アンナは分厚い魔術教本を、ぺらぺらと気だるげにめくっていた。
(……へえ)
魔術の教本など、生まれて初めて目にした。
(こういうもん、あるとこにはあるんだな)
妙な感心を抱きながら、ぱらぱらとページを流していく。並んだ呪文の羅列は、正直、半分も頭に入ってこない。
(まあ、それでも)
ちらりと視線を上げる。
(ルーデウスに聞いた方が、早いし、わかりやすいよな)
教本を閉じ、机の端にそっと置いた。
◇
今日は、ルーデウスの家に遊びに来ていた。木漏れ日が窓からぼんやりと差し込むこの部屋で、アンナはシルフィと並んで座り、ルーデウスが魔法を見せてくれるのを待っていた。
「よーし。よく見ててくれよ」
ルーデウスが、軽く腕をまくるような素振りを見せる。
ルーデウスの魔法には、詠唱がない。無詠唱。あの教本のどのページにも載っていなかった言葉だ。詠唱を省いたぶん発動は速い。そして何より、制御が恐ろしく丁寧だった。
部屋の中だから、大きな魔法は使えない。それでも。
掌の上に生まれた小さな水の珠が、すうっと伸び、長い耳と丸い尻尾を持つ兎の形に変わる。続けて小さな火球が現れ、ひらひらと羽の形に揺らめき、蝶へと姿を変えた。兎と蝶が、ふわふわと空中を漂う。
「……綺麗」
シルフィが小さく呟いた。目を輝かせ、その二つの光をじっと見つめている。それを聞いて、ルーデウスが得意げに笑った。
「教えてやるよ。練習すれば、シルフィにもできるようになる」
「……僕にも、できるかな?」
シルフィが少し不安そうに首を傾げる。
「俺に、任せとけ」
ルーデウスは胸を張り、意気揚々と言い切った。そのあまりにも自信満々な様子に、シルフィは嬉しそうに笑った。
アンナは、その光景を黙って眺めていた。兎と蝶は、まだふわふわと二人の間を漂っている。
(……まあ)
教本よりも、よっぽどわかりやすい授業だ。そう思いながら、アンナは小さく口の端を緩めた。
シルフィは小さな手をじっと見つめている。ルーデウスの教えを何度も頭の中で繰り返しているのだろう。目を閉じ、集中するように小さく息を吐いた。それを、ルーデウスとアンナが静かに見守っていた。
「……ちょっと、行き詰まってんだよな」
アンナがぽつりと呟いた。誰に向けた言葉でもない、独り言のような呟きだった。
「ん? なに」
ルーデウスは、シルフィの方を見たまま気のない声で応じる。
「目指してるもんが、あるんだけどな」
視線は窓の外に向いていた。
「そのために必要なもんが、上手くいかねーんだよ」
「どんなの?」
ルーデウスが軽く聞き返す。
「んー……」
アンナは少し考える。
「一瞬で、いっぱい殴る技」
「……アンナらしいね」
ルーデウスが苦笑した。
「で、おとんが言うにはよ。それができれば、俺が目指してるもんに手が届くんじゃねーかって」
「おとんって、ロールズさん? ……怖いこと言うね」
少し考えるように腕を組む。
「じゃあ、このやろー、って相手のこと憎んでれば、いっぱい殴れるんじゃない?」
「いや」
アンナは即座に首を振った。
「おとんって、あだ名で、親父じゃねーよ」
「……え」
「いや」
少し言葉を選ぶ。
「憎しみ持ってちゃ、ダメらしい」
「違うかぁ」
ルーデウスは特に気にする様子もなく、次の案を出す。
「じゃあ、相手に一泡吹かせてやろう、ってのは?」
「いや」
アンナはまた首を振った。
「おとんが言うにはよ、なんか、負の感情あったらダメらしい」
「ほな、違うかぁ」
ルーデウスは小さく頷くと、ふと気になったように聞き返した。
「で、アンナが目指してんのって、なに?」
「……なんなんだろうな」
アンナは呟いた。その声には、珍しく少しだけ戸惑いのようなものが混じっていた。
「なんか、わかんなくなってきたよ」
窓から差し込む昼の光。その中で、アンナはしばらく自分の掌を黙って見つめていた。
――憎しみを。
――すべての雑念を、捨て。
それなら、何を持って、
答えは、まだ、どこにも見えない。
◇
「――できた!」
その声に、アンナは顔を上げた。
シルフィの掌の上に、小さな光の蝶が浮かんでいる。ひらり、ひらりとゆっくり羽ばたきながら、宙を漂っていた。
「ルディが、教えてくれたから!」
満面の笑みで、シルフィがルーデウスを見る。
「よっしゃ! 俺の教え方、完璧だったな!」
ルーデウスが両手を上げてはしゃいだ。
「うん……!」
二人は顔を見合わせ、子供らしい無邪気な笑い声を上げた。
アンナは、その光景をただ優しく見守っていた。さっきまでの行き詰まるような問いは、まだ胸の奥に残っている。それでも、目の前で笑う二人を見ていると、不思議とそれも――悪くない時間の一部のように思えた。
◇
アンナがはしゃぐ二人を眺めていると、窓の外からわざとらしい咳払いが聞こえた。
「……あ?」
訝しげに窓から庭を見下ろす。そこにはパウロが立っていた。手招きで、こっちに来い、と伝えてくる。
アンナは無視を決め込んで視線を戻そうとした。――もう一度、咳払い。しかも、さっきよりわざとらしさが増している。
「……しょうがねーな」
アンナは小さく息を吐くと、ルーデウスに向かって軽く手を上げた。
「便所、行ってくるわ」
そう言って、部屋を出る。
庭に出ると、パウロに庭の隅へと引っ張られるようにして連れていかれた。
「おっさん」
アンナはにやりと笑う。
「幼女を物陰に連れ込んで、なにする気だ?」
「……そういう話じゃねーだろ」
パウロが顔を顰める。
「そんなこと、どうでもいい」
「ゼニスさん、呼ぶぞ」
「ちょ――悪かった、悪かった!」
パウロが慌てて両手を振る。
「で」
パウロが仕切り直すように声を低くする。
「おまえ、何、うちに来てんだ」
「ダチの家に、遊びに来ただけだよ」
アンナはあっさりと答えた。
「ダチって――ルーデウスが、か?」
パウロが眉を寄せる。
「そうだよ」
アンナは頷く。
「俺が剣術見せねーから、ルーデウスダシにしてんじゃねーだろうな」
パウロがじろりとアンナを見据えた。
「どうだかなぁ」
アンナはニヤリと笑う。
「――コイツ」
パウロの額に青筋が浮く。
「俺の息子、馬鹿にしてんのか」
声を荒げようとした、その瞬間。
「アイツは、ダチだよ」
アンナは短くそう言った。その声には、普段の軽口とは違う確かな重みがあった。
肩透かしを食らったように、パウロの怒気がしゅるしゅると萎んでいく。
「ちょうどいい」
アンナは話を変えるように口を開いた。
「さっき、ルーデウスにも聞いたんだが、おっさんにも聞いてみるか」
「やだよ。めんどくせぇ」
パウロが即座に顔を背ける。
「……そうだよな」
アンナは真顔で頷いた。
「おっさん、脳筋だし、わかんないよな」
「――コイツ」
パウロの目に、再び苛立ちが浮かぶ。
「舐めやがって。聞いてやるから、言ってみろ」
「いや、脳筋」
「いいから!」
アンナは、ルーデウスにしたのと同じ問いを口にした。
「おとんは、憎しみもダメ、恨みもダメっていうんだがな。わかんなくなってきた」
パウロは少しの間、黙っていた。
(おとんって誰だ? ロールズ、じゃないのか?)
腕を組み、地面の一点を見つめる。知ってはいけない家族の秘密を聞いた気がした。その姿は、いつもの気のいい親父のものとは少し違って見えた。
それでも、どうにか言葉を絞り出す。
「……憎しみを力に変えるなら、憎しみを捨てた瞬間に、力もなくなる。だから、最初から憎しみを使わない技なんだと思う」
(……なるほど)
アンナは内心でそう呟いた。少しずつ、輪郭が見えてくる気がした。
「じゃあ、恨みは?」
「恨みってのは、過去のことをずっと引きずる感情だ。一瞬で攻撃する技なのに、過去のことをずっと考えてたら、攻撃する瞬間に集中できないだろ。過去に引っ張られたら、今の一発に集中できない」
「妬みは?」
「妬みって、他人と自分を比べることだから。『あいつのほうが強い』『あいつのほうが凄い』『俺も、あいつより強くならなきゃ』って考えてたら……自分じゃなくて、相手を基準にすることになる」
パウロはそのまま続けた。
「嫉みってのは、自分にないものを欲しがる気持ちだ。だったら、技を完成させるために『何かが、足りない』って思い続けることになる。『もっと力が必要だ』『もっと速く』『もっと強く』って」
「…………」
アンナは何も言えなかった。どの言葉も、胸の奥に静かに落ちていく。
「そうやって、足りないものを探してたら」
パウロが最後に言葉を継いだ。
「今、持ってるものにも気付けない」
しばしの静寂。庭の木々が、僅かな風にさわさわと音を立てている。
「……じゃあ」
アンナがようやく口を開いた。
「どうすりゃ、いいんだ?」
その声は、いつもの軽さとは違い、どこか縋るような響きを帯びていた。
パウロは、にやりと笑った。
「自分で考えろ。修行だろ」
それだけ言うと、くしゃりとアンナの頭を撫で、庭の向こうへと歩いていった。
アンナはその背をしばらく黙って見送っていた。
答えは、まだ、どこにもない。それでも――何かが、少しだけ近づいた気がした。