花たちは嚮導者の夢を見るか 作:おこそつのぬほふもむよゆらわ
休日の朝、先生は目覚ましが鳴るより少し早く目を覚ました。
見慣れない天井にも、そろそろ驚かなくなってきた。
大赦から一時的に提供されている部屋は、良く言えば必要なものがきちんと揃っていて、悪く言えば生活感というものがほとんどない。白い壁、簡素な机、ベッド、小さな冷蔵庫。窓辺には昨日乾かしたシャツが一枚だけ掛かっている。
「……知らない天井にも慣れるものだね」
『おはようございます、先生!』
机の上に置かれていたシッテムの箱から、待っていましたと言わんばかりにアロナが顔を出す。
「おはよう、アロナ」
『今日は早起きですね!』
「そう?」
『休日の先生としてはかなり早いです』
「どういう意味かな」
『そのままの意味です!』
アロナが笑う。その隣にプラナが表示された。
『おはようございます、先生。睡眠時間七時間十二分。昨夜途中覚醒二回。総合的には許容範囲です』
「朝一番から睡眠評価されるの、ちょっと嫌だな」
『健康管理です』
「休日なのに」
『休日でも身体は休日になりません』
「正論だ」
先生はベッドから降り、軽く肩を回した。
先日の戦闘で傷めた右肩は、まだ少しだけ違和感が残っている。大きく動かさなければ問題ない程度まで回復したが、プラナから重量物を持つことは禁止されていた。
『痛みはありますか』
「少しだけ」
『数値で』
「二くらい」
『昨日と同程度ですね』
「だから今日はのんびりする」
『良い判断です!』
アロナが嬉しそうに頷く。
「ということで」
先生はカーテンを開けた。
朝の光が部屋へ入る。
「散歩に行こうと思う」
◇
目的地は決めなかった。
それが先生の散歩のやり方だった。
知らない町へ行けば、まず歩く。観光地を効率よく回るわけでもない。地図に印を付け、一つずつ消化していく旅行も嫌いではないが、今日はそういう気分ではなかった。
駅前へ出て、気になった道へ曲がる。
面白そうな店があれば覗く。
腹が減れば何かを食べる。
疲れれば休む。
それくらいでいい。
『先生』
「なに?」
『目的地を入力してください』
「ないよ」
『……目的地がない?』
プラナが僅かに首を傾げる。
「散歩だから」
『散歩にも通常、経路設定が――』
「今日は経路を決めない散歩」
『非効率です』
「それがいいんだよ」
『理解困難です』
アロナが横から笑った。
『プラナちゃん、先生はたまに意味もなく歩くんですよ!』
「意味もなくはないよ」
『では目的は?』
「知らないものを見ることかな」
『それなら探索任務では?』
「散歩って言った方が気楽でしょ」
『……』
プラナはしばらく考えていた。
『暫定的に理解しました』
「本当に?」
『二十七パーセント程度』
「低いなあ」
先生は笑いながら歩いた。
朝の町は静かだった。
道路は舗装され、信号機が規則正しく色を変える。自動車が横を通り過ぎ、休日らしい軽装の子どもたちが自転車を漕いでいく。
古びた商店。
軒先に植木鉢を並べた家。
住宅の間から見える小さな寺。
壁に貼られた地域行事の案内。
少し歩くだけで、目に入るものが増えていく。
「やっぱり、似てるな」
『先生が以前いた日本に、ですか?』
「うん」
先生は交差点の向こうを見る。
「町の雰囲気とか、看板とか、店の並び方とか。キヴォトスよりずっと昔いた日本に近い」
『以前も同様の発言をされています』
「そうなんだけどね。一人で歩いてるとまた違うんだよ」
誰かと一緒にいれば会話の方へ意識が向く。
一人なら、普段なら見落とすものまで目に入る。
古いポスター。
塀に付いた小さな傷。
開店前の店先を掃く人。
路地裏で伸びをする猫。
そんなもの。
「観光地っていうより、こういう普通の場所の方が好きかもしれない」
『なぜですか?』
「そこで暮らしてる人が見えるからかな」
『人物観察ですか?』
「言い方によっては怪しいね」
『先生は十分怪しいです!』
「アロナ?」
『冗談です!』
先生はため息をつきながら道路脇の自動販売機の前で立ち止まった。
何種類もの飲料が並んでいる。
「自動販売機まである」
『珍しいですか?』
「いや。むしろ懐かしい」
小銭を入れる。
選んだのは缶コーヒーだった。
『あ』
アロナの声。
「何?」
『またコーヒーです』
「朝だからね」
『昨日も飲んでいました!』
「昨日は昨日」
『一昨日も!』
「一昨日は一昨日」
『先生はもう少し他の飲み物を開拓するべきです!』
「アロナは何がおすすめ?」
『いちごミルクです!』
「朝から?」
『朝からでもおいしいです!』
「今度ね」
『今度って言う人は大体やらないんですよ!』
「どこで覚えたの、それ」
缶を開ける。
一口。
甘い。
「……甘いな」
『ブラックではないのですか?』
「間違えた」
『先生……』
「パッケージ似てたんだよ」
『確認不足です』
プラナが即座に指摘する。
「休日くらい許してよ」
それでも捨てるほどではない。
歩きながら少しずつ飲む。
その味すら妙に懐かしかった。
◇
最初に入った店は古本屋だった。
偶然見つけた。
商店街から一本外れた細い道。古い看板に、小さく「古書」と書いてある。
『先生、本を買うんですか?』
「見るだけかもしれない」
『見るだけと言って買う人ですね』
「アロナ、妙に詳しくなったね」
引き戸を開ける。
小さな鈴が鳴った。
店内には紙の匂いが満ちていた。
先生はこの匂いが好きだった。
新品の本にはない。
誰かの手を渡り、時間を吸い込んだ紙の匂い。
棚は少し雑然としていて、小説、歴史書、随筆、辞書、地域史の本まで並んでいる。
「こういう店、好きなんだよね」
『初耳です!』
「言う機会なかったから」
『先生の新情報ですね!』
アロナが嬉しそうに言う。
先生は棚を眺める。
特に探している本はない。
タイトルを読む。
気になれば手に取る。
数ページだけ開く。
戻す。
『購入しないのですか?』
「本屋は探すものが決まってない時の方が面白いんだよ」
『非効率的探索、その二ですね』
「プラナ、今日は効率を忘れよう」
『努力します』
地域史の棚で先生の手が止まった。
香川の昔の写真をまとめた本。
「……これ面白そう」
『何が載っていますか?』
「昔の町並み」
ページをめくる。
白黒写真。
古い駅。
商店街。
学校。
海沿いの道。
祭り。
昔の制服を着た学生。
先生は一枚一枚をじっくり眺めた。
「こういうの好きなんだよなあ」
『歴史がお好きなのですか?』
「専門ってほどじゃないよ。その土地の昔の写真を見るのが好き」
『なぜ?』
「今歩いてきた場所にも昔があったって分かるから」
自分がさっき歩いたような商店街。
子どもたちが学校へ向かい、大人が店を開け、誰かが誰かを待っていた。
写真の中の人々は、先生にとって名前も知らない人間だ。
それでも。
その一枚の前後に日常があったことだけは分かる。
「知らない町が少しだけ近くなる気がするんだよね」
『なるほど』
「プラナ、今のは何パーセント?」
『五十二パーセント理解できます』
「急に上がった」
『記録の価値は理解できますから』
「プラナらしいね」
先生は本を閉じた。
「買おうかな」
『調査資料ですか?』
「半分趣味」
『半分?』
「こういうの読むの好きだから」
結局、その一冊と、短編集を一冊買った。
店を出たところでアロナが言う。
『先生って意外と普通ですね』
「何その感想」
『もっと先生らしい本を買うと思っていました!』
「先生らしい本って?」
『難しい教育書とか!』
「休日に読みたくないよ」
『では漫画は?』
「読むよ」
『本当ですか!?』
「そこ驚く?」
『先生も漫画読むんですね……』
「私を何だと思ってるの」
『先生です!』
「だからそれじゃ分からないんだよ」
◇
昼前。
先生の足は、ある店の前で止まった。
「……」
『先生』
「うん」
『見ていますね』
「見てる」
『三十秒以上』
「だって」
うどん。
店先に書かれた文字。
香川へ来てから何度か食べている。
それでも店が違えば入りたくなる。
「ここも入りたい」
『朝食から三時間四十七分です』
「ちょうどいいね」
『摂取可能です』
「プラナのお許しが出た」
『私は許可機関ではありません』
「じゃあ入ろう」
店はセルフ形式だった。
先生は少しだけ迷った末、かけうどんを選ぶ。
余計なものは載せない。
天ぷらを一つ。
それだけ。
『先生、もっと豪華にしないんですか?』
「初めての店では一番普通のものを食べたくなるんだよ」
『なぜです?』
「基準が分かるから」
『合理的です』
「こういうのは評価するんだ」
一口。
「……うん」
『どうですか?』
「おいしい」
『語彙が少ないです!』
「食べ物の感想って、それで十分じゃない?」
麺。
出汁。
少し塩気。
特別高級な料理ではない。
でも普段食べるものとして完成している。
「香川でうどんが根付く理由、分かる気がするなあ」
『先生が以前いた世界でも有名だったのですよね』
「有名だったよ。香川と言えばうどんって言われるくらい」
『この世界と一致しています』
「そうなんだよね」
先生は箸を止めた。
「食べ物まで同じなの、不思議だよな」
讃岐うどん。
醤油。
天ぷら。
店の雰囲気。
座敷に置かれた調味料。
壁のメニュー。
どれも知っているものに近い。
「こういう小さいところが同じだと、たまに本当に元の世界に戻ったみたいな気分になる」
『ホームシックですか?』
「少しはあるかもね」
先生はそう言ってから、また麺を啜った。
「でも今はうどんがおいしいからいいや」
『切り替えが早いです!』
「休日だから」
◇
午後。
先生は海の方へ向かった。
地図を頼りにしたわけではない。
潮の匂いがしたから。
少し歩けば視界が開けた。
青い海。
空。
遠くに見える島影。
先生は足を止める。
「……綺麗だね」
今度はアロナもプラナもすぐには返事をしなかった。
海沿いの道をゆっくり歩く。
風が吹く。
少し冷たい。
「こういうのを見るとさ」
『はい』
「自分が異世界にいるってこと、忘れそうになる」
『忘れないでください』
「分かってるよ」
『帰還方法を探す必要があります』
「うん」
先生は海を見る。
帰りたい。
その気持ちは変わらない。
キヴォトスには生徒たちがいる。
シャーレがある。
自分がやるべき仕事も。
会いたい人もいる。
それなのに、この町を歩いていると変な感覚になる。
ここも。
誰かにとっては帰る場所なのだ。
結城さんにとって。
東郷さんにとって。
二人の犬吠埼さんにとって。
そして、この町に暮らす無数の人にとって。
自分にとって異世界でも。
ここにいる人たちにとっては、ただの日常だ。
「帰るって難しいね」
『……どういう意味ですか?』
アロナ。
「自分が帰りたい場所だけ考えてれば簡単なんだけど」
先生は少し笑う。
「帰るまでに、この場所をどうでもいいと思えなくなってきた」
『先生らしいです』
アロナが言った。
「そう?」
『はい!』
『否定はしません』
プラナも続ける。
「褒められてる?」
『半分程度は』
「プラナは厳しいなあ」
先生は海沿いのベンチへ座った。
買った本を一冊取り出す。
短編集。
ページを開く。
『読むのですか?』
「せっかくだから」
『散歩中に?』
「休憩中」
数ページ。
波の音。
遠くを走る車。
時々聞こえる鳥の声。
先生は読む。
途中で何度か顔を上げる。
本を読む。海を見る。また読む。それだけ。何も起きない。
バーテックスは現れない。
大赦から呼び出されない。
神託もない。
勇者部から相談もない。
何も。
起こらない。
先生はその時間が、思っていたより好きだった。
◇
夕方前。
先生は再び町へ戻った。
途中、小さな文房具店を見つけた。
「ちょっと寄る」
『またですか?』
「文房具好きなんだよ」
『また新情報です!』
店内。
ノート。
ペン。
鉛筆。
消しゴム。
学生向けの商品。
先生は一本のボールペンを手に取る。
試し書き。
「これ書きやすい」
『先生、シッテムの箱でもメモできますよ』
「手書きしたい時もあるんだよ」
『紙媒体を選択する理由は?』
「思考が整理しやすいから」
『科学的根拠を求めます』
「今日はそういう日じゃない」
『……分かりました』
ノートも一冊。
小さなもの。
戦闘記録や大赦の情報を書くためではない。
もっと私的な。
この世界で見つけたものを書くため。
うどん。
町。
本屋。
海。
面白かったもの。
気になったもの。
そんなもの。
「旅行記みたいだね」
『旅行なのですか?』
「帰れるなら、結果的には旅行になるかも」
『それなら記録は重要です!』
「急に前向きだね」
『先生が帰還した際、生徒の皆さんへお土産話ができます!』
「それはいいかも」
先生は想像する。
キヴォトスへ帰る。
誰かに聞かれる。
どこに行っていたのか。
何があったのか。
神樹、勇者、バーテックス、大赦。
そんな話もするだろう。
でも。
「香川のうどんおいしかったって話もしたいね」
『はい!』
「古本屋もあった」
『はい!』
「海も綺麗だった」
『はい!』
『先生』
プラナ。
「なに?」
『それでは旅行者の感想です』
「だからいいんだよ」
◇
最後に先生が入ったのは、駅近くの小さな喫茶店だった。
歩き疲れた。
右肩にも少しだけ重さがある。
店内は静かだった。
先生は窓際に座った。
「コーヒーください」
『また!』
アロナが即座に反応する。
「今度はちゃんとブラック」
『一日二杯目です!』
「普通でしょ」
『水分も取ってください!』
「分かった」
コーヒーが来る。
香り。一口、苦い。
「……これだ」
『朝のは失敗でしたからね』
「失敗じゃない。経験」
『先生、言い換えが上手です』
「大人だからね」
『関係ありますか?』
「ないかも」
窓の外。
夕方の町。
何でもない景色。
先生はノートを開いた。
買ったばかりのペン。
最初のページ、少し考える。
書く。
――神世紀三百年。香川。
その下。
――うどんはおいしい。
『先生』
「何?」
『最初の記録がそれでいいのですか?』
「大事でしょ」
『もっと重要事項があると思います』
「例えば?」
『戦闘記録、大赦との対話記録、バーテックスに関する――』
「そういうのは別のところに書いてる」
『ではこのノートは?』
先生は少し考える。
「私が見たものを書く」
『観測記録?』
「そこまで堅くない」
『日記ですか?』
「日記って言われると恥ずかしいな」
『旅行記!』
アロナ。
「それでいいか」
先生は次を書く。
――古本屋で本を二冊購入。
――海が綺麗だった。
――缶コーヒーを買い間違えた。
『最後の項目は必要ですか?』
「必要」
『なぜです?』
「後で読んだ時に思い出せるから」
情報として重要かどうかではない。
記憶に残したいかどうか。
先生はページを眺める。
これまでの人生で、自分はどれだけのことを忘れてきたのだろう。
何でもない日。
何でもない会話。
何でもない風景。
大きな出来事は覚えている。
危機。
戦い。
別れ。
でも、多分。
人が本当に恋しくなるのは、そういう瞬間ではない。
くだらない会話。よく行った店。いつもの景色。誰かの笑い声。
そういうものなのだと思う。
「……」
『先生?』
「帰ったらさ」
『はい』
「キヴォトスでも、もう少し散歩しようかな」
『今までもしていますよ?』
「仕事の途中とかじゃなくて」
『先生が自発的に休日を取得するのですか!?』
「そこまで驚く?」
『重大事です!』
「アロナ、私を何だと思ってるの」
『仕事を放置できない先生です!』
「否定しづらいなあ」
『先生』
プラナの声。
『帰還後の予定を考えることは良い傾向だと思います』
先生は少しだけ目を細めた。
「うん」
帰ったら。
その言葉を普通に使えることが、今は少し嬉しかった。
◇
外へ出る頃には、空が橙色に染まっていた。
先生はゆっくり歩く。朝とは違う道、わざと。
『先生、宿舎は反対方向です』
「知ってる」
『ではなぜ』
「こっちからでも帰れるから」
『遠回りです』
「散歩だからね」
『……』
「まだ理解できない?」
『三十八パーセントまで上昇しました』
「成長したね」
『学習しています』
住宅街を抜ける。
夕飯の匂い。
家から聞こえるテレビ。
子どもの声。犬の鳴き声。
庭先で洗濯物を取り込む人。
部活帰りらしい学生たち。
何でもない普通の暮らし。
先生は今日一日歩いてきた場所を思い出した。
古本屋。うどん屋。海。文房具屋。喫茶店。
どれも世界の命運とは何の関係もない。
知らなくても戦える。
知らなくても大赦と話せる。
知らなくても帰還方法は探せる。
それでも知っておきたいと思った、この世界を。
世界という大きな言葉ではなく。
誰かが朝に店を開けること。お気に入りの本を探すこと。昼にうどんを食べること。夕方になれば家へ帰ること。
そんな小さな単位で。
先生は思う。
世界というのは多分こういうものの集まりなのだ。
「アロナ」
『はい?』
「今日、楽しかった?」
『はい!』
「プラナは?」
『私は――』
少し間が空いた。
『有意義でした』
「楽しかった?」
『……』
「無理に言わなくてもいいけど」
『……おそらく』
「そっか」
『先生』
「何?」
『また行くのですか』
「散歩?」
『はい』
先生は夕暮れの町を見る。
「行こうか」
『次回は目的地を設定することを提案します』
「それは散歩じゃなくない?」
『では候補地点のみ』
「妥協したね」
『三十八パーセント理解していますので』
「じゃあ次は四十パーセント目指そう」
アロナが笑う。
プラナは少し困った顔をする。
先生も笑った。
帰る場所ではない。それでも少しずつ知っていく。
道を。味を。景色を。
この世界で生きる人たちの日常を。
帰る方法が見つかるまで。
またまた違うお話にはなりますが、ブルーアーカイブという作品はキヴォトスという特異な環境であるために生徒から想いを寄せられることが多い、つまりハーレムという状態であると認識しています。ゆゆゆも登場人物は基本的に女性キャラのみ、そこに先生という黒一点の存在がきて、最初はハーレムものにしようかと迷いました。しかし、ゆゆゆの二次創作になんとなくハーレムを感じる作品が多かったのと、大人と中学生の恋愛というかなりアウトな作品になってしまうと感じた為、恋愛系の展開は基本的に無しで行こうかと思います。