花たちは嚮導者の夢を見るか 作:おこそつのぬほふもむよゆらわ
樹海から帰還した世界は、驚くほど普通だった。
夕日に染まる校舎。グラウンドから聞こえてくる運動部の掛け声。廊下を歩く生徒たちの笑い声。窓の外には電柱が並び、その向こうには住宅街が広がっている。
先生は勇者部の部室に置かれた椅子へ腰掛けたまま、しばらく窓の外を見ていた。
「……日本みたいだな」
「みたいって?」
友奈が首を傾げる。
「いや、こっちの話」
先生は軽く笑って誤魔化した。
道路の形も家屋の造りも学校の雰囲気も、先生がかつて暮らしていた日本によく似ている。むしろキヴォトスよりも、こちらの方が記憶の中にある故郷に近い。
そのことが少しだけ怖かった。
似ている。
それなのに違う。
先生はそういう世界を、既に一度知っている。
『先生』
シッテムの箱の画面にプラナが姿を見せる。
「ん?」
『周辺環境の簡易解析が終了しました』
「どうだった?」
『大気組成、重力加速度、気温、気圧に大きな異常はありません。少なくとも先生の生命活動に問題を与える環境ではないと判断します』
「それは助かるね」
『ただし』
「ただし?」
『既知の地理情報との一致を確認できません』
「だよね」
GPSも使えない。キヴォトスの通信網にも繋がらない。そもそもキヴォトスが存在している痕跡そのものがない。
先生は窓の外へ目を戻した。
形だけ見れば、懐かしい日本の地方都市だった。
「はい、先生」
声に振り返る。
樹がお茶を机に置いていた。
「ありがとう、犬吠埼さん」
「コーヒーの方がよかったですか?」
「今日はもういいかな」
「好きなんですか?」
「まあね。さっき一杯犠牲になったばっかりだけど」
『先生、かなり残念そうでしたもんね!』
アロナが元気よく口を挟む。
「思い出させないでよ」
『でもコーヒーより先生の方が大事です!』
「それと比べられるとコーヒーがかわいそうだな」
『なんでですか!?』
友奈が噴き出した。
「先生とアロナちゃん、仲いいね」
「そう見える?」
『もちろんです!』
「アロナはそう思ってるらしいよ」
『先生!?』
再び笑い声が上がる。
少し前まで命を懸けて戦っていた少女たちとは思えない。
それを見ながら、先生はふと友奈の手を見る。
小さい。
十三歳の手だ。
あの拳が、巨大な化け物を殴り倒した。
改めて考えると異常だった。
「それで」
風が机を軽く叩いた。
「そろそろ本題に入りましょうか」
「そうだね」
「まず、あんたが何者なのか」
「先生」
「それは聞いた」
「職業も先生」
「それも聞いた!」
「犬吠埼さん、怒らないでよ」
「誰のせいよ!」
風が額を押さえる。
「聞きたいのは、どこの誰なのかってこと」
「キヴォトスって場所から来た。シャーレっていう組織に所属してる」
「国?」
東郷が尋ねる。
「国って言うと少し違うかな。巨大な学園都市だよ」
「学園都市?」
「たくさんの学校が集まってできてる街みたいなもの」
「すごい!」
友奈が身を乗り出す。
「学校がいっぱいあるの?」
「いっぱいあるよ」
「先生は全部の学校の先生?」
「そこまで偉くないって」
「でも先生なんでしょ?」
「先生ではあるね」
「ややこしいわね……」
風が呆れる。
東郷は少し考えていた。
「キヴォトスでは、学校同士で交流したりするんですか?」
「するよ」
「大会とか?」
「そういうのもあるし……まあ、色々かな」
先生は言葉を濁した。
武装した学園同士が揉めたり、銀行強盗が起きたり、巨大兵器が動き出したりする学園都市をどう説明したものか分からない。
「事件も多いけどね」
「事件?」
「そこは気にしないで」
「余計気になります」
「東郷さん、そのうち話すよ」
「そのうちですか」
東郷はまだ納得していない顔だった。
そんな中、風が腕を組む。
「じゃあ次はこっちの番ね」
「お願い」
風は一度深呼吸した。
「ここは四国」
「四国」
先生が小さく繰り返す。
その単語には聞き覚えがある。
いや、聞き覚えどころではない。
かつて自分がいた日本にも存在した地名だ。
「香川県?」
「そうだけど」
先生の眉が僅かに動いた。
「讃岐?」
「そうよ」
「……本当に?」
「何が?」
「いや」
先生は窓の外を見る。
日本の四国。
香川。
聞き覚えのある地名。
それでも自分の知る日本ではない。
「続けて」
「今は神世紀三百年」
「……神世紀?」
「そう」
「西暦じゃなくて?」
「西暦?」
風の返し。
東郷も友奈も樹も、揃って不思議そうな顔をしていた。
先生は数秒だけ黙った。
その反応で分かった。
「西暦って言葉自体が一般的じゃないのか」
「昔の暦か何か?」
「……そういう感じかな」
先生は背もたれへ身体を預ける。
令和。平成。昭和。
昔、自分がいた日本にも独自の元号は存在していた。
だが、それは西暦と並行して使われていた。
神世紀。
名前からして違う。
元号ではない。
神を中心に置いた新しい歴史の始点。
「プラナ」
『はい』
「神世紀って記録にある?」
『ありません。キヴォトス以前に先生が記憶している歴史情報とも一致しないものと推定します』
部室が静かになった。
東郷が先生を見る。
「キヴォトス以前?」
「……まあ、そこは今度話すよ」
「また今度ですか」
「話すと長いんだ」
嘘ではない。
自分がキヴォトスに来る前、別の世界で日本人として暮らしていたこと。
先生自身ですら、なぜキヴォトスへ来たのか完全には理解していない。
そこからさらに神世紀へ飛ばされた。
二度目だ。
異世界に来るのは。
「二度あることは三度あるって言うけど、三度目はいらないな」
「え?」
「何でもないよ、結城さん」
先生は笑う。
「それで神世紀になった理由は?」
風が少し言葉に詰まる。
「そこまで詳しくは知らないわ」
「そっか」
「ただ、私たちは神樹様の恩恵で暮らしてる」
「神樹様」
「さっき樹海で見たでしょ」
「うん」
「あの神樹様が人間を守ってくれてるの」
「具体的には?」
「具体的?」
「例えば何をしてくれる?」
「色々よ。生活に必要なものとか」
先生は首を傾げる。
「水も?」
「当然でしょ」
「電気も?」
「そうだけど」
「食料は?」
「それも神樹様の恩恵があるわ」
先生の表情が少し変わった。
「発電所は?」
「発電所?」
「火力でも水力でも原子力でも何でもいいけど、大規模な発電設備」
「そんなの必要ないわよ。神樹様がいるもの」
「浄水場は?」
「何でそんなこと聞くの?」
「気になっただけ」
先生は立ち上がって窓の外を見る。
電柱がある。
電線もある。
つまり配電する設備は存在する。
しかし、電気そのものを生み出す場所が必要ないという。
現代日本で暮らした経験があるからこそ、先生にはその異常さがよく分かった。
電気はコンセントから湧くものではない。
水は蛇口から生まれるものでもない。
都市が一つ生きるためには、見えない場所で途方もない量の設備と人間が働いている。
発電。
送電。
取水。
浄水。
下水処理。
輸送。
農業。
物流。
それらを。
「神様が全部やってくれるのか」
「変な言い方しないでよ」
「ごめん」
先生は笑って座り直した。
友奈が首を傾げる。
「先生のいたところは違うの?」
「全然違うよ」
「キヴォトスでは?」
「キヴォトスも色々だけどね」
一瞬。
先生の記憶に、かつていた日本の都市が浮かぶ。
夜の街。
コンビニ。
駅。
送電鉄塔。
浄水場。
ダム。
当たり前だと思っていた社会の裏側。
ここにはそれがない。
いや、存在する部分もある。
それなのに中心だけがない。
「……不思議な世界だね」
友奈が笑う。
「そう?」
「結城さんたちからしたら普通なんだろうね」
「うん」
「そっか」
先生はそれ以上追及しなかった。
普通というものは、住んでいる世界によって変わる。
キヴォトスで嫌というほど学んだことだ。
「それで」
先生は風を見る。
「あのバーテックスっていうのは?」
「神樹様を狙ってくる人類の敵」
「どこから来る?」
「それは……」
「分からない?」
「詳しくは大赦が知ってると思う」
「大赦?」
「勇者や神樹様に関わる組織よ」
「君たちを管理してる?」
「まあ、そんな感じね」
管理。
先生はその言葉を頭の片隅へ置く。
「最後に一ついい?」
「何?」
「勇者って今、君たちだけ?」
風の表情が止まった。
「……そうよ」
「他に戦える人はいない?」
「私が知る限りはいないわ」
「大人も?」
「いない」
「……そっか」
先生は静かにお茶を飲んだ。
友奈が先生の顔を覗き込む。
「先生、怒ってる?」
「まだ怒ってないよ」
「まだ?」
「知らないことが多すぎるから」
先生は少し笑う。
「事情も知らないのに、私の常識だけで怒るのは違うでしょ」
「……先生の常識?」
「昔からの癖みたいなものだよ」
先生は自分の掌を見る。
現代日本で生きていた頃。
中学生は学校へ通い、部活動をして、友達と遊ぶ。
少なくとも先生が知る日本では、それが普通だった。
世界の命運を背負って化け物と戦うことなどない。
だが今、その常識をこの世界へ押し付けても意味はない。
だからまず知る。
「でも一つだけ」
先生は勇者部の面々を見る。
「君たち自身に怒る理由はないよ」
風が少しだけ目を細める。
「そう」
「戦う仕組みを作ったのは君たちじゃないでしょ」
今度は誰も答えなかった。
その時、風のスマートフォンが鳴った。
全員の視線が集まる。
風が画面を見る。
「……大赦」
先ほどまでとは明らかに声の調子が違った。
通話に出る。
「はい。犬吠埼です」
部室が静かになる。
先生は何も言わず、風の表情だけを見る。
「……え?」
風の目が見開かれた。
「神託?」
東郷も息を呑む。
友奈と樹も顔を見合わせる。
「はい。本人もここにいます」
数秒後。
「……分かりました」
通話が切れる。
風はしばらくスマートフォンを見つめていた。
「犬吠埼さん?」
先生が声をかける。
「大赦から迎えが来る」
「誰の?」
風がゆっくり顔を上げる。
「先生の」
「私?」
「神樹様から神託が下りたらしいわ」
「……神託」
「神樹様からのお言葉よ」
先生はシッテムの箱を見る。
アロナもプラナも黙っている。
「私について?」
「そうみたい」
「私、来てからまだ数時間だよね」
「神樹様に時間は関係ないでしょ」
「そういうもの?」
「そういうものよ」
「この世界、神様の行動が早いなあ」
風が頭を抱えた。
◇
大赦の内部では、勇者部の部室とは全く違う時間が流れていた。
白い壁。
低い照明。
神樹を示す意匠。
そこに集まった者たちの前には、先ほどの戦闘記録が映されている。
ヴァルゴ・バーテックス。
勇者たち。
そして、存在するはずのない成人男性。
映像の中で青白い壁が展開され、バーテックスの攻撃を受け止める。
「勇者システムではない」
「神樹様の既知の権能とも一致しない」
「そもそもなぜ一般人が樹海に存在できた」
答えはない。
その時だった。
部屋にいる全員が、ほぼ同時に沈黙した。
音がしたわけではない。
画面に何かが表示されたわけでもない。
それでも理解した。
神託だった。
――異邦より来たりし客人を迎えよ。
息を呑む。
――勇者にあらず。
続いて。
――害することなかれ。
そこで途切れた。
「……以上か」
沈黙。
神樹様は何も語らない。
「異邦の客人」
「例の男以外には考えられない」
「なぜ神樹様が直接言及された」
「分からん」
それが最も大きな問題だった。
先生が何者なのか。
なぜ来たのか。
何をする存在なのか。
何一つ説明されていない。
「迎えを出す」
「勇者は?」
「同行させる必要はない」
「例の端末は」
「可能な範囲で確認する。ただし神託を忘れるな」
「承知した」
再び部屋が静まる。
画面の中では異邦人が勇者たちの前に立っている。
神樹様が。
その男を拒絶しなかった。
今は、それだけが事実だった。
◇
大赦の使者が讃州中学へ到着した頃には、空はかなり暗くなっていた。
部室へ入ってきた二人の姿を見て、先生は自然と姿勢を正した。
「先生様でいらっしゃいますか」
「はい。そう呼ばれています」
勇者部と話していた時とは違う。
口調が丁寧になる。
友奈がその変化に少し驚いたような顔をした。
「大赦よりお迎えに上がりました。神樹様より、先生様を客人として迎えるよう神託がございました」
「内容を伺ってもよろしいですか」
「異邦より来たりし客人を迎えよ。勇者にあらず。害することなかれ。以上です」
「……なるほど」
「驚かれないのですね」
「十分驚いています。ただ今日は色々ありましたので」
使者の表情は変わらない。
「それでは、ご同行願えますでしょうか」
「先生」
友奈が立ち上がる。
「私たちも行く」
「結城さん?」
「だって一人じゃ危ないかもしれないし」
「勇者の皆様にご同行いただく必要はございません」
使者の静かな声。
友奈が黙る。
「先生様とのお話のみを予定しております」
「先生」
東郷が先生を見る。
「本当に行くんですか?」
「行くよ」
「信用できる相手か分かりません」
「東郷さん」
先生は少し笑う。
「向こうは私のことを少し知ってる。私は向こうについてほとんど何も知らない」
「だから?」
「だから話した方がいいでしょ」
「……」
「心配してくれてありがとう」
東郷は納得していない様子だったが、それ以上止めなかった。
『先生』
プラナが呼ぶ。
「何?」
『不測の事態が発生した場合は、即座に退避を提案します』
「分かったよ」
『先生の“分かった”は信用できません』
「それはひどくない?」
『実績に基づいた評価です』
「反論しづらいなあ」
友奈が少し笑う。
先生は扉へ向かう。
「先生!」
振り返る。
「帰ってきてね!」
一瞬だけ先生は目を丸くした。
「うん」
柔らかく笑う。
「行ってくるよ、結城さん」
◇
大赦の施設は、先生が想像していたより無機質だった。
神を信奉する組織と聞いたので、もっと宗教施設らしい場所を想像していた。しかし案内された部屋には最低限の机と椅子しかなく、照明も暗い。
先生は用意された席へ座った。
向かいには大赦の関係者。
「改めまして。この度は勇者の皆様をお救いいただき感謝申し上げます」
「私は防御しただけです。バーテックスを倒したのは彼女たちです」
「それでも東郷美森様が無事だったのは先生様のご助力によるものです」
「そういうことなら、どういたしまして」
「先ほど使用された防壁について伺っても?」
先生はシッテムの箱を見る。
「私自身も完全には分かっていません。普段から私を守ってくれる防護機構ではありますが、今回は少し様子が違いました」
「様子が違う」
「プラナ」
『はい』
画面にプラナが現れる。
『防護機構の基本原理は既存記録と一致します。しかしヴァルゴ・バーテックスの攻撃に対して消費されたエネルギー量と、防護障壁が受け止めたと推定される負荷の間に大きな乖離があります』
「つまり」
『入力と出力の収支が合いません』
大赦側が沈黙する。
「……興味深い」
先生が相手を見る。
「何か心当たりが?」
「神樹様もまた、人間の科学では完全に説明できない存在です」
「具体的には?」
「先生様は勇者部の皆様から、我々の生活について聞かれましたか」
「少しだけ」
「我々の電力、水、食料、その他生活に必要な多くのものは神樹様の恩恵によって維持されています」
「発電量に対する燃料消費みたいなものは?」
「観測できません」
「取水量や浄水設備は?」
「必要ありません」
先生は少し黙った。
現代日本人だった頃なら、こんな話は荒唐無稽だと笑っただろう。
電気が存在するならエネルギー源が必要になる。
安全な水が出るなら浄化の工程がある。
食料が供給されるなら生産地と物流がある。
どこかに原因がなければ結果だけは生まれない。
少なくとも。
人間の世界なら。
「永久機関みたいですね」
「永久機関?」
「気にしないでください。昔の世界で、絶対に作れないものの例としてよく出てきた言葉です」
「先生様はキヴォトス以前にも別の場所で生活を?」
先生の目が一瞬止まった。
「……ええ」
「差し支えなければ」
「今日はやめておきます」
先生は微笑んだ。
「長くなりますから」
大赦側も追及しなかった。
「つまり神樹様も、エネルギー保存則で説明できない」
「我々の観測能力では、と申し上げた方が正しいでしょう」
「そこは重要ですね」
「なぜでしょう」
「説明できないことと、法則を破っていることは別ですから」
先生はシッテムの箱を見る。
「私たちが知らないだけかもしれない」
『同意します』
プラナが答える。
「シッテムの箱についても同じです」
「では神樹様と同一の原理である可能性は」
「それはまだ早いです」
先生は即答した。
「似た現象が起きた。それ以上は今の情報では言えません」
「慎重なのですね」
「分からないものを分かったことにする方が怖いでしょう」
また沈黙。
先生は相手を見る。
「今度はこちらから伺っても?」
「どうぞ」
「なぜ神樹様は私を迎えろと?」
「分かりません」
即答。
「私が何者かも?」
「神託にはありません」
「来た目的も」
「同様です」
「神樹様自身が私を完全には理解していない可能性は?」
「そのような推測について大赦から申し上げることはできません」
「なるほど」
先生は少しだけ笑う。
分からないことは答えない。
誤魔化しているようにも見える。
だが少なくとも、不用意に分かったふりはしない。
「もう一つ」
「はい」
「神託で“害することなかれ”とあったそうですね」
「その通りです」
「なら私は安全だと考えていいんでしょうか」
「少なくとも大赦が先生様へ危害を加えることはございません」
「……大赦は、なんですね」
空気が少しだけ止まった。
「そのような意図では」
「分かっています」
先生は柔らかく笑う。
「ただ言葉が気になっただけです」
アロナが黙って先生を見る。
プラナも同じだった。
先生が生徒たちと話す時とは違う。
穏やかだが、距離がある。
「ではこちらからも一つ確認させていただきます」
「どうぞ」
「先生様はこの世界へ敵対する意思をお持ちですか」
「ありません」
「神樹様へは」
「今のところ、敵対する理由はありません」
「今のところ」
「今日初めて知った相手を無条件で信頼しますと言う方が不自然ではありませんか?」
「……ごもっともです」
「ただ」
先生は少しだけ視線を落とす。
「結城さんたちを傷つけるつもりはありません」
「勇者を?」
「はい」
「なぜでしょう」
その質問に先生は少し考えた。
「子どもだからです」
「勇者です」
先生の目が僅かに細くなる。
「勇者であることと、子どもであることは両立するでしょう」
大赦側は何も答えない。
「私はこの世界の事情をまだ知りません。だから今はそれ以上言いません」
先生は立ち上がる。
「でも、知ろうとは思っています」
「承知しました」
「今日はありがとうございました」
「こちらこそ」
扉へ向かう。
先生は退出する直前に一度だけ足を止めた。
「一つだけ」
「何でしょう」
「私は昔、神様が水道も電気も作ってくれる世界には住んでいませんでした」
「……」
「だから少し時間をください」
先生は苦笑する。
「私にとって、ここはかなり変な世界みたいです」
扉が閉まった。
◇
部室へ戻った頃には夜になっていた。
扉を開ける。
「先生!」
友奈が真っ先に立ち上がった。
「ただいま」
先生は自然に答える。
「おかえり!」
その返事を聞いて、先生自身が少しだけ驚いた。
まだ会って一日も経っていない。
それでも、この部屋へ戻ってきたことを少しだけ安心している。
「ずっと待ってたの?」
「だって先生、帰るところないでしょ?」
「言い方がすごいなあ」
「本当でしょ?」
「否定できないね」
風が腕を組む。
「それで、大赦と何話したの?」
「難しい話」
「それだけ?」
「今はそれだけで勘弁してよ」
東郷が目を細める。
「誤魔化してます?」
「半分くらい」
「やっぱり」
「全部話せるほど私も整理できてないんだ」
先生は窓際へ歩いた。
外には街灯が並んでいる。
明かりがある。
電気が流れている。
だが、その電気を生む発電所は必要ないという。
蛇口を捻れば水が出る。
だが取水も浄化も、人間が行う必要はない。
先生がかつて暮らしていた日本ならあり得ない。
キヴォトスですら不可思議なものは多かったが、ここでは不可思議そのものが社会基盤になっている。
『先生』
アロナが呼ぶ。
「ん?」
『どうでした?』
「何が?」
『大赦の人たちです』
先生は少し考えた。
「分からない」
『怖かったですか?』
「少しね」
『やっぱり』
「でも怖いから悪い人ってわけでもないでしょ」
プラナが口を開く。
『先生は不快感を抱いていました』
「プラナはそういうところ正確だよね」
『事実です』
「うん。少し嫌だったよ」
『“少し”は』
「そこは見逃して」
先生は笑う。
それから勇者部の四人へ目を向ける。
「でもまだ何も知らないからね」
「何を?」
友奈が尋ねる。
「大赦も神樹様も、この世界のことも」
「……」
「私の知ってる常識で、この世界を勝手に決めつけるのは違うでしょ」
現代日本。
キヴォトス。
そして神世紀。
三つの世界。
三つの常識。
どれが正しいわけでもない。
だが。
だからこそ確かめなければならない。
「だからさ」
「うん?」
「教えてよ、結城さん」
「何を?」
「この世界のこと」
先生は少し笑った。
「結城さんたちが守ってる世界なんでしょ」
友奈は一瞬驚いたあと、満面の笑顔になった。
「うん!」
先生も笑う。
その時は、まだ知らなかった。
神樹の恩恵が何によって成り立っているのか。
勇者という存在が、何を代償として戦うことになるのか。
そして。
この世界の常識を知った時、自分がそれを受け入れられるのかどうかも。
ただ一つだけ。
先生は理解し始めていた。
ここは、昔自分が暮らした日本によく似ている。
だが似ているからこそ。
違っている部分が、ひどく目につく。
神世紀三百年。
神によって守られた日本。
先生が二度目に迷い込んだ異世界は、懐かしい姿をしているくせに、どこまでも知らない世界だった。
先生がキヴォトス以前は何をしていたか明記されてなかったと思うので、そこはオリジナルの要素として取り入れています。