Persona4 : Side of the Puella Magica 作:四十九院暁美
目を開けると、私は鎖で椅子に縛り付けられていた。辺りを見回して、自分の居場所を確認してみる。木の壁と床、頭の上には天井から吊り下がる裸電球……どうやら私は、薄暗く、古ぼけた木造の小部屋にいるらしい。
何もない、物音の一つもしない妙な部屋だ。ここはいったい、どこなのだろうか。ぽつねんと、部屋の中央に座したまま考えようとした、その時、背後に気配を感じた。嫌な気配だ。反射的に身体を捻って、後ろを見遣る。肩越しに見えた気配の主は、窓を後ろにして私と同じようにじっと座す、深紅の両眼を持つ真っ黒な猫だった。
背筋が凍りつく。私は反射的に、逃げ出そうとした。ひどくおぞましい、不吉なものを孕んだ眼が、ただひたすらに恐ろしくて、一刻も早く、あのおぼろげな不穏を形にしたような存在から、逃れたかった。椅子から立ち上がろうと身体を揺りよじる度、じゃらっ、と巻きつく鎖が鳴る。声にならない悲鳴を上げて必死にもがいていると、不意に身体が妙な浮遊感に包まれた。小汚い床が迫ってきている。暴れたせいで、椅子が倒れたのだろう。それを認識した途端、ゆっくりと流れていた景色が加速する。手足を縛られた私は何もすることができず、背後から聞こえた猫の鳴き声に戦慄しながら、床に激突した。
直後、目を見開くと、自室の白い天井が見えた。さっきのは夢だったらしい。悪夢を見るなんて、疲れているのだろうか。私は上体を起こして溜め息を吐くと、いつものようにコーヒーを淹れようと立ち上がった。途端、足元がおぼつかなくなり、床に手を突いてしまう。視界が妙に揺らいで、頭が痛い。額に手をやると、髪は寝汗でじっとりと濡れていた。寝起きだからなのか、それとも、まだ夢の中にいるからなのか、気分があまりよろしくない。今日はこれから茜と出かける予定だというのに、こんなでは楽しむことは難しそうだ。
身体に魔力を循環させ、体調を無理やり整える。じわりと、ソウルジェムが濁った気がした。
八月三日。
茜に誘われて冲奈市に来た私は、買い物――と言っても、買ったのは本ばかりだが――を済ませて、行きつけのカフェで買った本を開いていた。対面の席には茜がいて、むふむふと笑いながら分厚い本を読んでいる。本の題名は、江戸川乱歩全集第五巻。彼女が大ファンだと言ってはばからない作者の傑作の数々、それを一冊にまとめた本だ。
江戸川乱歩と言えば、日本における探偵小説の第一人者であり、あの明智小五郎の生みの親でもある。彼の小説の特徴は、恐怖、グロテスク、幻想、ロマン、異常性癖、そしてマンネリズム。私は彼の作品に関しては、大半はあまり好きではないが――なにせ、後味の悪い終わり方をする作品が大半なのだ――、少年探偵団シリーズは好きだ。あの作品はロマンに溢れている。似たような展開がいくつもあるが、読んでいても不思議と苦にならない。怪人二十面相の登場シーンなど、今読んでも心が踊るほどだ。偉大なるマンネリズム……とでも言えば良いのか。とにかく、彼の作品には読ませる力がある。もしかしたら、彼の茜はそういうところが好きなのかもしれない。
「……はぁー、やっぱり面白いなぁ! さっすが江戸川乱歩先生だよ」
本を三分の一くらい読み進めた茜が、充足の滲んだ声を上げる。ご満悦な様子だ。目の前でそんなにも恍惚とした表情を浮かべられると、なんだかこっちまで楽しくなる。
「そんなに面白い?」
なんとなくそんなことを訊いてみると、彼女はふんす! と鼻を鳴らして熱弁し始めた。しかし、それがあんまりにも熱弁するものだから、私は話の途中で疲弊してしてしまった。まったく、話し始めると止まらないのは、彼女の悪い癖だ。
「もういいわ、茜。充分わかったから」
「え? そ、そう」
「ええ。もう充分に……ね」
茜はまだ話し足りない風だったが、これ以上は私が持たない。せめてもう少し、ゆっくり話してもらいたいのだが……いや、指摘してももう遅いか。私は浅く溜め息を吐いて、コーヒーに口をつけると、頭の中で彼女が言っていたとある言葉を反芻する。
――現世は夢、夜の夢こそ真。
江戸川乱歩が、サインに必ず書いていたという言葉だ。
そこで一度、私の思考は途切れた。
思い出せない。私は確かに、地獄に勝るとも劣らない苦しみを味わった。けれど、それがどのような内容だったのか思い出せない。苦しみが、苦しみだけが、私の身体に残っている。まるで、重しのように。こんなこと、前にもあった気がする。あれは確か、 "去年の四月" 頃、だっただろうか……ダメだ、わからない。
「……ほむらちゃん?」
茜の声で、はたと気が付く。また長考してしまったようだ。私も、彼女のことをとやかく言えないか。
「ごめんなさい。ちょっと、ぼーっとしてたわ」
微笑みと共に、手に持ったカップを置く。カップの中で揺れる私が、嘲りの笑みを浮かべていた気がした。
「大丈夫? 無理してない?」
よほど心配なのか、茜が眉をハの字に曲げて問いかけてきた。
「大丈夫よ。……もしかしたら、疲れが溜まってるのかもしれないわね」
私は表情を変えず答えた。茜も表情を変えなかった。どうやら、私の笑みには信用がないようだ。それはともかくとして、最近――あの子のことを思い出せなくなっていると自覚してから――はなんだか夢にうなされることが多くなったから、そのせいで少し顔色が悪いのかもしれない。今朝もおかしな夢を見た。どんな夢だったかは思い出せないが、とにかく嫌な夢だったことは憶えている。難儀だ。
「……そっか。じゃあ、今日はもう帰ろ?」
「え?」
「もうお買い物は済ませてるし、ね?」
「……ごめんなさい。気を遣わせて」
そう言うと、茜は愛用している赤いトートバッグに本を詰めて、席を立つ。いらない気を使わせてしまった。私は彼女に謝ると、コーヒーを飲み干して立ち上がり、彼女の隣に並んで店を出た。
街を歩いていると、なんとなく、見滝原を思い出す。あの街は、ここよりももっとごちゃごちゃしていて、統一感のない妙な景観をしていたことは憶えてる。今思えばあそこは、私にとって水底のように透明で重苦しい街だった。何故そう感じたのかはわからない。きっと、失いかけている記憶と関係があるのだろう。
それにしても、どうして私は記憶を失いかけているのだろうか。自慢じゃないが、記憶力はそれなりに良い方だと自負している。まして、この記憶は――どうしてだか、半分近く思い出せないが――大切で尊いものだ。そう易々と忘れるはずがない。バーベキューの時にも感じたが、これは実に作為な記憶喪失だ。誰かが私を陥れようとしている? いや、そんなはずはない。特捜隊のみんなにそんな力はないし、こういうことができそうな杏子には、こんなことをする理由が見当たらない。そもそも私を陥れたとしても、得るものなんて、精々がちっぽけな自己満足くらいだろう。よほどの恨みを持ってない限りは、労力を割く意味がないことくらい、ちょっと考えれば誰だってわかる。何が原因なのか、思い至らない。ああ、まったく難儀な問題を抱え込んでしまったものだ。
歩調を緩めて、茜の小さな背中からついと目を逸らし、溜め息を吐く。陰の滴る路地裏に、嘲笑を浮かべた私と、深紅の瞳を持った黒猫がいた気がした。
さざ波が聞こえる。目を開けると、私は砂浜にいた。目の前には黒い海が無辺際に広がり、足元には砂に埋もれた貝殻がいくつも転がっていて、空には黒い太陽が昇っている。辺りに人の気配はなく、建物の姿も見えない。あるのは私と、砂浜と、海と、空と……この貝殻たちだけ。それ以外は何もない。とても、虚しい場所だ。
私はなんとなく、足元に転がっている貝殻を数えてみた。見えるだけでもかなりの数はあったが、数えてみると、その数は百個を超えているのではないかと思うくらいに膨大で、五十を超えたあたりからは数えるのに飽きてしまった。どうしたら良いのだろうか。やることがなくなった私は、深い溜め息を吐いて、足元の貝殻を一つだけ拾い上げた。その貝殻は紫と黒のまだら模様で、美しいというよりは汚らしい。
ツマラナイ。貝殻を投げ捨てる。
波の音だけが響く、がらんどうな世界。ここで私は、何を見ていたのだろう。何をしようとしていたのだろう。空を見上げてみても、わからない。だからなのか。私はいつの間にか、海に向かって足を進めていた。海水に足をつけると、ぞっとするほど冷たい波が、私の足を撫でる。それでもなお足を止めずにいると、ついに私は、全身を真っ黒な海に浸した。
冷たくて、静かで、暗い世界を進んでいく。しばらくすると、足裏から伝わる感触が、砂からコンクリートのそれに変わる。辺りを見回すと、どこかの水没都市のようで、栄華を誇ったかつての面影が微かに見えるだけの、見覚えがあるような、哀しい風景が広がっていた。ここは、いったいどこなのだろうか。都市に視線を這わせながら歩いていると、先の方に、二つの白い光がぼんやりと揺らめいているのを見つけた。その光はこちらの近付いているようで、だんだんと大きくなっている。少しだけ身構えて足を止めると、光も私の目の前で足を止めた。
二つの光は、それぞれ私と同じようで、けれど同じじゃない姿をしていた。一つは昔の私、お下げ髪に赤縁の眼鏡をかけた気弱そうな私だ。もう一つはあの頃の私、鎖で体を縛られてひどく憔悴した顔をした私だ。
「何をしているの?」
二人に問うと、昔の私が戸惑いながら答えた。
「私に、会いたいなって、思った……?」
あの時の私は何も答えなかった。ただ、恨みの篭った視線を私に向けている。そうして、しばしの沈黙が場を満たす。
「お前は……」
不意に、あの時の私が口を開いた。怒りに震えた、今にも消えてしまいそうな声で、呟いた。
「お前は……私の――!」
そこで、はたと気が付く。自室の天井が目に入った。
また悪夢を見ていたらしい。なんだか最近は、悪夢を見てばかりな気がする。溜め息をついて上体を起こすと、少し気分が悪くなった。魔法で無理やり体調を整えると、私はいつも通り、コーヒーを淹れようと立ち上がった。
茜と冲奈市に出かけた次の日、私は河原でぼんやりと石を積んでいた。なんだかわからないが、そうしたくなった。真昼間から昼も食べず、何をしているんだか。これじゃあまるで、賽の河原の子供だ。一つ積んではなんとやら。そのうち鬼が来て、私が積み上げた石の塔を崩してしまうに違いない。
しかし、こんなことをしてしまうのは、やはり毎晩見る悪夢のせいなのだろう。今日は確か、海岸で貝殻を数える夢だったような気がするが、それもやはり悪夢で、ガラスよりも透明で重力よりもなお重苦しい、嫌な夢だった。どうして悪夢を見るのだろう。やはり、過去を思い出せないのが原因なのか。
なんてことを考えていると、後ろから声をかけられた。
「暁美?」
振り向くと、鳴上くんが実に不思議そうな顔をして立っていた。
「こんにちは、鳴上くん」
私は立ち上がって振り向き、笑顔であいさつした。鳴上くんも笑顔で挨拶を返してくれた。
鳴上くんの笑顔は、どういうわけか、見ているだけでなんだか安心する。仲間だから、だろうか。よくわからないが、多分これは良いことなのだろう。
「何をしてたんだ?」
「暇してたのよ」
鳴上くんの問いに答えながら、積み上げた石の塔を踵で軽く蹴飛ばす。適当に積み上げられた石の塔は、無惨にも崩れてバラバラと河原に転がってしまった。どうやら、河原の鬼は私自身だったらしい……なんて、バカみたい。
「そっか……なら、一緒に昼食べないか?」
「ええ、良いわよ」
誘いを二つ返事で了承する。今日は、なんだか楽しい一日になりそうな気がして、私は笑った。
鳴上くんに連れられて、人の混み合う愛屋に入った私は、案内されたテーブル席に着くとすぐに、かに玉チャーハンと塩ラーメンを頼んだ。もちろん、全部大盛りサイズだ。彼は少しだけ引きつった顔をしていたが、お腹が空いているんだから仕方がない。私はなるべくなら、お昼はガッツリ食べたい派なのだ。それに、ここは安くて美味しいから、ついつい追加で一品頼んでしまう。まったく、罪な店である。
「たくさん食べるんだな」
「美味しいものは、できるならたくさん食べたいものでしょう?」
「確かに」
私がそう言うと、鳴上くんは呆れたように笑って同意して、肉丼の大盛りを頼んだ。
「そういえば、貴方は好きなものとか、趣味とか、昔のこととか……あんまり訊かないのね」
「まあ、接してたらそのうちにわかるから」
「今すぐ相手のことを知りたいって、思ったりしないの?」
「んー、普段はない。けど、何か悩んでるような、深刻そうな顔をしてたら訊くな。心配だし」
「ふーん……じゃあ、私が深刻そうな顔をしてたら、訊いてくれる?」
「え?」
そこまで言って「あれ、何を言っているんだ私は」と思った。これじゃあまるで、自分のことを訊いてほしいみたいじゃないか。いや、訊いてほしくないわけじゃない。けれどこれは、訊いてほしくて、わざと回りくどい言い方をしているように聞こえる。私は、鳴上くんに私のことを知ってほしいのか? ……なんだかよくわからなくなってきた。鳴上くんも驚きで固まっている。私はいったい、どうしてしまったのだろう。ああ、沈黙が重たい。
「ごめんなさい。今のは、何というか……その……」
思わず嘆息混じりに謝る。まったく、今日は何だか妙に調子がおかしい。目元を指先で揉んで、難しい顔をしていると、鳴上くんが真面目な顔ではっきりと言った。
「訊くよ」
「え?」
「暁美が悩んでたり、苦しんでたら、訊くよ。それで、一緒に悩んで、解決する」
それを聞いて、ふと、不思議な感覚を覚えた。何と言えば良いのか、窓から射し込む陽光を浴びているような暖かさみたいな、そんなものを感じる。こういうのを、心底安心した、と表現するのだろう。とても安らかで、良い気分だ。
「そう……ありがとう」
私は多分、安堵が滲んだ声で礼を言ったのだと思う。おかしな話だが、自分でもどんな声で言ったのか、わからなかった。やっぱり、今日の私はどこかおかしい。いや、今日だけじゃない。なんだか最近は、まるで私が私じゃないみたいだ。記憶を失いかけていると自覚したことが、トリガーになったのだろうか。わけがわからない。
地に足がついていないような、どこかフワフワとした心持ちで鳴上くんと話していると、料理がやってきた。かに玉チャーハンも塩ラーメンも、美味しそうな香りがユラユラと立っていて、食欲がそそられる。さっきまでの腹の虫がことに騒いで、もう我慢できそうにない。彼と顔を見合わせて笑いあうと、いつも通り心中で祈りを捧げ、それからかに玉チャーハンをレンゲで掬い、口に運んだ。
美味しい。
チャーハンのパラパラモチモチな食感に、かに玉が持つ卵の優しい甘さとかにの風味が、口の中で熱々の甘塩っぱいあんと絡み合って、素晴らしいハーモニーを作り出している。ただ、味が少し濃い。ずっとこれだけを食べるのは、ちょっとキツイだろう。そこで、この塩ラーメンが輝く。レンゲから箸に持ち替えて、スープが飛び散らないように麺を啜る。固めに茹でられた麺に絡む、後味に残らないあっさりとしたスープが、さっきまで口に残っていたこってりを洗い流していく。ネギのみずみずしい食感も相まって、スープを一口飲めば鶏ガラとトンコツの味がさっぱりと、簡単に舌を美味しくリセットしてくれる。だが、やはりこれだけでは少々味気ない。あっさりすぎて、なんだか食べている気がしない。そこで、このかに玉チャーハンを食べる。濃い味のかに玉チャーハンと、あっさりした塩ラーメンを交互に食べることで、実に良い味の塩梅になるだ。
そうして食べ進めること十分、ご飯粒の一つも残さず食べ尽くし、スープも全部飲み干した私は、ほうと長い息を吐いて食器を置き、両手を合わせて食後の挨拶をした。
「ごちそうさまでした」
満腹だ。もう何も入りそうにない。
しかし、クーラーが効いてるとはいえ、こう熱いものを食べていると、汗を掻いてしまう。額から流れる汗を右手の甲で拭い、お冷を飲んで少しだけ休憩する。キンキンに冷えた水が、喉を落ちていく。堪らなく、気持ちが良い。
「今日も美味しかった」
そう言うと、店主はいつも通り「アイヤー」と妙な掛け声を上げる。毎回毎回思うのだが、どうして彼はこんなエセ中国人めいた言葉使いなのだろうか。というか、彼は日本人なのだろうか。謎である。
それはさておき。
「さて。これからどうするの?」
このまま、昼食を食べ終えたらさようなら、というのはもったいない。鳴上くんと、どこかで――と言っても、この辺りにはジュネスしかないが――遊びたい気分なのだ……が、どうにも今日の私はガードが緩いというか……いや、普段は硬いのかどうかと訊かれると、ちょっと答えにくいが、いつも以上に緩い感じがする。このまま彼と遊んだら、いらないことまで話してしまいかねない……ような気がする。
なんて考えていたのだけれど、気がついたらこんなことを言っていた。まったく、今日はもうなんかいろいろダメだ。誰かに操られてるみたいに、コントロールが効かない。難儀なことだ。
「そうだな……ジュネスにでも行こうか」
「まあ、そうなるわよね」
そんな会話をした後、私たちは会計を済ませて外に出た。
なんだか調子がおかしいけど、そのおかげで鳴上くんとの仲が深まった気がする。どうせなら、今日一日だけは、もう少しだけこのままでいても、良いかもしれない。
コミュニティ:暁美ほむら
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