もうひとつのファンステージ〜Episode of 川原木乃香〜 作:君脇玲
十二月。
川原木乃香は、ゲームセンターの入口の前で一度だけ深呼吸をした。
ガラス扉の向こうから、聞き慣れたゲームの音が聞こえてくる。
遊びに来たことならある。
クレーンゲームをやったこともあるし、メダルゲームで遊んだことだってある。
けれど今日からは、その向こう側に立つ。
「……よし。」
小さく呟いて、川原は扉を開けた。
今日からここが、自分の職場になる。
ファンステージ原町中央店。
そして今日は、初出勤だった。
⸻
制服に着替えた川原は、事務所の端で少し緊張しながら立っていた。
何人ものスタッフが行き来している。
誰が誰なのか、まだ全然分からない。
名前も顔も、これから覚えていかなければならない。
そんな中、勢いよく事務所のドアが開いた。
「おつかれさまぁ〜ず!」
川原は思わずそちらを見る。
入ってきたのは店長の茂田だった。
「今日はみんなにお知らせがあるニダ!」
(……ニダ?)
聞き慣れない語尾が気になったが、それについて考えている余裕はない。
「原町中央店に、新しいスタッフが入りまーす!」
「おぉ!」
女性スタッフの一人が拍手する。
いよいよ自分の番だ。
川原は一歩前へ出た。
全員の視線が一斉に集まる。
さっき練習した。
名前を言って、挨拶して、頭を下げる。
それだけ。
分かっているのに緊張する。
「はじめまして。」
一度息を吸う。
「本日から勤務します、川原木乃香です。」
「よろしくお願いいたします。」
深々と頭を下げる。
顔を上げると、何人かが笑顔を向けてくれていた。
それだけで少しだけ肩の力が抜ける。
「木乃香ちゃんは琉くんと同い年!」
突然、茂田がそう付け加えた。
(琉くん?)
川原には、まだそれが誰なのか分からない。
「そして教育係は大沼さんです!」
「はい!」
一人の女性が笑顔で手を挙げた。
「よろしくね!」
この人が大沼さん。
川原は名前と顔を頭の中で結びつける。
「よろしくお願いいたします!」
まず一人。
今日だけで、いったい何人覚えられるだろう。
そんな不安を抱えながら朝礼が終わると、一人の男性スタッフが川原のところへやってきた。
「改めて、石村です。副店長をやってます。」
「あ、川原です。よろしくお願いいたします!」
「よろしく。」
川原が慌てて頭を下げると、石村は穏やかに続けた。
「最初は分からないことばかりだと思うけど、焦らなくていいから。大沼さんだけじゃなくて、何かあったら俺たちにも聞いて。」
「はい! ありがとうございます。」
副店長、石村さん。
川原は頭の中で名前と役職を結びつける。
大沼さんは教育係。
石村さんは副店長。
そして、店長は――。
「それじゃ木乃香ちゃん、今日から頑張っていくニダ!」
「はい!」
やっぱり気になる。
(……ニダって何なんだろう。)
聞く勇気は、まだなかった。
こうして、川原木乃香のファンステージ初日が始まった。
⸻
営業が始まると、大沼はさっそく川原を店内へ連れ出した。
昨日までなら何気なく見ていたゲームセンターが、今日はまったく違って見える。
「ここがイベントコーナー。」
「はい。」
川原は小さなメモ帳に書き込む。
「景品倉庫はこっちだよ。」
「はい!」
書く。
大沼が説明する。
また書く。
それを繰り返しているうちに、メモ帳はあっという間に文字で埋まっていった。
「分からないことがあったら何でも聞いてね。」
「はい!」
返事をしたものの、分からないことが多すぎて、何が分からないのかさえまだ分からない。
店内を歩けば、インカムから次々と声が聞こえてくる。
スタッフが景品を抱えて横を通る。
お客さんから声を掛けられれば、すぐに誰かが対応へ向かう。
昨日まで客として見ていたゲームセンターの裏側では、こんなにもたくさんのことが同時に動いている。
「最初は全部覚えようとしなくて大丈夫だからね。」
メモ帳を握っていた川原に、大沼が笑いかける。
「少しずつでいいから。」
「あ……はい。」
どうやら必死になっていたのが伝わっていたらしい。
川原は少し恥ずかしくなって笑った。
「ありがとうございます。」
「大丈夫、大丈夫。私も最初は分からないことだらけだったから。」
その言葉で、少し安心した。
先輩たちにも「初日」があった。
当たり前のことなのに、今の川原にはそれがとても心強かった。
⸻
しばらくして、川原は朝礼で茂田が言っていたことを思い出した。
――木乃香ちゃんは琉くんと同い年!
あれは誰のことだったのだろう。
今のところ、スタッフは自分より年上に見える人が多い。
そう思いながら店内を歩いていると、大沼が近くを通った男性スタッフへ声を掛けた。
「浜谷くん、それ終わったらこっちお願いしていい?」
「はい、分かりました。」
(浜谷さん……。)
若い。
もしかして。
けれど初日からいきなり年齢を聞くのも変な気がする。
川原は何も言わず、大沼について歩いた。
⸻
昼頃。
覚えることの多さに圧倒されながらも、朝よりは少し店内の景色を見る余裕が出てきた。
そんなとき、景品補充を終えた浜谷が倉庫へ向かって歩いてくる。
今なら聞けるかもしれない。
「あの……。」
一瞬迷ってから、川原は声を掛けた。
「浜谷さん。」
「はい?」
浜谷が振り返る。
「少しお聞きしてもいいですか?」
「もちろんです。」
よかった。
川原は少し笑いながら尋ねる。
「茂田店長から、同い年だって聞いたんですけど……。」
「本当ですか?」
浜谷も笑顔になる。
「はい、本当ですよ。」
「二十歳です。」
「やっぱり!」
思わず声が弾んだ。
「私も二十歳なんです。」
朝から少し気になっていたことが、ようやく確認できた。
「同い年の方がいるって聞いて、ちょっと安心しました。」
「僕もびっくりしました。」
「今まで同年代のスタッフってほとんどいなかったので。」
二人は思わず笑い合う。
初めて会った人なのに、同い年だと分かっただけで少し話しやすくなるから不思議だ。
「でも。」
川原は少し照れながら続ける。
「同い年なのに先輩って、不思議ですね。」
「確かにそうですね。」
浜谷も苦笑した。
「でも仕事では僕の方が少し先輩なので。」
「分からないことがあれば、いつでも聞いてください。」
「はい!」
「よろしくお願いします。」
「こちらこそ、よろしくお願いします。」
浜谷が倉庫へ向かう。
その背中を見送りながら、川原は少しだけ安心していた。
同い年。
だけど先輩。
まだ敬語で話す相手。
それでも、知らない人ばかりだった職場に一人だけ同い年がいる。
それだけで、初日の緊張が少し和らいだ気がした。
⸻
午後。
川原は景品を前にして、しばらく動けなくなっていた。
教えてもらった通りにやった。
……はず。
けれど、いざ自分で置いてみると急に自信がなくなる。
これでいいのだろうか。
勝手に進めて間違えるより、確認した方がいい。
川原は近くにいた教育係を呼んだ。
「大沼さん!」
少し慌てた声になった。
「この景品の置き方で合っていますか?」
大沼が確認する。
「うん!」
そして、すぐに笑顔になった。
「すごくいいよ!」
「ありがとう!」
「よかった……。」
川原は小さく息を吐いた。
「こういうの、何回も聞いちゃって大丈夫ですか?」
「もちろん。」
大沼はあっさり答えた。
「分からないままやるより、聞いてくれた方がいいよ。」
「はい。」
「そのうち聞かなくてもできるようになるから。」
そのうち。
川原はその言葉を頭の中で繰り返した。
今はまだ、一つ何かをするたびに不安になる。
インカムから声が聞こえれば、自分が反応するべきなのか迷う。
お客さんと目が合えば、声を掛けた方がいいのか考えてしまう。
景品一つ置くにも確認が必要だ。
本当にそのうち、先輩たちみたいに動けるようになるのだろうか。
大沼は、もう次の仕事へ向かっている。
川原もその後を追った。
今はまだ、それでいい。
まずは先輩の後ろを歩く。
分からなければ聞く。
教えてもらったら覚える。
今日できなかったことを、次はできるようにする。
それを繰り返していくしかない。
⸻
閉店後。
初勤務を終えた川原には、朝とは違う疲れがあった。
足も少し重い。
覚えたことより、覚えられなかったことの方が多い気さえする。
「木乃香ちゃん!」
茂田が笑顔で声を掛ける。
「初日、お疲れさま!」
「ありがとうございました!」
「どうだった?」
川原は今日一日を思い返す。
初めて入った事務所。
初めて付けたインカム。
大沼に教えてもらった店内。
何度も開いたメモ帳。
同い年だった浜谷。
そして、自分一人ではまだ判断できなかった仕事の数々。
「すごく緊張しました。」
それが一番素直な感想だった。
「でも皆さんが優しく教えてくださって安心しました。」
「それなら良かった!」
石村も静かにうなずく。
「焦らず覚えていけばいい。」
「はい!」
朝よりも少しだけ、声を張って返事ができた。
⸻
帰る支度を終える。
初日の勤務が、本当に終わった。
事務所を出ようとしたところで、浜谷の姿が目に入った。
「浜谷さん。」
「今日はありがとうございました。」
「いえ。」
「こちらこそ、お疲れさまでした。」
二人は軽く会釈を交わす。
まだ、ほとんど何も知らない。
浜谷のことも。
大沼のことも。
茂田や石村、ほかの先輩たちのことも。
そして、この店のことも。
今日覚えられたのは、ほんの少しだけだった。
川原は原町中央店を出る。
朝、緊張しながら開けた扉を、今度は反対側から閉めた。
ゲームの音が少し遠くなる。
「……疲れたぁ。」
誰もいなくなったところで、ようやく本音が漏れた。
それでも、不思議と嫌な疲れではなかった。
明日になれば、また分からないことが出てくるだろう。
また大沼を呼ぶかもしれない。
また誰かに教えてもらうかもしれない。
それでいい。
今日から自分は、この店で働くのだから。
川原は一度だけ振り返った。
明かりの落ちたファンステージ原町中央店。
まだ、自分の職場と呼ぶには少しだけ慣れない。
それでも明日、またここへ来る。
「明日も頑張ろう。」
小さく呟いて、川原木乃香は歩き出した。
これはまだ、誰も知らない成長の物語の、最初の一日。
もうひとつのファンステージが、ここから始まる。