Persona4 : Side of the Puella Magica   作:四十九院暁美

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第31話

 気がつくと私は、右も左も、上も下すらもわからない鈍色の荒野に立っていた。あたりには深い霧がかかっていて、何も見えない。耳を打つのは、微かに水の流れる音と、コツ、コツ、と何か硬いものを合わせる音だけ。ここはいったい、どこなのだろうか。そう思ったのも束の間、どこからか聞いたことのある少女声が響いてきた。

 

 ――一つ積んでは父のため……二つ積んでは母のため……三つ積んでは人のため……一つ積んでは……。

 

 声を聞いた途端、得体の知れない恐怖に襲われて、後退る。水音が響き、同時に、足元がひんやりとした何かに覆われた。見ると、私は底の見えない真っ黒の水に、太ももまで浸っていた。

 さっきまで何もなかったのに、どうして。

 焦燥にかられ、岸に上がろうと視線を彷徨わせる。けれど、霧のせいで何も見えない。下には暗黒の川が無辺際に広がっていて、どこを見ても霧で真っ白。岸なんて見えやしなかった。

 水は遂に腰の辺りまでせり上がっている。必死に辺りを見回していると、黒の底で、何かが光った気がした。ぼんやりと輝く二つの赤い光が、私を見つめている。私は得体の知れない恐怖に負けて、声にならない声を上げて、どこかへ走り出そうとした。けれど足は動かなかった。誰かに掴まれている。この水よりもなお冷たくて、幼さの残る柔らかな手が、私の足を掴んで離さない。

 このまま私を、水の中に引きずり込む気なんだ!

 気が付いてしまったら、もうダメだった。全身が震え竦み、頭が真っ白になって、息をすることさえできなくなる。水はもう喉元まで来ていた。私は必死に上を向いて、ここから逃げ出そうとした。霧の隙間から見えた空は青よりも青くて、あらゆる生命を愛でていたけれど、そこに私への愛はなかった。空が灰色に染まり、暗雲の隙間から黒い太陽が顔を出す。あの美しい青を湛えた空が、色のない無情の空に変わり果てた。私から、目を逸らすように。

「ぁ……」と掠れた声が私の口から漏れだすのと同時に、口から、鼻から、目から、耳から、身体のありとあらゆる場所から、私の中に、冷たい水が入り込んできた。沈んでいる。深淵の水底に向かって、私は落ちている。ここまで来てしまったら、もう助からない。頭の片隅でそれを理解しながらも、私は助けを乞うた。必死に泣き叫んだ。水面越しに見えるあの青空に手を伸ばして、もう一度だけ光を掴もうとした。目を見開いて、あの空を見ようとした。けれどそれは、口に出すと気泡になってゴボゴボという虚しい音に変わり、掴もうとしても形のない水を切るばかりで、遥か遠くに過ぎていくか細い光が見えるだけ。

 

 ――賽の河原に、積んでは崩れる……積まれた石の塔は、もうすぐ崩れる……。

 

 そんな声が聞こえた瞬間、身体が自由になった。光が両目を刺し貫く。上体が起き上がる。白色に染まっていた視界が色を取り戻すと、そこは見慣れた自分の部屋だった。

 呆然とした心持ちで、伸ばしていた腕を下ろし、荒い呼吸のまま辺りを見回す。カーテンの隙間から差し込む陽光が、私の枕を照らしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 八月二十一日。

 今日も祭りは続いている。が、私はいかない。昨日も行った祭りに今日も行くなんてことは、誰かに誘われない限りはしないだろう。まあ、誰かと言っても、私の友達は鳴上くんたちと茜くらいだから、祭りに行くことは多分ない。気分もあまり良くないから、今日は家でゆっくり過ごすことにしよう。

 そんなことを思いながら、机の上に置かれたぬいぐるみを指で突っついていると、携帯が鳴った。だれかと思って画面を見ると、そこには "志筑(しづき)さん" と表示されていた。

  誰だろうか。

 この表示を見るに、おそらくは携帯の電話帳に登録されている人物なのだろう。そして、電話帳に入っているということは、私の知り合いということになるのだが、何故だか、どんな人物だったか思い出せない。そもそも、こんな名前の人物と会った覚えすらないのだが……わからないな。いったい、いつ交換したんだったか。

 とりあえず、出てみることにした。

 

「はい、もしもし」

 

『ごきげんよう、暁美さん。お久しぶりですね』

 

 電話越しに聞こえてきたのは、育ちの良さが滲み出る上品な少女声だった。

 ふと記憶が "浮かび上がってくる" 。

 ガラス張りの教室、短髪で活発そうな顔をした少女と、ウェーブがかった髪の淑女然とした少女、それから、机に広げられた二冊の英語のノート。

 そうだ、思い出した。彼女は、志筑仁美(しづきひとみ)は "私の親友" だった。中学三年生の時に恋人の、確か上条恭介(かみじょうきょうすけ)……だったか。彼と一緒にアメリカに渡って、それきり連絡を取り合っていなかったんだっけ。今頃になって連絡してきたということは、こっちに戻ってきたということなのだろう。

 

「ええ。久しぶりね、 "仁美" 」

 

 思わず表情を崩して、彼女に言う。

 

『……へ?』

 

 返ってきたのは、ひどく驚いたような、間の抜けた声だった。向こうで何かあったのだろうと思ったが、携帯からは物音ひとつ聞こえない。どうも彼女は、私の発言に驚いているらしい。

 

「何? どうかした?」

 

『ぁ……い、いえ。その』

 

 戸惑った声が耳を打つ。

 まったく、わけがわからない状況である。彼女は何故、私の声に驚いているのだろう。長く向こうにいたせいで、私の声を忘れてしまったのか。仁美の妙な反応を訝しんでいると、彼女はおそるおそると言った様子で、私に訊く。

 

『……あの、本当に暁美さん……ですか?』

 

 おかしな質問をするものだ。私は片眉を上げて、仁美の問いに答えた。

 

「そうだけど……どうかしたの、仁美? 貴女、なんだか変よ」

 

『い、いえ! その……なんだか、私が知っている頃よりも、随分、お変わりに、なられたようで……』

 

 どうやら仁美は、私の変わりようが凄まじすぎて、驚いていただけらしい。だが、彼女は今のような私を知っているはずだ。まあ、多少はあの時より明るくなったとは思うが、それでもこんなに驚くことがあるだろうか。

 ……何かが、決定的に食い違っているようなきがするものすごく嫌な感じがする。

 

「ねえ、仁美」

 

 ゾッと、恐ろしい気持ちになった私は、この恐怖の正体を暴こうと、仁美に問うた。

 

『……はい』

 

「一つ、訊いて良いかしら」

 

『……なん、ですか……?』

 

「貴女の知っている私は、どんな私だった?」

 

 すると彼女は、私が醸すある種の異様な雰囲気を感じ取ったのか、しばらくの沈黙の後、おそるおそると言った様子で答えた。

 

『…… "内気" で "弱気" で、それに、ちょっとドジなところもありますけれど、常に "前向き" で、 "勇気" のある強い子……でしたわ』

 

「内気で……弱気……?」

 

 ザラザラとした感覚が、これ以上聞いてはいけないと訴えるように、脳髄を苛む。今ならまだ引き返せる、適当な理由をつけて、電話を切れと。けれど私は、何かに操られたように、自分の意思とは無関係に、さらに問う。

 

「その時の私は、どんな、姿だった……?」

 

 仁美は、少し迷ったように言い淀んでから、私の問いに答えた。

 

『眼鏡を、かけていて……三つ編み……でした』

 

 瞬間、目を剥き、言葉を失う。

 違う。

 私の記憶と、仁美の記憶は、食い違っている。

 これはいったい、どういうことなの? なんで、私の記憶と、彼女の記憶が食い違っているの? だって、 "杏子" が直してくれたはずなのに、どうして…… "杏子" ? 杏子が、何だと言うの? 私に、何をしたの?

 頭を抱え、膝をつく。自分の中で、何かにヒビが入ったような、嫌な音がした。

 私は、私の記憶は、どうなっているの? 正しいの? 間違ってるの? どこからが本当で、どこからが嘘なの?

 わからない。かんがえたくない。

 

『暁美さん……?』

 

「……ごめんなさい、仁美。私……」

 

『……ぁ、その……よくわかりませんが、元気を出してください。何があっても、私は、暁美さんの味方ですから。……お願いだから……いなくならないで……』

 

 私の異様な雰囲気を感じ取ったのか、気遣いの言葉をかけてくれた彼女の声は、とても切実だった。

 

「ええ……ごめんなさい」

 

『……それじゃあ、また……今度は、一緒にお食事でもしながら、お話ししましょうね?』

 

「……ありがとう……仁美。また、今度」

 

 通話を切り、しばらくの間、何も考えずに真っ黒い携帯の画面を眺める。画面に映る私は、嘲笑を浮かべていた。

 ふと、茜と話そうと思った。あの子と話していれば、この不安を忘れられる気がしたから。

 

『もしもし? どうしたの、ほむらちゃん』

 

 電話をかけると、二回目のコールが終わった直後に、茜は出た。彼女が私の名前を呼んでくれる。それだけで、私は少しだけ、救われた気がした。

 

「なんでもない。ただ、貴女の声が、聞きたくなっただけよ……ごめんなさい、急に」

 

『そっか……ううん、良いよ別に。謝んなくたって』

 

 彼女は私の声の様子から何かを悟ったようで、意を決したような、無理をしているような、強張った口調で言う。

 

『お祭り、今日もやってるね。……その、昨日は別々だったから、今日は一緒に行こ? ……私ね、話したいこと、あるの。ほむらちゃんに、言いたいことあるんだ。だから……ね?』

 

「……ええ、わかった」

 

 私は何も考えず、ただ彼女の誘いに応じた。

 

 それからしばらくして夜になり、鳥居の前で待ち合わせた私たちは、出会うなり一言も交わさず、境内に足を踏み入れた。

 祭りは相変わらず賑やかで、たくさんの人が楽しそうにしていたけれど、私たちの表情はそれとは対照的。浴衣で来た昨日とは違って今日は私服だったけれど、仁美と話して以来、気分が落ち込んでいたから、別に話題になることもなく、適当に屋台をぶらつくだけ。仁美に罪はない。彼女はむしろ、私のことを案じてくれていた。茜も祭りを回っている間、私のことを心配してか、無理したように明るく振舞ってくれていた。でも私は、本当に、何か考えることが怖くて、そんなことを気にかけることすらできなかった。

 しばらく祭りを回って、元気付けるのは難しいと悟ったらしい茜が、高台に行こうと誘う。私はそれにただ頷いて、後について行く。言葉はなかった。高台に着いても、言葉を交わすことはない。ただ黙して、祭りばやしがこだまする町を見下ろす。

 

「ほむらちゃん」

 

 不意に、茜が私の方を見て、言う。

 

「私、話したいことがあるって、言ったよね。……話しても、良いかな」

 

 彼女の声には、確固たる意志が籠っていた。

 彼女の目には、毅然とした力が宿っていた。

 

「……ええ」

 

 私が空虚な声で応答すると、茜はほんの少しだけ間をおいて、話し始める。

 

「私ね。最近、ほむらちゃんのこと、わからないんだ……ほむらちゃんは、みんなに会って変わったよね。明るくなったし、それに、たくさん笑うようになった」

 

 頭の中に、音が響く。

 カチ、カチ、カチ、カチ。

 景色が、少しだけ遠のく。

 なんだか、とても嫌な気分だ。

 

「前は、ぜんぜん笑ってくれなかったから、笑ってくれて嬉しかった。だって、あんなに悲しそうな顔してたほむらちゃんが、楽しそうに笑ってるんだもん。変わってくれて良かったって、本当に、本当にそう思ったんだ!」

 

 違う。

 楽しくなんかない。

 変わってなんかない。

 ――知るのが怖いから、バカをして忘れたいだけ。上辺だけで、中身のない笑みを浮かべて誤魔化してる。

 

「でも、それが、だんだん不安になってきたの。ほむらちゃんが明るくなってくれた。それって、とっても嬉しいことなのに……なんだか、ほむらちゃんが別人みたいに思えて……」

 

 私が、別人?

 私が、ほむらじゃない?

 ――そう、お前は違う。

 

「それで、ずっと悩んでた……そんなことないって思ったけど、やっぱり不安で、ほむらちゃんがわからなくて……」

 

 また、ヒビが広がる。

 カチカチ、カチカチ、カチカチ。

 広がっていく。

 ひどい耳鳴りと、頭痛が、私の精神を苛む。

 

「変だよね? おかしいよね? ……ほむらちゃんのこと、疑うなんて……」

 

 疑う? 私を?

 私が、わたしじゃないから、うたがってるの?

 ――疑われて当然。だって貴女は……。

 

「きっと、私が……」

 

 ――偽物なんだから。

 

「違う」

 

「……え?」

 

 言葉を遮るように、声を上げる。もう耐えられなかった。これ以上聞いていたら、壊れてしまいそうだった。

 

「違う……違う……! 違う違う違う違うっ!」

 

 割れそうなほど痛む頭を抱え、肩で息をしながら叫ぶ。

 

「私は……私はッ! 暁美ほむらだ! 偽物なんかじゃない!」

 

「っ!? ……ほ、ほむらちゃん? どうした、の? 待って、落ち着いて……ね? 」

 

 茜は驚くと、ひどく不安そうな顔で、怯えたような声で私に問いかける。それがことさらに私の不快感を煽った。

 

 ――本当は知ってるくせに、いまさら何を言っているの?

 

「知らない……そんなこと、知らない! 知りたくない!」

 

「そ、そんな、つもりじゃ……落ち着いて、お願い……ほむらちゃん、ねえ、ほむらちゃん!」

 

 ――愚かね……もう、見ないフリなんてできないのに。

 

 膝から崩れ落ちる。

 もう、立っていられなかった。

 

 ――誰も言わないなら、私が言ってあげる。

 

「違う! 私は!」

 

 ――お前は、暁美ほむらじゃない。

 

「私はっ、暁美ほむら……!」

 

 ――お前は、ほむらじゃない。

 

「私は、……ッ!」

 

 ――お前は、ただの偽者。空っぽで、何も持たず、何も手に入れられず、哀れなほど薄っぺらに生きている、作り者。

 

「違う……ちがう、ちがうちがうちがうちがうっ!!」

 

 声が大きくなる。世界が遠くなって、暗くなる。私がまた、曖昧になる。頭の中で音が大きくなって、私を塗りつぶしていく。

 

 ――お前は逃げてる。お前は逃げてる。

 

「うぅ……うううう!!」

 

 もういやだ。なにもかんがえたくない。なにもききたくない。なにもみたくない。このままきえてしまば……。

 

「ほむらちゃん!!」

 

 不意に、何か暖かいものに包まれる。気が付けば、茜が私のことを抱きしめていた。

 

「ごめん、ごめんね……ほむらちゃんも、悩んでたんだよね、苦しかったんだよね……ごめんね。私……ごめん」

 

 茜が必死な声でひたすら謝りながら、私の背中をさする。少しだけ、世界に色が戻った気がした。

 

「茜……茜は、信じてくれるでしょ? 私は、暁美ほむらだって……偽物じゃないって……」

 

 私が縋り付くように問いかけると、彼女は優しく、自分に言い聞かせるような声で囁く。

 

「うん……ほむらちゃんは、偽物なんかじゃない。……ほむらちゃんは、ほむらちゃんなんだから」

 

「本当に……? 嘘じゃ、ない?」

 

「本当だよ。どんなほむらちゃんも、偽物なんかじゃない。全部……全部ほむらちゃんだよ」

 

 さらに強く、抱きしめられる。

 とても、安心した。自分の存在が許されたことに、ただひたすら安心した。曖昧だった私が、形を帯びていくのを感じる。もう、私を責める声も聞こえない。遠のいていた景色も、元に戻っていた。

 

「ねえ、茜」

 

「何、ほむらちゃん」

 

 僅か落ち着きを取り戻した私が、そっと名前を呼ぶと、彼女は静かな声を返してくれる。それが、何よりも心地良い。

 

「貴女は、私の……友達、よね?」

 

「うん、友達。親友だよ」

 

「私は、ここにいて……いいのよね?」

 

「良いんだよ。ほむらちゃんは、ここにいて」

 

 私が問いかけると、彼女が答えてくれる。それが、嬉しくてたまらない。全てを肯定してくれているような、そんな気さえしてくる。

 

「私から、離れたりしないよね……?」

 

「しないよ、そんなこと。絶対に、絶対にしない。私はずっと……ほむらちゃんの味方だよ」

 

 茜の言葉を聞いた私は、ただただ嬉しくて、すごく満ち足りた涙が流れた。

 

「それにね? もしも……そんなこと、絶対にないけど……もしも、みんながほむらちゃんを否定しても、私が……ううん、私だけじゃない。鳴上くんたちみんなが、ほむらちゃんの居場所になる。帰る場所なってくれる」

 

「うん……うん……!」

 

「だからもう、悲しまないで」

 

 彼女の背に腕を回し、力を込める。すると、彼女も力を込めて、私を抱きしめる。

 私は、たくさんの人に助けられているんだと、支えられているんだと、確かめるように、彼女の胸の内で嗚咽の声を漏らし続けた。

 そうしてしばらく泣いていると、なんだかとても晴れやかな気分になった。心の淀みが消えたわけではないけれど、それでもある程度は、涙と一緒に流れてなくなったような、そんな気がする。

 

「ありがとう……茜……」

 

 そう言うと、彼女は何も言わず、一層強く私を抱きしめるのだった。

 

 

 

 

 

 そして、次の日。

 茜のおかげなのか、今日はここ最近悩まされていた悪夢を見ずに起きた。なんてことないように思えるかもしれないが、毎日悪夢にうなされて起きていた私にとっては、とても喜ばしいことだ。こんなにも清々しい目覚めはいつ以来だったか。もう、遠い昔のように思えてしまう。なんだかやっと、人らしい心地になれた気がする。今日一日、なんの憂いもなく過ごせそうだ。茜には、感謝しても仕切れない。

 さて、今日は前々からみんなと約束していた、海に行く日である。この日のために原付の免許も取りに行ったし、原付に乗る練習もした。マリーも来ることになっているけれど、二人は原付の免許を持っていないから、列車で先に行っているそうだ。茜とマリーは二人きりというのは少し不安だが、茜のスイッチが入らなければ多分大丈夫だろう。

 しかし、私は自転車に乗れないから少し不安だったけれど、原付には案外すんなりと乗れるようになったには驚いた。ちょっとだけ拍子抜けした感じもある。まあ、自転車と原付ではバランスの取り方がだいぶ違うから、当たり前か。

 私はいつだったかマリーに選んでもらった服を着替えると、水着――林間学校の時、花村くんからもらったものだ――やタオルを入れたリュックサックを背負って一階に降りていき、リビングのソファに座ってバイクの専門誌を読んでいる父さんに声をかけた。

 

「父さん。今日、原付に乗っていこうと思うんだけど」

 

 私が乗る原付は父さんのお下がりだから、乗る時は一声かけることになっているのだ。

 

「……そうか。ヘルメットは、押入れの一番上にある。鍵は、右下の白い箱の中だ」

 

 父さんは静かな声で答えると、ついと右の人差し指で押入れを指す。ほぼ、父さんのバイク用具入れになっている押入れだ。

 

「わかった。ありがとう、父さん」

 

 私は礼を言うと、押入れから黒い半球型のヘルメットと妙なキーホルダー――緑の蛹にほわっとした顔がついたキャラクターで、側頭部に "うめてんてー" と書かれている。父さんの趣味ではないから、おそらく母さんが勝手に付けたのだろう――がぶら下がった鍵束を取り出し、父さんと母さんに行ってきますと告げてから、靴を履いて外に出た。

 私が乗る原付は、家の横にあるガレージに父さんのバイクと一緒に置いてある。紫と白でおしゃれにカラーリングされた "モト・コンポ" という、長方形型の小さな原付だ。父さんが改造したせいで、元々はあった折りたたみ機能無くなった上、内蔵されて中身がほとんど別物らしい。まあ、私にはあまり関係ないことだ。

 モト・コンポに付けられていた盗難防止用のチェーンを外して、座席とハンドルの間に設けられた小箱にしまうと、ヘルメットを被って原付に跨り、そして、なんとなく気合いを入れるように「……良し」と呟いてから、鍵を差し込んで回し、本体の左後ろにあるキックレバーを踏んで下げる。途端、軽快なエンジン音が耳を打ち、振動がハンドルを通して伝わり身体を揺らす。今回は機嫌が良いのか、一回でエンジンが点いた。悪い時は何回もキックレバーを下げなければならないから、ありがたい限りである。

 アクセルを捻り、ガレージから、夏の日差しが降り注ぐ道路へと飛び出す。時速は三十キロ前後。身に打ち付ける風は、涼しくて気持ちが良い。真夏の茹だるような暑さなんて、ちっとも気にならないくらいに爽快だ。

 鼻歌の一つでも歌いたい気分で道路を走っていると、陽炎の先にある駅でみんなが待っているのが見えた。ユラユラと朧げな彼らは、それぞれ違った原付に乗っていて――まだ年齢が十五の巽くんは自転車、クマは何故か着ぐるみ姿である――、カラーリングも、各々の個性が表れたものだった。どうやら、私が最後らしい。

 しかし、巽くんが自転車なのはわかるが、クマのアレはなんだ? 着ぐるみの足裏にローラースケートがくっついているように見えるが、まさかアレでついてくる気なのだろうか。もしそうなら、ちょっと無謀すぎじゃあないだろうか。いや、原付に自転車でついてこようとする巽くんも、充分すぎるくらい無謀なのだけれど、クマのそれはいろいろとおかしすぎるような……まあ、クマの奇行に関しては今更だし、気にしたら負けなのかもしれない。とりあえず、途中でバテてついてこられなくなったら、私が面倒を見てやるか。

 

「お待たせ。待たせちゃったかしら」

 

「全然。みんな、さっき来たばかりだ」

 

 みんなの側に原付を停めて問うと、鳴上くんがそう答えてくれた。みんな原付のエンジンは点いたまま、ヘルメットも被ったままだから、彼の言葉は本当なのだろう。

 

「よぉし! 暁美も来たし、早く行こうぜ!」

 

「おー!」

 

 テンション高めな花村くんに同調するように、千枝が右手を突き上げて元気な声を発すると、つられてりせとクマも威勢の良い声を飛ばす。

 

「レッツゴー!」

 

「海と水着が呼んでるクマー!」

 

 それを合図にして、私たちは目的地である七里海岸へと、走り出した。

 

 同じ地域にあるとは言っても、八十稲羽は山にある町だから、海まではかなりある。その上、安全運転を心がけているから、どうしても到着はかなり遅くなってしまう。

 

「センパーイ、海ってホントにこっちー? もう結構走ってるよー?」

 

 そんなわけだから、途中でりせがいかにもうんざりした様子で呼びかけてくるのも、なんとなく予想はできていた。

 

「大丈夫よ。もうすぐ着くから」

 

「ほら、海の匂いするでしょ?」

 

 彼女の横に付けてそう答えると、千枝もこっちに来てそんなことを言う。嗅覚に意識を集中させると、仄かな潮の匂いが鼻腔をくすぐる。林に囲まれたこの道でも感じ取れるのだから、海はもう目と鼻の先に違いない。

 

「匂いぃ……?」

 

 しかし、りせにはピンと来なかったようで、怪訝な様子で呟く。すると、私たちの会話を聞いていたらしい花村くんが、肩越しにこっちを見ながら言った。

 

「安心しろ。里中はその辺の獣より、獣だ」

 

 褒めてるのか貶してるのかよくわからない言い草である。

 

「アァ……?」

 

 案の定、千枝は彼の言葉に反応して、いつものように口喧嘩を始めた。喧嘩するほど仲が良いとは言うけれど、この二人はまさしくこんな感じだなと、見ていて思う。

 

「ちょ……勘弁っ、してくださいよ……地図見たんスか地図ー!」

 

「も、ムリ……限界っ、クマ……ックマ……」

 

 徐々に速度を上げる二人を呆れたように見ていると、後ろの巽くんとクマが心底疲れた様子で言う。やはり自転車とローラースケートで原付でついてこようとするのは、キツイらしい。

 というか、今までついてこられたのが驚きだ。しかしこのままだと、海に着いたらバテて何もできなくなるんじゃなかろうか。

 なんてことを考えていると、不意に道を囲っていた木々がなくなり、無辺際に広がる青い海が姿を現した。

 

「海ー!」

 

「おっしゃー!」

 

「うわぁ……あわわっ!?」

 

「綺麗……」

 

 花村くんと千枝も喧嘩を止めて煌めく海に歓声を上げると、雪子とりせもその姿に見惚れ――雪子は危うくバランスを崩しそうになるほど見惚れていた――、深い感嘆を漏らす。私もついついその雄大な姿に心打たれ、無意識のうちに笑みを浮かべてしまう。写真や映像ではよく見るけれど、自分の目で見る海というのはまた格別なものだ。

 

「海に一番乗り上等だゴラァァァァァァ!!」

「クマァァァァァァ!!」

 

 ふと、何か妙な叫び声が耳を穿つ。ミラーを覗くと、背後からものすごい勢いで迫り来る巽くんとクマの姿が映っていた。

 

「えっ」

 

 と間の抜けた声が口から零れた束の間、二人はぎゅんと私たちを追い越して先に行ってしまう。どこにあんな体力が残っていたのだろうか。

 

「わっ! 一番乗りされちゃう!」

 

「コラ待てー! 一番は渡さないんだからねー!」

 

「よーっし、いっそげー!!」

 

 ラストスパートをかける二人に負けじと、みんなもまた速度を上げる。私も置いて行かれないように、アクセルを捻って速度を上げた。

 

 海に着くと、すでにマリーとどこか疲れた様子の茜が海の家でかき氷を食べながら待っていた。待たせてしまったかと思ったが、茜曰く、駅からここまで来る途中、マリーがいろんなものに興味を示してあっちこっち行くものだから、制御するのに結構な体力を使ったらしい。ご苦労様と頭を撫でてやると、彼女はだらしなく頬を緩めて、長く息を吐いた。彼女の苦労は良くわかる。クマほどではないにしろ、大変だったのだろう。

 

「およよー? アカネチャンのお隣にいるクールビューティは誰チャンクマ?」

 

 不意に、クマが鳴上くんにそんなことを訊く。クマはマリーに会ったことがないらしい。

 

「マリーだ」

 

「ほえー、ひょっとしてセンセイのナオン? んもぅ、隅に置けないバッドボーイねー」

 

 鳴上くんの答えに、クマがそんなことを言って、肘で彼のことをツンツンした。どうでも良いが、クマはどこからあんな言葉を仕入れてくるのだろうか。少し気になる。

 

「何アレ、動いてる……しかも喋ってる……何でできてるの?」

 

 苦笑いで様子を眺めていると、マリーがそんなことを問うてきた。どうやらマリーは、クマの着ぐるみが気になって仕方ないようだ。

 しかし、何でてきているの、か。本当に、何でできているのだろう。

 

「ええっと……」

 

「クマの半分は優しさできてます。ええ、ハイ」

 

 どう答えたら良いものか考えていると、話を聞いていたクマが、横から口出ししてきた。

 

「え? じゃあ、あと半分は?」

 

「クマ毛クマ」

 

「優しさと……毛?」

 

 ある意味間違っていないような、そうでもないような、そんな説明だ。クマ毛の部分は多分合っていると思うが、優しさについては微妙なところである。欲望の間違いではなかろうか。

 適当な話もほどほどに、二人がかき氷を食べ終わるのを待ってから、男子たちと分かれ、海の家に併設された更衣室で水着に着替えることにした。リボンは、さすがに着けたまま海に入るわけにはいかないので、外してバッグにしまう。今はもう、なんのために着けているんだかわからないけれど、多分大事なものだから、汚さないようにしないと。

 着替えを終えて更衣室のロッカーを閉めると、みんなはもう着替え終えて入り口の辺りで待っていた。千枝と雪子は林間学校で花村くんにもらったもので、りせはピンクのビキニ、マリーは黒のセパレート、茜はアサガオ柄の白いワンピースの水着だ。なお、マリーの水着は花村くんチョイスである。まったく、彼にはほとほと呆れてしまう。

 更衣室を出て集合場所に移動すると、水着姿の男子たちが待っていた。何故だか彼らは海に入らずに私たちを待っていたらしい。クマなんて、浮き輪を装着して律儀に待っていてくれた……いや、待たされていたようだ。巽くんは姿が見えないが、まあ、彼のことだから特に心配はないだろう。

 

「先輩たち、待っててくれたんだ」

 

「どうしているの……?」

 

「さ、先に海入ってりゃいいじゃん!」

 

「……やっぱり、慣れないわね」

 

「うぅ……恥ずかしいよぉ……」

 

「なにこの服。布少なすぎ」

 

 彼らの姿を見止めたりせが嬉しそうな声を上げるが、千枝と雪子は恥ずかしいのか、顔を赤らめてそんなことを言う。茜に至っては、私の後ろに隠れてしまっている。私もちょっとお腹周りが心配だから、さりげなく手でお腹を隠している。マリーはというと、特に何も気にしていないらしく、水着をいじくっていた。

 しかし彼女、中々にグラマラスな身体つきをしている。羨まし……いや別に決して羨ましくはない。

 

「イエスッッッ!! 俺の水着選びに間違いはなかったァァー!!」

 

 マリーの水着姿を見た花村くんは、ものすごい勢いでガッツポーズを取り、歓喜の雄叫びを上げる。

 

「夏って最高だな!」

 

「ああ! 夏バンザイ!」

 

「可憐なラブリー人魚に囲まれて、クマも一夏のイケナイ体験……しちゃいそう」

 

 同意を求められた鳴上くんは、ものすごくいい笑顔でそう答えるとがっしりと握手を交わし、クマに至っては世迷言めいた何かを口から発している。

 ……もはや何も言うまい。

 

「そういえば、完二は?」

 

 ふと、巽くんがいないことに気が付いたらしいりせが、辺りを見回しながら訊いた、その直後。

 

「センパァイ!」

 

 どこからか、巽くんの声が飛んできた。噂をすれば何とやら、か。なんて思いながら声の方に視線を向けると、衝撃的なものが飛び込んできた。

 

「げぇっ、完二!! おまっ、なんだソレェ!?」

 

 巽くんの姿を見た花村くんが悲鳴に近い調子で言う。それもそのはず。巽くんの水着は、黒のブーメランパンツだった。

 さすがの私も、擁護できないくらいひどい。直視するのを躊躇うくらい、えげつない格好だ。鳴上くんなんて、両手でマリーの視界を遮って、見せないようにしている始末である。

 

「黒、シブいじゃないっスか」

 

「色じゃねーよ! エグすぎんだよ! 明らかに "ソッチ" を連想させんだよッ!」

 

「んなこと言ってんの、アンタだけじゃないすか!!」

 

「お前にも原因あるっつってんの!」

 

 そんな風に、二人がギャーギャーと口論を繰り広げていると、何を思ったのか、りせが急に口を挟む。

 

「てゆーか完二、私には鼻血出さないワケ?」

 

 あの中に飛び込むなんて、勇気があるというかなんというか、彼女の胆力には恐れ入る。

 ……しかし、今訊くことなのだろうかそれは。

 

「なんでオマエに鼻血出すんだよ?」

 

「ハァ!?」

 

 対して巽くんの答えは、りせが目尻を上げて怒るのも当然なもの。あれよあれよの間に口論は三つ巴に発展し、もはや収拾がつかなくなってしまった。どうもこの口論、際限がなさそうである。

 

「水着ってだけで、よくこんな盛り上がれるね……」

 

「長くなりそうだから、先に入ってましょうか」

 

「じゃあ、早速いくクマ! レッツ、マーメイド!」

 

 千枝が呆れたように呟いたので、私がやれやれと笑ってみんなに告げると、クマは海に向かって一直線に駆け出し海に飛び込む。

 

「あっ、一番乗りしたな! ほら、みんなも行こ!」

 

 それを見た千枝は、そう言って駆け出すと海に飛び込んだ。私たちも顔を見合わせて頷きあうと、海へと駆け出した。

 海で遊ぶのは……というか、海に来るのは初めてだからどんなものかと期待していたけれど、予想以上に楽しいものだった。カナヅチを克服しようと雪子と一緒に鳴上くんに泳ぎを習ってみたり、茜とりせとクマと一緒に砂の城を作ってみたり、浮き輪を使って千枝と巽くんと一緒に泳いでみたり、とにもかくにも、やる気となすこと全部が楽しくて仕方がない。ずっと遊んでいたいくらいである。

 

「きゃあっ!?」

 

「紐ほどけるー!」

 

「ちょっ、クマ! どこ触ってんだっつの!」

 

「ケチケチクマねー。こう、豪快にポロリと……」

 

 クマと戯れているみんなを尻目に、大きな浮き輪に乗って空を見上げると、どこまでも澄み渡る青空があった。

 

「はー……。こうして、浮き輪に乗ってのんびりするのも、気持ち良いものねぇ……」

 

「クラゲさんになった気分?」

 

「私はウミウシの方が好きだわ」

 

「ウミウシさんは、浮かないんじゃないかな……多分」

 

 茜と中身のない会話を繰り広げていると、今度は巽くんが「うっひょおおお!?」と悲鳴をあげる。クマがバカをやったのかと見てみれば、巽くんに小脇に抱えられて岸へと上がっていくのが見えた。

 

「なんかやらかしたのね、クマったら」

 

「アハハ……」

 

 呆れたように笑いながら、また空を見上げながらプカプカ浮かんでいると、ふと雪子がみんなに呼びかけた。

 

「そろそろ、休憩にしない?」

 

「あー、そうねぇ。一度上がりましょうか」

 

「日焼け止め塗り直さなくっちゃ」

 

「水分チャージに肉チャージも必要だよねー」

 

「肉チャージ? 何それ」

 

「せっかく海に来たんだし、お魚食べたいなー」

 

 それぞれが勝手なことを言いながら岸に上がっていくと、鳴上くんと花村くんが、巽くんを囲んで何やらやっている。

 またなにか変なことでもする気なのだろうか。そう思って声をかけようとしたのだが、私たちは目の前にあるそれがちょっと理解できず、硬直してしまう。それというのがまた奇怪で、昆布を身体に巻き付けた巽くんなのだ。

 

「……どうしろと?」

 

 千枝が尋ねると、花村くんは焦ったように答えた。

 

「これは……その……ヴィーナスの誕生? なんちゃってー……」

 

「た、誕生すっぞコラァ!」

 

 ものすごく反応に困る高度なギャグだが、ただ一つだけ言えることがある。

 

「変態だー!!!!」

 

 茜の悲鳴を皮切りに、私たちは脱兎のごとく駆け出す。あんなもの見せられたら、逃げたくもなるだろう。りせなんて走りながら「この変態! ド変態!! dar変態!!!」と叫ぶほど、ショックを受けている。チラッと後ろを向くとマリーが取り残されていたので、しようがないから私が彼女の手を取って、海に駆け出した。

 

 

 さて。色々あったがお昼の時間である。

 最初は海の家でなにか買おうかと話していたのだけれど、鳴上くんは手作りのお弁当を持ってきたと言うので、そっちを食べることにした。

 全員分ということもあって、彼が持ってきた重箱はかなりのもの。中にはぎっしりと料理が詰められていて、どれもこれも美味しそうだ。

 全員で声を揃えていただきますと挨拶をしてから、各々好きな料理に手を伸ばす。私もいそいそと割り箸を割って、黄色が美しい卵焼きへと伸ばした。

 卵焼きを口に運び、咀嚼する。卵の甘さと仄かな砂糖の甘みが口内に広がり、飲み下せば、卵の香りがスッと鼻から抜けていく。

 唐揚げはどうだろうか。サクサクとした衣を噛み砕くと、肉のなんとも言えない心地よい噛み応えと共に、たっぷりと肉汁が中から飛び出す。

 やはり、彼の料理は美味しい。

 

「マリーちゃんは料理とかすんの?」

 

「……しないけど」

 

 不意に、花村くんがそんなことをマリーに訊く。彼女は素っ気なく答えを返した。

 

「そういえば、まだ聞いてなかったよね。マリーちゃんのこと」

 

 思い出したかのように千枝が呟くと、それを皮切りにして、みんなは次々とマリーに質問をしていく。私は特に何か質問をすることはなかったから、特に口を挟んだりはせずに料理を食べていた。そんな私の様子を見て、茜は苦笑していたけれど、まあ仕方ない。お弁当が美味しいのが悪いのだ。

 

「み、みんな、その……」

 

 マリーに気を遣ったのか、鳴上くんが窘めようとする。

 

「い、いいじゃん別に、そんなの!!」

 

 しかし、それよりも早く彼女が叫び、それを遮る。突然のことにみんなは驚き、なぜだかマリーも驚いたように目を剥くと、どこかへと走り去ってしまう。

 

「ちょっと行ってくる」

 

 それを受けて、鳴上くんも彼女を追って行ってしまった。

 

「ちょっと、いっぺんに聞きすぎちゃったかな」

 

 雪子が呟く。私たちは気まずい様子で俯き、反省の色を露わにする。人というのは、誰しもひとつやふたつ、言いたくないことがあるものだ。むやみに過去を訊くものではない。

 

「謝りに行こうぜ」

 

 花村くんが顔を上げて言うと、みんなも顔を上げて頷く。こんな風に、彼女との仲がこじれるのは私たちの本意ではない。カラスに突かれないようにお弁当箱をしまうと、私たちは二人を追った。

 二人は並んで、岩場に座り込んでいた。

 

「悠、マリーちゃん!」

 

 花村くんが声をかけると、二人はほぼ同時にこっちを向く。私たちの姿を認めたマリーは、僅か驚いたような顔をした。

 

「さっきはごめんね。急にいろいろ聞いちゃって」

 

 千枝が謝罪すると、彼女はは小さく「えっ」と漏らす。どうも、彼女は謝られるとは思っていなかったらしい。

 

「こいつら "デカシリー" ねぇから」

 

 続いて巽くんが言う。多分、デリカシーと言いたかったんだと思う。

 しかし、なんだかこう、モヤっとするようなグサッとくるような間違え方だ。

 

「 "デカシリー" ……? "デリカシー" じゃなくて?」

 

 茜が首を傾げて問う。

 デカシリーと言う時、一瞬だけれど、私を見たような……いや、きっと気のせいだ。ジュネスのバイトであんなことがあったせいか、ちょっと過敏になってるんだ。そうに違いない。

 

「カンジのオシリはデカシリー!」

 

「俺のケツ見たことあんのかよ!」

 

「そういうとこがデリカシーないって言うの!」

 

 お尻を振りながらからかってくるクマに、彼はムッとした口調で声を飛ばすが、横からりせに注意されて顔をしかめてしまう。

 まあ、確かに他の言いようがあっただろうと思う。タダでさえエグい格好してるのだし。

 

「デリカシーがない、デカシリー……ぷっ、くくくっ……あははは!」

 

 トドメに、雪子の爆笑スイッチが入った。どこに笑うところが……いや、あるな。

 途端、雪子につられたのか、私はなんだか急におかしくなってきて、思わず笑い出してしまった。すると今度は私につられて千枝が笑い出して、だんだんと笑いが伝染していき、気が付けばみんな笑っていた。笑いというのは、伝染するものらしい。ふと見ればマリーも笑っていたから、きっとそうなのだろう。

 

 

 

 なんやかんやで仲直りしてマリーと一緒に遊び倒した私たちは、空が赤く染まる頃にやっと着替えることにした。一日中遊び倒してクタクタだ。今日はぐっすり眠れるに違いない。そんなことを考えながら、砂で作ったクマヘッド――最後にみんなで作った力作だ――を眺めていると、茜が私の側に寄ってくるなり訊く。

 

「ほむらちゃん。今日は、どうだった」

 

「楽しかったわ、とっても」

 

 そう答えると、彼女は少しだけ安心した様子を見せたけれど、一転して、心配そうな声色で再び問う。

 

「……もう、大丈夫だよね?」

 

 彼女の想いを察するには、充分過ぎる言葉だ。私はゆっくりと力強く頷いて、水平線に沈む真っ赤な太陽を見ながら告げた。

 

「ええ、もう大丈夫よ」

 

「そっか。でも、何かあったらすぐ言ってね」

 

 茜はそう言うと、たおやかに微笑む。だから私も微笑み返して、目を細めた。

 今は彼女の優しさが、何よりも愛おしかった。

 

「おーい、そろそろ帰んぞー!」

 

 不意に、花村くんの声が響く。見れば、彼はにこやかな調子で、上の道路から私たちを見下ろしている。もうみんな、帰り支度を済ませて駐車場で待っているらしい。

 

「行きましょうか、茜」

 

「うん」

 

 僅かに言葉を交わしてから、夕日を背に一歩を踏み出す。

 またあの声が聞こえてきたって、悪夢を見たって、茜に言われたことを思い出せば、それだけで安心するから大丈夫。怖いのは一瞬だけ。きっと、きっとそう。

 もう何も、怖いことはない。


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