アンナは、分厚い魔術教本を、ぺらぺらと、気だるげにめくっていた。
(……へえ)
魔術の教本など、生まれて初めて、目にした。
(こういうもん、あるとこにはあるんだな)
妙な感心を抱きながら、ぱらぱらと、ページを流していく。並んだ呪文の羅列は、正直、半分も頭に入ってこない。
(まあ、それでも)
ちらりと、視線を上げる。
(ルーデウスに聞いた方が、早いし、わかりやすいよな)
教本を閉じ、机の端に、そっと置いた。
◇
今日は、ルーデウスの家に、遊びに来ていた。
木漏れ日が、窓からぼんやりと差し込む、この部屋。
アンナは今、シルフィと並んで座り、ルーデウスが魔法を見せてくれるのを、待っていた。
「よーし」
ルーデウスが、軽く腕をまくる、ような素振りを見せる。
「よく見ててくれよ」
◇
ルーデウスの魔法には、詠唱がない。
無詠唱。
あの教本の、どのページにも載っていなかった、言葉。
詠唱を省いたぶん、発動は速い。そして、何より――制御が、恐ろしく丁寧だった。
部屋の中だから、大きな魔法は使えない。それでも。
掌の上に生まれた、小さな水の珠が、すうっと伸び、長い耳と、丸い尻尾を持つ――兎の形に変わる。
続けて、小さな火球が現れ、ひらひらと、羽の形に揺らめき、蝶へと姿を変えた。
兎と蝶が、ふわふわと、空中を漂う。
◇
「……綺麗」
シルフィが、小さく、そう呟いた。
目を輝かせ、その二つの光を、じっと見つめている。
その声を聞いて、ルーデウスが、得意げに笑った。
「教えてやるよ」
「練習すれば、シルフィにも、できるようになる」
◇
「……僕にも、できるかな?」
シルフィが、少し不安そうに、首を傾げる。
「俺に、任せとけ」
ルーデウスは、胸を張り、意気揚々と、そう言い切った。
その、あまりにも自信満々な様子に。
シルフィは、嬉しそうに、笑った。
◇
アンナは、その光景を、黙って眺めていた。
兎と蝶は、まだ、ふわふわと、二人の間を漂っている。
(……まあ)
教本よりも、よっぽど、わかりやすい授業だ。
そう思いながら、アンナは、小さく、口の端を緩めた。
◇
シルフィが、小さな手を、じっと見つめている。
ルーデウスの教えを、何度も、頭の中で繰り返しているのだろう。目を閉じ、集中するように、小さく息を吐いた。
それを、ルーデウスとアンナが、静かに見守っていた。
◇
「……ちょっと」
アンナが、ぽつりと、呟いた。
誰に向けた言葉でもない。独り言のような、呟きだった。
「行き詰まってんだよな」
「ん?」
ルーデウスは、シルフィの方を見たまま、気のない声で、それに応じる。
「なに」
「目指してるもんが、あるんだけどな」
視線は、窓の外に向いていた。
「そのために、必要なもんが」
「上手くいかねーんだよ」
「どんなの?」
ルーデウスが、軽く聞き返す。
「んー……」
アンナは、少し、考える。
「一瞬で、いっぱい殴る技」
◇
「……アンナらしいね」
ルーデウスが、苦笑した。
「で」
アンナは、続ける。
「おとんが言うにはよ」
「それができれば、俺が目指してるもんに」
「手が届くんじゃねーかって」
「おとんって」
ルーデウスが、首を傾げる。
「ロールズさん?」
「……怖いこと言うね」
「じゃあ」
少し考えるように、腕を組む。
「このやろー、って、相手のこと憎んでれば」
「いっぱい殴れるんじゃない?」
「いや」
アンナは、即座に、首を振った。
「おとんって、あだ名で」
「親父じゃねーよ」
「……え」
「いや」
少し、言葉を選ぶ。
「憎しみ持ってちゃ、ダメらしい」
◇
「違うかぁ」
ルーデウスは、特に気にする様子もなく、次の案を出す。
「じゃあ、相手に一泡吹かせてやろう、ってのは?」
「いや」
アンナは、また、首を振った。
「おとんが言うにはよ」
「なんか」
「負の感情、あったらダメらしい」
「ほな、違うかぁ」
ルーデウスは、小さく頷くと、ふと、気になったように、聞き返した。
「で」
「アンナが、目指してんのって、なに?」
◇
「……なんなんだろうな」
アンナは、呟いた。
その声には、珍しく、少しだけ、戸惑いのようなものが、混じっていた。
「なんか」
「わかんなくなってきたよ」
窓から差し込む、昼の光。
その中で、アンナは、しばらく、自分の掌を、黙って見つめていた。
――憎しみを。
―― すべての雑念を、捨て。
それなら、何を持って、
答えは、まだ、どこにも見えない。
◇
「――できた!」
その声に、アンナは、顔を上げた。
シルフィの掌の上に、小さな、光の蝶が浮かんでいる。
ひらり、ひらりと、ゆっくり羽ばたきながら、宙を漂っていた。
「ルディが、教えてくれたから!」
満面の笑みで、シルフィが、ルーデウスを見る。
「よっしゃ!」
ルーデウスが、両手を上げて、はしゃいだ。
「俺の教え方、完璧だったな!」
「うん……!」
二人は、顔を見合わせ、子供らしい、無邪気な笑い声を上げた。
◇
アンナは、その光景を、ただ、優しく見守っていた。
さっきまでの、行き詰まるような問いは、まだ、胸の奥に残っている。
それでも。
目の前で笑う二人を見ていると、不思議と、それも――悪くない時間の一部のように、思えた。
◇
アンナが、はしゃぐ二人を眺めていると。
窓の外から、わざとらしい咳払いが、聞こえた。
「……あ?」
訝しげに、窓から庭を見下ろす。
そこには、パウロが立っていた。
手招きで、こっちに来い、と伝えてくる。
アンナは、無視を決め込んで、視線を戻そうとした。
――もう一度、咳払い。しかも、さっきより、わざとらしさが増している。
「……しょうがねーな」
アンナは、小さく息を吐くと、ルーデウスに向かって、軽く手を上げた。
「便所、行ってくるわ」
そう言って、部屋を出る。
◇
庭に出ると、パウロに、庭の隅へと、引っ張られるようにして、連れていかれた。
「おっさん」
アンナは、にやりと笑う。
「幼女を、物陰に連れ込んで」
「なにする気だ?」
「……そういう話じゃねーだろ」
パウロが、顔を顰める。
「そんなこと、どうでもいい」
「ゼニスさん、呼ぶぞ」
「ちょ――」
パウロが、慌てて、両手を振る。
「悪かった、悪かった!」
◇
「で」
パウロが、仕切り直すように、声を低くする。
「おまえ」
「何、うちに来てんだ」
「ダチの家に」
アンナは、あっさりと答えた。
「遊びに来ただけだよ」
「ダチって――」
パウロが、眉を寄せる。
「ルーデウスが、か?」
「そうだよ」
アンナは、頷く。
◇
「俺が、剣術、見せねーから」
パウロが、じろりと、アンナを見据えた。
「ルーデウス、ダシにしてんじゃねーだろうな」
「どうだかなぁ」
アンナは、ニヤリと笑う。
「――コイツ」
パウロの額に、青筋が浮く。
「俺の息子、馬鹿にしてんのか」
声を荒げようとした、その瞬間。
「アイツは」
アンナは、短く、そう言った。
「ダチだよ」
その声には――普段の、軽口とは違う、確かな重みがあった。
肩透かしを食らったように、パウロの怒気が、しゅるしゅると萎んでいく。
◇
「ちょうどいい」
アンナは、話を変えるように、口を開いた。
「さっき、ルーデウスにも聞いたんだが」
「おっさんにも、聞いてみるか」
「やだよ」
パウロが、即座に、顔を背ける。
「めんどくせぇ」
「……そうだよな」
アンナは、真顔で、頷いた。
「おっさん、脳筋だし」
「わかんないよな」
「――コイツ」
パウロの目に、再び、苛立ちが浮かぶ。
「舐めやがって」
「聞いてやるから」
「言ってみろ」
「いや、脳筋」
「いいから!」
◇
アンナは、ルーデウスにした同じ問いを、口にした。
「おとんは、憎しみもダメ、恨みもダメっていうんだがな」
「わかんなくなってきた」
◇
パウロは、少しの間、黙っていた。
(おとんって誰だ?ロールズ、じゃないのか?)
腕を組み、地面の一点を見つめる。知ってはいけない、家族の秘密を聞いた気がした。その姿は、いつもの気のいい親父のものとは、少し違って見えた。
それでも、どうにか言葉を絞りだす。
「……憎しみを力に変えるなら」
ぽつりと、口を開く。
「憎しみを捨てた瞬間に」
「力も、なくなる」
「だから」
「最初から、憎しみを使わない技なんだと思う」
◇
(……なるほど)
アンナは、内心で、そう呟いた。
少しずつ、輪郭が見えてくる気がした。
「じゃあ、恨みは?」
「恨みって」
パウロが、続ける。
「過去のことを、ずっと引きずる感情だ」
「一瞬で攻撃する技なのに」
「過去のことを、ずっと考えてたら」
「攻撃する瞬間に、集中できないだろ」
「過去に、引っ張られたら」
「今の一発に、集中できない」
◇
「妬みは?」
「妬みって」
「他人と自分を、比べることだから」
「『あいつのほうが強い』」
「『あいつのほうが凄い』」
「『俺も、あいつより強くならなきゃ』って考えてたら……」
「自分じゃなくて」
「相手を、基準にすることになる」
パウロは、そのまま、続けた。
「嫉みってのは」
「自分にないものを、欲しがる気持ちだ」
「だったら」
「技を完成させるために」
「『何かが、足りない』って」
「思い続けることになる」
「『もっと力が必要だ』」
「『もっと速く』」
「『もっと強く』って」
◇
「…………」
アンナは、何も言えなかった。
どの言葉も、胸の奥に、静かに落ちていく。
「そうやって」
パウロが、最後に、言葉を継いだ。
「足りないものを、探してたら」
「今、持ってるものにも」
「気付けない」
◇
しばしの、静寂。
庭の木々が、僅かな風に、さわさわと、音を立てている。
「……じゃあ」
アンナが、ようやく、口を開いた。
「どうすりゃ、いいんだ?」
その声は、いつもの軽さとは違い、どこか、縋るような響きを帯びていた。
◇
パウロは。
にやりと、笑った。
「自分で、考えろ」
「修行だろ」
それだけ言うと、くしゃりと、アンナの頭を撫で、庭の向こうへと、歩いていった。
アンナは、その背を、しばらく、黙って見送っていた。
答えは、まだ、どこにもない。
それでも――何かが、少しだけ、近づいた気がした。