闇だった。
意識は泥の底へと沈んでいく。身体から力という力が、栓を抜いた水のように抜けていく。焼け焦げたコンクリートとガソリンの匂い。血の生臭さ。全身を焼く激痛――そのはずなのに、痛みすら今は遠い。
すべてが、遠ざかっていく。
その闇の中に、一人の男が立っていた。黒髪を風に揺らし、静かな眼差しでこちらを見下ろす男――ケンシロウ。
「……ケンシロウ……」
掠れた声が、喉の奥からようやく漏れ出た。
敗れた。ジャギは、またしても弟に敗れたのだ。
悔しい。憎い。
自分を見下してきた兄たちも、この理不尽な世界も、才能とやらだけですべてを攫っていった弟も。そして何より、自分を嘲笑い続けたこの運命が、憎くて仕方がない。
(畜生……!)
その怒りだけが、消えかけた命を無理やり繋ぎ止めていた。
だが――その憎悪の底に、不意に一人の少女の笑顔が浮かんだ。優しく微笑む少女。あの日も、こんな自分を信じて笑っていた。誰よりも、大切だった少女。
強張ったジャギの口元が、わずかに震える。
「……アンナ……」
その名を最後に、意識は闇へと溶けていった。
◇
――うるせぇ。
耳障りな泣き声だった。ぎゃあぎゃあと、遠慮の欠片もなく鼓膜を殴りつけてくる。
(どこのガキだ……。死に際くらい、静かにしてくれや……)
苛立ちに任せて、重い瞼をこじ開ける。ぼやけた視界に映ったのは、見知らぬ木造の天井だった。
鼻をくすぐる薬草の匂い。汗と血が混じった、生々しい空気。
そこに赤子の泣き声と、女たちの慌ただしい息遣いが重なる。
(……何だ、ここは)
視線だけを動かす。ベッドの上では、若い女が一人の赤子を抱き上げていた。
その赤子は、実に元気よく泣き続けている。やかましい。
(だから誰だってんだよ、そのガキは)
そこで、老婆がこちらを振り向いた。目が合う。老婆は驚いたように目を見開き、何事かを叫んだ。
「――――!」
(……何語だ?)
聞いたこともない言葉だった。まるで理解できない。だが老婆は慌てた様子で駆け寄ると、いきなりジャギの身体を持ち上げた。
(なっ!? どんな怪力だ。ついでにその体格、ババアの規格から外れてねぇか!? おまえのようなババアがいるか!!)
――と、そこで違和感に気付く。身体が、軽すぎる。腕を動かそうにも、やたらと短い。指も、笑ってしまうくらい小さい。
(……何だ?)
老婆の腕の中で、自分の身体を見下ろす。小さな手。丸い腕。赤子の身体。
(…………は? 俺が……赤ん坊……だと?)
混乱の極みに達した、その瞬間だった。老婆と、真正面から目が合う。
ジャギの、あの鋭すぎる眼光が、そのまま老婆へ突き刺さった。老婆の顔から血の気が引く。
「ひっ……!」
思わず腕の力が抜けた。
(落ちる!)
考えるより先に、身体が動いていた。小さな指先が、老婆の腕にそっと触れる。
北斗神拳。経絡秘孔術。身体に染み付いた技が、本能のまま繰り出された。
トン。
ごく軽く、秘孔を突く。
「きゃっ!」
老婆の腕が痺れ、反射的にもう片方の手でジャギを抱え直す。危うく、床へ叩きつけられるところだった。
(危ねぇだろうが!! 何やってんだ、このクソババア!!)
心の中で、盛大に悪態をつく。老婆は青ざめた顔で、何かをぶつぶつと呟いている。
まるで、化け物でも見るような目だった。――失礼な話である。生まれたばかりで化け物呼ばわりとは。
その時だった。先ほど赤子を抱いていた若い女が、疲れ切った顔のまま、何かを優しく話しかけてきた。言葉の意味は分からない。それでも、その声色だけは不思議と温かかった。
老婆は何度も頷き、恐る恐るといった様子でジャギをその女へ差し出す。
女はゆっくりと、ジャギを胸元へ抱き寄せた。柔らかい。温かい。干した布と薬草、それに母乳の甘い香りが、ふわりと漂ってくる。その腕は、どこまでも優しかった。
女は涙で濡れた顔をほころばせ、小さく囁いた。
「……――・・・・―――。アンナ」
(……!)
その瞬間、理解できた。今まで一言も分からなかったはずの言葉のうち、なぜかその一言だけが、胸へ真っ直ぐ届いた。
――アンナ。
前世、最後に口にした名前。唯一、愛した少女の名前。そして今、この女が自分に与えた名前。
アンナ。
胸の奥が、じわりと熱くなる。怒りではない。憎しみでもない。こんな感情を、ジャギは知らなかった。いや――一度だけ、覚えがある気もする。
(……何だ。何なんだよ、これは……)
堪えようとしても、堪えられない。熱いものが、胸の奥から次から次へと込み上げてくる。そして生まれて初めて――いや、二度目の人生で初めて。
ジャギは大きく息を吸い込み、
「――おぎゃああああああっ!!」
力の限り、産声を上げた。
◇
朝の陽射しが、木枠の窓から柔らかく差し込んでいた。
木造の家の中には、乾いた木の香りと干した薬草の匂いが混ざり合い、どこか落ち着く空気が漂っている。時折、窓の外から小鳥のさえずりが聞こえ、風に揺れる木々の葉擦れが、静かな音を奏でていた。
部屋の隅では、一人の女性――クレアが椅子に腰掛け、繕い物をしている。針が布を通る規則正しい音だけが、静かな部屋に小さく響いていた。
少し離れた場所には、双子が眠る木製のベビーベッド。緑色の柔らかな髪をした妹は、小さな寝息を立てながら穏やかに眠っている。
「……すぅ……」
その寝顔を横目に見ながら、もう一人の赤子――ジャギ改めアンナは、小さく息を吐いた。
(……やっと静かになったか)
心の中だけで漏らした、盛大なため息。前世の自分なら、どうしていただろう。赤子の泣き声など聞かされようものなら、
「うるせぇぇぇ!!」
と怒鳴り散らし、壁の一つや二つは殴り壊していたかもしれない。それなのに今は、ただ静かになったことに心から安堵している。――その変化に、アンナ自身はまだ気付いていない。
(さて……)
毎日の日課を始める。目を閉じ、意識を自らの身体へ向ける。細く未熟な四肢。柔らかすぎる筋肉。小さすぎる肺。未発達な骨格。
(くそっ……)
身体の隅々へ、闘気をゆっくりと巡らせる。北斗神拳は、己の身体を知ることから始まる。どんなに小さな違和感も見逃さない。それは、赤子になろうと変わらない。
ゆっくりと全身を巡る闘気を感じながら、アンナはまた小さくため息を漏らした。
(くそっ……何でこんな事に……)
最初は、死に際の幻覚だと思っていた。それなら辻褄は合う。死ぬ瞬間、人は都合のいい夢を見るという話も聞いたことがある。だが。
(長ぇ……)
長すぎる。幻覚にしては、何日も、何週間も続いている。ならば――
(百歩譲って……
あり得ない。ごつい男を女児へ変える秘孔など、聞いたこともない。そんな秘孔があるなら、伝承の一つや二つ残っていてもおかしくない。まるで――
(……お伽話の魔法じゃねぇか)
考えた瞬間、自分で鼻で笑う。魔法などあるわけがない。そんな都合のいい力が存在するなら、この世はとっくにもっと滅茶苦茶になっている。
――その時だった。
「……んぅ」
隣で眠っていたシルフィが、小さく寝返りを打つ。ころり、と転がり、そのままアンナへ抱きついてきた。
「むにゃ……」
ぎゅう。
(……暑ぃ。ガキってのは、何でこんな体温高ぇんだよ)
振り払おうと思えば、簡単だ。だが、
(起きて騒がれたら面倒くせぇ)
結局、そのままにしておく。時折、小さく背中を叩き、頭を軽く支える。また眠るようにあやしながらも、闘気の循環は止めない。体内を流れる力の変化を探り続ける。さらに現状の整理。今後の身の振り方。すべてを並行して考える。
北斗神拳において、一つのことしか考えられないようでは生き残れない。並列思考は、修練の基本だった。
(……)
女。それも赤子。名前はアンナ。数日前、ベッドへ寝かされる前に偶然見えた水桶の水面。そこに映った自分の顔。
(目付きは悪ぃが……それ以外は、前世で愛した少女――アンナの面影が、確かにそこにあった)
(偶然……か?)
いや。偶然にしては、出来すぎている。だが、考えても答えは出ない。答えの出ないことを考え続けるほど、ジャギは暇な男ではなかった。
(それより……)
身体の奥。闘気とは違う、もう一つの力。最初は、本当に微かな違和感だった。勘違いかと思った。しかし、闘気を操る要領で意識を向けると、その力もまた動いた。しかも、翌日には少し増えている。鍛えれば鍛えるほど、その器が大きくなっていく。闘気との相性も、悪くない。
(面白ぇ。なら、鍛えるだけだ)
闘える力は、多いほどいい。それが、ジャギの生き方だった。小さな口元が、僅かに歪む。
(強くなれるなら何でも使――)
じわり。
(……)
何か、嫌な感触が腹の辺りへ広がっていく。
(…………)
アンナの思考が、止まった。ゆっくりと視線を下へ向ける。自分へしがみついたまま眠るシルフィ。その表情は、実に幸せそうだった。
(…………馬鹿な。なんて事だ)
衝撃だった。ケンシロウに敗れた時以上の、衝撃だった。アンナは戦慄する。
(こいつ……漏らしやがった!?)
その瞬間、
「ふぇ……」
シルフィが目を覚ます。そして、
「おぎゃあああああっ!」
泣いた。部屋の隅で作業していたクレアが、慌てて立ち上がる。
「あらあら!」
優しい笑みを浮かべながらベビーベッドへ駆け寄り、二人を抱き起こす。シルフィをあやしながらおむつの様子を確かめ、小さく苦笑した。
「うふふ、いっぱいしちゃったのね」
アンナにも、その言葉の意味は十分理解できた。
(……泣きてぇのは、こっちだぜ)
北斗の修羅、生後数週間にして、隣の寝相の犠牲になる。クレアの腕に抱かれながら、アンナは今日何度目かも分からないため息を、また心の中で漏らした。
◇
夜のブエナ村は、昼間とは別の顔を見せていた。
月明かりが木造の家の中へ差し込み、柔らかな光の筋を床に描いていた。暖炉の火は小さく揺らめき、部屋には薪の燃える優しい匂いが漂っている。
そんな静かな夜、一組の夫婦が、並んで小さなベッドを覗き込んでいた。そこには、二人の赤ん坊が眠っている。一人は、緑色の髪をした少女。もう一人は、明るい栗色の髪をした少女。
生まれて、まだ数週間。何も知らず、何も疑わず、ただ母親と父親の愛情に包まれて眠る、小さな命だった。
父親――ロールズは、しばらく二人の娘を見つめた後、隣に立つ妻へ静かに声をかけた。
「……アンナは、もう大丈夫そうだな」
その声には、安堵が滲んでいた。母親――クレアは、優しい表情で頷く。
「ええ……もう、大丈夫」
その言葉には、嬉しさと、ほんの少しの寂しさが混ざっていた。
あの日のことを、思い出す。娘が生まれた日のことを。クレアは、眠るアンナへ視線を向けた。小さな手。小さな身体。今では時々、元気に手足を動かしている。しかし、生まれた瞬間は違った。
ロールズが、静かに口を開く。
「……あの時は、本当に駄目だと思った。産婆のエルナ婆さんに言われた時だ。『この子は息をしていない。もう諦めなさい』って」
その言葉を口にしただけで、胸が締め付けられるようだった。
「頭の中が、真っ白になったよ」
「……私も」
クレアが小さく呟く。
「どうすればいいのか、分からなかった」
母親として、娘を守らなければと思った。でも、何をすればいいのか分からない。ただ、小さな身体を見つめることしかできなかった。しかし――奇跡は、起きた。
「……でも」
ロールズが微笑む。
「あの時、シルフィが手を伸ばしたんだよな」
クレアも思い出す。生まれたばかりで、まだ何も分からないはずの赤ん坊。泣く力しかないはずの、小さな命。それでも、シルフィは姉へ向かって手を伸ばした。まるで、
「ここにいるよ」
と言うように。そして、泣いた。必死に。小さな身体いっぱいに、声を上げて。その声に応えるように、アンナは目を開けた。
「……あの時のことは、今でも信じられない」
ロールズが笑う。
「エルナ婆さんなんて、慌ててアンナを抱き上げただろ?」
「ええ」
クレアも笑みをこぼす。
「それで……抱き上げた瞬間、ものすごい目で睨まれたって」
ロールズは肩を震わせながら言った。
「ふふ……」
クレアが口元を押さえる。
「生まれたばかりの赤ん坊に睨まれるなんて、普通はないものね」
「エルナ婆さん、しばらく本当に怯えていたらしいぞ」
二人は小さく笑い合う。それは、無事だったからこそ笑える思い出だった。もし、あの時シルフィが泣かなかったら。もし、アンナが目を開けなかったら。考えるだけで、胸が痛む。だからこそ、今この瞬間が、愛おしい。
クレアは二人の娘へ手を伸ばし、そっと頭を撫でる。
「……生まれてきてくれて、ありがとう。本当に……ありがとう」
優しい声だった。ロールズも頷く。
「ああ。二人とも、俺たちのところに来てくれてありがとう」
大きな手で、二人の娘を見守る。その言葉は、静かな部屋へ溶けていった。
ベッドの中、アンナは眠っているふりをしながら、その声を聞いていた。もちろん、赤ん坊には理解できないはずの言葉だ。それなのに、なぜかその意味だけは、胸の奥へまっすぐ届いていた。
(……)
照れ臭い。前世では、誰かからこんな言葉を向けられたことなど、一度もなかった。愛されている。必要とされている。そんな感覚を、アンナは知らなかった。
小さく身じろぎする。すると、隣で眠っていたシルフィが、いつものように手を伸ばした。
ぎゅ。
小さな手が、アンナの服を掴む。離さない。まるで、
「ここにいるよ」
と言っているように。
アンナは目を閉じる。
(……ったく。調子くるうぜ)
そう思う。けれど、その口元は――ほんの少しだけ、緩んでいた。
月明かりの下、二人の姉妹は寄り添いながら眠る。それを見守る両親の顔には、静かな幸せが浮かんでいた。