花たちは嚮導者の夢を見るか 作:おこそつのぬほふもむよゆらわ
怖くない人しか誰かを助けられないなら、多分ほとんどの人は誰も助けられないよ。
昼間の中庭で、先生はそう言った。
怖くても、やらなきゃって思うことがある。
逃げたいけど、それより先に誰かを助けたいって思う時がある。
それを勇気って呼ぶなら、そうなのかもしれないね。
あの時の自分は、その言葉を分かったつもりでいた。
でも多分、何も分かっていなかった。
東郷美森はスマートフォンを握り締めたまま、目の前の戦場を見ていた。
風先輩は肩を痛めている。樹ちゃんは息を乱しながら、それでも姉の背中を追っている。友奈ちゃんは何度も吹き飛ばされて、そのたびに立ち上がっている。
先生は少し離れた場所から戦場全体を見ていた。
「結城さん、そこは下がらないで! スコーピオンが誘ってる!」
「うん!」
「犬吠埼さん、右! キャンサーの正面に立たない!」
「分かってる!」
『先生、サジタリウス再充填開始。推定二・三秒です』
「アロナ、着弾候補!」
『三つあります! 一番近いのは友奈さんの左後方!』
「結城さん、左じゃない、前!」
「前!?」
「前の方が安全!」
友奈が一瞬だけ迷い、そのまま踏み込む。
直後、背後へ光が落ちた。
爆発。
土煙。
友奈は無事だった。
「危なかったぁ!」
「止まらないで! 次来るよ!」
先生の声が飛ぶ。
速い。
東郷にはそう見えた。
バーテックスが動くより少し先に、先生が声を出す。
アロナとプラナから上がってくる情報を拾い、必要なものだけを選んで、誰に何をさせるかを決める。
全部分かっているように見えた。
先生がいれば大丈夫。
先生が見ていてくれるなら、きっと何とかなる。
そんなふうに。
自分でも気づかないうちに思っていた。
だから。
自分が何もできなくても。
どこかで。
大丈夫なのだと思っていた。
「……」
東郷は手元を見る。
スマートフォン。
自分にも同じものがある。
勇者として選ばれた証。
風先輩も。
樹ちゃんも。
友奈ちゃんも。
同じものを持っている。
それなのに。
自分だけが。
「何をしてるの……」
声は誰にも聞こえなかった。
風先輩は傷ついている。
樹ちゃんは怖いはずだ。
友奈ちゃんはもう何度目か分からないほど攻撃を受けている。
先生は戦えない身体で、それでも戦場へ残っている。
なのに。
自分は。
ただ見ている。
木偶の坊みたいに。
何もできない。
違う。
脚が動かないからではない。
そんなものは言い訳にもならない。
心が。
動いていない。
「東郷さん!」
先生の声。
東郷は顔を上げた。
「大丈夫?」
「……はい」
「無理しなくていいからね」
その一言が、逆に胸へ刺さった。
無理しなくていい。
戦わなくてもいい。
自分で決めていい。
先生はずっとそう言ってくれている。
だから余計に。
自分の弱さを誰のせいにもできなかった。
「友奈ちゃん……」
視線の先で友奈がスコーピオンへ拳を叩き込む。
一撃。
二撃。
三撃。
外殻が少しずつ軋む。
だがその背後でキャンサーが動いた。
「結城さん、離れて!」
「え?」
『先生、サジタリウス発射準備完了!』
「早い!」
先生が叫ぶ。
「結城さん、右!」
友奈が跳ぶ。
白い光。
サジタリウスの一射が地面へ落ちる。
外れた。
そう思った。
キャンサーが身体を傾ける。
「また反射……!」
先生の声。
「結城さん、そのまま走って!」
光がキャンサーの表面を滑る。
軌道が変わる。
友奈を追う。
「もっと右!」
友奈が走る。
間に合う。
東郷もそう思った。
だが。
スコーピオンが友奈の進行方向へ滑り込んだ。
「っ!」
友奈が止まる。
「結城さん、止まらない!」
先生の声。
その瞬間。
サジタリウスの光が友奈の背後へ落ちた。
衝撃。
友奈の身体が前へ吹き飛ぶ。
「友奈ちゃん!」
東郷の声が出た。
友奈が地面へ転がる。
一度。
二度。
三度。
止まる。
「結城さん!」
先生も叫ぶ。
『生命反応あります!』
アロナ。
『意識あり。呼吸数上昇。大きな外傷は現時点で確認できません』
「結城さん、返事!」
「……だい、じょうぶ!」
友奈の声。
弱い。
でも聞こえた。
「立たなくていい! 一回下がって!」
「でも……」
「いいから!」
先生の声が強くなる。
友奈は地面へ手をついたまま、少しだけ動きを止める。
その隙に風先輩が前へ出た。
「友奈は私が守る!」
「犬吠埼さん、無理しないで!」
「分かってる!」
風先輩の剣。
スコーピオンの尾。
ぶつかる。
大きな音。
風先輩の肩が震える。
「っ……!」
「お姉ちゃん!」
「樹、来ない!」
風先輩が叫ぶ。
「自分の位置を守って!」
「でも!」
「大丈夫だから!」
大丈夫。
その言葉。
先生もよく言う。
友奈ちゃんも。
風先輩も。
誰も大丈夫ではないのに。
大丈夫と言う。
誰かを安心させるために。
東郷は唇を噛んだ。
また。
見ている。
また自分だけ。
何も。
『先生』
プラナの声が低くなる。
「何?」
『スコーピオンの進行方向が変化』
「誰を狙ってる?」
一拍。
『先生です』
東郷の目が見開かれた。
「え?」
先生も一瞬だけ固まる。
スコーピオン。
今まで友奈たちへ向いていた身体が、ゆっくりと先生の方へ向く。
「先生!」
アロナの声。
「分かってる!」
先生が下がる。
だが。
その動きに合わせるように。
キャンサーも位置を変える。
サジタリウスの向きも。
『先生』
プラナ。
『複数個体の照準が先生へ収束しています』
「……私?」
『正確には、先生の携行しているシッテムの箱周辺』
「今それ考える暇ないね」
先生は周囲を見る。
「結城さん、動ける?」
「うん!」
「犬吠埼さん二人は結城さんのところへ! 私から離れて!」
「先生!」
風先輩が叫ぶ。
「いいから!」
先生が走る。
友奈たちとは逆方向。
敵の視線を引き剥がすように。
「先生、何してるんですか!」
東郷が叫んだ。
「東郷さんはそこにいて!」
「でも!」
「私を狙ってるなら、固まらない方がいい!」
理屈は通っている。
正しい。
でも。
先生は弱い。
自分で言っていた。
勇者の攻撃を一発まともに受ければ危ない。
バーテックスならなおさら。
「アロナ!」
『防護機構準備!』
「まだ張らないで! 来た瞬間だけ!」
『はい!』
『先生、右前方からスコーピオン接近。到達まで推定三・六秒』
「左は?」
『キャンサー』
「後ろ」
『サジタリウス射線形成中』
「綺麗に囲まれたね」
『感心している場合ではありません!』
先生は走る。
だが速くない。
勇者ではない。
普通の大人。
東郷には、それが嫌というほど分かった。
スコーピオンの尾が振り上がる。
『先生、来ます!』
「アロナ!」
青白い防壁。
展開。
尾がぶつかる。
鈍い音。
防壁は耐えた。
先生の身体が後ろへ押される。
「っ……!」
『負荷上昇!』
「まだ!」
『先生、サジタリウス発射まで一・四秒!』
「無理だね」
『先生!?』
「次は避ける!」
先生が横へ走る。
サジタリウス。
発射。
光が飛ぶ。
先生は飛び込むように地面へ倒れる。
直撃は避けた。
だが。
着弾。
爆発。
青白い防壁が咄嗟に先生の周囲へ展開される。
それでも。
衝撃全部は消せなかった。
先生の身体が地面から浮く。
「先生!」
東郷の声。
数メートル。
先生が投げ出される。
地面へ肩から落ちる。
転がる。
シッテムの箱だけは胸元へ抱き込むように守っていた。
『先生!』
アロナが叫ぶ。
『先生、応答してください!』
プラナの声も。
先生は動かない。
「……」
東郷の頭が真っ白になった。
先生。
あの先生が。
倒れた。
いつも。
どこか余裕があった。
知らない世界へ突然来ても。
神様から神託を受けても。
大赦へ一人で連れて行かれても。
バーテックスが三体来ても。
困ったように笑って。
大丈夫だよと言って。
戦場では全部を見ていた。
敵の動き。
友奈ちゃんたちの位置。
攻撃の予兆。
怪我。
退路。
先生が見ていてくれれば大丈夫。
そう思っていた。
万能ではないと知っていたはずなのに。
身体が弱いことも。
バリアだって無限ではないことも。
本人から聞いていたのに。
いつの間にか。
先生なら何とかしてくれる。
そう思っていた。
その存在が。
今。
地面に倒れている。
「先生……?」
『先生!』
アロナが泣きそうな声を上げる。
『応答してください!』
「……大、丈夫」
小さな声。
「!」
『先生!』
先生の指が動く。
「聞こえてる……」
ゆっくり身体を起こそうとする。
だが。
右腕に力を入れた瞬間、表情が歪んだ。
「っ……」
『右肩部に強い衝撃。骨折の可能性は低いですが、打撲を否定できません』
「頭は?」
『軽度の出血を確認!』
「意識あるから大丈夫」
『大丈夫ではありません!』
「そうだね……」
先生が笑おうとする。
いつもの笑い方。
でも。
声が震えていた。
「結城さんたちは……?」
『先生、今は――』
「プラナ」
『……戦闘継続中です』
「状況」
『犬吠埼風さん、負傷継続。犬吠埼樹さん、疲労増大。結城友奈さん――』
プラナの声が止まる。
「結城さんは?」
『スコーピオンと交戦中です』
先生が顔を上げる。
東郷も見る。
友奈がいる。
スコーピオンの前。
風先輩はキャンサーに阻まれて近づけない。
樹ちゃんも援護するが、届かない。
サジタリウスが再び光を集めている。
「結城さん!」
先生が叫ぼうとする。
声が掠れる。
「……っ」
息を吸う。
痛み。
咳。
『先生、発声を控えてください』
「でも指示を――」
『現在の状態で継続的指揮は推奨できません』
「……」
先生が黙る。
指揮が。
止まった。
その瞬間だった。
友奈がスコーピオンの尾を避け損ねた。
「っ!」
直撃ではない。
身体の横を掠める。
それでも。
友奈の身体が横へ弾かれる。
「友奈ちゃん!」
友奈が地面へ膝をつく。
立とうとする。
足に力が入らない。
それでも。
もう一度。
立つ。
「……まだ」
友奈が拳を握る。
「まだ、いける……!」
東郷はその姿を見た。
手が震えている。
脚も。
呼吸も。
怖くないわけではない。
痛くないわけでもない。
それでも。
立とうとしている。
先生の言葉。
怖いものは怖いよ。
痛いのも嫌だし、死ぬのも嫌だ。
でも。
それでも誰かを助けたいと思う時がある。
「……」
勇者部五箇条。
一つ。
挨拶はきちんと。
一つ。
なるべく諦めない。
一つ。
よく寝てよく食べる。
一つ。
悩んだら相談。
一つ。
なせば大抵なんとかなる。
友奈ちゃんが好きな言葉。
何度も聞いた。
笑いながら言っていた。
その言葉が今。
全く違う意味を持って胸へ落ちてくる。
なるべく諦めない。
絶対じゃない。
怖いなら怖くてもいい。
できないなら、できないことがあってもいい。
それでも。
今できることが一つでもあるなら。
「東郷さん……」
先生の声。
小さい。
東郷が先生を見る。
先生は地面へ座り込んだままだった。
顔に血が流れている。
右肩を押さえている。
それでも東郷を見ていた。
「……大丈夫?」
こんな時まで。
自分ではなく、こちらを。
「先生の方が……」
「私はいいよ」
「よくありません」
「そうだね」
先生が少しだけ笑う。
「でも」
その先を。
先生は言わなかった。
戦えとも。
助けろとも。
立てとも。
何も。
先生はただ東郷へ選ばせた。
最初からずっと。
「……」
東郷は前を見る。
友奈。
風先輩。
樹ちゃん。
先生。
みんな。
精一杯戦っている。
守ろうとしている。
誰かを。
自分だけが。
まだ。
何も。
「……嫌」
声が漏れた。
「こんなの」
怖い。
今だって怖い。
バーテックスを見るだけで身体が固まりそうになる。
戦場へ出れば傷つくかもしれない。
死ぬかもしれない。
勇者になれば何が起こるのかも分からない。
それでも。
友奈ちゃんが倒れる方が。
もっと嫌だった。
先生が傷つくのも。
風先輩が肩を押さえるのも。
樹ちゃんが泣きそうな顔をするのも。
全部。
嫌だ。
なら。
答えは。
もう出ている。
怖いなら。
怖いままでいい。
足が動かないなら。
動かなくてもいい。
でも。
手はある。
声もある。
心もある。
守りたい人がいる。
ならば戦え。
東郷美森。
迷うな。
その手で誰かを助けろ。
東郷美森。
友奈がまた攻撃を受ける。
「っ……!」
「友奈ちゃん!」
東郷の手が動いた。
考えるより早く。
スマートフォンを握る。
怖い。
でも。
もう止まらない。
この想いは。
きっと最初から胸の中に完成した形で存在しているものではない。
誰かが怖がりながら前へ出る。
その背中を誰かが見る。
その姿が。
知らないうちに。
別の誰かの胸へ灯る。
友奈ちゃんがそうだった。
先生も。
風先輩も。
樹ちゃんも。
みんな自分に何かをくれた。
なら。
今度は。
自分が返す番だ。
光が東郷の身体を包む。
「東郷さん……?」
先生の声。
友奈が顔を上げる。
「東郷さん……!」
変わっていく。
衣服。
身体を包む光。
手の中に形を成す武器。
重い。
でも。
不思議と怖くなかった。
いや。
怖い。
まだ怖い。
でも。
それでいい。
怖さが消えたから動けたのではない。
怖さより、守りたいという気持ちがほんの少しだけ大きくなった。
サジタリウスが光を集める。
狙いは友奈。
東郷の目が細くなる。
照準。
呼吸。
指。
引き金。
考えるより先に身体が動いた。
銃声。
一発。
東郷の弾丸が樹海へ響く。
サジタリウスの射線へ飛び込んだ。
爆発。
友奈の前で白い光が弾ける。
友奈が目を見開く。
「東郷さん……」
東郷は銃を構えたまま。
友奈を見た。
「友奈ちゃん」
声はまだ少し震えていた。
「今度は」
一度息を吸う。
「私が助ける」
今渦巻いているこの感情は。
恐怖を消す力ではない。
怖いまま。震えたまま。
それでも誰かのために手を伸ばすための力だ。
そして。
考えるより先に動いたその行動を。
人はきっと。
勇気と呼ぶ。