アンナは、今日何度目かも分からない、ため息をついた。
理由は、二つある。
◇
一つは、一昨日の――ブエナ村解放宣言の、後始末だった。
あの後、家に帰ると、既に、サミーおばさんの噂話は、村中に広まっていた。
いつものモヒカン達の馬鹿騒ぎを知る村人たちは、テンション高めの雪合戦を、サミーおばさんが勘違いしたのだろうと、笑って済ませてくれた。
だが――一部の村人は、わざわざ、アンナの家まで、事情を聞きに来た。
◇
(……何でだよ)
アンナは、内心、小さく、ため息をつく。
アンナが、直接言われるのは、構わない。ボスと呼ばれている以上、それくらいは――当然、自分で尻を拭う覚悟は、あった。
だが。
家にまで、人が来て。
親父や、お袋が、頭を下げて、謝っている。
その光景を、見るのは、何より、堪えた。
◇
「……ごめん」
アンナは、二人に、頭を下げた。
声が、思ったより、小さくなる。
その瞬間。
「何言ってんだ」
ロールズが、笑いながら、アンナの頭に、手を乗せた。
くしゃり、と。乱暴に、けれど、優しく、撫でる。
「おまえが、モヒカンの連中、庇うのと」
「おんなじだろ」
「家族なんだから、な」
隣で、クレアも、柔らかく微笑んでいた。
「気にしなくていいのよ」
「アンナ達がかける苦労なんて」
「全然、大変じゃないんだから」
◇
その言葉に。
アンナの胸の奥が、きゅっと、締め付けられた。
(……何で)
(何で、そんな顔、できるんだよ)
申し訳なさと、それ以上の、温かいもの。
二つが、ないまぜになって、胸の中で、行き場を失う。
結局、アンナには――。
「……ごめん」
もう一度、そう言って、頭を下げることしか、できなかった。
下げた頭の先で、雪が、静かに、溶けていった。
◇
一昨日の馬鹿騒ぎの、謝罪として。
アンナは今日、モヒカン達と、村の家々の雪かきをして回っていた。
黙々と、スコップを動かし続ける。
村人への謝罪は、この雪かきで、ひとまず果たしているつもりだった。
だが――本当の不安は、そこではない。
あの馬鹿騒ぎが、どこまで伝わっているか。
ボレアス家の耳に、入っていないとも、限らない。
一つ目の理由は、まだ、消えてはいなかった。
――ふと、手が、止まった。
ため息の、もう一つの理由。
目の前に。
等身大よりも、一回り大きい。
雪像が、立っていた。
細部まで、丁寧に再現されている。
流石に、あの鋭い目つきまでは、再現しきれなかったのか。
本物と比べると、幾分、柔らかい顔立ちになっている。
それでも――誰が見ても、一目で分かる。
アンナの、姿だった。
◇
そして。
その雪像は、ここだけでは、なかった。
見渡せば、村の、各家々の玄関前に。
同じ、アンナの雪像が、律儀に、並んで立っている。
(……おい)
アンナは、思わず、眉間を押さえた。
(誰が作ったんだよ、これ)
考えるまでもなかった。
「ルーデウスがいうには」
「魔除け、らしいですよ」
振り返ると、モヒカンAが、すまし顔で、そう告げた。
なぜか、それを聞いた村人たちは、一様に、納得したように頷いていた。
「へえ、魔除けねぇ」
「それなら、仕方ないわねぇ」
――何がどう「それなら」なのか。
アンナには、まるで、理解できなかった。
「で、そのルーデウスは、どこにいんだよ」
「そういえば、みませんね」
(まあ、害がねぇなら、放っとくか)
そう結論付けると、再び、スコップを握り直し、雪かきを、続けた。
◇
しばらく、黙々と、雪かきに精を出す、アンナたち。
「この目つき、なまいきね!」
不意に、アンナの背後から、子供の声が、響いた。
「あんたも、そう思うでしょ」
アンナが、何だ、と振り返る。
そこには。
吊り上がった、気の強そうな目。
癖のある髪が、冬の日差しに揺れている。
こぼれた絵の具のような、鮮烈な赤。
――第一印象は、苛烈。
その少女と、傍らに控える、獣族の女が、立っていた。
二人の視線の先には。
ルーデウスが丁寧に作った、アンナの雪像。
(……だれだ、コイツら)
アンナは、内心、首を傾げた。
次の瞬間。
赤髪の少女が、無造作に、足を振り上げた。
どすん、と。
鈍い音と共に、雪像が、呆気なく、崩れ落ちる。
細部まで、丁寧に作り込まれていた、あの雪像が。
ただの、雪の塊に戻った。
「あんたに、言ってんのよ!?」
赤髪の少女が、アンナを睨みつけ、声を荒げる。
だが。
その、言葉の途中で――ふと、動きが止まった。
アンナの、目と。
視線が、合ったから。
(……なに、コイツ)
一瞬、怯んだような。
それでいて、怯んだことすら、認めまいとするような。
複雑な、間。
「なんだ?」
アンナは、首を傾げた。
その、問いが、終わるか終わらないかの、瞬間。
――ぶん、と。
風を切る、鋭い音。
赤髪の少女が、拳を、振り抜いていた。
◇
避けた、わけではない。
考えるより先に、身体が、僅かに、軸をずらしていた。
長年、染み付いた、反射。
その拳は――アンナの頬を、紙一重で、掠めて通り過ぎた。
「なんだよ、いきなり」
アンナは、空を切った拳と、その持ち主を、交互に見た。
苛立ちも、驚きも、特にない。ただ、純粋な、疑問だけがあった。
その、反応に。
赤髪の少女の、眦が、更に、つり上がる。
「エリス」
拳を構えたまま。
「エリス・ボレアス・グレイラットよ!」
憤怒を、隠しもせず。
高らかに、その名を、名乗った。
◇
ボレアス。
その名を聞いて――アンナは、思わず、空を仰いだ。
(……もう一昨日の話、バレてんのか)
ボレアス家、というのが、はったりである可能性も、ないではない。
だが。
(いや、まず、本当だろうな)
視線を、獣族の女へと、向ける。
あの、気配の消し方。立ち姿の、隙のなさ。
(あの女、普通じゃねぇ)
(おっさん以上……ってのは、確定だな)
いきなり殴りかかってきた小娘が、あんな護衛を連れている時点で。
ただの、子供の八つ当たりとは、思えない。
(……詰んでんな)
負ければ――村に、罰が、下る。
勝っても――今度は、報復の軍が、送られてくるだけだ。
( どっちに転んでも、村が割を食う)
それでも――退く、という選択肢は。
アンナの中には、端から、なかった。
◇
「ギレーヌ」
エリスが、声を上げた。
「私が、やるわ!」
「わかった」
短い、応答。
獣族の女――ギレーヌは、ただ、一歩、下がった。
見守る、構え。
◇
(……ちょうどいい)
アンナは、わざと。
エリスの、二発目の拳を、受けるように――その勢いのまま、後方へ、転がり込んだ。
転がった先は、ギレーヌの足元。
その、刹那。
アンナの指先が、ギレーヌの足に――触れようと、伸びる。
だが。
すっ、と。
足が、ずれた。
(……偶然か?)
もう一度、確かめる。
続く、エリスの三発目を、紙一重で避けながら、よろけたように、ギレーヌへ、手を伸ばす。
今度も。
やはり、かわされた。
(……あー、ダメだ)
(警戒、されてるわ)
アンナは、小さく、息を吐いた。
流石に、おっさん以上の実力だ。
◇
ならば。
アンナは、エリスの――大振りな、右フックに。
その軌道に、身を合わせた。
拳の勢いを、そのまま、逃がさず、利用する。
くるり、と。
エリスの身体が、宙に浮いた。
投げられたと、気付く間もなく。
地面に落ちると同時に――その、右腕が、きっちりと、極められていた。
「いちおう、言っとくが」
アンナは、淡々と、告げた。
「俺も、この村の奴らも」
「ボレアス家に、逆らう気はねぇんだが?」
地面に組み伏せられた、エリス。
その様子を。
ギレーヌは――ただ、黙って、見つめていた。
◇
「――もう、いいか?」
静かに、ギレーヌが、問いかけた。
「まだよ!」
極められた腕の痛みなど、知らぬとばかりに。
エリスは、身体を捻り――無理やりに、アンナの目を突こうと、左手をのばす。
(……おいおい)
アンナは、半ば呆れながらも、どこか、感心していた。
(どんなお嬢様だよ。腕、折れるぞ)
だが、本人に、その自覚は、まるでない。
アンナは、仕方なく――エリスの身体を、ギレーヌの方へ、軽く突き飛ばした。
◇
「……もう、いいか?」
受け止めたエリスへ、ギレーヌが、もう一度、同じ問いを、投げかける。
「まだよ!」
返ってきた答えも、先ほどと、まったく同じだった。
ギレーヌは、小さく、息を吐く。
そのまま、エリスの――脱臼した右肩に、無造作に手をかけると。
ごきり、と。
容赦なく、入れ直した。
「さあ、続きね!」
エリスは、痛みなど、おくびにも出さず。
獰猛な笑みを浮かべ、再び、突っ込んだ。
だが――その、矛先。
しがみつくように、組みついた相手は。
アンナでは、なかった。
◇
「……は?」
ギレーヌの、表情が、固まる。
驚愕。
当のエリスでさえ、自分が、何をしているのか、理解できていない顔をしていた。
「よそみ、してんなよ」
アンナが、笑った。
「二人がかりで、悪ィな」
「やっと――アンタに、触れたぜ」
ギレーヌの、腹部。
そこには、アンナの人差し指が、深々と、突き刺さっていた。
◇
地を揺らすような、歓声が湧いた。
「ボスの勝ちだ――!」
モヒカンたちが、拳を突き上げ、歓喜に沸き立つ。
アンナは、その騒ぎを、ちらりと一瞥しただけで。
「……静かにしてろ」
低く、一言。
それだけで、場が、水を打ったように、静まり返った。
◇
アンナは、視線を戻す。
秘孔を突かれ、その場に、縫い止められたように動けなくなった、ギレーヌとエリス。
身動きが取れないはずなのに。
ギレーヌの顔には、わずかに汗が浮かんでいるものの、不思議と、落ち着きがあった。
対して、エリスは。
アンナを、喰い殺さんばかりに、睨みつけている。
――だが、その瞳の奥には。
隠しきれない、動揺の色が、揺れていた。
◇
「アンタらが、誤解すんのもわかるよ」
アンナが、静かに、語り始めた。
「あの悪党面見りゃ」
「そりゃ、悪いこと企んでんなって、思うわな」
モヒカンたちの方へ、軽く、顎をしゃくる。
「でもな」
続ける声は、淡々としていた。
「アイツらは、馬鹿騒ぎはするけどよ」
「誰かが泣くようなこたぁ、しねぇよ」
アンナの視線が、ゆっくりと、村の方へと、動いた。
「村のみんなも、そうだ」
「小さな村だから」
「多少、不便なことはあっても」
「みんなで助け合や、何とかなる」
一拍、置く。
「ここでの生活に、不満は――ねぇよ」
その声には、紛れもなく、本物の情が、滲んでいた。
「それでも」
アンナは、軽く、肩をすくめた。
「こんな騒ぎに、なっちまった」
「アンタらにも、めんつがあんのは、わかる」
――だから。
アンナは、そう言うと。
ゆっくりと、右手を、持ち上げた。
その手は――目で見てわかるほどに、闘気で、輝いていた。
ギレーヌが、訝しげに、その手を見つめる。
エリスの目に、隠しきれない、怯えが過ぎった。
「ただで帰れ、なんて言わねーよ」
アンナは、にやりと、笑った。
「コイツらをまとめてんのは、俺だ」
「――みやげに、持ってけよ」
言い終えると同時に。
アンナは、右手で――自分の首を、一息に、切り裂いた。
◇
ただ、捕まるのも、負けて死ぬのもだめだ。自分が勝ち、圧倒的に優位な状態での自死。それによって、村に反乱の意思なしと証明する。アンナは、そう考えた。
「……親父、お袋」
薄れていく、意識の中。
アンナは、静かに、呟いた。
「迷惑かけてばっかで……ごめんな」
「なんも、返せなかったよ」
視界が、滲む。
色が、少しずつ、薄れていく。
それでも、言葉だけは、まだ、紡げた。
「シルフィ……」
口元が、わずかに、緩む。
「ダメな、ねーちゃんで……ごめんな」
「俺、馬鹿だからさ」
「こんな、やりかたしか……思いつかなかったんだわ」
「みんな」
声が、かすれる。
「こんな俺に……優しく、してくれて」
「笑いかけて、くれて」
「……ありがとな」
◇
(優しいみんなは)
(きっと、泣くんだろうな)
(それでも)
(いつか――笑って、俺のこと、話せるようになってくれよ)
(わがまま、言って……ごめんな)
◇
意識が、朦朧とする。
遠くで、誰かが、泣き叫んでいる。
――シルフィ、だ。
その声だけは、やけに、はっきりと、耳に届いた。
(……あれ)
(顔、腫れてんな、誰だコイツ)
ぼやけた視界の端に、見覚えのない、泣き顔がある。
(……ああ、ルーデウスか)
(そんな顔すんなよ)
そして。
もうひとつ。
汚い泣き顔が、いくつも、視界に滲んでいた。
(……モヒカンはいらねーよ)
(走馬灯に、モヒカンはいらねーよ)
そこで。
アンナの意識は――。
◇
最初に感じたのは、温かさだった。
首のあたりに、じんわりと、陽だまりのような熱が、広がっている。
次に、声。
「アンナ! アンナ! アンナぁ……!」
耳元で、何度も、名前を呼ばれている。
しゃくり上げて、引きつって、それでも、止まらない声。
アンナは、重い瞼を、ゆっくりと、持ち上げた。
◇
視界いっぱいに、緑色の髪が、広がっていた。
涙で、ぐしゃぐしゃになった、シルフィの顔。
その掌から、淡い、翠色の光が、アンナの首へと、注がれている。
少し離れた場所では、顔をパンパンに腫らしたルーデウスが、青ざめた顔で、同じように手を翳していた。
額には、玉のような汗。
唇は、紫に近い色をしている。
二人とも、魔力が、ほとんど底を、突きかけているのだろう。
(……ああ)
(助かったのか、俺)
結果から言えば。
アンナは、助かった。
ルーデウスと、シルフィの、回復魔法のおかげだった。
◇
「……ばか」
アンナの意識が戻ったのに気付いた瞬間。
シルフィは、魔法を止めるのも忘れて、アンナの胸に、顔を埋めた。
「ばか、ばか、ばかぁ……!」
「死んじゃうかと、思ったんだからね!」
「アンナの、ばかぁ……!」
小さな拳が、ぽかぽかと、アンナの肩を、叩く。
まるで、力が入っていない。
叩くたびに、その手は、小刻みに、震えていた。
アンナは。
その震えが、胸に、痛いほど伝わってきて――。
(……ああ、くそ)
(そうだよな)
俺だって。
こんな顔、させたかったわけじゃ、ない。
アンナは、ゆっくりと、手を持ち上げた。
まだ、少し、ふるえる指で。
シルフィの、柔らかな緑の髪を、そっと、撫でる。
「……ごめんな、シルフィ」
掠れた声が、出た。
「だけどよ」
一拍、置く。
「けじめ、とんねーとさ」
シルフィは、答えなかった。
ただ、アンナの服を、ぎゅうっと、握りしめた。
◇
「――いいけどよ」
不意に、頭上から、聞き覚えのある声が、降ってきた。
「次からは、もうちっと、人の心臓に優しい『けじめ』にしてくれや」
見上げると。
いつの間に、そこにいたのか。
パウロが、腕を組んで、立っていた。
その表情は、呆れているようでもあり、ほっとしているようでもあり。
どこか、苦笑いにも、見えた。
「……あ?」
アンナは、眉を寄せた。
「おっさん。いつからいた」
「それはまあ、置いとけ」
パウロは、ひらひらと、手を振る。
「それより――話は、ついてる」
「……あ?」
「うちのルーデウスが、やらかしたって、ことだろ」
パウロは、気まずげに、後頭部を掻いた。
「悪かったな。ボレアス家には、俺から、頭下げといた」
「ギレーヌとは、馴染みでな」
「こっちで、話は通してある。村にお咎めは、ねぇよ」
◇
その言葉を聞いて。
アンナは、ちらりと、視線を、横に向けた。
ルーデウスの、顔。
ぱんぱんに腫れ上がった、頬。
赤紫に染まった、目の周り。
(……ああ)
(そういう、ことか)
アンナは、すべてを、理解した。
あの腫れは、誰かに殴られたものだ。
そして、その誰かは、考えるまでもなく。
(おっさんが、先に、やったんだな)
ルーデウスは、アンナの視線に気付くと。
腫れた顔のまま、へらりと、力なく笑った。
「……ごめん」
「その、お騒がせ……しました」
ふにゃふにゃの声だった。
それでも、手を翳すのは、やめていない。
その姿に、アンナの胸の奥が、ほんの少しだけ、緩んだ。
◇
だが。
そこで、新たな疑問が、浮かんだ。
(――でもよ)
アンナは、視線を、ゆっくりと、パウロへ戻す。
「なあ、おっさん」
「話が、ついてたんなら」
「なんで、あのガキ――お嬢様は」
「俺に、喧嘩、売ってきたんだ?」
「…………」
パウロの、動きが、ぴたりと、止まった。
「あー」
「それなんだが」
目が、泳ぐ。
腕を、組み直す。
視線は、空の彼方へ。
あまりにも、わかりやすい、挙動不審だった。
「いや、なんだ」
「お嬢様がな」
「おまえのこと、見てみたいって言うから」
「連れてきた、んだが」
「…………ほう」
アンナの、目が、細くなる。
どこか、歯切れが悪い。
アンナは、その一点を、逃さなかった。
「それだけか?」
「……いや」
「それだけ、って、わけじゃ」
「おっさん」
「……ああ、もう」
パウロは、観念したように、肩を落とした。
「いや、だからな」
「前にな、俺が、おまえに、一杯食わされたって話を、したんだよ」
「そしたら、ギレーヌが、えらく、笑ってな」
「『あの、パウロが』ってな」
「で、売り言葉に、買い言葉で」
「『じゃあ、おまえも、やってみろ』と……」
「…………」
アンナは、長い、長い、沈黙のあと。
静かに、告げた。
「おっさんが、原因じゃねーか」
「ち、違う! たぶん、違う!」
「たぶん、か?」
「…………」
◇
どうやら、パウロは。
物陰から、ずっと、様子を窺っていたらしい。
最初は、「ちょっと、じゃれ合う程度だろう」と、高を括っていたのだが。
どう見ても、洒落で済まない空気になってきたので。
慌てて、飛び出してきた、というわけだ。
――その時、すでに。
アンナは自分の首を、切り裂いた後だった。
「……俺が、どんだけ、心臓止まりかけたと、思ってんだ」
パウロが、ぼそりと、呟く。
「ホントによ」
その声には、冗談めかした響きは、なかった。
◇
(……ったく)
アンナは、ため息を、一つ、吐いた。
(親子揃って、人騒がせな)
息子は、村の独立を、宣言し。
親父は、悪ふざけの延長で、お嬢様を、けしかける。
どちらも、笑えない。
笑えない、のだが。
その、どうしようもない、親子が。
首に刺さった刃を、一番に心配してくれたのだと思うと――。
怒る気に、なれなかった。
「まあ、いいじゃねーか」
パウロが、わざとらしく、明るい声を出す。
「まるく、治まったんだしよ」
「終わりよければ、すべてよし、ってな!」
誤魔化すように、くるりと、背を向ける。
その視線の先には。
少し離れた場所で、動かずに立ち尽くす、ギレーヌと、エリス。
パウロは、ニヤリと、笑った。
「よう、ギレーヌ」
「いいザマだな、ええ?」
「おまえが、動けなくなってる姿なんて、初めて見るぜ」
「ざまぁねーな!」
あからさまに、からかう声。
アンナは、その背中に、静かに、告げた。
「……そのねーちゃん」
「動けるぞ」
「え?」
パウロが、振り返った。
その瞬間。
ごっ、という、鈍く、重い音が、冬空に響いた。
ギレーヌの拳が、パウロの顔面を、正確に、捉えていた。
パウロの身体が、見事な放物線を、描いて飛んでいく。
雪の上を、ごろごろと、転がって。
ずぼっ、と、雪山に、頭から、突っ込んだ。
「…………」
誰も、何も、言わなかった。
ギレーヌは、拳を、ゆっくりと、下ろす。
その横で、エリスが、ぽかんと、口を開けていた。
アンナは。
しばらく、その光景を、黙って眺めた後。
ふっ、と、吹き出した。
「ははっ」
そして、声を上げて、笑った。
「終わりよければ、すべてよし、だな」
冬の空に、アンナの笑い声が、高く、響いた。