死んだら、それですべてが終わる。
少なくとも、彼はそう思っていた。
――あの日までは。
眠い
とにかく眠かった
パソコンのモニターを眺めながら、結城結人は小さく欠伸をした
「……五日目、か」
机の横に置いたコーヒーは、もう何杯目か分からない
システムエンジニアとして働き始めて数年
普段なら、ここまで無茶な働き方をすることはない
けれど今回は納期が厳しかった
大きなシステム改修の最終段階で、いくつもの不具合が重なった
誰か一人が悪いわけではない
仕様変更があり、設計を見直し、コードを書き直して、そのたびに別の場所へ影響が出る
そうしているうちに時間だけが過ぎていった
気づけば五日間、まともに眠っていない
椅子に座ったまま仮眠を取ることはあった
数十分だけ目を閉じることもあった
それでも、ちゃんと眠ったとは言えない
目は重い
肩は凝っている
腰も痛い
頭の奥には薄い霧がかかったような感覚がある
それでも
「……あと少し」
結人はキーボードを叩いた
画面に並んだコードを一つずつ確認していく
変数
関数
データベースへの接続
エラー処理
ログの出力
普段なら見落とさないような細かな部分まで、何度も確認する
五日も寝ていないせいで、自分の判断力が落ちていることくらいは分かっていた
だからこそ、最後まで慎重にやる
「……ここ」
処理の一部を修正する
もう一度実行
画面を見つめる
数秒後
表示された文字は、正常終了
「……よし」
もう一度確認する
問題ない
さらにもう一度確認する
やっぱり問題ない
結人はようやく背もたれに身体を預けた
「……終わった」
肺の奥から長いため息が出る
時計を見ると、朝になっていた
窓の外も少しずつ明るくなっている
五日間、ほとんど同じ景色しか見ていなかった
モニター
キーボード
机
コーヒー
そして、疲れ切った同僚たち
ようやく終わった
今日は三連休
家に帰ったら、死ぬほど寝よう
そう思ったところで、ふと別のことを思い出した
「……また、見ようかな」
『超かぐや姫!』
一ヶ月ほど前
動画サイトで音楽を聴いていた時、偶然流れてきた曲がきっかけだった
知らない曲だった
知らない名前だった
けれど、なぜか耳に残った
気になって調べてみると、その曲が使われている作品があることを知った
それが『超かぐや姫!』だった
そこからNetflixで映画を観た
最初は、本当に暇つぶしのつもりだった
仕事が忙しい時期だったし、一本くらい観て寝よう
それくらいの気持ちだった
なのに
気づけば何度も観ていた
物語そのものも好きだった
登場人物たちも好きだった
でも、一番心に残ったのはヤチヨの歌だった
特に『Remember』
初めて聴いた時から、妙に胸に残った
どうして好きなのかは、うまく説明できない
ただ、その歌を聴いていると、仕事でどれだけ疲れていても、もう少しだけ頑張ろうと思えた
何かを忘れたくないような
誰かとの時間を大切にしたいような
そんな、不思議な気持ちになる曲だった
「……今日で十七回目か」
自分でも笑ってしまう
さすがに観すぎだろうと思う
それでも、嫌いにはならなかった
むしろ観るたびに、少しだけ違うところが気になる
「何でこんなにハマってるんだろうな」
独り言をこぼす
答えは分からない
でも、好きなものに理由なんて必要ないのかもしれない
「帰ったら寝て……」
大きな欠伸が出る
「起きたら、また観よう」
そう決めて、結人は会社を出た
*
外へ出ると、朝の空気が肌に触れた
「……寒」
五日間、ほとんど室内にいたせいか、外の空気がやけに新鮮だった
駅へ向かって歩く
足取りは重い
当然だった
五日間まともに眠っていない
早く帰って寝たい
頭の中にあるのは、それだけだった
その途中
交差点の先で、人が倒れているのが見えた
「……ん?」
道端に男が一人、座り込んでいる
どうやら酔っ払いらしい
身体を起こそうとしているものの、うまく力が入らないようだった
周囲には何人か人がいる
けれど、誰も近づこうとはしない
一度視線を向けて
そのまま通り過ぎていく
結人も、一度はそのまま通り過ぎようとした
家に帰りたい
眠い
限界だ
今の自分が関わる必要なんてない
頭ではそう思った
数歩進む
けれど
「……はぁ」
足が止まった
結人は空を見上げる
「仕方ないな」
結局、踵を返した
「大丈夫ですか?」
「うぅ……」
「意識はあります?」
「……ある」
「立てます?」
「……むり」
「ですよね」
男の腕を肩に回す
思ったより重かった
五日間寝ていない身体には、それなりに堪える
「ちょっと失礼しますね」
「……すまねぇ」
「いいですよ」
男を支えながら歩き出す
「交番まで行きますから」
「……ありがてぇ」
「まあ、放っておくわけにもいかないんで」
そのまま交番まで連れていった
事情を説明し、警察官に引き渡す
「助かりました」
「いえ」
「あなたも気をつけて帰ってくださいね」
「はい」
交番を出たところで、結人は大きく欠伸をした
「……遠回りになったな」
いつもの道ではない
でも、後悔はなかった
むしろ、あのまま通り過ぎていたら、家に帰ってからも気になって眠れなかっただろう
「……俺、何やってんだろ」
苦笑しながらイヤホンを耳に入れる
スマートフォンを操作して、音楽を流す
『Remember』
ヤチヨの歌声が耳に届く
いつも聴いている曲
何度も聴いたはずなのに、今日は妙に心地よかった
結人は空を見上げた
朝の空は、思ったより綺麗だった
「……明日から三連休か」
少し考える
「寝る」
即答だった
それから
「起きたら……」
また考える
「今度は映画館に観に行こうかな~」
そう呟いたところで
視界が揺れた
「……あれ?」
身体に力が入らない
眠い
とにかく眠い
五日間の疲れが、一気に押し寄せてきたようだった
イヤホンから『Remember』が流れている
その歌声を聞きながら
結人はぼんやり空を見上げた
そして
意識が途切れた
*
――知らない
ここは、どこだ
真っ暗だった
何も見えない
何も聞こえない
身体もない
手もない
足もない
それなのに
自分が存在していることだけは分かる
不思議な感覚だった
眠っているようでもあり
どこか遠くから自分を眺めているようでもあった
そして
遠くから、何かが聞こえた
声
誰かの声
聞いたことがあるような
ないような
そんな声だった
――待っててね
「……?」
誰だ
何を待つんだ
答えは返ってこない
しばらくして、また声が聞こえた
――待っててね
その言葉だけが、妙に胸に残った
忘れたくない
そう思った
けれど
何を忘れたくないのかは、分からなかった
*
次に目を開けた時
そこには天井があった
「……?」
知らない天井
知らない部屋
知らない匂い
知らない声
何もかもが初めてだった
それなのに
なぜか怖くなかった
身体を動かそうとする
思うように動かない
視界の端に、小さな手が見えた
小さな足も見えた
「……あ」
声を出してみる
幼い声だった
自分でも驚いた
何が起きたのか分からない
自分が誰なのかも分からない
ただ
何かを忘れている
そんな感覚だけがあった
*
それから五年
結城結人としての記憶は、戻らなかった
いや
正確には、消えたわけではなかった
頭の奥に、何かが眠っている
それだけは、幼い湊にも分かっていた
思い出そうとすると、霧の向こうへ逃げていく
手を伸ばせば届きそうなのに、触れようとした瞬間に遠ざかる
だから、湊はいつしか考えることをやめた
自分には、自分の人生がある
それでいい
ただ、不思議なことは他にもあった
物覚えが異常に良かった
五歳の頃、初めて見た複雑な図形をそのまま描いた
六歳になる頃には、一度読んだ文章をほとんど覚えていた
テレビで見た料理番組の手順も
一度見ただけの折り紙の折り方も
初めて見た機械の内部構造も
見た瞬間に、頭の中へ残っていく
「湊くん、よく覚えてるね」
「そう?」
「普通はそんなに覚えてないよ」
「覚えてるだけじゃん」
本当に、それだけだと思っていた
けれど、周りは違った
少しずつ
天野湊という少年は、普通とは少し違う
そう認識されるようになった
*
湊は、分からないことが嫌いだった
正確には
分からないままにしておくことが嫌いだった
壊れた時計を見れば、どうして動かなくなったのか気になる
古いラジオを見れば、中に何が入っているのか気になる
パソコンを触れば、画面に表示されているものがどうやって出てくるのか気になる
だから調べる
調べて
試す
失敗したら、また調べる
そうやって知識を増やしていった
勉強も同じだった
教科書を読めば、一度で内容を覚える
問題の解き方も、一度理解すれば忘れない
けれど、湊はそれを理由に偉そうにすることはなかった
「ここ分かんないんだけど」
「どこ?」
「この問題」
「ここはさ――」
聞かれれば教える
「ありがとう!」
「いいよ」
それだけだった
自分ができるなら、できない人を手伝えばいい
湊にとっては、それが自然だった
それは前世の記憶を思い出したからではない
もっと深いところにある性格だけが、そのまま残っていたのだ
困っている人がいれば助ける
泣いている人がいれば気になる
頼まれれば断れない
そんな性格は、身体が変わっても消えなかった
*
小学校高学年になる頃には、湊の興味は機械やコンピューターへ向いていた
学校の授業でパソコンを触れば、その仕組みが気になった
家にある古い家電が壊れれば、勝手に分解して怒られた
「なんで壊れたのか見たかっただけ」
「だからって分解するな!」
「ごめん」
怒られながらも、湊は楽しかった
分からないものが、分かるようになる
動かなかったものが、もう一度動くようになる
その瞬間が好きだった
中学生になる頃には、電子工作にも手を出した
ハンダごてを使い、壊れた機器を修理する
最初は簡単なものだけだった
それが少しずつ複雑になっていく
回路を調べ
部品の役割を覚え
データの流れを理解する
分からないものがあれば、本を読む
インターネットで調べる
実際に試す
失敗する
また調べる
そんな繰り返しだった
気づけば、湊の知識は同年代とは比べられないほど広がっていた
それでも本人は、特別なことをしているつもりはなかった
「知らないから調べてるだけだし」
それが湊の答えだった
*
そして、中学三年の頃
湊は自分の進路について考えるようになった
東京へ行く
それは少し前から決まっていた
高校から、一人暮らしを始める
両親は仕事が忙しかった
長期の出張も多く、家を空けることも珍しくない
生活に困っているわけではない
必要なものを用意することもできる
だからこそ、湊は自分で生活してみたいと思った
「俺、自分のことくらい自分でできるようになりたい」
そう話した時、両親は少し驚いていた
けれど、最後には湊の意思を尊重してくれた
生活費は仕送りしてもらう
必要なものも用意してもらう
そのうえで、毎日の生活は自分で回す
それが湊の選んだ道だった
そして、もう一つ
高校を選ぶ時に重視したものがある
設備だった
情報処理室
電子工作ができる実習室
理科実験室
コンピューターを使った授業
生徒が制作や研究に使える環境
そういうものが揃っている学校を探した
そして見つけたのが
都立武蔵川高校だった
「ここなら、色々できそうだな」
学校案内を見ながら、湊はそう呟いた
偏差値でも
学校の知名度でもない
自分が知らないものに触れられる場所
それが一番の理由だった
*
高校一年
春
湊は東京へやってきた
引っ越してきたばかりの部屋には、まだ段ボールがいくつも残っている
「……疲れた」
荷物を片付けながら、湊は窓の外を見た
東京
知らない街
新しい学校
新しい生活
少しだけ不安だった
でも、それ以上に楽しみだった
自分で選んだ生活が始まる
それだけで、胸が少しだけ弾んだ
「……腹減った」
時計を見る
夕方だった
引っ越しの片付けで何も食べていない
適当に何か食べよう
そう思って外へ出た
東京の街を歩く
まだ道もよく分からない
スマートフォンの地図を見ながら歩いていると、少し先に雰囲気のいいカフェがあった
大きな窓
木目調の外観
店内から柔らかな照明が見える
「ここでいいか」
湊は扉を開けた
「いらっしゃいませ」
その声を聞いた瞬間
湊は、なぜか足を止めた
カウンターの向こうに女の子がいた
同い年くらい
長い髪
落ち着いた雰囲気
見覚えがある
たぶん、学校で見たことがある
けれど、話したことはない
「……?」
女の子がこちらを見る
「お一人様ですか?」
「あ、はい」
「こちらのお席へどうぞ」
案内される
湊は席に座った
メニューを開く
けれど
なぜか、さっきの女の子が気になった
別に、好みのタイプというわけではない
ただ
妙に引っかかる
その理由が分からない
「ご注文、お決まりですか?」
女の子が戻ってくる
「あ、えっと……」
メニューを見る
「カフェラテください」
「かしこまりました」
女の子は軽く頭を下げた
その横顔を見た瞬間
胸の奥が、ほんの少しだけ痛んだ
「……?」
なんだ
今の
知らない人だ
初対面
それなのに
知っているような気がする
湊は首を傾げた
*
カフェラテが運ばれてくる
「お待たせしました」
「ありがとうございます」
一口飲む
「……うま」
思わず声が漏れた
それを聞いた女の子が、少しだけ笑った
「よかったです」
「……ここ、結構来る人多いんですか?」
「そうですね。時間帯によっては混みます」
「へぇ」
「学校帰りの方も多いですよ」
「なるほど」
そこで
湊はふと気づいた
「……あれ?」
「はい?」
「もしかして高校生?」
「そうですけど……」
「俺も高校生」
「そうなんですね」
女の子が少しだけ目を細める
「どこの高校ですか?」
「都立武蔵川高校」
「……」
女の子が一瞬黙った
「同じです」
「……え?」
「私も、都立武蔵川高校です」
「マジ?」
「はい」
湊は思わず笑った
「じゃあ、学校で会うかもな」
「そうですね」
「名前、聞いてもいい?」
「……酒寄です」
「酒寄?」
「酒寄彩葉です」
「彩葉……」
その名前を口にした瞬間
また胸の奥がざわついた
さっきよりも強い
まるで、遠いところから何かが呼びかけているような感覚だった
「……どうしました?」
「いや」
湊は首を振った
「なんでもない」
「そうですか?」
「うん」
彩葉は少し不思議そうな顔をした
それから
「じゃあ、学校で」
「ああ」
「ありがとうございました」
「こっちこそ」
湊は席を立った
会計を済ませ、店を出る
*
少し歩いてから
湊は振り返った
カフェの窓
さっきの女の子が見える
彩葉
酒寄彩葉
同じ高校
同じ学年
そして
なぜか
初対面のはずなのに、ずっと前から知っているような気がする
「……なんだろ」
胸の奥が、妙にざわつく
理由は分からない
思い出せない
何を知っているのかも
どこで会ったのかも
全部分からない
ただ
ほんの一瞬だけ
懐かしかった
まるで
ずっと昔から、この人を知っていたような
「……変なの」
湊は苦笑する
そして、また歩き出した
*
翌朝
都立武蔵川高校の教室
まだホームルーム前で、クラスメイトたちが少しずつ集まっている
湊は自分の席に座りながら、昨日のことを考えていた
酒寄彩葉
同じ高校だった
それだけなら、別に珍しくない
東京には同じ学校の人間なんていくらでもいる
でも
なぜか気になる
あの声
あの表情
あの名前
どれも知らないはずなのに、妙に記憶に引っかかっている
「……なんなんだろうな」
小さく呟いた、その時
教室の扉が開いた
「おはようございます」
昨日聞いた声
「……」
湊が振り返る
そこにいたのは
昨日のカフェ店員
酒寄彩葉だった
「あ」
彩葉も湊に気づいた
「……昨日の」
「やっぱり同じクラスだったんだ」
「そうみたいですね」
「びっくりした」
「私もです」
二人で顔を見合わせる
まだ
友達ですらない
昨日、少し話しただけ
それなのに
「おはよう、彩葉」
「おはよう、湊」
自然に、そんな言葉が出た
その挨拶は
まるで
ずっと前から続いていたもののように
妙に自然だった
湊はまだ知らない
自分が、なぜ彼女に懐かしさを感じるのか
そして
あの日、イヤホンから流れていた『Remember』という歌が
これから何度も、自分の人生と記憶をつなぐことになるなんて
もちろん
この時の湊は、そんなことを知るはずもなかった
ただ
新しい学校で出会った一人の少女を見ながら
胸の奥に残った、あの不思議な感覚だけを抱えていた
――また、ここに来た
そんな言葉の意味すら知らないまま
投稿して一度読み返して観たところ内容や伏線が薄いな、と思いまして修正版を再度投稿しています。
読みずらいと思った方には申し訳ありません。