毎日顔を合わせて、一緒に帰って、一緒に飯を食う
そんな何気ない日々の中で、ふと気づく
「大丈夫」
そう言って笑う彼女が、本当に大丈夫なのか
気になってしまった
これは、そんな湊のお節介が始まる夏の話
翌朝
「おはよう、彩葉」
「おはよう、湊」
朝、部屋を出たところで二人は顔を合わせた
「朝飯、ちゃんと食べた?」
「朝からそれ?」
「大事なことだから」
「食べたよ」
「何を?」
「……パン」
「それだけ?」
「あと、コーヒー」
「それ朝飯って言わないだろ」
「言うよ」
「言わない」
彩葉が少し頬を膨らませる
「湊、昨日から食事のことばっかりじゃない?」
「だって心配になるだろ」
「大丈夫だって」
「その言葉、昨日も聞いた」
「じゃあ今日も言う」
「全然安心できないんだけど」
彩葉が笑う
湊もつられて笑った
けれど、湊の中には少しだけ引っかかるものが残っていた
彩葉はいつも「大丈夫」と言う
昨日もそうだった
部屋にまともな食べ物がほとんどなくても、栄養ドリンクの空き瓶が何本もあっても、それでも本人は大丈夫だと言っていた
今日だって、朝はパンとコーヒーだけ
放課後にはバイトがある
それなのに、何でもないことみたいに笑っている
本人が大丈夫と言っている以上、無理に踏み込むのも違う気がする
けれど
「……本当に大丈夫なのかよ」
小さく呟いた声は、彩葉には届かなかった
湊自身も、まだそれ以上考えるつもりはなかった
ただ
あの「大丈夫」という言葉だけが、妙に胸に残っていた
「まあ、いいや」
「うん」
「学校行こうぜ」
「うん」
二人は並んで歩き出した
昨日までは、ただのクラスメイトだった
それが今では、待ち合わせをしたわけでもないのに自然と一緒に学校へ向かっている
たった一晩で何かが大きく変わったわけではない
それでも
少しずつ距離が近づいていることだけは、二人とも何となく分かっていた
*
夏期講習が終わった日の夕方
「じゃあ、帰ろうか」
「うん」
学校を出ると、いつもの道を二人で歩く
「今日もバイト?」
「うん」
「何時まで?」
「いつも通りかな」
「遅くなる?」
「たぶん」
「そっか」
湊は少し考える
「じゃあ、今日も飯作って待ってるわ」
「え?」
「昨日の続き」
「でも、毎日作ってもらうのは悪いよ」
「別にいいって」
「でも」
「俺、一人で食うより誰かと食ったほうが楽しいし」
「……」
「だから気にすんな」
彩葉は少し黙った
それから、小さく笑った
「じゃあ……お願いしようかな」
「おう」
「今日は何作るの?」
「帰ってから考える」
「適当だね」
「料理なんてそんなもんだろ」
「そうなの?」
「俺はそう」
「ふふ」
二人はそのまま歩いた
*
二〇二号室
湊は冷蔵庫を開けた
「……何作るかな」
買ってきた食材を眺めながら考えていると、隣から彩葉が顔を出す
「私も手伝うよ」
「バイト前なのに?」
「まだ時間あるから」
「じゃあ、野菜切って」
「分かった」
彩葉は二〇二号室のキッチンに立ち、冷蔵庫から野菜を取り出した
「これ、どうする?」
「適当に」
「適当って一番困るんだけど」
「じゃあ一口サイズ」
「分かった」
包丁を握る彩葉の手元を見ながら、湊が少しだけ眉を寄せる
「危ない」
「え?」
「指」
「あ……」
彩葉の指が包丁に近づきすぎていた
「こう持つ」
湊が彩葉の手元を軽く直す
「ここを丸めて、包丁はこう」
「こう?」
「そう」
「なるほど」
「料理したことないの?」
「ほとんどない」
「やっぱり」
「何、その言い方」
「いや、昨日の部屋見た時点で何となく分かってた」
「忘れてって言ったのに」
「無理」
「もう」
彩葉は笑いながら、もう一度包丁を握る
「上手くなってきたじゃん」
「ほんと?」
「うん」
「じゃあ、これから練習しようかな」
「いいんじゃね?」
「湊が教えてくれる?」
「いいよ」
「じゃあ、よろしく」
「おう」
そんな会話をしながら、二人で料理を作っていく
野菜を切って、肉を焼いて、味噌汁を作る
特別な料理ではない
それでも
誰かと一緒に台所に立つ時間は、湊にとって悪くなかった
むしろ
思っていたより楽しかった
*
「いただきます」
「いただきます」
テーブルに並んだ料理を、二人で食べる
「……美味しい」
「普通だろ」
「普通に美味しい」
「それならよかった」
「湊って料理上手なんだね」
「一人暮らししてたら、それなりにはなるよ」
「私も覚えないとな」
「別に急がなくてもいいだろ」
「でも、ずっと賄いだけってわけにもいかないし」
彩葉がそう言って、少し笑う
湊は一瞬だけ箸を止めた
「……そうだな」
それ以上は何も言わなかった
彩葉が自分からそう思えるなら、それでいい
無理に言わせる必要はない
ただ
湊は、彩葉がちゃんと飯を食うようになるまで、しばらく様子を見ることにした
*
食事を終えると、彩葉が食器を持ち上げる
「洗うよ」
「いいって」
「でも、食べさせてもらったし」
「じゃあ一緒にやるか」
「うん」
二人でキッチンに立つ
狭い台所だから、肩が時々触れる
「あ、ごめん」
「こっちこそ」
「……なんか変な感じ」
「何が?」
「学校だと普通に話してるのに、家でもこうやって一緒にいるから」
「隣なんだから仕方ないだろ」
「そうだけど」
彩葉が少し笑った
「でも、嫌じゃないよ」
「俺も」
「そっか」
食器を洗い終えると、彩葉は時計を見る
「そろそろ行かなきゃ」
「バイト?」
「うん」
「じゃあ気をつけてな」
「ありがとう」
「帰り遅くなるなら連絡して」
「え?」
「いや、何かあったら困るだろ」
「……分かった」
「じゃあ行ってらっしゃい」
「行ってきます」
彩葉が二〇二号室を出ていく
ドアが閉まる
湊は一人になった部屋で、少しだけ考えた
「……なんか、夫婦みたいだな」
口にしてから
「いやいや」
自分で首を振る
「何考えてんだ、俺」
*
数日後
「彩葉」
「ん?」
「今日の昼、それだけ?」
昼休み
彩葉の机の上には、小さなパンが一つだけ置かれていた
「うん」
「また?」
「またって?」
「この前もパン一個だったじゃん」
「そうだっけ?」
「そうだよ」
「よく覚えてるね」
「そりゃ覚えるだろ」
「でも大丈夫」
「その大丈夫、信用できないんだけど」
「ひどい」
「だってさ」
湊は彩葉のパンを見る
「それだけで午後持つ?」
「持つよ」
「本当に?」
「本当」
彩葉は笑った
けれど、その笑顔の奥に少し疲れがあることくらい、湊には分かった
まただ
また「大丈夫」と言った
その言葉を聞くたびに、湊の中に小さな違和感が積み重なっていく
彩葉は笑っている
普通に話している
学校にも来ているし、バイトにも行っている
だからこそ、周りから見れば何も問題がないように見える
でも
本当に大丈夫なら、どうして昼飯がパン一個なんだ
どうして、あれだけ栄養ドリンクの空き瓶があるんだ
どうして、少し疲れた顔をしてまで「大丈夫」と言うんだ
聞けば、きっとまた同じ答えが返ってくる
大丈夫
その言葉で終わらせられてしまう
「……まあ、いいけど」
「うん」
湊はそれ以上何も言わなかった
今ここで無理に聞いても、彩葉はきっと笑って誤魔化す
なら
せめて、自分にできることをすればいい
*
放課後
湊は一人でコンビニに寄った
おにぎりを二つ
パンを一つ
それから、飲み物を適当に選ぶ
会計を済ませ、袋を持って二〇一号室の前に立つ
「彩葉」
「ん?」
「これ」
「……何?」
「余ったから」
「また?」
「うん」
「これ、絶対余ったんじゃないでしょ」
「気のせい」
「だってまだ袋開けてないじゃん」
「……」
「ほら」
「細かいな」
彩葉は笑った
「でも、ありがとう」
「どういたしまして」
「本当にいいの?」
「いいって」
「じゃあ、もらうね」
「おう」
彩葉は袋を受け取った
その手が、ほんの少しだけ嬉しそうに見えた
*
それから
湊の「余ったから」が増えていった
「これ、作りすぎた」
「これ、買いすぎた」
「賞味期限近いから」
「俺、これあんまり好きじゃないから」
理由は毎回違った
そして、そのどれもが少し怪しかった
彩葉も最初は遠慮していた
けれど、湊があまりにも自然に渡してくるものだから、少しずつ受け取るようになった
「湊ってさ」
「ん?」
「お節介だよね」
「そう?」
「うん」
「よく言われる」
「自覚あるんだ」
「まあね」
「なんでそこまでしてくれるの?」
「そこまでって?」
「私のこと」
湊は少し考えた
「困ってるから?」
「それだけ?」
「それだけ」
「……変なの」
「そう?」
「うん」
彩葉は少しだけ笑った
「でも、ありがと」
「どういたしまして」
*
ある日の夕方
二〇二号室にはカレーの匂いが広がっていた
「今日はカレー?」
「昨日から決めてた」
「楽しみ」
「じゃがいも切って」
「分かった」
彩葉が包丁を持つ
前よりも少しだけ手つきが慣れている
「上手くなったじゃん」
「ほんと?」
「うん」
「じゃあ、料理できるようになってきた?」
「まだまだ」
「厳しい」
「でも、最初より全然いい」
「じゃあ、これからも教えてね」
「いつでも」
「約束」
「おう」
鍋の中でカレーがぐつぐつと煮えている
二人でその匂いを嗅ぎながら、完成を待つ
そんな時間が
いつの間にか当たり前になっていた
*
夏休みが始まる頃には、二人はほとんど毎日のように顔を合わせていた
学校へ行けば話す
帰れば隣の部屋
夕飯を一緒に食べる日も増えた
彩葉が困っていれば湊が手を貸す
湊が何かしていれば彩葉が手伝う
くだらないことで笑う
そんな毎日が積み重なっていった
ただのクラスメイトだったはずなのに
気づけば、互いの生活の中に自然と存在するようになっていた
湊にとって、それは少し不思議なことだった
けれど
嫌ではなかった
むしろ
心地よかった
*
ある夜
彩葉が二〇一号室へ戻ったあと、湊はベランダに出た
夜風が頬を撫でる
隣を見る
二〇一号室には明かりがついている
「……隣か」
引っ越してきたばかりの頃は、隣に誰が住んでいるのかすら知らなかった
それが今では
ほとんど毎日のように話をする相手になっている
夕飯を一緒に食べて
くだらない話をして
困っていれば手を貸して
気づけば、隣にいることが当たり前になっていた
「人生、何があるか分かんないな」
湊が小さく笑う
その時
隣の窓が開いた
「湊」
「ん?」
彩葉が顔を出す
「まだ起きてたんだ」
「彩葉こそ」
「ちょっと休憩」
「明日も学校だぞ」
「分かってるよ」
「また寝不足になるぞ」
「湊に言われたくない」
「それはそう」
二人で笑う
少しの沈黙
夜風が二人の間を通り抜ける
「ねえ、湊」
「ん?」
「明日の朝、一緒に学校行かない?」
「いいよ」
「じゃあ、また明日」
「うん。また明日」
彩葉が窓を閉める
湊は夜空を見上げた
星がいくつか見える
その景色を
なぜか、とても懐かしく感じた
「……なんだろ」
けれど
その理由を考えることはなかった
今はただ
明日もまた、彩葉と話せる
それだけで十分だった