花たちは嚮導者の夢を見るか   作:おこそつのぬほふもむよゆらわ

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プロローグ

コーヒーが、少し苦かった。

 

「……失敗したかな」

 

 先生は紙コップの中を覗き込み、小さく呟いた。

 

 黒い液面が蛍光灯の光をぼんやりと映している。

 

 砂糖を入れるか。

 

 ミルクを入れるか。

 

 ほんの数秒、真剣に悩む。

 

 世界の危機を乗り越えた直後の人間が考えることとしては、あまりにもくだらない。

 

 けれど先生にとっては、そのくだらなさが妙に心地よかった。

 

 シャーレの執務室。

 

 見慣れた机。

 

 積み上がった書類。

 

 端末。

 

 壁掛け時計。

 

 窓の向こうに広がるキヴォトスの夜景。

 

 何一つ、特別なものはない。

 

 いつもの景色だった。

 

 それが今は、ひどく懐かしく感じる。

 

「平和だね」

 

『そうですねぇ』

 

 机の上に置かれたシッテムの箱から、アロナの声が返ってきた。

 

 画面の中では、青い髪の少女が満足そうに頷いている。

 

『平和が一番です!』

 

『同意します』

 

 その隣で、プラナが静かに頷いた。

 

 以前なら。

 

 この画面の中にいる少女は一人だけだった。

 

 今は二人いる。

 

 その事実に、先生はまだ完全には慣れていない。

 

「二人とも、今日は静かだね」

 

『先生、それどういう意味ですか?』

 

「そのままの意味だよ」

 

『私はいつも静かですよ!』

 

『アロナ先輩の発言には事実との相違があります』

 

『プラナちゃん!?』

 

 いつものように。

 

 いや。

 

 まだ“いつもの”と呼ぶには新しいやり取りが始まる。

 

 先生は思わず笑った。

 

 ほんの少し前まで。

 

 こんな会話ができるとは思っていなかった。

 

 生きて帰れるとも。

 

 皆で同じ空を見ることができるとも。

 

 思っていなかった。

 

『先生?』

 

「何でもないよ」

 

 先生は紙コップを持ち上げた。

 

 一口。

 

「やっぱり苦いな」

 

『だから砂糖を入れればいいんですよ』

 

「健康のためにブラックを飲もうと思ってね」

 

『睡眠時間を削っている人が健康を語っています』

 

 プラナから正論が飛んできた。

 

「……痛いところを突くね」

 

『先生はもう少し、自分の身体を大事にしてください』

 

 アロナが頬を膨らませる。

 

『今回は、本当に大変だったんですから』

 

 その言葉に。

 

 先生の手が、一瞬だけ止まった。

 

「……そうだね」

 

 視線が、自然と机の片隅へ向かう。

 

 そこには何もない。

 

 ただの机だ。

 

 それでも。

 

 先生は、そこに存在しない何かを見ていた。

 

 もう一人の自分。

 

 別の世界。

 

 失われたもの。

 

 守れなかったもの。

 

 そして最後に託されたもの。

 

『先生』

 

 プラナの声。

 

 先生は我に返る。

 

「ん?」

 

『心拍数が僅かに上昇しています』

 

「……監視されてるみたいだな」

 

『健康管理です』

 

『そうです!』

 

「二人とも厳しいなあ」

 

 苦笑しながら。

 

 先生はもう一度コーヒーを口にする。

 

 やはり苦い。

 

 けれど悪くない。

 

 少なくとも。

 

 こうして苦いと感じられる。

 

 それだけで十分だった。

 

 先生は椅子へ深く腰掛けた。

 

「今日はもう仕事を切り上げようか」

 

『本当ですか!?』

 

 アロナが目を輝かせる。

 

『先生が自発的に休むなんて……!』

 

「そんなに珍しい?」

 

『非常に』

 

 プラナが即答した。

 

「そこまで?」

 

『はい』

 

『はい!』

 

 二人の声が重なる。

 

 先生は肩を落とす。

 

「分かったよ。反省する」

 

『なら早く帰りましょう!』

 

「そうしようか」

 

 帰って。

 

 風呂に入って。

 

 少し寝て。

 

 明日になったら。

 

 また、生徒たちに会う。

 

 相談を受けるかもしれない。

 

 事件に巻き込まれるかもしれない。

 

 おそらく、何も起きない日はない。

 

 それでも。

 

 明日が来る。

 

 そう思えることが。

 

 今は何より嬉しかった。

 

 先生は紙コップを持ち上げる。

 

 最後の一口。

 

 そのとき。

 

 照明が。

 

 一度だけ。

 

 明滅した。

 

「……ん?」

 

『先生?』

 

 先生が天井を見上げる。

 

 蛍光灯は普通に点いている。

 

「今、電気……」

 

『異常は確認できません』

 

 プラナが答える。

 

「気のせいかな」

 

 先生はそう呟いて。

 

 紙コップを口元へ運んだ。

 

 瞬間。

 

 味が消えた。

 

「……?」

 

 苦味が。

 

 温度が。

 

 コーヒーの香りが。

 

 一瞬にして。

 

 すべて消えた。

 

 先生は目を瞬く。

 

 紙コップは。

 

 手の中にある。

 

 コーヒーも入っている。

 

 なのに。

 

 何も感じない。

 

『先生』

 

 プラナの声が低くなる。

 

『異常です』

 

「何が?」

 

『周囲の環境情報が――』

 

 画面にノイズが走った。

 

『取得できません』

 

 アロナが立ち上がる。

 

『えっ?』

 

「通信障害?」

 

『違います』

 

 プラナが即座に否定する。

 

『通信ではありません』

 

「じゃあ――」

 

 先生の言葉が途切れた。

 

 窓の外。

 

 キヴォトスの夜景が。

 

 消えていた。

 

「……は?」

 

 そこにあったのは。

 

 光ではなかった。

 

 街でもない。

 

 夜でもない。

 

 ただ。

 

 黒い。

 

 何もない。

 

 先生は椅子から立ち上がる。

 

「アロナ」

 

『はい!』

 

「今、何が起きてる?」

 

『分かりません!』

 

「プラナ」

 

『解析中です』

 

 机が。

 

 揺れた。

 

 いや。

 

 違う。

 

 机ではない。

 

 部屋全体が。

 

 世界そのものが。

 

 ずれている。

 

 そんな感覚。

 

 先生は咄嗟にシッテムの箱を掴んだ。

 

「二人とも、離れないでね」

 

『はい!』

 

『了解しました』

 

 床が消えた。

 

 先生の身体が落ちる。

 

「っ――!」

 

 だが。

 

 落下している感覚がない。

 

 風もない。

 

 重力もない。

 

 上下すら分からない。

 

 ただ身体が。

 

 どこかへ引きずられている。

 

 そんな感覚だけがあった。

 

『先生!』

 

「大丈夫!」

 

『まだ何も確認できてません!』

 

「こういう時は大丈夫って言っておくものでしょ!」

 

『非合理的です!』

 

「知ってる!」

 

 アロナの声。

 

 プラナの声。

 

 そして自分の声。

 

 それだけが。

 

 暗闇の中に響く。

 

 どれほどの時間が経ったのか。

 

 一秒か。

 

 一分か。

 

 あるいはもっと長かったのか。

 

 先生には分からなかった。

 

 不意に。

 

 光が見えた。

 

「……?」

 

 緑色。

 

 淡い。

 

 柔らかい光。

 

 それが徐々に大きくなる。

 

『先生』

 

 アロナが呟く。

 

『何か……あります』

 

「見えてるよ」

 

 光の向こうに。

 

 木々が見えた。

 

 巨大な木。

 

 枝。

 

 葉。

 

 花。

 

 空。

 

 いや。

 

 本当に空なのか。

 

 世界全体が。

 

 巨大な植物の内部にあるような。

 

 不思議な景色。

 

 光景は急速に近づいてくる。

 

「……着地、できる?」

 

『不明です!』

 

「だよね!」

 

 次の瞬間。

 

 先生の身体は。

 

 地面へ叩きつけられた。

 

「ぐっ……!」

 

 肺から空気が抜ける。

 

 幸い。

 

 高さはそれほどなかったらしい。

 

 先生は数秒、その場に倒れ込んだ。

 

『先生!』

 

『生命反応確認。重篤な損傷はありません』

 

「……それならよかった」

 

 先生は咳き込みながら起き上がる。

 

 手には。

 

 紙コップ。

 

 そして。

 

 シッテムの箱。

 

 紙コップの中身は半分以上こぼれていた。

 

 先生はそれを見つめた。

 

「コーヒー……」

 

『先生、今そこですか!?』

 

「ちょっと悲しくてさ」

 

『周囲の確認が先です!』

 

「はいはい」

 

 先生は立ち上がった。

 

 そして。

 

 ようやく。

 

 周囲を見た。

 

「……」

 

 言葉が出なかった。

 

 緑。

 

 どこまでも。

 

 緑。

 

 巨大な木々。

 

 空を覆う枝。

 

 異様なほど鮮やかな花。

 

 そのすべてが。

 

 現実離れしている。

 

 人工物らしいものは見当たらない。

 

 それなのに。

 

 ここがただの森林ではないことだけは分かる。

 

 空気そのものが違う。

 

 静かだ。

 

 風は吹いている。

 

 葉も揺れている。

 

 けれど。

 

 鳥がいない。

 

 虫もいない。

 

 生き物の気配がない。

 

「キヴォトス……じゃないよね」

 

『はい』

 

 プラナが答える。

 

『既知の地理情報と一致する地点は確認できません』

 

「通信は?」

 

『不能です』

 

「衛星は?」

 

『検出できません』

 

「時間は?」

 

 一瞬。

 

 プラナが黙る。

 

『判定不能』

 

「……そこまでか」

 

 先生は空を見上げる。

 

 青空。

 

 しかし。

 

 どこか奇妙だった。

 

 空なのに。

 

 天井のようにも見える。

 

 遠く。

 

 巨大な枝が。

 

 世界そのものを支えているかのように伸びている。

 

『先生』

 

 アロナが不安そうに声をかける。

 

『ここ……どこなんでしょう』

 

「分からないね」

 

 先生は答えた。

 

 そして。

 

 少しだけ笑った。

 

「まあ、分からないなら調べるしかないでしょ」

 

『……先生』

 

「大丈夫だよ」

 

 アロナが何か言おうとする。

 

 先生は先に続けた。

 

「少なくとも、三人一緒だ」

 

 アロナが瞬きをする。

 

 プラナも。

 

 ほんの僅かに。

 

 表情を緩めた。

 

『……はい』

 

『そうですね』

 

「まずは人を探そうか」

 

『賛成です!』

 

 先生は歩き出す。

 

 草を踏む。

 

 足元に。

 

 小さな花が咲いていた。

 

 白い花。

 

 先生は一瞬だけそれを見る。

 

 知らない花だった。

 

「……」

 

『先生?』

 

「何でもないよ」

 

 先生は前を向く。

 

 そのとき。

 

 遠くで。

 

 音がした。

 

 低い。

 

 重い。

 

 何か巨大なものが。

 

 動いたような音。

 

 先生の足が止まる。

 

 アロナも黙った。

 

 プラナの視線が動く。

 

『先生』

 

「うん」

 

『前方に複数の反応』

 

「人?」

 

『判別不能』

 

 再び。

 

 音。

 

 今度ははっきりと。

 

 爆発音。

 

「……戦闘?」

 

『その可能性があります』

 

 先生の表情が変わった。

 

 先ほどまでの。

 

 少し疲れた。

 

 少し気の抜けた表情から。

 

 シャーレの先生の顔へ。

 

「行こう」

 

『先生』

 

 プラナが制止する。

 

『状況不明です』

 

「だからだよ」

 

『危険性を否定できません』

 

「分かってる」

 

 先生は歩く。

 

 徐々に。

 

 走り出す。

 

「でも、誰かが戦ってるなら」

 

 木々の向こう。

 

 光が弾けた。

 

 轟音。

 

 何か巨大な影が。

 

 枝の隙間を横切った。

 

 そして。

 

 少女の叫び声。

 

 先生は。

 

 迷わなかった。

 

「見過ごせないでしょ」

 

 走る。

 

 シッテムの箱を抱えて。

 

 見知らぬ世界を。

 

 見知らぬ戦場へ。

 

 その先で。

 

 まだ名前も知らない少女たちが。

 

 世界を守るために戦っていることなど。

 

 先生はまだ。

 

何も知らなかった。

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