Persona4 : Side of the Puella Magica 作:四十九院暁美
6月11日、昼休み。
食事を終えた私は、いつも通り図書館で長椅子に座り本を読んでいた。勿論、私の隣席には詩野茜が座していて、私と同じく本を読んでいる。ご丁寧に読んでいる本の作者まで一緒だ。
ぺらぺらとページを捲る音が響く中、ふと何故この少女は私に付き従うのか疑問に思った。私という人間は人付き合いが悪く、振り撒ける程の愛想も持ち合わせていない。話し掛けられたから答えた、意見を訊かれたから答えた、そんな会話しか出来ない私と好き好んで一緒にいる理由とは何なのだろうか。
「ねぇ、詩野さん。貴女はどうして、私と一緒にいるのかしら」
「え、あ……え、っと……ご、ごめんなさい……」
私が問うと、言い方が悪かった所為か謝られてしまった。それも、捨てられた子犬の様に悲しそうな顔で。
「……別に、貴女を責めてる訳じゃないの。だた、気になっただけだから」
私は慌てつつも、それを顔に出さずに言葉を付け加えた。流石にそんな顔をされては、何か悪い事をしてしまったという罪悪感が加速度的に込み上げてくる。
「そう……なの? よ、良かった……」
私の言葉を聞いた詩野茜は安堵し、にへらという擬音が似合いそうな笑顔を浮かべる。それを見た私は気付かれない程度に小さく安堵の溜め息を吐き、そして同時にはたと気が付いた。
私にとって詩野茜という存在は、邪魔で鬱陶しいだけの存在だった筈だ。にも関わらず、私は今この少女の存在を気に掛けている。これはどういう事なのだろうか。
「え、えっと……その……」
心中で自問自答する私を他所に、詩野茜は話を始めようとしていた。だが、顔を赤らめてこちらを窺うばかりで話が一向に始まらない。
一緒にいる理由を問われて、すぐに答えられる人間は少ないだろう。大概は気恥ずかしさや、尤もな理由が思い浮かばない為に答えるにはそれなりの時間を要してしまうものだ。ここは話す覚悟が出来るまで待つしかないだろう。
詩野茜が話を始める覚悟が出来るまで、私は彼女と初めて会った日を思い出してみる事にした。もしかしたら、そこにヒントがあるのかもしれない。彼女が私に付き従う、その理由が――。
◇
2010年、4月17日。
この日、暁美ほむらはコーヒー専門店を求めて沖奈市を彷徨っていた。ほむらが八十稲羽市から遠く離れたこの街にコーヒー専門店を探しに来た理由は、お気に入りブランドの粉コーヒーを数種類買う事だ。コーヒーをこよなく愛するほむらは最早市販の粉コーヒーでは満足いかず、自分でオリジナルブレンドのコーヒーを作ってしまう程に凝っていた。部屋に設置されている "サイフォンコーヒーメーカー" と呼ばれる専用のコーヒーメーカーは、正にその象徴と言えるだろう。
そんなコーヒー専門店を探し求めるほむらは現在、どこかの薄暗い路地裏を歩いていた。専門店は駅前ですぐに見つけたのだが、他に専門店はないかとあちらこちらへと歩き回った結果、完全に迷子になってしまっていたのだ。辺りに響くのは小さくなった街の喧騒と自分の足音のみ。道標となりうるものは残念ながら何も無く、薄汚れたコンクリートの塀と、黒い斑点がついたアスファルトの地面ばかりが目につく。
「……しくじったわね」
そう呟きつつも、ほむらは歩みを止めない。今日、ほむらに与えられた時間は極々短い。それを無益に消費しているという事実は、ほむらにとって耐え難い苦痛だった。一刻も早くあの駅前に戻り、店内を心ゆくまで物色したいという欲求がほむらの中で膨れ上がっていく。その酷くもどかしい感覚によって、歩み進める度にほむらの機嫌は悪い方に傾いていった。
「――――!」
「――――」
「――――」
不意に、ほむらの前方から複数人の声が聞こえる。声から察するに、男性2人に女性が1人。おそらく悪漢に絡まれでもしたのだろう、女性の声には恐怖と不快感が表れている。
丁度良い、彼らに道を聞く事にしよう。そう思いついたほむらは、いそいそと声のする方へと歩いて行った。
「――――、ちょっとくらい」
「――――です! は、早く離してください!」
「んな嫌がんなくても良いじゃねーか。ただちょーっと俺らと遊んでもらうだけなんだからよ」
歩いた先に見えたのは、寂れた古い広場で男性2人が少女に迫る図だった。なんとも犯罪的な状況だが、今のほむらは早く駅前に戻って専門店へ行きたいという強い欲求で動いている。そんな瑣末な状況などほむらにとってさして感情が湧くものではなかったが、ほむらは気紛れに道を訊くついでにこの男性2人 (仮にこれをA、Bと称するとしよう) から少女を助ける事にした。
「ちょっと良いかしら」
「あぁ?」
ほむらが声を掛けると、Aが怪訝な声をあげながら振り向く。それとほぼ同時に気が付いたBと少女もほむらを見る。彼らから見た暁美ほむらという少女は、非常に綺麗で美しい少女だった。
太陽光を受けて黒曜石の如く輝く黒髪、真珠の煌めきにも似た白い肌、まだあどけなさが残る整った目鼻立ち、若干の憂いを帯びた眼は深窓の令嬢の様。強いて問題点をあげるとしたら、眼の下に出来た "くま" くらいか。
服装もまた美麗なもので、白いワイシャツに淡い紫のロングカーディガン、ブラウンのカーゴパンツに革製の黒いブーツという着こなしは、見る者に上品かつ力強い印象を抱かせるものだ。
新たな獲物を見つけたAとBは、下卑た笑みを浮かべほむらににじり寄る。この少女をものにしたいという、なんとも本能に忠実な行動だった。
「駅までの道程を教えてほしいのだけれど、分かるかしら?」
そんなAとBには見向きもせず、ほむらは怯えて縮こまる少女の目の前まで歩み寄り、そう言う。それは暗に "お前なんぞに興味は無い" という男性たちへの意思表示でもあった。
「へ!? え、あ、あの……?」
「分かる?」
戸惑う少女に対して、ほむらは再度問い掛けた。それから少しの間をおいて惚けていたAとBが気が付き、無視された事に対する怒りを抑えつつほむらに寄る。
「おいおい、俺たちを無視してんじゃあ――」
「急いでるのよ。分かるならすぐに案内してほしいの」
しかし、ほむらはこれを遮って少女に言う。これには怒りを抑える事が出来なかったのか、Bが怒声と共にほむらの肩を掴もうと手を伸ばしたその瞬間。
「……テメェ、さっきからシカトぶっこいて――」
「触らないでちょうだい。この服、結構高いのよ」
Bは気が付けば地に伏していた。一体何が起きたのか、何をされたのか、Bは全くもって分からなかい。
だが、側から見ればBの身に起こった事は至極単純なもので、Bが伸ばした手をほむらは振り向きざまに掴みそのまま足を引っ掛けて投げ飛ばしたという、ただBが完全に油断していた為に起きた必然とも言える結果であった。
「な、て、テメェこのアマッ」
それを見たAは激昂し、ほむらに襲い掛かった。仲間がやられたのだ、激昂しない理由が無い。
「っ!!」
少女が声にならない悲鳴をあげる中、迫り来る魔手をほむらは冷静に見ていた。
狙いはおそらく首筋。対人戦闘でアドバンテージを取るには、最も手っ取り早い部分だろう。だが、それはあくまで常人同士の些細な争いでのみ当てはまる事、魔法少女という超常の存在であるほむらに対して、それは悪手だ。
ほむらは身を逸らし、Aの攻撃を躱しながらその顎に正面から軽く掌底を叩きつける。
「ぶぁがっ!?」
ほむらの掌底を顎に受けたAは、奇妙な声をあげながら吹っ飛ぶとそのまま地面に叩きつけられて、意識を手放した。
軽くとは言っても、その掌底は常人にとってそれなりに威力がある攻撃だ。顎骨が砕ける事は無かったが、しばらくは顎関節症に悩まされるだろう。
「てめっ……このクソアマァ! ナメた真似しやがって!」
」
それに気が付いたBも立ち上がり、ほむらに襲い掛かる。最早、女だからといって容赦はしない。彼の血走った眼からは、そんな意思が見てとれた。
それに対して溜め息と共に繰り出されるのは、ほむらの右脚。狙いはBの左太腿だ。
「ぃぎ!?」
研ぎ澄まされたナイフの様に鋭い蹴りがBの左太腿に突き刺さり、それと同時にバランスが左に大きく傾く。激痛で顔を歪めるBの眼前に迫るは、絹の様にきめの細かい柔肌――ほむらの右手だった。
「うるさいのよ」
そんな言葉と共に無造作に放たれた一撃は、快音と共にBの意識を容易く刈り取っていった。再びBが地面に伏す様を見届けると、ほむらは繰り出した右手を下げ "つまらない事をしてしまった" とでも言いたげに鼻を鳴らす。
その姿を見た瞬間、少女は何かが身体を駆け抜けるのを感じた。ほんの数十秒足らずで男性2人を打ち倒す電光石火の如き早技、格闘技を嗜む者ならば思わず舌を巻くであろうその技の精度と威力。それらは先程まで恐怖に怯えていた少女にとって救世の光、英雄の如く映った。今、少女の中でヒロインという言葉は、まさしく暁美ほむらを指す言葉となったのだ。
「あ、あ、ありがとうございます!」
「大した事じゃないわ、こんなの」
シャツの襟を正し、肩にかかった髪を払うとほむらは無愛想に言った。
ほむらが少女を助けたのはあくまで道を訊くついでであり、正義感や義憤によるものではない。故にほむらのこの態度は当然のものである。
「それで……貴女、駅までの道は分かるかしら?」
「は、はい!」
ほむらの問い掛けに、少女は非常に元気よく返事をした。
先程まで少女を縛っていた恐怖は消え去り、新たに尊敬の念が湧き上がる。少女はほむらの態度を無愛想とは感じず、むしろかっこいいとさえ思った。少女にとって、ほむらの挙動その全てがまるで完成された美術品の様に美しく映るのだ。
嗚呼、あれこそ正に私の追い求めた理想の自分、クールでかっこいい大人の女性ではないか。
「あ、あの、名前は、何ですか?」
「名前なんて聞いてどうするの?」
「え、っと……その……た、助けてもらったお礼を、したいなぁって思って……。あ! わ、私は "詩野茜" っていいます!」
「…… "暁美ほむら" よ」
◇
「ああ!?」
昼休みの終了を告げるチャイムが校内に鳴り響くより数秒遅れて詩野茜が素っ頓狂な声をあげる。結局、この昼休みの間に詩野茜が私に付き従う理由は聞かせてもらえなかった。彼女の性質を考えれば、ある意味当然の結果なのだろう。
「……時間をかけ過ぎたようね」
私はそう言うと立ち上がり、読んでいた本を元の棚にしまいに行く。もちろん、詩野茜も一緒だ。
溜め息を吐きたい気分だが、そんな露骨な事はしたくない。それに、こんな瑣末な事はいつでも訊ける。また今度、どこかへ出かけた時にでも訊く事にしよう。
「ご、ごめんなさい……」
「謝らなくても良いわ。変な事を訊いて、悪かったわね」
詩野茜が酷く申し訳なさそうな声で謝ってきた。別段、気にしている訳でもないので私はそう言って本を棚にしまった。
「あ……う、うん」
詩野茜も本を棚にしまうと、やはり申し訳なさそう頷く。
どこか気まずい空気のまま私たちは図書館を出ると、そのままそれぞれの教室へ戻っていった。
放課後の到来を告げるチャイムが校内に鳴り響き、やっとこの窮屈な教室から解放される、そんな希望に満ちた声がそこかしこから聞こえてくる。そんな中、私は特に何か楽しみな事がある訳でもないので早々に帰り支度を整え、家に帰ろうとしていた。
「暁美さん」
下駄箱で靴を履き替えていると、背後から声をかけられた。落ち着きのある男性の声だった。
「何かしら、鳴上くん」
靴を履き終え、振り向きながらその声に応える。すると、鳴上悠はどこか遠慮がちな声色で私に訊いた。
「その……どっか遊びに行かないか? 今後の為に、暁美さんの事をいろいろ知っておきたいんだ」
どうやら鳴上悠は、私と親睦を深めたらしい。どうするかと数秒考えたが、偶には良いかと適当な理由で納得し鳴上悠の誘いに乗る事にした。
「良いわ。それで、どこへ行くの?」
私がそう言うと、鳴上悠は驚いた様な顔をした。おそらく、断られるものだと思っていたのだろう。
「何、その顔」
「え!? あ、いや……そ、それより、暁美さんはお腹空いてないか?」
私がその表情を指摘すると、鳴上悠は酷く焦りながら話題を逸らた。
空腹かどうかと言われると、微妙だ。腹の虫が鳴る程ではないが、何か食べても良いかと思える具合。きっと、こういう状態の事を "小腹が空いた" と表現するのだろう。
「……それなりに」
私がそう答えると、今度は少しだけ安心した様な顔をした。彼は隠しているつもりなのだろうが、残念ながら表情に微細ながらも心情が表れている。隠し事をするには向いていない性格なのだろう。
「なら "
"愛家" は確か、八十稲羽通り商店街の北側にある中華料理屋の店名だったと思う。商店街にはあまり出向かないのでうろ覚えだが、この町では比較的繁盛している個人経営店だった筈だ。
「ええ、良いわよ」
「よし、じゃあ早速行こう」
私が提案を受け入れると、鳴上悠は嬉しそうに言った。案外、見た目と違い子供っぽい性格なのかもしれない。まあ、隠すのが苦手という時点で予想はついていたが。
鳴上悠が靴を履き替えている間に学校の玄関を出ると、詩野茜がいつもの様に私を見つけ嬉しそうな顔で駆け寄ってくる。まるで忠犬ね、などと下らない事を考えつつ私はふと駆け寄ってきた詩野茜に訊いた。
「貴女、これから何か予定はある?」
「へ? な、なんにも、無いけど……」
「なら、今から私と食事に行きましょう」
私がそう言うと、詩野茜は何故かぴたりと固まってしまった。何もおかしな事は言っていない筈だが、これは一体どういう事だろうか。
「おまたせ、暁美さ――あ、君は……」
困惑する私の背後から鳴上悠が声をかけてきたかと思えば、詩野茜を見て酷く驚いた。私の知らないところで何か関係が出来ていたらしい。
「鳴上くん、彼女も一緒に連れて行っても良いかしら」
振り返り、鳴上悠にそう問い掛ける。
同行人を増やすなら、発案者の許可を得なければならないだろう。流石に勝手に同行人を増やすのは、良い行為とは言えない。
「え? ああ、良いけど……」
鳴上悠は提案を許可すると、後頭部に手をやった。おそらく癖か何かだろう。
「そう、ありがとう。それじゃあ行きま――どうしたの、詩野さん」
詩野茜に向き直り声をかけると、何故か非常に残念そうな表情していた。鳴上悠と何かあったのだろうか。
「えぁ!? な、なんでもない、なんでもないよ、暁美さん……あはは」
詩野茜は私に名前を呼ばれて変な声をあげると、首を振ってなんでもないと繰り返す。先程とは真逆の態度に思わず眉をひそめたが、彼女なりに何か思うところがあったのだろうと考え、追求はしない事にした。
「それじゃあ、行きましょうか」
私はそう言うと、校門に向けて歩き出した。
愛家の場所は商店街の北側の……どこだっただろうか。
◇
八十稲羽通り商店街、中華料理屋 "愛家" 。商店街の南側にあるこの店は、曜日によってメニューが変わるのが特徴で、中でも雨の日にのみ食べられるスペシャル肉丼なるものはフードファイターたちの間ではかなり有名だ。
平日の所為か店内は多くの学生で賑わっており、残念ながらテーブル席が空いていなかった為、入り口側から見て暁美ほむら、詩野茜、鳴上悠の順にカウンター席に座った。それなりの回数通っている悠と茜はメニューをちらりと見ただけで何を頼むのか決めたが、ほむらは愛家に来た事がない為どれを頼めば良いかと無表情のままメニューと睨めっこしている。
「俺、天津飯とエビチリ」
「私は海鮮あんかけ炒飯と、青椒肉絲をお願いします。暁美さんは、何頼むの?」
「……五目あんかけ焼きそばと、春巻」
2人がそれぞれ注文を店主に言い終えると茜がほむらに注文を問い掛け、それから少しの間をおいてほむらはその2品を頼んだ。注文を受けた店主が「アイヤー」という掛け声をあげるのと同時に、油が熱したフライパンに注がれる音が響く。
料理が出来上がるまでの間、何か話をしようと考えた悠が茜とほむらに話題をふった。
「そういえば、2人はどうやって知り合ったんだ?」
「1年の頃、沖奈市で……」
「暁美さんに、不良から助けてもらったんです!」
ほむらの言葉を引き継ぐと言うより、奪い取る様な形で茜が言う。その勢いは凄まじく "ふんす! " という擬音が似合いそうな程であった。
「そ、そうなのか」
悠は酷く驚いた。ほむらに関する話を訊いた際、茜のほむらに対する親愛の強さはありありと見て取れたが、まさかここまでとは予想がつかなかったのだ。
「私が言い寄られてた時に暁美さんが突然現れて、男たちをコテンパンしちゃったんですよ! こう、手を伸ばしてきたヤツと振り向いたかと思えば――」
茜の話はどんどんと加熱する一方で、まるで止まる気配が無い。詩野茜とは本来こういう人物なのだろうかと疑問に思い、悠はほむらの方をちらりと見てアイコンタクトを送る。だが、ほむらも僅かに驚いた表情で茜を見るばかりで、この状態の茜を見た事が無いらしかった。
現在のほむらの心情を一言で表すならば「一体なんなの、これは」である。ほむらの中での "詩野茜" は、比較的に大人しい物静かな人物であった。少なくとも、ほむらの事をこれでもかと熱く語る様な人物ではない。それがどうだ、今の彼女はまるでマシンガンのように嬉々として喋り続けているではないか。
「で、その時にほむらちゃんが本に出てきた台詞を――」
異様に持ち上げられて段々と居た堪れない気持ちになってきたほむらは、いつの間にか呼び方が変わる程に興奮しているらしい茜の肩を溜め息と共に指先で軽く叩く。
「ん? どうしたのほむらちゃ……あぁ!?」
肩を叩かれ振り向いてから数秒、茜は素っ頓狂な声をあげると慌てて謝り始める。
「ご、ごめんなさい! 私、えっと、その、とにかくごめんなさい!」
「いえ、別に良いのだけれど……」
2人に対して頭を下げる茜に対して、ほむらはそう言う。突然の豹変には驚いたが、それ以上にいつもと呼び方が違う事が気になった。茜は自分の名前を呼ぶ時、度々「ほむ……暁美さん」と言い直す事があったのを思い出したほむらは、おそらく自分の前でのみ呼び方を変えているのだろうと予想し、茜に問い掛ける。
「貴女、途中から私の呼び方が変わっていたけど――」
「あ、あれはね! その、えっと! いや、そのね……」
茜はほむらの問いに対して恥ずかしさで動揺して上手く言葉が出てこないらしく、あわあわと口をまごつかせしどろもどろな返答をするばかりであった。
「落ち着け」
その様子を見ていた悠は思わずそう言ってしまった。今の茜は見ていて面白いが、動揺し過ぎてこのままではまともに会話が出来そうなかったからだ。
悠の言葉を受けて、茜は数回深呼吸するとお冷を勢い良く飲み干した。自分を落ち着かせる為の行動なのだろうが、その様子がどうにもちぐはぐに見えて悠は思わず笑ってしまう。
「な、笑わなくても良いじゃないですか!」
笑った事を謝りつつも、悠は内心で茜の評価を上げた。
根は真面目で優しく、芯は通っている。先程の様子を見るに、好きなものに対して少々熱くなり過ぎるきらいがあるようだが、それも趣味が合う人からすれば長所になり得るだろう。動揺した時の行動も中々に愛嬌があり、見てて飽きがこない。今度花村たちに会わせてみよう、と悠が密かに決意した。
一方、ほむらはもう茜に対して何か言うのを止めて料理が出来るのをただ待っていた。これ以上何か言えば、また茜が動揺しておかしな事になるのは目に見えている。触らぬ神になんとやら、ではないがそれと似た様なものだとほむらは思ったのだ。
「……来たみたいね」
ほむらの言葉から数秒遅れて、注文していた料理がテーブルに並べられていく。立ち込める湯気と香りが、3人の空腹を加速させた。ほむらは割り箸を1膳取ると、心中で神に祈りを捧げた。この祈りは、見滝原中学校に転校する前に東京のとある病院に設置された院内学級で受けた教育の影響であり、ほむら自身はキリスト教徒という訳ではない。
「いただきます」
祈りを捧げた後、ほむらは両手を合わせてそう呟くと割り箸をぱきりと割って食事を始める。
ほむらが頼んだ五目あんかけ焼きそばは愛家では定番のメニューであり、具に小松菜、たけのこ、木耳、豚バラ肉、むきエビが入っている。女性が食べるのには少々多いかと思われる量だが、意外にもほむらはよく食べる方なのでこの量はむしろ物足りないくらいだった。
皿に盛られた2本の春巻は中程から半分に切られ、食べやすい大きさにされている。こんがりときつね色に揚げられたそれは、見ているだけで腹が空いてくる程の見事なものだ。物足りなさはこれで補えば良い、ほむらはその香ばしい匂いにほんの少しだけ鼻をひくつかせた。
「……」
まずほむらが箸を伸ばしたのは麺だった。焦げ目が付く程に焼かれた麺に箸を入れ、持ち上げる。ばらばらと麺をほぐしてあんと絡めると、ほむらは箸から零れ落ちない様に気を付けつつ麺を口に含んだ。あんは濃い味で、もちもちとした麺との相性は中々――いや、非常に良い。噛めば噛む程、口の中であんと麺が唾液を媒介にして混じり合い、味は深みを増していく。なんと心地の良い事か、ほむらは麺を噛みしめる度にそう感じた。
名残惜しくも麺を飲み下したほむらが、次に箸を伸ばすのは木耳だ。大きめにカットされた木耳を、あんを絡めて口に放り込む。噛めばコリコリとした食感とあんが混じり合い、麺とはまた違った味わいを作り出す。微かな木耳の薫りと共にあんの匂いが鼻を通る度、ほむらの食欲はその勢いを増していった。
このままこの薫りを楽しむのも悪くはない。ほむらがそう思い始めた時、不意にあんと麺の海に沈むたけのこが眼に入った。
"俺をこいつらと一緒に食ってみろ!"
たけのこはそう言っていた。たけのこが喋る筈もないのだが、加速度的に増加する食欲によって奇妙な高揚状態に陥ったほむらには食材の声が聞こえていたのだ。
"上等!"
ほむらは心中でそう呟くと、早速たけのこと麺を一緒に絡め取り、麺と共に口に運ぶとそのままの勢いで噛み砕く。その瞬間、たけのこの風味が広がり、ほむらの鼻を駆け抜けた。もちもちとした食感の中に違和感無く入り込むたけのこは、その風味と共に木耳とはまた毛色の違うコリコリとした食感を見え隠れさせる。ほむらはこの時、初めて料理に対して戦慄した。具を麺と一緒に食べるだけで、ここまで味に違いが出るものなのか。
このまま一気に五目あんかけ焼きそばを食べ進めたい衝動に駆られるほむらだったが、ここで1度お冷を飲み口内に残った味をリセットすると、箸の行き先を五目あんかけ焼きそばから春巻へと移した。冷めて味が落ちてしまうのは、2重の意味でいただけない。切り分けられたものの中からひとつ選び、箸で掴んで持ち上げる。箸から伝わるずっしりとした重さに期待を膨らませつつ、ほむらはそのきつね色の衣にかぶりついた。
――ぱり。
前歯で春巻を噛んだ瞬間、そんな音が響き渡ると同時に春巻の具と汁がほむらの口内に飛散した。一瞬にしてほむらの口内に広がった激しい味の濁流は、今まで食べた春巻の味を嘲笑うかの様にほむらの味覚を支配し、虜にしていく。
――ぱり、ぱり、ぱり、ぱり。
噛む度に響く音と広がる味はほむらの口内を悉く蹂躙し、春巻という料理に対する意識さえも変えていく。気が付けば、ほむらは2つ目の春巻に箸を伸ばしていた。冷凍や大型チェーンの店では味わえない、個人経営だからこそ出来るその味の調合は、恐るべき中毒性を生み出していたのだ。
2度目の戦慄を覚えつつも、その箸は止まらない。再び五目あんかけ焼きそばにターゲットを定めたほむらは、麺と共に小松菜を掬い上げると口に含んだ。シャキシャキとした小松菜のみずみずしい爽やかな食感は、ほむらの味覚に清涼感を与える。麺の食感を殺さず際立たせ、あまつさえあんの味ですら十二分に目立たせるそれは、飲み込むと清々しさを感じる程に澄んだ後味を残していく。それはまるで、清流の如く澄み渡った優しさで味覚を愛撫されるかの様な心地良さを感じさせた。
五目あんかけ焼きそばと春巻をどんどんと食べ進めるほむらは、ふと皿の端に大きなむきエビが転がっている事に気が付く。寂しそうに皿の端に佇むそのエビは、哀愁さえ感じさせる程である。ほむらはその存在を忘れていた事を心中で謝罪しつつ、麺と一緒にエビを口に放り込んだ。ぷりぷりとしたエビの食感が口の中で踊り、麺の食感とあんの旨味を糧にその力を増していく。エビが持つ魚介独特の風味が鼻を抜ける度、ある種の幸せさえ感じてしまう。十二分に噛みしめて飲み込むと、ほむらは思った。この五目あんかけ焼きそばの主役はまさしくこのむきエビ、にも関わらず私は何故今までこれ程の存在を忘れていたのだろうか、と。
ところで、他人の食事をしている姿というのは側から見ていてその人特有の表情や癖などの意外な個性が分かってしまうものだ。無論、ほむらもその例外ではなく、例えば――食前に黙祷を捧げる、箸を持った際にほんの少し鼻をひくつかせる、口に食べ物を運ぶとその都度小さく "ほむっ" と言う、よく見ると微かに口元が緩んでいる――などなど。側から見ていた悠と茜の2人にとって、その姿は非常に珍しく映った。
いつかこれをネタにしてからかってやろう、図らずも2人の心がシンクロした瞬間であった。
「……ご馳走様でした」
割り箸の先を包装紙に戻すとそのままテーブルに置き、両手を合わせてそう呟く。その洗練された動作は、院内学級で受けた食に関する教育の賜物である。
食事を終えたほむらが隣を流し見ると、丁度食事を終えたらしい2人も両手を合わせて「ご馳走様でした」と呟いているところだった。
「美味しかった」
視線を2人から厨房の店主に移してほむらがそう声をかけると「アイヤー」という掛け声をあげた後、そう言ってもらえて料理人冥利につきると言った。似非中国人の様な言動が目立つ店主だが、料理人としてのその腕は確かなものだ。
「ん、そろそろ出よう」
しばらく余韻に浸っていると、悠がほむらと茜に言う。ほむらが左手に着けた腕時計を見ると、短針は既に午後6時を過ぎていた。どうやらだいぶ長居してしまったらしい、3人は立ち上がると会計を済ませて外に出た。
初夏と言うこともあってか、風は少し温い。だが、食後の火照った身体には丁度良い冷たさで、ほむらにとって非常に心地の良いものであった。
「今日は誘ってくれてありがとう、鳴上くん」
ほむらは悠にお礼を言うと、右手を差し出した。友好の証として、握手を求めたのだ。
まさか食事ひとつでここまで態度が軟化するとは、流石に予想外だった。悠は驚きつつも、それに応えて右手でほむらの手を握る。
その瞬間、悠の脳裏に声が響き渡った。
『我は汝……、汝は我……
汝、新たなる絆を見出したり……
絆は即ち、まことを知る一歩なり
汝、 "調整" のペルソナを生み出せし時
我ら、更なる力を与えん……』
悠はほむらと絆が芽生えると同時に、心の力が高まるのを感じた。
「詩野さんも、突然誘って悪かったわね」
「そ、そんな悪いだなんて全然。とっても楽しかったよ!」
茜はほむらと悠に満面の笑みで言う。今までほむらと出掛けた事は何度かあったが、ほむらの方から誘われた事は1度も無かった。だが、今日初めてほむらの方から自分を誘ってくれた。それが茜にはとても嬉しくて幸せだった。
「そう、それなら良かった」
微かに口元を緩めてそう言った後、少しの間をおいて不意にほむらは茜に訊く。
「そういえばあの時、私の事を "ほむらちゃん" と呼んでいたけど……貴女、普段私を呼ぶ時は "暁美さん" よね?」
「あ、あれはちょっとテンションが上がっちゃったと言うか、なんと言うか……あはは……」
「……別に、私の前だけで呼び方を使い分ける必要はないから、それはもう辞めなさい」
眼を逸らしてなんとか誤魔化そうと試みる茜に、ほむらは提案した。
「え……良いの? 本当!? やったー!」
ほむらの提案に驚くと同時に、喜びが身体を駆け抜けた。暁美ほむらに認められた、その事実は茜の喜びを殊更に大きくした。憧れの人に認められる程、詩野茜にとって嬉しい事は無いのだ。
しきりに喜ぶ茜を見終えたほむらは悠に歩み寄ると、小さく丸められた紙切れを渡した。
「これは?」
「私のメールアドレスと携帯番号が書いてあるから、後で登録しておいてちょうだい。いざという時、連絡先を知らないのは不便でしょう?」
ほむらはそのまま悠の横を通り過ぎると、振り向かずに茜と悠に言う。
「それじゃあ、また。学校で会いましょう」
「ああ。また来週」
「またね! ほむらちゃーん!」
悠と茜の声に、ほむらは振り返らず背中越しに数回手を振るとそのまま夕暮れの町に消えていった。立つ鳥跡を濁さず、まさにかっこいい女性のお手本の様な去り方である。この時、悠は初めて女性に対してかっこいいという感想を抱いた。
成る程、これは詩野さんが憧れるのも無理はない。
「俺たちも帰ろうか」
ほむらの姿が見えなくなってから少しして、悠が言った。
「はい!」
茜はその言葉に同意すると、悠と共に帰路についたのだった。
コミュニティ:暁美ほむら
アルカナ:調整
レベル:1