻先をかすめて、背中の剛毛が肩をこすった。布が裂ける音がして、HPが目に見えて減った。
「かすっただけで、これかよ。ヤバいぞ」
ケンが短剣を抜いた。白い猪は、今度はケンのほうへ向きを変えている。
盾は、俺もケンも持っていない。突進を受け止める手段がない。
「ケンさん、下がってください! 先に当てて、向きを変えさせます!」
俺は剣を右肩へ引いた。一瞬、止める。噛み合う感触。刀身に水色が走る。
《スラント》。
斜めの一撃が、白いイノシシの横腹に入った。浅い。剛毛の上を刃が滑る、嫌な手応えがあった。HPは2割も減っていない。
それでも、白い猪の足が止まった。その体がよろけた一瞬に、ケンが背中側へ回り込んでいた。
「スイッチ!」
ケンの短剣が光った。低い姿勢から、剛毛の薄い脇腹へ、突き上げるように刺さる。《ロウ・ニック》—しゃがんだ姿勢から相手の下半身を浅く斬る初期技だ。刃先が短く、寄る前に蹴られやすい。
白い猪が、甲高い声を上げてケンのほうを振り向いた。その首筋が、がら空きになる。
俺は、もう一度剣を引いていた。
《ホリゾンタル》。
水平の光が首を払い、白い猪は、ガラスが割れるような音を立てて、光の粒になって散った。
2人とも、しばらく肩で息をしていた。
「……背中、硬すぎないですか」
「硬え。俺の短剣、背中に当たってたら弾かれてたな」
「腹と首は、けっこう通りましたね」
「通った。お前が横腹に当てたとき、白い毛が倒れて、下の皮が見えたんだよ。そこに刺した」
ケンは短剣を鞘に戻すと、しゃがみ込んで、白い猪が消えた場所の地面を見た。
「何かあります?」
「いや。足跡が、すげえ深い。重いんだな、あいつ」
ケンは冊子を開いて、今見たことを書き込んだ。
《Day14 東の街道・入口から約30分 ブリッスルボア 白い剛毛、角大きい。こちらから攻撃しなくても向かってくる。背は刃が滑る、腹と首は通る。地面を掻くのは2回(Ken・Kai 自分で戦った)》
書き終えたケンが立ち上がったとき、俺は道の先を見て、息を呑んだ。
白いものが、いくつも立っていた。
道の真ん中に3頭。その向こう、草むらの際に2頭。さらに遠く、丘の麓で道が曲がるあたりに、まだ何頭か。全部、同じ白い背中だった。
「……ケンさん」
「見えてる。10頭はいるな」
「そうじゃなくて。フレンジーボア、道の外にいますよね」
ケンが、道の両脇の草原に目をやった。青い背中が、ぽつぽつと散らばって、のんびり地面を掘っている。1頭も、道の上にはいない。
「白いのだけが、道の上にいるんです。草原のほうが、どう考えても餌ありそうなのに」
「……本当だ」
ケンは、しばらく道と草原を見比べていた。
「行商人、並んでるって言ってたよな」
「言ってました。誰かに呼ばれて集まってきたみたいだって」
「呼ばれて、か——」
そのとき、風が向きを変えた。
東から、かすかな音が届いた。
ごうん、と、低い音だった。遠くで、何か大きな金属を叩いたような音。一度鳴って、少し間を置いて、もう一度。
道の上の白いイノシシたちが、一斉に顔を上げた。
全部が、同じ方向を向いていた。東だった。
草原のフレンジーボアは、顔すら上げていなかった。
音は、3回鳴って止んだ。白い猪たちは、しばらく東を向いたまま動かなかった。それから1頭、また1頭と、道の上を東へ向かって、ゆっくり歩き出した。
「……鐘、ですかね。今の」
「鐘だな。寺の鐘みたいな、でかいやつ」
「寺の鐘って、SAOにあるんですか」
「あるわけねえだろ。例えだよ、例え」
ケンは笑わずにそう言って、東の空をじっと見ていた。
「でも、あれで白いのが一斉に顔上げたのは、見間違いじゃねえよな」
「見間違いじゃないです。全部、東を向いてました」
俺は、道の先の丘を目で追った。
一番高い丘の上に、細い影が立っていた。木ではない。石を積み上げたような、塔の形をした影だった。遠すぎて、細かいところまでは見えない。
「ケンさん、あそこ」
「……見えてる」
ケンは影と太陽の位置を、交互に見た。
「そうだな……今からあそこまで行ったら、戻りは日没ぎりぎりだ。しかも途中に、白いのが10頭はいる。2人じゃ、さっきのを10回やることになる」
「さっきの、1回でHP2割持ってかれましたもんね。さすがに止めときましょう」
「ああ、1回ならまだいい。途中で2頭同時に来たら終わりだ」
また、東から、ごうん、と鳴った。
白い猪たちが、一斉に顔を上げる。
「……今日は、戻りましょう。明日、6人で来ます」
「だな」
ケンは冊子の一番下に、1行書き足した。
《東の丘の上に、塔らしき影。鐘のような音が周期的に鳴る。鳴るたびに、ブリッスルボアが東を向く。フレンジーボアは反応しない(Ken・Kai 自分で見て聞いた/音の出どころは未確認)》
帰り道は、行きよりも足が速かった。
「ケンさん、あの鐘、誰が鳴らしてると思います?」
「NPCかもしれねえし、仕掛けかもしれねえ。人が鳴らしてるにしちゃ、間隔が妙に揃いすぎてる気がする」
「揃ってました?」
「だいたいな。数えてたわけじゃねえけど。次は、ちゃんと数える」
「数えたら、何かわかるんですか」
「わかんねえ。でも、揃ってたら仕掛けっぽいし、揃ってなかったら誰かいる。どっちかわかるだけでも、あの塔に行くときの準備が変わるだろ」
俺は歩きながら、行商人の言葉を思い出していた。
「行商人は、道が白イノシシで埋まってるって言ってましたよね。だから通れないって」
「言ってたな」
「でも、埋まってるっていうより……あいつら、東に向かってたんですよね。鐘のほうに。道の上を」
ケンが、ちらっとこっちを見た。
「つまり道を、通ってたってことか」
「たぶん。だから道の上にだけいる。道が、鐘のほうに続いてるから」
「……てことは、猪を何頭倒しても、鐘が鳴ってる限り、次から次へ道に集まってくる」
「かもしれないです」
「で、鐘を止めれば、道に集まる理由がなくなる」
「それも、かもしれないです」
ケンは、しばらく黙って歩いていた。
「かもしれない、が2つか」
「全部、確かめてないので」
「まあそれはそうだな。記録するなら、仮説だ。仮説って書いとく」
ケンは歩きながら冊子を開いて、「仮説」の2文字を大きく書き込んだ。
「ついでに聞くけど、なんで白いのだけなんだろうな。フレンジーボアは鐘に反応しなかった」
「……種類が違うから、ですかね。白いのだけ、鐘に呼ばれるように作られてる、とか」
「クエストのために、わざわざ用意されたイノシシってことか」
「クエストの名前がついてるくらいですから」
「なるほどな。……じゃあ、フィールドにいる普通の敵とは、ちょっと違うかもしれねえ。倒したら終わり、じゃないかもな」
東の門が見えてきたころ、俺たちはもう、明日の段取りを話していた。
6人で行く。ソラさんの大盾が先頭。突進はソラさんとダイチが盾で受けて、脇腹と首を、俺とナナとコタで狙う。ケンは後ろで鐘の間隔を数える。塔に着いたら、まず鐘がどこで鳴っているのか確かめる。
「ナナの剣、明日は白いのが相手になりますね」
俺が言うと、ケンは少し考えてから答えた。
「リトルネペントより、的はでかい。首も腹も、狙う場所がはっきりしてる。……狙いやすい相手かもしれねえぞ、あいつにとっては」
「突進は速いですけど」
「そこは盾2枚でなんとかする。……ダイチが、たぶん文句言いながら前に出る」
門をくぐると、酒場の脇で、あの荷馬車の馬が顔を上げた。
行商人NPCは、まだ荷台の陰に座っていた。帳面を膝に広げて、同じページを見ている。
「どうだったかね、東の道は」
「まだ、通れません」
俺は答えた。
「でも、イノシシがなんで道にいるのかは、少しわかった気がします。明日、もう一回行ってきます」
行商人は、帳面から顔を上げて、しばらく俺を見ていた。
「……そうかい。気をつけてな」
それだけ言って、また帳面に目を落とした。
夕暮れの酒場に入ると、窪地から戻ってきた4人が、もう奥のテーブルに座っていた。ナナが、俺たちに気づいて手を挙げる。その手が、ほんの少しだけ、ぎこちなかった。
ケンが冊子をテーブルに置いて、椅子を引いた。
「東の話、するぞ。悪い話と、変な話がある」