静かな朝だった。
ブエナ村の朝は、都会のような騒がしさとは無縁だった。
窓の外から聞こえるのは、鳥の鳴き声。遠くで聞こえる家畜の声。風が木々を揺らし、葉が擦れ合う音。
暖かな日差しが部屋へ差し込み、木造の床を淡く照らしている。
そんな穏やかな空間の中、アンナは今日も日課を行っていた。
(……集中)
目を閉じる。小さな身体の奥へ意識を向ける。
体内を巡る力。一つは、前世から知る力――闘気。そしてもう一つ、この世界で初めて知った力。
魔力。
(なるほどな……)
アンナは、少しずつ理解し始めていた。
(俺の中にあったもう一つの力は……魔力だったって訳か)
最初は認められなかった。
魔法。そんなものがあるはずがないと思っていた。
だが、現実は目の前にあった。
父ロールズは、薪に小さな火を灯す時に魔法を使っていた。母クレアは、洗濯をする時に水を出していた。
とはいっても、物語に出てくるような派手なものではない。
薪を一瞬で燃え上がらせる炎でも、巨大な水流を操る力でもない。
せいぜい、マッチの火程度。桶一杯分の水。その程度だった。
(魔法なんて非科学的だと思ったが……)
アンナは心の中で鼻を鳴らす。
(よく考えりゃ、闘気だって似たようなもんじゃねぇか)
岩を浮かせる。滝を逆流させる。人間の限界を超えた力――それを自分は、身をもって知っている。
(使える力なら使う)
それだけだ。北斗神拳も、闘気も、魔法も。強くなるための手段なら、拒む理由はない。
そう考えながら、魔力の流れを確認する。闘気とは違う感覚。だが、扱い方には共通点がある。
身体の中にある力を感じ、意識で導く。少しずつ、少しずつ、鍛錬を重ねる。
(悪くねぇ)
アンナの口元が、僅かに緩む。
この世界には、自分の知らない力がある。ならば、まだ強くなれる。その事実が、少しだけ楽しかった。
――その時だった。
ぞくり。
背筋に走る感覚。危機感知。北斗神拳の修行で磨き上げた感覚が反応する。
(……来やがったな)
アンナは目を開く。視線を隣へ向ける。
そこには、いつものように自分へ抱きついて眠るシルフィ。穏やかな寝顔。小さな手が、アンナの服を掴んでいる。
(こいつ……)
(毎日毎日、よく飽きねぇな)
だが、アンナは身構える。敵を前にした拳士の顔になる。
(今日こそ……)
そして、その時は来た。
小さな身体に変化。わずかな違和感。アンナの感覚が告げる。
(今だ!!)
瞬間、闘気が走る。魔力が動く。アンナは無意識のうちに、二つの力を同時に操作していた。
洗浄。乾燥。流れるような魔力操作。
わずかな時間で、何事もなかったかのように状況は解決した。
静寂。
そして、シルフィは何も知らず、穏やかな寝息を立て続ける。
「……」
アンナは、しばし固まった。
そして――ゆっくりと、拳を握る。
(勝った)
誇らしげに、拳を天井へ向ける。
(俺は……勝ったんだ)
この世界へ転生してから、初めての勝利。闘気と魔力を使った、初めての戦い。
そして、最大の強敵。
(毎日、俺に抱きつきながら……)
(漏らしやがる妹に……!!)
心の中で、盛大に叫ぶ。もちろん表情には出さない。出せばシルフィが起きる。それだけは避けたい。
――かくして、伝説の暗殺拳の使い手は、妹のおむつ事情と静かに戦うことになる。誰も知らない、名もなき勝利であった。
アンナは勝利の余韻を噛み締める。だが同時に、わずかな戦慄もあった。
(……これが魔法か)
便利すぎる。自分が想像していた以上だ。
力を持つということ。それは戦うためだけではない。生活を変える力にもなる。
ふと、隣を見る。シルフィは何も知らず眠っている。小さな顔。安心しきった表情。
その姿を見て、アンナは小さく息を吐いた。
(……まあ)
(悪くねぇな)
前世では、考えられなかった。誰かを守るために力を使うこと。ただ、それだけのことが。
少しだけ、嬉しかった。
アンナは再び目を閉じる。闘気と魔力、二つの力を感じながら、静かな朝の時間は過ぎていった。
◇
アンナは考えていた。
この世界で生き抜くためには、何が必要なのか。
力。知識。経験。どれも足りない。
前世では、北斗神拳という圧倒的な力を持っていた。だが、今の自分は違う。小さな手。短い手足。満足に歩くことすらできない赤ん坊だ。
(……とはいえ)
アンナは心の中で笑う。
(俺がただの赤ん坊だと思ったら大間違いだ)
思い出す。前世で見た拳法――華山群狼拳。
使っていたのは牙一族とかいう、取るに足らない連中だった。だが、拳法そのものまで馬鹿にする必要はない。
狼の動きを模した拳。特徴は、集団戦。仲間と連携し、物陰へ隠れ、相手の死角から襲う。正面から力比べをする拳法ではない。
だが――
(悪くねぇ)
むしろ、今の自分には合っている。
隙を突く? 卑怯? そんなことを言う奴もいる。
だが、
(馬鹿じゃねぇのか)
アンナは鼻で笑う。
戦いに綺麗も汚いもない。勝つために使えるものを使う。それが戦いだ。
(隙があれば突くだろ普通)
拳法なんだから。カウンター技だって、相手の隙を突く技だ。なら、それも卑怯なのか。
違う。勝つための技術だ。生き残る為の知恵だ。それだけだ。
それに――
「北斗神拳に二対一の戦いはない」
そんな言葉を聞いたこともある。
だが、
(当たり前だろ)
北斗神拳は一子相伝の暗殺拳。伝承者以外は、基本的に記憶を消されるか、拳を封じられる。複数の使い手が同時に存在する状況など、普通は起こらない。自分たちの世代が特殊だっただけだ。
しかし、もしその言葉の意味が「自分一人で闘いたい、複数人は卑怯」なのだとしたら――
(
(……話が逸れたな)
群狼拳だ。問題はそこだ。
この拳法、今の自分に恐ろしく噛み合う。何故なら、
(俺は今、赤ん坊だからなぁ)
アンナは、自分の小さな手を見る。
もし誰かに見つかったとしても、
「はいはいしているだけですがなにか?」
で終わる。警戒されない。疑われない。
「バブ〜」とでも付け加えれば完璧だ。
これほど都合のいい姿があるか。
(使えるものは何でも使う)
それが、ジャギだった。
そして今は――アンナだった。
◇
問題は、情報だった。
この世界について、アンナは何も知らない。
父ロールズや母クレアの日常会話。そこから少しずつ情報は集めている。しかし、限界がある。もっと直接的な情報が必要だった。
特に気になるもの。
(魔物)
この世界には、魔物が存在する。最初に聞いた時は驚いた。だが、魔法が存在する世界なら、魔物がいても不思議ではない。
問題は、
(どれくらい危険なのかだ)
小さな獣程度なのか。それとも、人間では相手にならない存在なのか。
それを知らないことは、致命的だ。敵を知らずに戦場へ出る。そんな真似は、
情報は力だ。
その日の夜。父ロールズが、魔物の見張り番へ行くことを知った。村の外れ。夜間の警戒。狩人としての役目らしい。
(決めた)
ついて行く。もちろん、バレないように。
◇
夜。村が静まり返る。家々から明かりが消える。虫の声だけが響く。
アンナは、ゆっくりと身体を動かした。
まだ歩けない。だから、這う。
しかし、ただの赤ん坊の動きではない。音を殺す。呼吸を抑える。気配を消す。
北斗神拳で培った、暗殺者の技術。さらに、華山群狼拳の発想。周囲の闇。家具。影。すべてを利用する。
(ふっ……)
アンナは口元を歪める。
(この気配遮断)
(ケンシロウでも気付けねぇんじゃねぇか?)
もちろん、油断はしない。しかし、今の自分を見抜ける者がいるとは思えなかった。
そうして、アンナは夜の冒険へ出た。
……はずだった。
◇
そして、朝だった。
「……」
アンナは目を開ける。見慣れた天井。柔らかな布団。隣では、シルフィが眠っている。
「…………」
しばし、沈黙。
(何を言っているのか分からないと思う)
アンナは心の中で、言い訳する。
(俺だって分からねぇ)
夜、父について行く予定だった。気配を消して、情報収集をして、魔物の脅威度を確認する予定だった。
だが、現実は違った。
(仕方ねぇだろ)
アンナは心の中で叫ぶ。
(俺は赤ん坊だぞ!? 暗闇で気配消してりゃ、そりゃ眠るわ!)
どれだけ精神がジャギでも、身体は赤ん坊なのだ。
(この身体のポテンシャルがこれほどとは……流石の俺の目を持ってしても)
――と、どこぞの軍師のような言い訳が見苦しい。
アンナは、小さくため息を吐く。
隣を見る。何も知らず眠るシルフィ。
「……」
計画は、失敗した。
気配を完璧に消し、夜の闇に完全に溶け込み――そのまま朝まで、誰よりも安全に眠っていた赤ん坊が、ここにいる。
だが、アンナの目には諦めの色はない。
(次だ)
次こそ、この世界の情報を手に入れる。
強くなるために。そして、守るべきものを守るために。