山海経自治区へ入った頃には、昼をとうに過ぎていた。
陽はすでに西へ傾き始め、軒の影が通りへ細く伸びている。
昼時の混雑も引いたのか、道を行き交う人の姿はまばらだった。
速度を落とし、通りの看板を眺めながら進む。
通りに並ぶ店の戸口から、油と香辛料の匂いが流れてくる。
積み上げられた蒸籠の隙間からは、白い湯気が立ち昇っていた。
普段なら、一軒ずつ品書きを眺めていたかもしれない。
今日は、行き先を決めている。
大通りから一本入った。
見覚えのある角を曲がると、大きな看板が目に入る。
『玄武商会』
店の裏手へ回り、以前教えられた荷下ろし用の場所へバイクを入れる。
大きな車体を壁際へ寄せ、エンジンを切った。
低い振動が止まる。
代わりに、鍋を振る音が店の奥から聞こえてきた。
車体を降り、荷台の固定具を確かめる。
長い髪を背へ払い、店の戸口へ向かった。
戸を開け、鴨居をくぐるように少し身を屈める。
熱を含んだ空気と香辛料の香りが流れてきた。
店内に残っている客は、奥の卓の一組だけ。
空いた卓では、店員の生徒が食器を片付けている。
「いらっしゃい。席は自由に……って、あれ、ヤヒロじゃない。久しぶり」
厨房から顔を覗かせたルミは、一度奥へ引っ込むと、手を拭いながら改めて出てきた。
「ご無沙汰しております、ルミさん」
「本当に久しぶりだね。元気にしてた?」
「はい。おかげさまで」
ルミは店内を見回し、奥の窓際にある広い卓を示した。
「どこでも空いてるけど、窓際の席はどうかな。あそこなら広いし、荷物も置けるからさ」
「そうします。ありがとうございます」
卓の脇へ鞄を置く。
丸椅子を少し後ろへ引き、長い脚を斜めにして腰を下ろした。
置かれていた品書きを開く。
炒飯。
麺料理。
蒸し物。
頁をめくったところで、赤い文字が目に留まった。
八角入り麻辣八宝菜定食。
「お決まり?」
「こちらの、八角入り麻辣八宝菜の定食をお願いします。特盛で」
指先で品書きを示す。
「またそれにしたんだ。辛さは、前と同じでいい?」
「はい、気に入りまして。辛さもそれでお願いします」
「オッケー。特盛ね。足りなかったら言って」
ルミは品書きを受け取り、厨房へ戻っていった。
ほどなく、奥の卓にいた客も会計を済ませ、店を出ていった。
店内に残った客は、自分一人。
やがて、強い火の音が上がる。
中華鍋へ油が回り、何かが弾けた。
続いて、鍋とお玉の触れ合う軽い音。
厨房から、空腹を刺激する香りが漂ってくる。
八角、花椒、豆板醤。
幾つもの香りが折り重なり、厨房から店内へ広がっていく。
やがて賑やかだった音が止まる。
しばらくして、ルミが盆を運んできた。
「はい、お待たせ。普通の特盛じゃ足りないでしょ。ちょっと多めにしておいたから」
卓の中央へ、大きな皿が置かれる。
艶のある赤褐色の餡をまとった豚肉、海老、烏賊、うずらの卵が、皿の縁近くまで盛られている。
そこに青梗菜の緑と筍の淡い色が混じり、その間から木耳と椎茸が覗いていた。
隣には、湯気を上げる山盛りの飯。
小さな椀のスープと、漬物が添えられていた。
「熱いから、気をつけてね」
「ありがとうございます」
両手を合わせる。
「いただきます」
箸を取り、まず青梗菜と豚肉を持ち上げた。
とろみのある餡が、皿へ細く落ちる。
湯気とともに立つ八角の香りを吸い込み、口へ運んだ。
初めに、濃い旨味とわずかな甘み。
その後から唐辛子の熱が広がり、花椒の痺れが舌の上に残った。
火を通した青梗菜には歯触りがあり、柔らかな豚肉との違いが心地よい。
続けて、飯をひと口。
辛さが和らぐ。
今度は海老と木耳をすくい、餡を絡めて口へ運ぶ。
弾む海老の身と、こりこりとした木耳。
箸が止まらない。
ルミは厨房の前で腕を組み、その様子を眺めていた。
「どう? って、その食べっぷりなら聞くまでもないかな」
口の中のものを飲み込む。
「はい。とても、おいしいです」
「よかった」
目尻を下げ、厨房へ戻っていく。
皿の上では、八つの具材が少しずつ減っていった。
八角の香り。
唐辛子の熱。
花椒の痺れ。
飯を挟むたび、次のひと口が欲しくなる。
やがて、茶碗が空になった。
顔を上げるより先に、ルミが手を差し出す。
「おかわりでしょ?」
「はい。お願いします」
空の茶碗を渡す。
「相変わらず、いい食べっぷりだねぇ」
厨房へ戻り、最初と変わらない量の飯を盛ってくる。
「そういえば、今回は何かあった?」
茶碗を受け取った。
「何か、ですか」
「ほら、前に話を聞いたときも、その前も、ずいぶん賑やかだったでしょ」
少し考える。
「誘拐されていたお嬢さんをお助けしたり、アビドスで戦車を一両止めたり、ゲヘナで連れ去られていた給食部の方をお助けしたりしました」
ルミは、わずかに眉を上げた。
「……うん。相変わらずだねぇ。他には?」
「百鬼夜行へ戻ってからは、子どもたちと鬼ごっこをしました」
ルミの肩から、少し力が抜けた。
「ヤヒロ、子ども好きだもんね。そっちは平和そうでよかったよ」
「はい。『八尺様だー!』と言われましたので、『ぽぽぽ』と声を出しながら追いかけてみました」
しばらく、返事がなかった。
「……それ、普通の鬼ごっこ?」
「皆さん、楽しんでおられました」
ルミは口元を押さえ、堪えきれずに笑った。
「そっか」
「鬼ごっこの途中で、ツクヨさんとも知り合いました」
「ツクヨさん?」
「忍術研究部の一年生です。背の高い、真面目な方です。鬼ごっこの後は、二人でお団子をいただきました」
「へえ。新しい友達もできたんだ」
「はい。またご一緒できればと思っています」
二杯目の飯へ箸を伸ばす。
餡の絡んだ筍をかじる。
歯の間で小さく音を立てた。
「それで、次はどこへ?」
「D.U.を経由して、ミレニアムへ向かう予定です」
「またずいぶん遠くまで行くね」
「バイクと装備を、そろそろ点検していただこうかと」
「前に話してた、エンジニア部の子?」
「はい。ウタハさんです」
「何か、お土産に向くものはありますか」
ルミは少し考え、店先の棚へ顔を向けた。
「それなら、ちょうどいいものがあるよ」
「何でしょう」
「今朝焼いた月餅。日持ちもするし、持っていきやすいから」
棚には、焼き色や模様の異なる月餅が、浅い盆に種類ごとに並べられていた。
その脇には、持ち帰り用の箱と包み布、紐が重ねて置かれている。
「では、一箱分いただけますか」
「それだけで足りる? ヤヒロも食べるでしょ?」
ウタハの顔を思い浮かべる。
その後ろに、エンジニア部の部室が浮かんだ。
「……少し、多めにお願いしてもよろしいでしょうか」
ルミは、もう一度笑った。
「はいはい。ヤヒロの言う『少し』ね」
*
大皿から、最後の椎茸を取る。
飯と一緒に口へ運び、ゆっくりと飲み込んだ。
皿には、赤褐色の餡がわずかに残っている。
おかわりした茶碗も、もう空だった。
箸を置き、両手を合わせる。
「ごちそうさまでした」
「お粗末さま。きれいに食べたね」
ルミは空になった器を盆へ重ねていく。
「足りた?」
「はい。十分いただきました」
「ならよし」
盆を持ち上げ、厨房へ戻る。
水音が響く間に、鞄を持ち直した。
席を立ち、会計台へ向かう。
料理の代金を支払ったところで、ルミが箱を二つ重ねて持ってきた。
「胡桃と黒胡麻、それから蓮の実を多めにしておいたよ。他にもいろいろ入ってるから」
二つの箱はそれぞれ布で包まれ、上から紐が十字に掛けられている。
両手で受け取った。
「ありがとうございます。皆さんといただきます」
「ヤヒロが途中で食べてもいいんだからね」
「一つだけでは、済まなくなりそうです」
二つの包みを鞄へ収めようとしたとき、戸口の鈴が鳴った。
振り返る。
開いた戸の向こうに、小柄な姿が立っていた。
黒い髪。
細い肩へ掛かる、濃い色の上着。
少女は店内へ一歩入り、こちらを見上げた。
「おや。久しいのう、ヤヒロ」
ヤヒロは包みを手にしたまま、軽く頭を下げる。
「ご無沙汰しております、キサキさん」
「息災であったか?」
「はい。キサキさんも、お変わりないようで」
「キサキ。こんな時間に珍しいね」
ルミが会計台へ肘をついた。
「何、昼餉を取り損ねただけじゃ。妾とて、腹は空くのでな」
「だったら、座って待ってて。すぐ作るよ」
キサキは頷き、改めてヤヒロへ目を向けた。
「其方は、もう発つところであったか」
「はい。まずはD.U.へ向かい、そこで一泊してからミレニアムへ行く予定です」
「ふむ」
少し考えるように目を細める。
「急ぎでないのなら、少しくらい旅の話でも聞かせてくれぬか」
ヤヒロは窓の外へ目を向けた。
陽はまだ高い。
窓の外では、傾き始めた光が通りを照らしている。
「では、もう少しだけ」
二つの包みを鞄へ収め、先ほどまで座っていた卓へ戻る。
丸椅子を引き、再び腰を下ろす。
キサキも向かいの席へついた。
厨房で、再び火の音が上がった。
二人の間に、鍋とお玉の触れ合う音が続く。
やがてルミが、湯気を上げる料理と飯を運んできた。
「待たせたね」
「うむ」
キサキの前へ器を置く。
ルミは一度厨房へ戻り、今度は三つの湯呑みを載せた盆を持ってきた。
湯呑みを一つずつ卓へ並べ、茶を注ぐ。
白い湯気が、三人の間に立ち上った。
ルミも空いた丸椅子を引き、腰を下ろす。
「して、近頃はどうしておった?」
ヤヒロは湯呑みを手にしたまま、視線を落とす。
「そうですね……どこから、お話ししましょうか」
その隣で、ルミが口を開いた。
「戦車を止めた話と、『八尺様』って呼ばれて鬼ごっこをした話。どっちから聞きたい?」
キサキはしばらくルミを見た後、ヤヒロへ目を向けた。
「……では、鬼ごっこの方から聞こうかの」
昼時の賑わいが過ぎた店内に、三人の声が続いた。
窓から差す午後の光が、卓上の影を少しずつ伸ばしていった。
ヤヒロは色々なところを旅して回ってるので顔見知りもいるよなぁって考えてたらこの話が出来上がりました。
ちなみに作中に出てくる八角入り麻辣八宝菜は私自身は見たことがないのですが、きっと美味しいだろうなって思ってます。
食べれるお店とか存在するのだろうか……?
ここまで読んでくださりありがとうございました。
たくさんの方に読んでいただけて、たくさんのお気に入り、栞の登録もいただけて嬉しいです。
生徒紹介はこちら↓
生徒紹介『八十八夜ヤヒロ(ちゃつみ・ヤヒロ)』(第肆話時点)
https://syosetu.org/?mode=kappo_view&kid=345746&uid=525145
追伸
毎回投稿直後に微細なミスに気づくなぁと思ったりしてます