もうひとつのファンステージ〜Episode of 川原木乃香〜 作:君脇玲
初出勤を終えた翌日。
ファンステージ原町中央店の事務所で、川原木乃香は一人、小さなメモ帳を開いていた。
昨日書いた文字が、びっしりと並んでいる。
イベントコーナー。
景品倉庫。
インカムの使い方。
景品補充。
そして、その隅にはスタッフの名前。
「茂田さん……石村さん……大沼さん……浜谷さん……。」
ここまでは大丈夫。
茂田は店長。
石村は副店長。
大沼は自分の教育係。
浜谷は同い年の先輩。
昨日だけで、この四人はしっかり覚えた。
問題は、その先だった。
「おはよう。」
「あ、おはようございます!」
事務所へ入ってきた女性に、川原は慌てて頭を下げる。
顔は知っている。
昨日もいた。
名前も聞いた。
(……誰だっけ。)
「今日もよろしくね。」
「はい! よろしくお願いします!」
笑顔で乗り切った。
女性がロッカーへ向かったところで、川原はこっそりメモ帳を見る。
高崎麻美。
藤屋明美。
相馬聖子。
(今の人は……。)
「川原さん、おはよう。」
今度は別の女性が入ってきた。
「お、おはようございます!」
また分からない。
二日目にして早くも難題だった。
⸻
朝礼を終えると、大沼が川原を連れて店内へ出た。
「昨日、一気にいろいろ説明したけど大丈夫だった?」
「はい! ……たぶん。」
「たぶん?」
大沼が笑う。
川原もつられて笑った。
「場所は少し覚えました。でも……。」
「でも?」
川原は周囲を確認してから、小声になる。
「皆さんの顔と名前が、まだ全部一致してなくて……。」
「ああ!」
大沼は納得したようにうなずいた。
「最初はそうだよ。人数いるもんね。」
そのとき、向こうから一人の男性スタッフが歩いてきた。
「おぅ。」
川原は反射的に会釈する。
「おはようございます!」
男性はそのまま通り過ぎていった。
大沼が小声で言う。
「山神さん。」
「あっ。」
川原はすぐにメモ帳を取り出した。
「今のが山神さん……。」
「そうそう。」
山神冠。
そして。
(『おぅ』の人。)
これなら覚えられそうだった。
少し歩くと、今度は女性スタッフがお客さんに声を掛けていた。
「お待たせしました。こちらですね。」
お客さんの話を聞きながら、クレーンゲームの中を確認している。
大沼がそちらを見る。
「高崎さん。」
「高崎さん……。」
川原も見る。
昨日、朝礼で自分が紹介されたときに嬉しそうに拍手してくれた人だ。
(そうだ。この人が高崎さん。)
一人ずつなら覚えられる。
さらに店内を進む。
ゲーム機の前にしゃがみ込み、何かを確認している男性がいた。
「日村さん。機械のことで分からないことがあったら、いろいろ教えてくれるから。」
「日村さんですね。」
川原はしっかり顔を見る。
山神冠。
高崎麻美。
日村真也。
順調だ。
「それで――」
大沼が少し離れた場所にいる二人の女性を示した。
「藤屋さんと相馬さん。」
「はい!」
川原は二人を見る。
一人が藤屋。
一人が相馬。
(…………。)
数秒後。
(どっちがどっちだっけ。)
早かった。
⸻
しばらくして、川原は景品倉庫へ向かっていた。
すると、先ほどの二人のうち一人が景品を抱えて歩いてくる。
「川原さん、これ一個持ってもらってもいい?」
「はい!」
川原は景品を受け取った。
「ありがとうございます!」
「こっちこそありがとう。助かった。」
そのまま一緒に歩く。
話しかけてもらえたのは嬉しい。
だが、一つだけ問題がある。
(藤屋さん……? 相馬さん……?)
聞けばいい。
まだ二日目なのだから、「すみません、もう一度お名前を」と言えば済む。
それなのに、なぜか今さら聞くのが恥ずかしい。
「あの……。」
「ん?」
「……これ、どこまで持っていけばいいですか?」
「イベントコーナーまでお願い。」
「はい!」
名前を呼ばなくても会話は成立した。
川原は心の中で安堵する。
その直後。
「あ、相馬さん!」
後ろから高崎の声がした。
「これも一緒にお願いしていい?」
「いいよ。」
川原の目がわずかに見開く。
(相馬さん!!)
ついに一致した。
ということは。
残ったもう一人が――。
川原は頭の中で答えを導き出す。
(藤屋さん!)
なんだかテストで正解したような達成感があった。
仕事とはまったく関係のないところで、川原は小さく成長していた。
⸻
昼過ぎ。
川原がバックヤードへ入ると、浜谷が一人で作業をしていた。
「あ……お疲れさまです。」
「お疲れさまです。」
昨日、同い年だと分かった浜谷。
たったそれだけなのに、他の先輩とは少し違って感じる。
とはいえ、まだ会って二日目。
浜谷は先輩で、自分は後輩。
そして二人ともぎこちない敬語。
「……。」
「……。」
川原は近くに置いてあった備品を確認する。
浜谷も作業を続ける。
「……。」
「……。」
(気まずい。)
昨日は年齢という話題があった。
今日はない。
同い年だから話しやすいと思っていたのに、二人きりになると何を話せばいいのか分からない。
川原は何か話題を探した。
「あの、浜谷さん。」
「はい。」
「浜谷さんって……。」
「はい。」
「……。」
その先が出てこない。
浜谷も待っている。
「……すみません。何でもないです。」
「え?」
自分でも何をしているのか分からない。
川原は恥ずかしくなって備品へ視線を戻した。
すると浜谷が少し笑った。
「まだ慣れないですよね。」
「え?」
「仕事。」
「ああ……はい。」
川原も思わず笑う。
「覚えることが多すぎて。」
「最初はそんな感じですよ。」
「浜谷さんもそうだったんですか?」
「そうですよ。名前もなかなか覚えられなかったですし。」
川原が反応する。
「名前!」
「はい?」
「私も今、それで大変なんです。」
ようやく共通の話題を見つけた。
「今日やっと皆さんの顔と名前が一致してきました。」
「じゃあもう大丈夫じゃないですか。」
「でもインカムになると、声だけじゃ誰なのか全然分からなくて。」
「ああ、それはありますね。」
浜谷が笑う。
川原も笑った。
さっきまでの沈黙が少しだけ消える。
ただ、会話が途切れれば。
「……。」
「……。」
やっぱり、まだ少しぎこちなかった。
⸻
午後。
大沼と一緒に店内を歩いていた川原の耳に、声が届いた。
「すみません。」
川原が振り返る。
クレーンゲームの前で、お客さんがこちらを見ていた。
「はい!」
昨日より少しだけ早く返事ができた。
川原がお客さんのもとへ向かう。
「お待たせしました。」
ここまではできた。
「あの、これってどうやって取ったらいいですか?」
「……。」
川原はクレーンゲームを見る。
景品を見る。
アームを見る。
もう一度、景品を見る。
(分からない。)
遊んだことはある。
しかし、自分が遊ぶのと、スタッフとしてお客さんに説明するのはまったく違う。
適当なことを言うわけにはいかない。
「少々お待ちください。」
川原はすぐに大沼を見る。
「大沼さん、お願いします。」
「はーい。」
大沼が隣へ来る。
「お待たせしました。」
そこから大沼がお客さんに狙う場所を説明していく。
川原は隣で、その様子をじっと見ていた。
どこを見るのか。
どう説明するのか。
言葉の選び方。
大沼は迷わず対応している。
やがて接客を終えると、大沼が川原を見る。
「今みたいに、分からないときは呼んでくれれば大丈夫だからね。」
「はい。」
「適当に答えちゃうより全然いいから。」
川原はうなずいた。
できなかった。
けれど、昨日ほど落ち込まなかった。
分からなければ聞く。
昨日、大沼から教わったばかりだ。
⸻
それから少しして。
また別のお客さんがスタッフを探している様子が見えた。
今度は大沼が先に気づく。
「川原さん。」
「はい。」
「行ってみよっか。」
「私ですか?」
「うん。私も一緒に行くから。」
大沼が隣にいる。
川原は小さくうなずいた。
「はい。」
二人でお客さんのところへ向かう。
「お待たせしました。どうされましたか?」
「あの、この台に百円入れたんですけど、動かなくて。」
「百円を入れたけど動かない……。」
川原はゲーム機を見る。
まだ自分だけでは対応できない。
でも今回は、すぐ後ろに大沼がいる。
「確認しますので、少々お待ちください。」
まず状況を確認する。
大沼が隣から必要なことを教える。
川原は言われたことを一つずつ確認し、お客さんへ説明する。
最後まで大沼の助けは必要だった。
それでも、最初から最後までお客さんと話したのは川原だった。
「ありがとうございました。」
お客さんが離れていく。
川原はすぐに大沼を見る。
「今ので大丈夫でしたか?」
「うん。大丈夫!」
「本当ですか?」
「ちゃんと話聞けてたし、分からないところは勝手に判断しなかったでしょ?」
「はい。」
「最初はそれでいいよ。」
川原の顔に笑みが浮かぶ。
「ありがとうございます!」
昨日は、大沼の後ろについて歩いていた。
今日は、大沼と一緒にお客さんの前に立った。
ほんの少しだけ。
本当にほんの少しだけ。
前へ進めた気がした。
⸻
勤務を終え、川原は事務所でメモ帳を開いた。
茂田千歌。
店長。
石村和久。
副店長。
山神冠。
「おぅ」の人。
高崎麻美。
日村真也。
藤屋明美。
相馬聖子。
大沼奏子。
教育係。
そして。
浜谷琉。
同い年の先輩。
川原は満足そうにうなずいた。
「よし。」
今度こそ覚えた。
そのとき、事務所へ藤屋が入ってきた。
「川原さん、お疲れさま。」
「お疲れさまです!」
川原は自信を持って顔を見る。
(藤屋さん。)
完璧だ。
続いて相馬が入ってくる。
「お疲れさま。」
「お疲れさまです!」
(相馬さん。)
これも完璧。
川原は少し嬉しくなる。
するとインカムから声が聞こえた。
『クレーンコーナーにスタッフ一名いける?』
川原の表情が止まる。
「……。」
誰だ。
顔は分かる。
名前も分かる。
でも。
(今の声……誰?)
(男性スタッフの4人の誰か…)
(ただ、敬語ではなかったから浜谷さんではない…)
(日村さんは小声で早口、山神さんは『おぅ』。てことは!)
(今のは石村さんだ!)
スタッフの顔と名前を覚えたところで、次は声まで覚えなければならないらしい。
川原は静かにメモ帳を閉じた。
ファンステージ原町中央店。
新人・川原木乃香。
二日目。
まだまだ覚えることは、山ほどあった。