キヴォトスの八尺様   作:瑠璃色ゲンソウ

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第弐話 故郷の味

太陽も、まだ昇らぬ頃。

 

ミレニアムの一角にあるホテルで、ヤヒロは目を覚ました。

枕元へ手を伸ばし、端末を手繰り寄せる。

灯った青い光が、少し眠たげな表情を浮かび上がらせた。

 

いつもより、二時間ほど早い。

 

少し目を細めて時刻を確かめ、身体を起こした。

布の擦れる音が、静かな部屋に響く。

不思議と、二度寝をする気にはなれなかった。

 

少し長めに取っていたミレニアム滞在も、今日で終わり。

部屋の隅には、昨夜のうちにまとめた荷物が置いてある。

次に向かう場所だけが、まだ決まっていない。

 

「さて……次は、どちらへ行きましょうか」

 

ベッドの縁に腰掛け、窓の外へ目を向ける。

建物の間に、まだ街灯の光が残っていた。

 

まだ訪れたことのない学園もある。

通りがかりに見つけて、寄らずにいた店もある。

どこへでも行ける。

 

思いを巡らせているうちに、ふと、蕎麦が食べたくなった。

 

ふるさとの、馴染みの店。

最後にあの暖簾をくぐったのは、いつだっただろうか。

 

「……久しぶりに、帰りましょう」

 

百鬼夜行は、遠い。

そうと決まれば、寝てもいられない。

 

立ち上がった。

 

白い衣に袖を通し、長い黒髪を整える。

端末を鞄へしまい、まとめておいた荷物を手に取った。

 

静かに扉を開ける。

誰もいない廊下に、足音が続いた。

 

ロビーにも、人の姿はなかった。

受付では、端末の画面が淡く光り、静かに客を待っている。

 

チェックインの時と同じように、画面の案内に従って手続きを済ませる。

小さな電子音とともに、チェックアウト完了の文字。

 

荷物を持ち直し、出口へ向かう。

 

自動扉が開く。

外から吹き込んだ冷たい風が、黒髪の先を揺らした。

 

駐車場へ回り、大きなバイクの荷台へ鞄を載せる。

ベルトを締め、引いて緩みがないことを確かめてから、車体に跨がった。

 

静かな、朝。

遠くの空がようやく白み始め、夜に沈んでいた建物の輪郭が浮かび始める頃。

 

キーを回し、通電。

光るスイッチを切り替え、EVモードで始動。

そのまま、ゆっくりと走り出した。

遠雷は響かず、静寂は破られず、風を切るかすかな音が遠ざかっていった。

 

   *

 

ホテルを出て、一時間あまり。

朝日が街を照らし、通りはもう動き出していた。

幹線道路を行き交う車も、出発した頃より増えている。

 

心地よい風の中を走りながら、ふと、気づく。

 

「そういえば、朝は何を食べましょう」

 

空腹だった。

 

道沿いには、朝から明かりを灯している店が並んでいた。

駐車場へ入っていく車を横目に通り過ぎると、その先にも看板が見えてくる。

 

その中で、橙と焦げ茶の看板が目に留まった。

見覚えのあるロゴだった。

この看板を見かけるのも、ミレニアムの中だけだ。

その下には、二十四時間営業の文字が添えられている。

 

「……あそこのルートビア、また飲みたいですね」

 

看板の手前で速度を落とし、駐車場へ入る。

白線の内側に車体を収め、バイクを降りた。

 

扉を開けた途端、焼けた生地の甘い匂いが鼻をくすぐった。

窓際では、朝食を前にした客が二人、何か話している。

食器の触れる音に混じって、カウンターから声がかかった。

 

「いらっしゃいませ」

 

メニューには、格子模様のワッフルが載った皿の写真があった。

脇には肉や野菜、小さな器まで並んでいる。

指が、その写真の下で止まった。

 

「このモーニングプレートと、ベーコンチーズマッシュサンドを一つ。飲み物は、ルートビアでお願いします」

 

会計を済ませ、窓に近い席へ向かう。

椅子を少し後ろへ引き、長い脚の収まりを確かめて腰を下ろした。

窓の向こうには、停めたばかりの大きなバイクが見えている。

 

やがて、卓上に朝食が揃った。

 

青い皿に、きつね色のワッフル。

焼き目のついた肉の隣には、緑の葉と赤いトマトが盛られている。

ソースをかけたマッシュポテトに、小さな器のヨーグルト。

隣の皿には、こんがり焼けたパンでベーコンとチーズ、マッシュポテトを挟んだサンド。

その傍らで、冷たいルートビアの泡が、ゆっくりと落ち着いていった。

 

「いただきます」

 

ナイフを入れると、ワッフルの表面がさくりと割れた。

切り分けた一片を口へ運ぶ。

唇の端に残った小さな欠片を指で取り、もう一度、ナイフを入れる。

 

甘い生地のあとに、肉の塩気。

ポテトに絡めたソースを味わってから、ルートビアに手を伸ばす。

独特の香りが鼻へ抜け、続いて爽やかな刺激が喉を通った。

 

ひと口飲んで、目元が緩む。

 

窓の外を、車が流れていく。

皿の上では、格子模様がひと切れずつ減っていった。

 

ナイフとフォークを置き、今度はサンドを両手で持ち上げる。

かぶりつくと、焼けたパンの縁が軽い音を立てた。

ベーコンとチーズの塩気を、なめらかなポテトが包む。

こぼれかけた具をパンの間へ押し戻し、もうひと口。

 

最後にヨーグルトをすくい、スプーンを置く。

空になった二枚の皿を見下ろす。

まだ、少し足りない。

 

椅子を引いて立ち上がり、カウンターへ向かう。

 

「すみません。ワッフルのモーニングプレート、もう一皿いただけますか」

 

   *

 

店を出る頃には、駐車場の車が何台か入れ替わっていた。

バイクに跨がり、幹線道路を流れる車列が途切れるのを待つ。

朝の風は、もう少し温かくなっていた。

 

ゆっくりと道路へ出て、速度を上げる。

橙と焦げ茶の看板が、ミラーの中で小さくなった。

 

ミレニアムを抜けても、道はまだ遠くへ続いていた。

建物が途切れ、空が広がり、また街並みが道の両側を埋める。

ひとつの街を通り過ぎても、次に見えてくる屋根は、まだ見知らぬものだった。

 

途中でバイクを停め、水を飲んだ。

長い脚を伸ばし、ひと息ついてから、また走る。

 

朝には斜めから差していた陽が、今は白い袖の上に落ちている。

いくつもの分岐を過ぎた先で、ようやく百鬼夜行へ入る道が近づいた。

案内標識を確かめ、速度を緩める。

 

矢印に従って、道を折れる。

 

見覚えのある屋根が、ひとつ、またひとつ。

軒先の暖簾が風に揺れ、その下を歩く人々の声が聞こえてくる。

速度を落とした。

 

角の店も、その先の細い路地も、覚えていた。

 

「……あのお店、開いているといいのですが」

 

百鬼夜行の街へ、大きなバイクが入っていった。

 

大通りを離れ、見覚えのある路地へ入る。

角を二つ曲がった先で、藍色の暖簾が揺れていた。

 

バイクを店脇の駐車場へ入れ、エンジンを切る。

しばらく低い振動に包まれていた耳へ、店の中の話し声が届いた。

 

暖簾を片手で持ち上げ、身を屈めて戸を引く。

出汁の香りが、鼻先をかすめた。

 

「おや、ヤヒロちゃん。久しぶりだねえ」

 

奥から顔を出したのは、狐の獣人だった。

頬の白い毛をふくらませて笑い、手にした布巾でカウンターをひと拭きする。

 

「ご無沙汰しております」

「また、どこか行ってたのかい」

「ええ。ミレニアムまで、少し」

 

店主の手が止まる。

 

「少しって距離じゃないだろう。いつ戻ったんだい」

「つい先ほど。こちらのお蕎麦が食べたくなりまして」

「それで、まっすぐうちへ?」

 

微笑んで頷くと、店主は目尻を下げた。

 

「そうかい。さ、座って。いつものでいいね」

「はい。お願いします」

 

空いた席へ鞄を置く。

白い袖を引き寄せ、椅子に腰を下ろすと、卓の下で長い脚を少し斜めにした。

置かれた湯呑みに手を添える。指先に、じわりと熱が移った。

 

隣の卓で、話し声が途切れた。

制服姿の生徒が二人。片方は品書きを持ったまま、もう片方は湯呑みを口元に寄せたまま、こちらを見ている。

目が合うと、品書きの向こうへ顔が引っ込んだ。

 

「……すみません。じろじろ見てしまって」

 

もう一人が湯呑みを置き、頭を下げる。

 

「いえ。どうかなさいましたか」

「その、背がお高いなと思って。もしかして、二メートルくらい、あったりします?」

「たしか、この前測ったときは二百十センチだったかと」

 

品書きの上から、もう一度、目が覗いた。

 

「二百十……」

 

小さく繰り返した声に頷いて、湯呑みを持ち上げる。

隣では、二人が顔を見合わせていた。

 

「はい、お待ちどう」

 

声とともに、盆が置かれる。

せいろが三枚。蕎麦猪口と薬味の小皿が、その脇に収まっていた。

 

「足りなきゃ言ってね」

「ありがとうございます」

 

店主はそのまま、隣の卓へ向いた。

 

「そちらは決まったかい」

「あ、はい。ええと……」

 

慌てて品書きを開き直す音を聞きながら、箸を取る。

 

「いただきます」

 

せいろの上で、細い蕎麦が淡く光っていた。

ひと箸つまみ、まずはそのまま口へ運ぶ。

噛むほどに、穀物の香りが鼻へ抜ける。

 

次は、つゆへ少し。

持ち上げた蕎麦の先から、雫がひとつ落ちた。

 

啜る音。

箸を戻す、わずかな間。

 

ゆっくりと息をついて、もうひと口。

朝、遠いホテルの一室で思い浮かべた味が、ここにあった。

 

「どうだい」

 

隣の注文を取った店主が、盆を小脇に抱えて足を止める。

箸を置き、口の中のものを飲み込んでから顔を上げた。

 

「……帰ってきて、よかったです」

「大げさだねえ」

 

そう言いながらも、店主はしばらく笑っていた。

 

   *

 

窓から差す光が、卓の縁をゆっくりと動いていく。

隣の二人は食事を終え、入れ替わりに別の客が暖簾をくぐった。

その間に、空いたせいろが重なり、追加の二枚も同じ山へ収まった。

 

最後に残ったつゆへ、蕎麦湯を注ぐ。

白く濁った湯が混じり、やわらかな湯気が立った。

両手で包むように持ち、少しずつ飲む。

 

もう、箸を取る手は動かなかった。

 

「ごちそうさまでした」

 

空の器を盆へ戻し、手を合わせる。

店主は重なったせいろを見て、満足そうに頷いた。

 

会計を済ませ、鞄を持って立ち上がる。

 

「しばらくこっちにいるのかい」

「そのつもりです。また伺いますね」

「はいよ。待ってるよ」

 

暖簾を持ち上げ、頭を下げて外へ出る。

長い黒髪が、白い背を滑った。

 

戸を閉めると、出汁の香りが、ほんの少しだけ外までついてきた。

 




前回の投稿、400人以上の方々に読んでいただけて、しかも9件もお気に入りを頂けて嬉しかったです。

私の妄想と設定ノートのなかにしか居なかったヤヒロの物語を、今後も投稿していけたらなと。


追伸
私は原稿を書いたらAIに編集さんなってもらって、校正校閲してもらってます。
だいたいこの話で5往復くらい、してるかなと。
自分ではしっかりと脳内の光景を伝わるように出力してるつもりでも、伝わりにくい表現の仕方とか、自分が決めた設定からズレてたりなどがたくさん出てきてます。
ご自分の力だけで書いて投稿されてる方々は本当にすごいなと思います。
私は今後もAI編集さんの力を借りつつ、脳内映像を少しずつ皆さんにお届けできるよう頑張ります。
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