もうひとつのファンステージ〜Episode of 川原木乃香〜 作:君脇玲
一月中旬。
川原木乃香がファンステージ原町中央店に入ってから、一か月ほどが経とうとしていた。
まだ分からないことは多い。
それでも、初日のように何をするにも大沼の後ろをついて歩くことはなくなった。
スタッフの顔と名前も覚えた。
インカムから聞こえる声も、だいたい分かる。
お客さんから呼ばれても、以前ほど緊張しない。
少しずつ。
一歩一歩。
川原は本当の原町中央店のスタッフになり始めていた。
そんなある日。
バックヤードで景品を整理していると、浜谷が入ってきた。
「お疲れさまです。」
「お疲れさまです。」
以前なら、このあと二人の間に微妙な沈黙が流れていた。
今も敬語は変わらない。
浜谷が先輩で、川原が後輩。
ただ、一か月も同じ店で働いていれば、最初の頃よりは話せるようになっていた。
浜谷が景品の入った段ボールを持ち上げながら、ふと思い出したように口を開く。
「そういえば川原さん。」
「はい?」
「今度、阿佐野店に応援行くことになりました。」
「阿佐野店?」
川原は手を止めた。
ファンステージに別の店舗があることは知っている。
しかし、そこで働くという発想はまだ自分にはなかった。
「人が足りない日があるらしくて。」
「へえ……別のお店に行くこともあるんですね。」
「あるんですよ。よく日村さんは行ってて。」
「僕は初めてですけど。」
「浜谷さんも初めてなんですか?」
「はい。」
川原は少し意外に思った。
この前、クリスマス前の忙しい日に何度も助けてもらった。
分からないことを聞けば答えてくれる。
接客も、自分よりずっと慣れている。
そんな浜谷にも、初めて行く場所がある。
「阿佐野店って、どんなところなんですか?」
「分かんないです。」
即答だった。
「えっ。」
「僕、行ったことないんですよ。」
「あ、そうか。」
川原が笑う。
浜谷も笑った。
「だから何も分かんないです。」
「緊張しません?」
「めっちゃします。」
「しますよね。」
川原は少し安心した。
頼れる先輩だと思っていた浜谷も、知らない場所へ行くときは緊張する。
考えてみれば当たり前なのに、少し不思議だった。
「あ!でも阿佐野店には茂田さんもいるし、前まで原町で働いてたスタッフも二人いるんですよ!」
「異動された方ってことですか?」
「そうです!元気かなぁ!古坂さんと細井さん!」
顔も知らない二人。しかし、少し前まで原町で働いていた二人。
「いつ行くんですか?」
「今月の終わりくらいです。」
「頑張ってください。」
「寂しくなりますよ!」
「あ、大丈夫です」
「冷たいっすね!もう!」
二人は笑った。
二人はまた、それぞれの作業へ戻る。
浜谷は阿佐野店へ。
川原は原町中央店で。
まだその程度の話だった。
⸻
一月下旬。
「おはようございます!」
川原はいつものように事務所へ入った。
「おはよう。」
石村が返す。
「おはよう、木乃香ちゃん!」
大沼もすでに出勤していた。
「今日もよろしくお願いします。」
「よろしくね!」
川原は荷物を置きながら、勤務表を見る。
そこで思い出した。
(あ。)
今日だ。
浜谷が阿佐野店へ応援に行くと言っていた日。
もちろん、浜谷がいない勤務そのものは今までにも何度もあった。
シフト制なのだから、毎回同じメンバーで働くわけではない。
それでも今日は少しだけ違う。
浜谷は休みではない。
今ごろ、別のファンステージへ向かっている。
(今日、阿佐野店なんだ。)
川原はそれ以上深く考えることもなく、制服に着替えた。
原町中央店には、原町中央店の一日が始まる。
⸻
開店してしばらくすると、川原は藤屋と一緒に景品補充をしていた。
「川原さん、それ上の段お願いしていい?」
「はい!」
川原は箱から景品を取り出す。
「藤屋さん、これも出しますか?」
「それはまだ大丈夫。こっちを先に出そっか。」
「分かりました。」
川原は迷わず返事をした。
ふと、一か月ほど前のことを思い出す。
藤屋と相馬。
どちらがどちらなのか分からなくなっていた。
今となっては信じられない。
「どうしたの?」
「え?」
「なんか笑ってたから。」
「あ、いえ。」
さすがに本人へ、
最初は相馬さんと区別がつきませんでした。
とは言えない。
「何でもないです。」
「そう?」
藤屋は不思議そうにしながら、景品を並べていく。
そのときインカムから声が聞こえた。
『クレーンコーナー、お客様対応お願いできますか?』
相馬だ。
もう声だけで分かる。
川原はすぐにインカムへ手を伸ばした。
「川原、向かいます。」
『お願いします。』
川原は藤屋を見る。
「行ってきます。」
「はーい。こっちはやっとくから大丈夫だよ。」
「ありがとうございます!」
川原はクレーンコーナーへ向かった。
⸻
「お待たせしました。」
親子連れのお客さんが、一台のクレーンゲームの前に立っていた。
「これ、途中で止まっちゃったんですけど。」
「確認しますね。」
川原は機械を見る。
景品ではない。
クレーン自体が途中で止まっている。
操作ボタンを押しても反応しない。
(これは……。)
以前なら、とりあえず大沼を探していた。
今は違う。
自分で直せるようになったわけではない。
誰に聞くべきかが分かるようになった。
「申し訳ございません。機械を確認しますので、少々お待ちください。」
お客さんへ頭を下げる。
そしてインカムを入れた。
「日村さん、クレーンコーナーお願いできますか?」
『……はい、行きます。』
小さくて少し早い声。
間違いなく日村だ。
しばらくすると、日村が工具を持ってやってきた。
「どれ?」
「こちらです。途中で止まったみたいで、ボタンを押しても反応しません。」
「分かった。」
日村は機械を確認する。
川原も横から覗き込んだ。
「これって、私でも確認していいところですか?」
「ここまではいいけど、その先は触らない方がいい。」
「分かりました。」
日村が内部を確認していく。
川原は、その手元を見ながら覚える。
何でも自分でやることが、仕事を覚えることではない。
触っていいところ。
触らない方がいいところ。
自分で対応すること。
詳しい人を呼ぶこと。
その判断も、仕事の一つだった。
やがて機械が復旧する。
「ありがとうございます!」
川原は日村へ頭を下げると、お客さんのもとへ戻った。
「お待たせいたしました。」
今度は自分で説明する。
日村はその様子を確認すると、何も言わず次の仕事へ向かった。
⸻
昼過ぎ。
川原は相馬と一緒に店内を歩いていた。
「川原さん。」
「はい。」
相馬が少し先を見る。
小さな子どもを連れた女性が、辺りを見回していた。
「何か探してるみたい。」
川原も気づく。
「行ってきます。」
「お願い。」
川原はすぐにお客さんのもとへ向かった。
「お待たせしました。何かお探しですか?」
「あ、すみません。両替機ってどこにありますか?」
「こちらです。ご案内します。」
川原が先を歩く。
相馬は少し離れたところから、その様子を見ていた。
両替機まで案内し、川原が戻ってくる。
「ありがとうございました。」
「ううん。」
相馬が笑う。
「もう普通に行けるね。」
「簡単なことなら、ですけど。」
「それで十分だよ。」
川原も笑った。
そのまま二人で歩いていると、ふと川原は思い出した。
「そういえば。」
「ん?」
「浜谷さん、今ごろ阿佐野店ですよね。」
「ああ、今日だったね。」
相馬も思い出したようにうなずく。
「どうしてるんですかね。」
「大丈夫じゃない?」
相馬は笑った。
「古坂さんもいるし。」
「古坂さん?」
「前に原町にいた人。」
「浜谷さんも言ってた…」
川原は知らなかった。
自分が入った頃には、古坂はすでに阿佐野店へ異動していた。
「面白い人だよ。」
「へえ……。」
どんな人なのだろう。
阿佐野店には、まだ自分の知らないスタッフがいる。
そして今、その中で浜谷が働いている。
少し不思議な感じがした。
「まあ、次に会ったら聞いてみたら?」
「そうですね。」
会話はそこで終わる。
二人はまた、それぞれの仕事へ戻った。
⸻
夕方。
「川原さん、これお願い!」
「はい!」
大沼から渡された景品を受け取る。
「そのあとイベントコーナー見てもらっていい?」
「分かりました。」
「ありがとう!」
川原は景品を抱えて歩き出した。
藤屋と景品を補充して。
日村に機械を見てもらって。
相馬からお客さんへの気づき方を教わって。
大沼から次の仕事を任される。
気がつけば、一日はいつも通り進んでいた。
朝に一度思い出した浜谷のことも、営業が始まってからはほとんど考えていなかった。
原町中央店には原町中央店のスタッフがいる。
そして、それぞれが自分の仕事をしている。
浜谷が阿佐野店で何をしているのか、川原には分からない。
川原が原町中央店で何をしているのか、浜谷も知らない。
それでも。
二つの店舗は、それぞれいつものように営業を続けていた。
⸻
数日後。
「お疲れさまです。」
「お疲れさまです!」
バックヤードで、川原は久しぶりに浜谷と顔を合わせた。
といっても、何週間も会っていなかったわけではない。
シフトが重ならなかっただけなら、これくらい空くことはある。
ただ今回は、聞きたいことがあった。
「浜谷さん。」
「はい?」
「阿佐野店、どうでした?」
「ああ。」
浜谷は少し考える。
初めて行った別店舗。
どんなスタッフがいたのか。
どんな仕事をしたのか。
川原は少しだけ答えを待った。
浜谷が口を開く。
「倉庫がめちゃくちゃ狭かったです。」
「……そこなんですか?」
川原が笑った。
「いや、本当に狭いんですよ!」
「そんなにですか?」
「原町の倉庫に慣れてると、びっくりしますよ。」
「へえ。」
「でも皆さん優しかったですよ。」
浜谷は阿佐野店のことを少し話した。
高村、大澤、矢水、樋口。
そして、以前原町にいた古坂と細井。
聞いたことのない名前が次々と出てくる。
川原は一か月前の自分を思い出した。
(また名前いっぱい……。)
思わず笑いそうになる。
「どうしました?」
「いえ。何でもないです。」
浜谷が続ける。
「あ、あと。」
「はい?」
「また来週からも行くことになりました。」
「また行くんですか?」
「はい。」
「じゃあ、しばらくは原町にはいないんですか?」
「まぁ、そうなるみたいですね。」
浜谷が笑う。
「僕がいなくて寂しくなりますよ?」
川原も笑った。
「はいはい。」
原町中央店の浜谷が、阿佐野店へ応援に行く。
そしてその間も、原町中央店ではいつもの営業が続く。
川原にとっては、それだけのことだった。
けれど。
浜谷が知らない原町中央店の一日。
川原が知らない阿佐野店の一日。
同じファンステージでも、そこで働く人が違えば、見える景色も違う。
その日から少しずつ。
浜谷が阿佐野店で過ごす時間が増えていく。
そして川原もまた。
原町中央店で、自分の時間を積み重ねていくのだった。