ルーデウスの部屋には、エア味噌汁の湯気が立っていた。
窓の外では、冬の風が枯れ枝を鳴らしている。ガラス越しの薄い陽射しが、床に敷かれた絨毯の端をぼんやりと照らしていた。
一階の暖炉で温められた空気が、階段をゆっくりと上ってくるのだろう。部屋の中は、寒さが和らぐ程度にほんのりと暖かい。
アンナは絨毯の上にあぐらをかき、両手で
向かいでは、パウロも同じように絨毯の上であぐらをかき、腕を組んで難しい顔をしている。
さっきから何度も口を開きかけては閉じ、頭を掻き、ようやく覚悟を決めたように息を吐いた。
「アンナ。先日のことだがな」
アンナは返事をせず、椀に口をつけた。熱い汁が喉を落ちていく。
それを「聞いてやる」の合図と受け取ったのか、パウロは続けた。
「おまえは、これと決めたら一直線に突っ走る。周りが見えなくなるくらいにだ。今回の件も、結局はそこだろう。村のためだ、けじめだと思い込んだら、他の道が全部消えちまう。首に刃を当てるなんて真似ができるのは、そのせいだ」
アンナは椀の縁越しに、パウロを見た。いつものふざけた笑みはない。眉間に刻まれた皺が、いつもより深かった。
(……あの時のことを、まだ引きずってやがるのか)
胸の奥が、ちくりと痛んだ。それを悟られないように、もう一口、味噌汁を啜る。
「おまえは、物事に執着しすぎる」
パウロは、言葉を選ぶように間を置いた。
「勘違いするなよ。薄情になれって話じゃない。大事なものを大事にするのは、いいことだ」
窓の外で、風が枝を揺らした。パウロはその音を聞くように、少しだけ視線を逸らす。
「雑念を消すって修行もそうだ。消そうとしてる時点で、もうそいつに囚われてる。そうだろう? 雑念は消すもんじゃねぇ。囚われなくなることが、大事なんだ」
アンナの手が、止まった。
椀の中で、味噌汁の表面がかすかに揺れる。
(……囚われなくなる)
憎しみを持っていてはいけない。恨みも、妬みも、嫉みも。そう教えられてきた。だから必死に、それを心から追い出そうとしてきた。
追い出そうとすればするほど、それは胸の奥に居座り続けた。その理由を、この男は、あっさりと言い当てた。
パウロは、そんなアンナの内心など知る由もなく、苦笑まじりに続ける。
「おまえは神さまになりたいのか? そうじゃねぇだろ」
大きな手が、軽く自分の胸を叩いた。
「人間なら、誰だって、大なり小なりそういう感情はあるんだ。俺だって、美味い肉を食いてぇとか、美味い酒を飲みてぇとか、しょっちゅう思う。それを無くせって言ってるんじゃない。大事なのは、そういう感情に執着しないことだ。あっても、いい。ただ、そいつに振り回されるな」
語り終えたパウロは、大きく息を吐いた。慣れない説教をやり遂げた男の、どこか誇らしげな顔だった。
部屋に、静けさが落ちる。階下から、薪が爆ぜる音がかすかに届いた。
アンナは、ゆっくりと椀を傾けた。最後の一滴まで飲み干し、とん、と床に置く。
(……悔しいが、いい話だ)
間違ってはいない。だからこそ、素直に頷くのが癪だった。胸に刺さった言葉が、じくじくと疼いている。
アンナは、空になった椀を見つめたまま、静かに口を開いた。
「言い訳は、おしまいか?」
パウロの顔が、固まった。
部屋の空気が、止まる。
窓の外で鳥が鳴いた。その声がやけに大きく聞こえるほど、時間が凍りついていた。
「……は?」
かろうじて絞り出された声は、情けないほど掠れていた。
アンナは顔を上げ、まっすぐにパウロを見据える。その目は、六歳の子どものものではなかった。
「それが、身重のゼニスさんをおいといて、リーリャさんとも子どもを作った理由か?」
ぴしり、と。
パウロの顔から、血の気が引いた。
口が開き、閉じ、また開く。何かを言おうとして、言葉が出てこない。さっきまで説教をしていた男の面影は、どこにもなかった。
「お、おまえには、関係ないだろ!」
裏返った声が、部屋に響く。
アンナは、小さく肩をすくめた。
「そうだな。これは、おっさんちの問題だ」
淡々とした、突き放すでもない声だった。パウロは、何か言い返したそうに口をもごもごさせていたが、やがて力なく肩を落とす。
そして、いま気づいたとばかりに、部屋の隅へちらりと視線を飛ばした。アンナへ顔を寄せ、声をひそめる。
「おい。ルーデウスのやつ、どうしたんだよ。やっぱり、俺が原因か?」
アンナも、そちらへ目をやった。
部屋の隅に、ルーデウスがいた。
膝を抱え、壁に背中を預けて座り込んでいる。顔は膝に埋められ、肩がときおり小さく震えていた。その隣にシルフィがしゃがみ込み、小さな手でルーデウスの背中をさすりながら、何かをぽつぽつと話しかけている。
シルフィの声は、ここまでは届かない。ただ、困ったように眉を下げながらも、必死に励まそうとしているのが、遠目にも分かった。
アンナは、ふっと息を吐いた。
「ありゃ、おっさんのせいじゃねーよ」
「じゃあ、なんだ?」
パウロが怪訝そうに眉を寄せる。
アンナは、少しだけ間を置いた。
部屋の隅からは、シルフィの優しい声と、ルーデウスの鼻をすする音が、かすかに聞こえてくる。
アンナは、空の椀に視線を落としたまま、ぽつりと答えた。
「ワカメだよ」
「……ワカメ?」
パウロには、何のことか分からなかった。
アンナは、それ以上は何も言わない。ただ、空になった椀の底に残る、味噌の沈んだ跡を、じっと見つめていた。
◇
――あれは、パウロが部屋を訪ねてくる、少し前のことだった。
ルーデウスの新魔法は、一瞬で部屋の空気を変えた。
何もない空間に、ふわりと湯気が立ちのぼる。ルーデウスは両手の指を軽く揃えて、椀を二つ、アンナとシルフィの前へそっと差し出した。
「どうぞ。エア味噌汁、一丁あがり」
半信半疑で受け取ったアンナの両手に、確かな熱が伝わった。椀の重みがある。湯気が頬を撫で、出汁の香りが鼻の奥まで届く。恐る恐る口をつけると、舌の上に懐かしい塩気が広がった。
具は、ネギと豆腐。出汁は、煮干しだ。
(……ああ)
前世でも、今世でも、もう二度と口にできないと諦めていた味だった。荒れ果てた世界を生き、そして赤子として生まれ直してから、アンナは一度も味噌汁を飲んでいない。
それなのに、舌は驚くほど正確にその味を覚えていた。喉を通る温度が、胸の奥にじんわりと染みていく。
「おいしい……!」
隣では、シルフィが目を丸くして椀を抱えていた。初めて口にする味に、小さな頬がぱっと赤くなる。
「ルディ、これ、すごいね。ホントに飲んでるみたい」
「だろ? 魔力でイメージを定着させたんだ。味も温度も、再現度は高いと思う」
ルーデウスは得意げに鼻の下をこすった。実験が成功した子どもの顔だった。アンナは椀を両手で包んだまま、しばらく黙って湯気を見つめていた。
満たされると、欲が出る。
人間とは、そういうものだ。ずっと諦めていたものが目の前に現れたとき、人は「もう少しだけ」を願ってしまう。
気づけば、アンナの口は動いていた。
「ワカメはねーのか?」
ぴたり、と。
ルーデウスの動きが止まった。
アンナのこの発言は、責められない。
前世のアンナ――ジャギが生きた世界では、海はほとんど枯れ果てていた。
聖帝サウザーが懸賞金をかけて、ようやく乾燥ワカメが少し手に入るかどうか、というレベルの貴重品だったのだ。味噌汁にワカメが入っていること自体が、奇跡に近い贅沢だった。
今日の味噌汁の具がワカメだと知ったとき、あのサウザーが目を丸くして驚き、喜びを隠しきれずに声をあげて笑った。そんな逸話が残るほどの贅沢だったのだ。
そんな世界を生きた男が、味噌汁を前にして、ワカメを求めた。
それは決して、わがままではなかった。
ルーデウスの顔から、すうっと血の気が引いていく。目が泳ぎ、唇が小さく震えた。
「……ワカメ」
掠れた声で、一度だけそう呟く。次の瞬間、膝から力が抜けた。
どさり。
ルーデウスは、床の絨毯の上に崩れ落ちた。両手をつき、肩を落とし、そのまま動かなくなる。
「え? ルディ?」
シルフィが椀を置いて駆け寄る。アンナも目を見開いて、思わず身を乗り出した。
「おい、どうした。ルーデウス」
返事はない。ただ、小さな背中だけが、かすかに震えていた。
アンナとシルフィは、顔を見合わせる。何が起きたのか、まるで分からない。
その時だった。
階段を、ぎしぎしと上がってくる足音がした。扉が勢いよく開く。
「おい、何の音だ?」
顔を出したのは、パウロだった。
ルーデウスの崩れ落ちる音に気づいたのか。あるいは、一階でゼニスとリーリャの間に挟まれて、居づらくなったからか。それは分からない。
ただ、部屋に踏み込んだパウロの目に映ったのは、床に突っ伏した息子と、その背中をさするシルフィ、そして、椀を抱えたまま呆然としているアンナの姿だった。
「何があった」
短く問うたが、誰も答えられなかった。やがてシルフィが、ルーデウスの肩を抱くようにして部屋の隅へ連れていく。
息子のことは、シルフィに任せるしかない。そう判断したのか、パウロは小さく息を吐くと、アンナの向かいにどかりと腰を下ろした。
「ちょうどいい。アンナ、おまえにも話がある」
◇
――そして、今。
部屋の隅から、ぽつりと声が落ちた。
「……ワカメって聞いたらさ、思い出しちゃったんだ」
ルーデウスは膝を抱えたまま、顔を上げない。声は掠れていて、いつもの調子の良さがどこにもなかった。
「ただ、お財布忘れただけなのに、みんなが笑うんだよ。アイツはダメなヤツだって」
「べつに、どこかに落としたんでも、無くしたわけでもない。家にはあるんだよ。でも、笑われるんだ。それが悔しくて、悲しくて。それでも泣いてる姿をみられたくないから、空をみて歌うんだ。今日もいい天気って」
言い終えると、小さな肩がふるりと震えた。シルフィがその背中に手を添え、そっと撫でる。
「大丈夫だよ。誰も笑ってないよ」
「……小犬は?」
「笑ってないよ、大丈夫だよ」
シルフィは何度でも、同じ言葉を同じ温度で繰り返した。それでもルーデウスの瞳は、まだ何かに怯えるように揺れている。シルフィは離れず、彼の隣に座り込んだまま、静かに寄り添い続けた。
そんな二人の姿を、パウロは黙って見つめていた。さっきまで説教をしていた男の顔は、いつの間にか、どこか遠い場所を見る目に変わっている。
「……アンナ」
声をひそめて、横目でアンナを見る。
「いまの話、おまえならどうみる?」
アンナは、空の椀を指先でくるりと回した。ルーデウスの声が、耳の奥に残っている。悔しくて、悲しくて、それでも泣き顔を見られたくなくて、空を見て歌う。
(……笑われる、か)
前世の自分にも、覚えがないわけではなかった。アンナは少しだけ間を置いて、低く答える。
「なんかの比喩かもしれねーが、間違いない。ハメられたんだよ、サザエは」
パウロの口元が、わずかに吊り上がった。
「そうだな。俺もそう思う」
そう呟いたパウロの目に、ふっと光が戻る。酒場で情けなく笑う男の目ではない。幾つもの死線を越え、S級冒険者パーティー「黒狼の牙」を率いていた頃の、鋭く冴えた目だった。
(……おっさん)
アンナは思わず、居住まいを正した。こんなパウロを見るのは、初めてだった。
「まず、最初に出てくるドラ猫と最後の小犬。コイツらはドルディア族とみていいだろう」
「ドルディア族?」
「大森林に住んでる、獣族だよ。ギレーヌがそうだ」
その名を聞いた瞬間、アンナの喉がごくりと鳴った。先日、自分の指を二度もかわしてみせた、あの女の顔が浮かぶ。
(……やっぱり、油断ならねーな)
顔には出さず、心の中だけで唾を飲む。パウロは指を折りながら、淡々と続けた。
「カツオは海族。ワカメは、髪の色からして、スペルド族だな」
その一言で、アンナの目に危険な色が浮かんだ。
――初めて村の広場へ行った日のことを、思い出したのだ。
シルフィの緑の髪を見て、数人の子どもが言った。緑髪の魔族、と。悪気はなかったのかもしれない。友達になるための、ただの軽口だったのかもしれない。現にシルフィは、意味が分からない顔でキョトンとしていた。
だが、アンナは許さなかった。落とし前として、そいつらの髪をモヒカンにむしってやった。
お漏らしが止まらなくなる秘孔まで突こうとしたところで、シルフィに止められた。そのときばかりは、妹の顔に免じて許してやったのだ。
……と、そこまで思い返したところで、パウロが言葉を止めた。じっとアンナを見ている。
「この村で緑髪が怖いってやつは、もういねぇよ」
言いながら、なぜか両手で自分の頭をがっちりとガードしていた。
アンナは呆れ顔で、ひらひらと手を振る。
「むしらねーよ」
「そ、そうか」
パウロはほっと息を吐くと、ガードを解き、何事もなかったように推理を続けた。
アンナは、空の椀を床に置いて腕を組んだ。眉間に深い皺を寄せ、窓の外の灰色の空を睨む。
「サザエってのは、城塞都市か砦のことなんじゃねーか?」
パウロは何も言わない。ただ顎をしゃくって、続けろと無言で促した。
「つまり、鉄壁の護りの砦があった。どんなに攻めても門が開かない。敵は逆に考えた。開かないなら、開けさせればいいと」
「ほう」
パウロの目が、かすかに細くなる。
「そこでドルディア族の間者が砦に潜り込んだ」
部屋の隅で、ルーデウスの肩がぴくりと動いた。シルフィは気づかないまま、ただ背中をさすり続けている。
「そいつが門を開けたのか?」
「いや、流石に門番がいる。それは無理だ。砦内に噂を流すんだ。攻めるならいまだと」
アンナの声が、少しだけ熱を帯びる。パウロは顎に手を当て、頭の中で絵を描くように宙を見ていた。やがて、低く呟く。
「門が開き、出てきた砦の兵達の隙を突き、伏兵が侵入し、砦は落ちた」
「ああ。そして、この話を聞いた人たちはこう言うんだ。ドルディア族の色香に迷って砦を捨てたバカだってな」
暖気の薄い部屋の中に、重たい沈黙が落ちた。パウロは頷きかけて、ふと眉を寄せる。
「お財布は?」
「砦には姫がいたんだよ。しかし、それを守ることも忘れて手柄欲しさに門を開けちまった。だから笑われた」
アンナは淀みなく答えた。自分の筋に、よほど自信があるらしい。パウロは感心したように唸る。
「一見筋は通ってるな」
「だろ?」
アンナの口元が、得意げに緩んだ。だがパウロは、そこで終わらせなかった。
「カツオとワカメは? あと、今日はいい天気の真意は?」
アンナは少し考えるように、天井を見上げる。それから、あっさりと言った。
「カツオとワカメは魔族で、今日は死ぬにはいい日だってことじゃねぇかな」
パウロの眉が、ぴくりと動いた。先日、心臓が止まりかけた男には、あまり笑えない冗談だったらしい。
そのまま、しばらく何も言わなかった。両腕を組み、目を閉じ、微動だにしない。
やがて、ゆっくりと目を開ける。
「お日様ってのは王族のことだろう。アンナの話では、姫は死ぬか囚われている。それで王族が笑うってのは、腑に落ちない」
「……跡目争いじゃねーか?」
「そうかもしれない」
パウロはそこで一度言葉を切った。膝の上で、指がとん、とんと小さく拍子を刻む。
「しかしな、俺はこう考えた」
声が、一段低くなる。
「これは、歴史にうもれた、英雄伝説だと」
「なんだって!?」
アンナの声が、思わず部屋に響いた。
その声に、部屋の隅の二人が顔を上げる。ルーデウスの赤く腫れた目と、シルフィの心配そうな目が、同時にパウロへ向けられた。
「サザエってのが個人名なのかパーティー名なのかは、わからない」
「パーティー名?」
「ああ。サザエたちはチームだったんだよ。それもかなりの凄腕のな」
アンナは眉を寄せる。
「そんなヤツらなら、今でも名前が残ってるだろ?」
「だから消された。当時の支配者達にな」
「どーゆーことだ?」
パウロはすぐには答えなかった。部屋の隅で膝を抱えるルーデウスの背中を、ちらりと見る。それから視線を戻して、ゆっくりと語り始めた。
「支配者達は、おびえたんだよ。サザエの強さに、その人気に。敵が居るうちは、まだいい。人々の目は敵を見ている。しかし、敵を倒し終わったら?」
「自分達が排除されると?」
「そうだ。それほどまでに、サザエの人気は高かったんだ。しかし、強さではサザエに勝てない。ならどうする?」
「足を引っ張るか」
アンナが、低く答えた。パウロは頷く。
「そうだ。自分達が善政を敷く努力をせずに、サザエたちをおとしめることで、自分達の権威、利益を守ろうとした」
アンナは、言葉を失った。
権力者達のやり方に、憤りを覚えたからではなかった。そのやり方は、前世、ジャギだった頃の自分がやったことと重なったのだ。ケンシロウの名を騙り、殺戮を繰り返した。人々の目に映る英雄の名を、汚すために。
胸の奥で、冷たいものが静かに沈んでいく。
「どうした?」
パウロの声に、アンナは我に返った。
「……なんでもねぇ」
「なんでもないって顔じゃないだろ?」
パウロは追及するでもなく、ただ静かにアンナを見ている。元パーティーのリーダーだった男の目は、仲間の揺らぎを見逃さない。アンナは一度だけ唇を結び、それから視線を窓の外へ逃がした。
「大丈夫だ。話を続けてくれ」
それ以上は聞かず、パウロは小さく息を吐いて続けた。
「最初に異変に気づいたのは、ドラ猫だ。斥候だけあって、街の空気に気づき、密かにひとりで動いた。クナイをくわえてな」
「ひとりでか?」
「相手が相手だ。自分の独断としたかったんだろう。しかし、サザエたちは気づき、追いかける」
アンナは、そこで顔を上げた。
「カツオとワカメもか? 魔族だろ?」
「魔族だって、情がないわけじゃない。一緒に旅してれば、絆はうまれるさ」
パウロの声が、少しだけ低くなった。かつて命を預け合った仲間の背中でも思い出しているように、遠い目をしている。
「そして、ドラ猫に追いついたサザエは言うんだ。いつもありがとな。おまえの仕事には間違いがないってな」
部屋に、静けさが落ちた。
階下で薪が爆ぜる音だけが、遠くから聞こえている。アンナは、空の椀を見つめたまま動かなかった。
「サザエたちも、一緒に行くのか?」
「ああ。どんなときも一緒だった仲間だからな」
パウロは、ふっと目元を和らげた。
「強要とかじゃないぜ? それぞれが自分で決めた道だ」
「……自分で決めた道」
アンナは、その言葉を口の中でゆっくり転がした。
北斗神拳は、ジャギが自分の意思で選んだ道だった。だが、ラオウとトキには届かず、背後からはケンシロウが追いつき、追い抜いていった。あの時から、何かが歪み始めたのだ。
「ああ。誰が笑おうが、かまわねぇ。たしかに、迷うこともある。だがそれは、道に迷ってんじゃねぇ。どうすれば道を貫けるか、やり方に迷ってんだ」
パウロの声は静かだった。説教でも、慰めでもない。かつて仲間と同じ道を歩いた男の、ただの実感だった。アンナはその言葉を、一言も取りこぼさないように聞いていた。
パウロは、膝の上で指を一度だけ鳴らす。
「そこに、遅れてきた小犬が声をかけるんだ。『剣、忘れてましたよ。宿代も立て替えといたんで、下さいね』ってな。カツオたちが『締まらないリーダーだな』ってからかうんだが、サザエは笑って言うんだ。『今日もいい天気』ってな。すると小犬が『もう、ごまかさないでくださいよー。でも、ホントにいい天気。冒険の始まりって感じです』って返す。そして、小犬も、みんなも、笑うんだ」
語り終えたパウロの口元には、ほんの少しだけ、寂しさの混じった笑みが浮かんでいた。
「おおっ。サザエ達は、どうなったんだ」
アンナが身を乗り出す。パウロは、にやりと笑った。
「案外、まだ冒険の途中かもしれねぇな」
その言葉に、部屋の空気がふっと軽くなった気がした。
そしてパウロは、ゆっくりと視線を動かした。
いつのまにか、部屋の隅にいたはずのルーデウスとシルフィが、アンナの横に座っていた。膝を抱えたままのルーデウスの目は、まだ赤い。それでも、パウロの話を最後まで聞いていたらしい。シルフィは、そんなルーデウスの肩に、寄り添うように頭を傾けている。
パウロは、少しだけ声を落とした。
「ルーデウス。おまえは、いま、ひとりか?」
ルーデウスは、すぐには答えられなかった。唇が震えて、言葉の形にならない。小さな手が、膝の上でぎゅっと握られた。
その沈黙を、破ったのはアンナだった。
「俺がカツオで!」
勢いよく声を張り上げる。続けて、シルフィも負けじと身を乗り出した。
「僕がワカメだよ!」
二人の声が部屋に響いた。ルーデウスの目が、大きく見開かれる。一拍遅れて、その瞳にじわりと熱が滲んだ。
「俺は、ひとりじゃない!」
掠れた叫びだった。涙混じりで、鼻声で、少しも格好良くない。けれど、確かに前を向いていた。
そんな三人を、パウロは目を細めて見守っていた。
「おまえ達は、まだ子供だ。いや、大人になってもかまわねぇ。ひとりじゃできないこともある。誰かを頼ったり、頼られることに慣れろ。……俺に言ってもいいぞ」
最後の一言は、少し照れくさそうに付け足された。慣れない言葉をやり遂げた男の顔で、パウロは頭を掻く。
部屋の中を、あたたかい沈黙が満たした。ルーデウスが、ぐしぐしと袖で目元をこする。そして、まっすぐにパウロを見上げた。
「ありがとう、波平っ!」
いい話風に締まりかけた空気の中に、新キャラが堂々と飛び込んできた。
アンナとシルフィが、同時にルーデウスを見る。誰だ、それは。
パウロは、一瞬だけ固まった。眉が寄り、口が開き、何かを言い返しかけて、やめる。ルーデウスの顔は、どこまでも真剣だったのだ。
「お、おう。俺が波平だ」
パウロは、静かに流れに身をまかせた。